2006年4月 6日 (木)

[書評]自己組織化の経済学 その1 ~ 断続平衡 ~ S Curve

H18.4.12 追記

以下、当初書いた内容に間違いを発見し、強いショックを受けた上に、業務に時間をとられブログを更新できなかった。

[前回の内容はここから]



いやぁ、本当に面白かった。

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

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以前もっと既存の科学は、非線形・非平衡の科学の知見を取り入れて再構築すべきだとか、書いたような気がするが、いかに自分の無知をさらけだした言葉だったからよくわかる。

クルーグマンは、いとも簡単に自己組織化を目に見えるようにしてしまう。例えば、技術の優位性による普及率の均衡の変化を示すこのグラフだ。

Danzokuheikou01

PDFファイル
PowerPointファイル

これは、DVDとVHSのレンタルショップと家庭における普及のシェアを表している。普通、それぞれ直線であると仮定され、どちらか2つしかない技術であるとすれば、どちらかの技術優位性があがれば、なだらかに家庭とレンタルショップにおけるシェアがあがっていくということになる。しかし、直線でなく公文先生のお好きなS字カーブで書いてやるだけで、図だとDVDのコストだとか、画質だとかの技術優位があがるにつれて、どこかの均衡点からVHS市場が崩壊し、DVD市場の独占になってしまう様子が描かれているのがわかる。公文先生が、技術の進歩についてS字カーブにこだわっていらした理由がこれでわかる。直線的に進歩する技術では、なだらかにしか普及率が変わっていかないが、S字カーブであるなら、均衡点が一気に変化する様子を描くことができるわけだ。

と、内容を書こうとした時点で、お呼び出しがかかり出かけなければならなくなってしまった。続きは、正気を保っていられたら今日中に書くつもり。でなければ明日....


[ここまで]


なにで忙しかったかは聞かないでおいて欲しい。とにもかくにも忙しかった。とにもかくにも本題に戻ろう。これが正しい図だ。

Danzokuheikou02

PowerPointファイル

あまりにも恥ずかしいのだが、曲線の意味を取り違えていた。「DVDのシェア」と「VHSのシェア」ではない。R曲線を見て欲しい。当初、DVDを置いているレンタルショップが少なければ、家庭でDVDプレーヤーを置いているところも少ないはずだ。ところが、どこかの時点で臨界点を超えると、多分パーコレーション的に一気に家庭におけるシェアがあがる。ツタヤで急にDVDのソフトが増え、DVDプレーヤーまで売り出した頃を覚えている人は多いはずだ。H曲線は、逆に家庭でのシェアが増えるにつれ、レンタルショップでのシェアも増えるだろうという様子を示している。この2つの曲線が交わるポイントが、均衡シェアを示すことになるわけだ。つまり、VHSに負けて非常に少ないシェアに甘んじるのか、二者択一の世界に打ち勝ち、DVDが主流になるかのどちらかで均衡するということになる。

そして、曲線Hが次第に上側に平行移動していくということは、例えば技術革新でDVDプレーヤーが非常に安くなり、レンタルショップでDVDが置いてあるシェアが小さくとも家庭側では「安いから買っちゃえ!」ということで、より多くの家庭がプレーヤーを置くことになるということを示す。均衡点が一気に変化するという説明は↑のとおり。

ここで、このDVDの普及の様子をグラフで表せないか考えてみた。多分、家庭でDVDを買う動機は知り合いが買ったから自分もという、「人は人が欲しがるものを欲しがる」という心理であるに違いない。だとすれば、DVDの普及はパーコレーション的だと言えるだろう。パーコレーションでも、当初はすこしづつ、途中から一気にというロジスティック式的にシェアが増えていくに違いない。ロジスティック式を微分するとシグモイドになる。

シグモイド、べき分布、そして複雑ネットワークとしての生態学

シグモイド曲線で、クルーグマン先生の曲線をエクセルを使って描いてみた。

Sigmoido060412

エクセルファイル

わかりにくいかもしれないが、「s(x)の平行移動」という数字を少しづつ上げて行くと、2つの曲線の交点が(-5,0.01)あたりで交わっていた二つの曲線が(-2,0.32)に移動し、さらに上げると(8,1.3)にまでジャンプする様子がわかる。

シグモイドでこの曲線を近似しようとしたのが正しいのかどうかクルーグマン先生の意見を聞いてみたいものだ。

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2006年4月 1日 (土)

[書評]キリストの勝利 Victory Over Roman Empire?

結局、「ダ・ヴィンチ・コード」は十分すぎるほどハリウッド的エンラーテイメント小説だった。背景には、キリストの教えがカソリックという世界宗教に変質していく過程での史的事実に基づくミステリーがあった。一方、「キリストの勝利」は、カソリックがローマ帝国の国教化されていく過程そのものを描いていた。しかし、どちらを読んでも何故キリスト教がカソリックになった理由に肉薄できる気がしない。私が単に無知だというだけなのだろうが、なにか言及されていない流れがあったような気がしてならない。

4103096233キリストの勝利 ローマ人の物語XIV
塩野 七生
新潮社 2005-12-27

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「キリストの勝利」に登場するアンブロシウスとも実際に会っているアウグスティヌスについて松岡正剛さんは、こう書いていた

なんとも三位一体論とは恐ろしいものである。これは小声でいうしかないが、こんなことはむろんまったくのデッチ上げであり、しかも最も神聖な論議を尽くした末の成果だったのである。アウグスティヌスはそれをいっさい引き受けたのだ。ぼくにはいまもって、一人でこのことの秘密を告白する勇気をもちえない。

アウグスティヌスにおいて体系化された教えが、三位一体だというのが、カソリックの成立においてとても重要だ。三位一体というのは、祈りのたびに唱えられる例の「父と子と精霊の御名において」というやつだ。そして、この祈りの背景に松岡正剛さんが指摘するように強引に思想化したための「秘密」があるのだとすれば、重大な問題だ。また、「キリストの勝利」によれば、国教化していく中でギリシア・ローマの神々だけでなく三位一体派以外が迫害されていく様子が描かれている。

そして、「異端」であろうと「異教」であろうと、公的であろうと私的であろうと、それに関係するすべてのミサも祭儀も禁じられ、これに反した者の全資産は没収され、国庫に修められると決まった。そして、それは実に厳密に実施されたのである。(中略)だが、聖職者・一般信徒の別なく、幾度となく違反を重ねる者には、死刑さえも待っていたのである。キリスト教徒でいながら同じキリスト教徒から迫害を受け、悪くすれば殉教すると言う現象の始まりであった。

「ダ・ヴィンチ・コード」にもどって、非常に下世話な話しをすれば、教祖といわれる存在は昔からカリスマ的であり、異性から圧倒的な好意をもたれるくらい魅力的であることが多々ある。キリストも例外ではなく、女性信者は初期の普及に上でとても大事な役割を果たしたにちがいない。しかし、そうした女性原理的要素がカソリックが世界宗教として確立していく上では排除されたのだという「ダ・ヴィンチ・コード」の主張もこうした歴史的文脈において理解できる。

ここで大胆に類推してしまえば、当時のローマ人は、それこそ「経済人の終わり」で描写された第一次世界大戦後のドイツの人々に近い状態であったのではないだろうか?どうも経済も最盛期を超え期待できない、不敗を誇ったローマ歩兵も騎馬族の蛮族相手に精彩を欠いている、自分達の利害調整をゆだねた人格であるローマ皇帝の統治能力もかげりがみえ、税は細かく高く、官僚主義がはびこり、ローマの神々も救いをもたらしてくれない。こうし深い絶望の中終末論的側面を持ち、愛を口にしながら女性原理を否定せざるをえなかったという矛盾を抱えたまだ新興宗教でしかなかった現在のカソリック教会につらなるキリスト教の一派がたまたま強い権威を実現させてしまったという「事件」であったのではないだろうか?

カソリック教会が強かったから西欧文明が19世紀以降世界で派遣を握れたというわけではない。シルヴァーバーグの「永遠のローマ」シリーズではないが、暴君が時折出現する可能では大であったにせよ、ローマ帝国がカソリック化せずにいたら暗黒時代といわれる経済も、科学技術も停滞し、政治的にも分裂した1000年を経験せずに済んだかもしれない。

ローマ帝国は、明治以降の政府にとっての徳川幕府のように、現在も続くカソリック教会にとってアンチ・テーゼであり続けているにだろう。また、カソリックはまだまだ西欧の社会において大きな影響力を持っているのだろう。

私のような素人が手を出せるようななまやさしい問題ではないとよくわかっているのだが、どうしてもカソリックの問題がちょうど1年前のフランス旅行以来頭から離れない。

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2006年3月26日 (日)

「ダ・ヴィンチ・コード」と聖婚の宇宙的構造 Maitreyi and Mircea

ようやく「ダ・ヴィンチ・コード」を読了したので、感想の続きを書こうと思ったが、ない!子どもがどこぞへ持っていってしまったらしい。

そもそも本当に読ませていい内容だったのが、判断に迷った。ま、しかし、一日でこの本を読み終えてしまったという子どもを誇りに思ってしまうばか親の私であった。

正直、読了した上に「世に倦む日日」のすぐれた批評を読んでしまった今、一体何を付け加えたら良いのか、わからない。

『ダ・ヴィンチ・コード』 by thessalonikeさん

特に「グノーシス獲得としてのセックス」は、すばらしい。

性とは何かを男が男の言葉で語らなければならない。女が語ったセックスについてのイデオロギー暴露を男がセオリーとして是認し肯首するのではなく、ジェンダー主義にそのままホールドアップするのでなく、男が男にとってセックスとは何かを自ら肯定的に再定義しなければいけない。男が男にとって性が人生の重要事であることを正当に認めること。そのことが大事だ。

性のさかりをすぎつつある中年の男として、拍手喝采を送りたい意見だ。

セックスの問題をいかに生理的、欲望的次元でなく象徴の持つ力を含めて語るか、実践するかは、歴史的にみればかなり古いといえる。宗教学者、ミルチャ・エリアーデは、1957年に出版された「聖と俗」の中でこう書いている。

当然のことながら神々の物語は、人間の結合に対して模範的典型となる。しかしなお別の一様相が強調されねばならない。それは結婚儀礼と、したがってまた人間の性的振舞宇宙的構造である。近代社会の非宗教的人間にとっては、夫婦合体のこの宇宙的にして同時に神聖な次元はなかなか理解し難い。しかし古代社会の宗教的人間にとっては、世界はしらせに満ちたものであった。しばしばこれらのしらせは符牒で書かれているが、そこには人間にその解読を助ける神話がある。人間の体験は総体としての宇宙の生命に一致する関係におかれ、それによって浄化されうるものである。宇宙は神々の至高の創造であるから。

私には、実に「ダ・ヴィンチ・コード」はこの構造を踏襲した小説であるように思われる。エリアーデの言葉を借りればいかに「非宗教的人間」である我々が登場人物の行動を通して、天文学的な宇宙の構造、地球の方位と時間を決める構造体とも関連する暗号=符牒を、数々の神話、伝説を用いて解読していくというのは、宗教的な象徴の力が現代にも十分に生きている証拠であるように感じる。しかも、ある種の中年男性には、理想的とされるセックスの予感で結ばれている。あ、私にとっての「理想」はもちろん違う(笑)。

ちなみに、20年ぶりくらいに「聖と俗」を開いてみて、訳者が「カトリックの学者であり、今日最も有力な宗教学者の一人」と紹介しているのを発見したのだが、エリアーデはカソリックなんですかい?!ちとショックだった。

■参照リンク
般若心経について by finalventさん

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2006年3月20日 (月)

[書評]クルーグマン教授の経済入門 The Age of Diminished Expectations

いんやぁ、この本を読んですんごく安心してしまった。やっぱり、世の中わかってる人はわかっているわけだし、私のようなパンピーが心配しなくてもいいことは心配する必要はないんだね。

4532192021クルーグマン教授の経済入門
ポール クルーグマン Paul Krugman 山形 浩生
日本経済新聞社 2003-11

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この本がどれくらいすごい本か、すごい本に山形さんがしたか、ということについては、ご本人の言葉にまさる言葉はない。

ぼくはこの本を読んで、目からうろこが山ほど落ちた。そうなのぉ!?生産性って、どうして上がったり下がったりするのかわかってないの!?インフレって経済大崩壊への序曲じゃないわけ!?G7国際サミットって、そんなどうでもいい代物なの?日米貿易摩擦ってのも、大騒ぎするほどのもんじゃないわけ?保護貿易っていいものではないけど、悪魔の尖兵でもなかったのね!?欧州通貨統合ってのも、そんな怪しげな代物でしかないのぁ!?

まして、私ごときが最近の日本の就業人口あたりの生産性なんぞ計算できないのもあたりまえだ。

我々の未来としての「ワンゼロ」 (HPO)

あ、そもそも生産性について書いた↑の記事では、クルーグマンの強調する経済における大事なことは生産性をあげることだという結論と全く反対なことを書いている。失業率と経済成長、NAIRUのこととか全く理解していなかった。ああ、恥ずかしい。

また、切込隊長さんの「経済は期待だ」というセリフとクルーグマンが書いていることは、結構ひびきあっているんじゃないかな。

エマージング市場の金融危機が、最終的にはどんな形に落ち着くのかは知らないけれど、この話が持っている意味というのはかなりこわい。この危機の分析が正しいんなら、多くの国は、要するに資本市場のきまぐれでしかないものにもてあそばれかねないってことだよね。国がこまった状況になるには、別にやばい政策をとらなくたっていい。

山形さんが「クルーグマンせんせいのこと」を紹介してくださってるけど、貿易、為替、都市に関して、最初のごく小さな条件の差が大きな結果の違いを生むという方向性の研究をしているらしい。こうした考え方は、あきらかに「べき乗則」的だ。この辺について書いてあるに違いない「自己組織化の経済学」を読むのが楽しみだ。

多分、結論的には全く間違っているに違いないけど、私がカオスについて考えたり、シミュレーションしたりした方向性はちょっとだけかすっているのかもしれない...かな?

インフレーションの形 (HPO)

をっと!興奮してお礼が後になってしまったけど、あえてお名前をあげないが、この本を紹介してくださった方には心の底からありがとうと言いたい!

■参照リンク
YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page

■追記 翌日

まる2年ぶりにm_um_uさんからクルーグマン先生の本書の貿易の考え方についてコメントしていただいていたことに気づいた。

つまり、 生産効率だけで考えると、どうしても理解不能なところが出てくるんです. んで、 それよりは「なんだか知らないけどA国のほうがB国に優るようになってて・・それが歴史的に続いてきた(信頼の形成)から、いまは「たろ芋」っていったらA国だ、ってなった(比較優位は歴史的偶然性によって形成された)>って考える方が自然な感じ・・・ってクルーグマンあたりが言ってたきがします...(「クルーグマン教授の経済入門」だったかな..)

今更ながら、ブログ界隈のふところの深さを実感する。m_um_uさん、ありがとうございます!

■追記2 翌日

あ、もうひとつ発見!

ちなみにインフレとデフレが社会に与えるわかりやすいインプリケーションは(既にご紹介したかもしれませんが)クルーグマンの「経済を子守りしてみると。」 http://cruel.org/krugman/babysitj.html によくまとまっております。ではでは。

御礼に行ってこよっと!

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2006年3月19日 (日)

[書評]高等学校 琉球・沖縄史 History as an Interaction Process

出張中にある方から現代の沖縄の建築技術の水準を考える上で米軍の存在は大きかったという話を聞いて沖縄の戦後史を勉強しなくてはいけないと思った。

4938984172高等学校琉球・沖縄史
新城 俊昭
地方・小出版流通センター 2001-03

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土産物を探しているうちに本書が目に入った。帰りの飛行機で、一番最後のBEGINの写真が載っている現代のページからスタートして、1万8千年前の港川人まで逆向きに読んだ。様々な情念と想いが交錯している沖縄の歴史を、門外漢もいいところの私がうんぬんすることは非常に危険だと改めて感じた。私にできるのは、せいぜい沖縄の歴史を通じて日本の歴史が理解するということだ。

これまで日本の現代史を理解すべく何冊かの本を読んできた。直接なぜいまの日本の姿になったのかを知りたかった。

[書評]歴史劇画大宰相 (HPO)
[書評]敗北を抱きしめて (HPO)
どついたれ by 手塚治虫
[書評]愛情はふる星のごとく (HPO)
[書評]大東亜戦争とスターリンの謀略 (HPO)
[書評]ワイルドスワン (HPO)
中国と歴史とリンク (「宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族」) (HPO)

どれだけ本を読んでも、多くの要素が複雑に絡んでいる日本の現代史の「なぜ」がよく理解できなかった。本書を読んで、近現代史の諸要素が絡み合いながら沖縄の人々にどのように影響してきたかをまのあたりにし、人々の生き抜いていこうとする力が歴史という織物を編んでいるのだと感じた。

もう少し俯瞰してしまえば、交通手段と通信手段の発展による統治可能距離の拡大が大きな意味を持つのだと再度感じた。

距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

要はブログ界隈を適応度地形と考えれば、つながればつながるほど、他者からの影響を好むと好まざるとにかかわらず受けるようになるということだ。

「文字」という通信手段でつながれば、文字を作り維持している力に拘束される。船と航行技術という輸送手段でつながれば、交易、そして文明の文物の必要性という形で拘束される。貨幣のつながりは、経済圏に組み入れられることを意味する。航空機という輸送手段は武力を行使できる範囲をひろげ、そこに組み入れられるいうことを意味する。そして、現代の放送、通信、ネットは、生活の根幹のレベルから、つまりは欲望という根本から、より広い世界につながり、とりこまれる。そして、その代償として地域性という多様性を差し出すことを求められる。

もしこのように一般化して見ることが許されるなら、沖縄の歴史と日本の歴史は少なくともこの800年あまりは同時進行の相似形であるように私には思えてくる。

余談だが、今回の出張ではタクシーにお世話になった。ばりばり地元の方もいれば、20年前に沖縄に移り住んだという方もいらした。いろいろな話を聞かせていただいた。地元の様子はタクシーの運転手さんに聞けよくいわれるが、歴史は生活の集積であり、ごく普通に暮らしている方々の声が一番大事なような気がする。

■追記 翌日

多少撮ってきた写真を載せる。集落から3つの山の王の時代、そして統一王府への変遷と、統治の正統性を外部から権威を与える中国からの文化の影響を感じた。

060319_1434001s

060319_1415001s

携帯で撮ったので、ぴんぼけで恥ずかしい。

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2006年2月27日 (月)

「経済人の終わり」の感想

finalventさんが以前ドラッカーの追悼文とも言うべき文章を書いておられ、ドラッカーの最初の著書の「経済人の終わり」とほぼ最後の著書の「明日を支配するもの」について触れておられた。かなり興味深く両著を読ませていただき、ドラッカーに見事にはまった。

はまると人にすぐ勧めるのが私の悪いくせで、「経済人の終わり」をある友人のうちに遊びに行ったときに、無理やり読んでくれとあげてきてしまった。それでも、律儀な友人なので、ちゃんと読んでくれ、わざわざ先日感想を送ってくれた。うしれかった。

このブログを読んではいないだろうけど、ありがとね!

本書を読んで、すべての主義主張、すべての合理的な考え方、すべての哲学と宗教に失望し、否定したいと思っている人間集団こそが全体主義を産むのだというドラッカーの直観のすさまじさを背筋に感じた。そして、その全体主義という創発現象は極端から極端に走るとドラッカーが予想したとおり、ヒットラーはユダヤ人の虐殺に走った。当初は誰も強制されたわけではないのに、満員電車と同じで、いつのまにか人が集ってきて、「空気」が生まれ、全体主義が生成されたのだ。

感想を送ってくれた友人が書いてくれたように、この問題は、現代に至っても解決していないのだと私も思う。いや、「下流社会」などという言葉で経済的成功を夢見ることをあきらめ、冷笑的な態度とマスコミの表面的な情報で全ての権威に失望し、ブラックボックスな技術の理解を到底無理だとねを上げてしまい、ネット界隈の表面的な議論の激流についていけず、リアルでの行動に行き着かないでいる今の日本人こそが真剣に全体主義の恐怖を自らに問うべきなのだと思う。

別な若い友人が全体主義とアダルトチルドレンの比較をしておられたが、非常に共感する。


一九二三年十一月十一日、二〇〇五年十一月十一日 by finalventさん

447837211X「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1997-05

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4478372632明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1999-03

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4532312329ドラッカー20世紀を生きて―私の履歴書
ピーター・F. ドラッカー Peter F. Drucker 牧野 洋
日本経済新聞社 2005-08

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「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか @ はてな

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2006年2月25日 (土)

この世でただ一つの one and only

たとえば「クレヨン王国の12ヶ月」。

たとえば「馬と少年」。

私にとっては「霧の向こうの不思議な街」。

食べちゃったお菓子。割れちゃったガラス。

みんなもとへはもどらない。

読むべき時期に読むべき本というのはある。

大人になるとは毎日の体験がすべて多くのうちのひとつ、one of many、になってしまうということだ。

老いるとは、今の私のように帰らない少年時代の幸せな読書体験をなつかしむようになることなのだろう。

さゃさん、ありがとうございます。


4061470434クレヨン王国の十二か月
福永 令三
講談社 1980-11

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4001163756馬と少年
C.S.ルイス ポーリン・ベインズ 瀬田 貞次
岩波書店 2005-09-10

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406273706X霧のむこうのふしぎな町 新装版
柏葉 幸子 竹川 功三郎
講談社 2003-03-15

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4091912524ポーの一族 (2)
萩尾 望都
小学館 1998-07

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2005年12月31日 (土)

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 Advertisement, Sexuality and Semiotics

4334060072セクシィ・ギャルの大研究—女の読み方・読まれ方・読ませ方
上野 千鶴子
光文社 1982-10

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年の瀬というか、今年最後の記事が、扇情的な昭和50年代カッパブックス的なタイトルの本書だというのも、なにか来年を暗示するものがあるのだろうか。タイトルとは裏腹に、本書は商業広告におけるセクシュアリティーを記号論の観点から見事に論じた良書だ。出版されて30年近く経過した今にも通じる分析がちりばめられていると思う。また、セクシュアリティーの発現については、palさんの記事に大変刺激を受けていたところだったので、興味深かった。

本書の背景となるのは、デズモンド・モリスやコンラート・ローレンツあたりなのだろうが、これをもろに日本の広告写真の分野に応用しているのがすばらしい。視覚的な「記号」というのは、上野千鶴子も四半世紀前にはこうであったのかと実感した。ちなみに、本書は彼女の「処女喪失」作なのだそうだ。

4094600132マンウォッチング〈上〉
デズモンド モリス 藤田 統
小学館 1991-11

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広告の世界にこれだけ性的なシンボルがちりばめられていたとは知らなかった。本書のすぐれたイラストを転載できないのが残念なのだが、マスの広告において、直接的な性的な表現形態でなくとも、またほんのちょっとしたしぐさ、かるく傾けた姿勢などで記号的な意味と意義をもって使われていることを見事に分析している。広告だけではなく、商品のデザインや商業アニメーション、実写の映画など表現の世界でいくらでも応用可能な、陰喩的でもある性的な誘惑、拒否、逃避、あるいは、反発と見せた服従などの性のトリックがふんだんに掲載されている。これを読んでいると、男女の関係とは遙か過去から続く所詮ゲームのようなものなのだと実感する。

また、女性が同性を見る視点はすでに男性の視点を我が物としているのだという分析があった。この辺が記号の記号たる部分なのだろうか?欲望と直接結び付いていると仮定してしまいがちな男性が好んで見る女性的な特徴(そう例えば豊かな乳房など)というのは、性的な記号として実在しうるということであるのだろう。なんというか、上野千鶴子は本書によって「処女喪失」することにで、より自由になれたのではないだろうか。「私の中の彼へ」直接触れることができたのではないだろうか?ま、男性としての性を持つ私としては、女性が男性の視線、記号の体系から開放されてしまったときに、いかなる結果が待つのかは、そら恐ろしいものがある。

しかし、ここにおいて、初めて体験としてのフェミニズムの一端を初めて理解できるような気持ちになった。つまり、フェミニズムは理論体系としての固定的な学問なのではなく、手段あるいは獲物がなんであっても自分で自分を開放するための体験なのだ。ある女性にとってはそれは古典文学かもしれないし、別の女性にとっては商業広告かもしれない、あるいは、男性とのつっこんだ交際ですらそのきっかけとなりうるのかもしれない。うまく言えないのだが、この辺に捕食生物としての女性の性を感じるのは、私だけだろうか。

男性側からすると、左手で右側の髪を触ること、ポケットに手をつっこむ動作、ぬれたくちびる、これらがどのような性的な象徴を持っているかについてのあまりにあからさまな議論には当惑されるが、この時点の上野千鶴子にはとても必要なものであったのだろう。もしかすると、いまブログ界隈で議論されている女性と男性の関係について割りと深いところから示唆をあたえるのではないだろうか?多分、絶版になっているのだろうが、私も古本屋で見つけることができた。機会があれば一読されることをオススメする。

■参照リンク
異性を騙すヒト by pal さん ちなみに、この記事を書いている途中で妻が私の背中に立った。たまたま開いていたpalさんの記事の「尻」のイラストを見て、「こういうのっていかにもオコト好みの格好よね。palさんにだったら、いつでも私のを見せてもいいわと言っておいて。」と言って、紅白の観賞へもどっていった。orz
【気儘に】あふぉざんす(三) 萌 by it1127さん

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2005年12月21日 (水)

[書評]倒壊 - 大震災で住宅ローンはどうなったか various cases

4480420444倒壊―大震災で住宅ローンはどうなったか
島本 慈子
筑摩書房 2005-01

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思っていたよりも、建築というよりローンや、被災者のお話の分量が多かったので、ここで書く。本書は、阪神大震災の時に、今話題になっている構造偽造事件のマンションの建替え、補修といった問題と同様の困難に直面された方々の姿が描かれている。住宅ローンが残って、住宅が消失してしまうというやるせない心境に共感せざるを得ない。

本書の記述だけでは、よく分からないのだが、比較的マンションというのは、旧い戸建てなどに比べて損害や、死傷者の発生というのは少なかったようだ。「倒壊」とかいうと、9.11の時のように完全に高層の建物が崩れ落ちてしまうような印象があるが、梁や柱が座屈などして、使用を継続するのが危険という状態になるマンションが多かったようだ。「中破」以上のものも大分あったが、文字どうり「倒壊」して、人がなくなったマンションはごく少数だったらしい。この辺は、1Fに柱しかないピロティー構造になっていたか、全階を通じて壁がバランスよく配置してあったかといった建築の構造のバランスの考え方でも大分結果は違ったらしい。

それはともかく、筆者によればこの震災で実に1万5千世帯以上の方々がローンを抱えながら、住宅の滅失という状態にあったらしい。「滅失」に至らないまでも、ローンを抱えながらもかなりの修繕が必要な状態に陥った方々がもっともっと多くいたのではないだろうか?世帯により、大分レベル感は違ったのではないかと思うが、それでも何万もの人が住めないか、補修が必要な住宅のために重いローンをかけて、被災生活を送っていらしたという現実が本書において生々しく描かれている。

先日、it1127さんからヒントをいただき、現在の構造偽造マンションの建替えで、つくば方式(定期借地権/スケルトンインフィル分離方式)はどうかというアイデアを考えていたのだが、既に神戸で具体的な提案があったようだ。しかし、全体で100棟あまりの分譲マンションが建替えられた中で、2件と実例は少ない。ということは、定期借地法式は決して決定版という解決策ではなかったのだろう。今回の例でも、都市再生機構などに土地の権利を譲り渡し、定期借地の建物所有と純粋な賃貸借に権利を変えてしまうというのが、わりと大きな負担がなく建替える方法だと私は思っていたのだが、理想と実際はあくまで全く別なのであろう。

著者の記述から類推すると、どうもマンションの建替えはそのマンションの中できちんとコミュニティーができていたかどうかが重要だったと感じさせる部分がある。まして、定期借地権方式という土地の権利を公社などに売り渡してしまうという考え方は、なかなか難しいものがあるのかもしれない。土地を所有するという選択に多くの人はこだわっているのだ。

マンションを巡る実例としては、本書に描かれている建替えか、補修かをめぐっての区分所有法下におけるトラブルについてのインタビューも心が痛む。みんな異常な状況の中、誤解が誤解を産み、裁判沙汰になり建替えも補修もできないマンションの管理組合があったらしい。こうしたケースも、大変残念だが今後さまざまな場面で出てくる話だろう。

私は、阪神大震災の時に、公費はほとんど投入されなかったと記憶違いをしていたのだが、解体に対してはかなりの公費が投入されたようだ。今回の偽造によるマンションの解体費用の地方自治体等の負担というのも、まんざら先例がなかったわけではないらしい。ただ、補修よりも建替えに向けて政策誘導が行われたということに著者は疑惑を感じている。しかし、この辺にゼネコンや政府の強い意図を見出し実証するのは難しいだろう。

震災における悲劇というのは、これまで賃貸にいた方が被災者向けローンで家をたて、それまで持ち家だった方がローンを抱えて借家住まいになるというケースも結構あったらしい。今回もそのような形が出てくるのだろうか?

なによりも、胸をいためずにいられなかったのは、自己破産を選択した少数の方々の話だ。しかし、これも明確には書いていないが、自己破産を選択した人は無理にダブルローンを抱えてしまった方など、1万5千世帯に比べると本書が書かれた98年までで数十、改訂された04年までで数百という単位らしい。今回の事件では、そのような方ができるかぎり発生しないことを祈るばかりだ。

本書は、全体として女性的というか、取材対象の方々への共感が前面に出ていすぎたことが気になるのだが、今回の構造偽造で被害を受けられたマンション住人の方々にはぜひ読んで参考にしていただきたいと切に思った。

あ、そうそうやっぱりマンションというのは、新しいムラの形にならなければならないんだなと実感した。住人のお互いが信頼関係が築けるマンションであるかどうかが、マンションの価値に直結しているという事実が、実はある。

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2005年12月14日 (水)

[書評]ワイルドスワン Chinese Reality and Japanese Fantasy

4062637723ワイルド・スワン〈上〉
ユン チアン Jung Chang 土屋 京子
講談社 1998-02

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「ワイルドスワン」を「公」への信頼性の物語として読み解くことができそうな気もしている。また、家庭における普遍的なつながりを再考するきっかけとしても、読めそうだ。

本書で圧巻なのは、文化大革命に代表される政治の苛烈さだ。

本書を読んでいる間、悪夢の中をさまよっているようであった。私の頭の中は祖母、母、娘と連なる「ワイルドスワン達」の生き様と自分が少しだけ体験してきた現代の中国の姿とでいっぱいになっていた。なんというか、自分の生き方の反省を迫られるような迫力があった。文化大革命における著者の家族構成といまの私の家族の構成が近い。「お母さん」が38歳で「下放」されたときの様子を「50代以上に見えた」と書かれていたのに胸が痛んだ。

それでも、これだけの激動をこの家族が生き抜いてきたのは、意思の力と家庭の教育力の力なのだと思う。著者の父の王愚(愚に徹する)という名前の通り、父親は子どもに真実の信念を見せたのだと思う。また、この父親は、書籍の読み解きを通して、古典を含む生きた学問の形を子どもに見事に伝えた。私は私の家族にこれだけ誠実でいられるであろうか?

それにしてもここで語られるのは、生きた歴史なのだ。フィクションでない歴史をまなぶことは、今を理解することになる。ここで述べられた真実は、現在の日本にもそのままあてはまるのかもしれない。中国の歴史に何度か見られた政治への民衆の参加という問題は、日本においても切実な問題であろう。このまま政治への無関心が続けばかならず民主主義の変質をきたすことにつながるのではないか?日本における民主主義と権威主義政治、そして無関心の果ての形式的法治主義が深刻に問われる日は近いのではないかと感じた。

歴史を通して民族性は変わらないのかもしれないと数冊の中国関連の本を読んで感じていたのだが、現在表面に見えてきている中国人の特性のいくつかが顕著になったというのものはかなり文化大革命の影響であったと知った。いや、本書によれば民主主義と大改革を志向した中国において、毛沢東が皇帝への先祖帰りを起こしたというべきなのだろうか?「ナウシカ」の皇弟を思い出す。

本当の中国を知っていますか? by 山本秀也さん

考えてみれば、映画の「ラストエンペラー」における満州帝国崩壊後の展開というのは、いや、満州帝国の成立と崩壊自体、本書と重なるのだ。私は、ラストエンペラーの最後ので紅衛兵が旗をふりかざしながら踊る場面が異様な感じがした。また、文化大革命で「この人は人生の教師だ」と訴えるシーンも印象的だった。それらのシーンがなぜ異様であったのかが、本書においていくつか解決したように思う。あの時代は、中国人にとってすら本当に異様な時代であったのだ。そして、その異様さは現代の中国に直結していることを、足を踏み入れた人々は必ず感じるであろう。

B0001CSB80ラストエンペラー
ジョン・ローン ベルナルド・ベルトルッチ ジョアン・チェン
松竹 2004-11-25

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ここのところ、中国びたりであったが、どうも中国人の話を読んだり、聞いたりしていると自分がはだかになったような気がする。なんというか、欲望も、性愛も、自己を強く主張する生き方も、あまりにあからさまなのだ。逆にいうと日本人というのは、ある種のファンタジーというか仮定の中でのみ生息できるのということなのかもしれない。いわく、「人のためにしたことは自分に返ってくる。いや、無私であるべきなので、返ってくることすら期待してはいけない。」。いわく、「一筋の道を追求しつづければ、必ず達人の道に達する。」。いわく、「純粋無垢であることは価値のあることである」。

これらは、仏教や禅がまだ日本の中でこだましているから、みながそう仮定を置けるのかもしれない。そして、それがいまの日本の生産性の高さの原動力のひとつであるような気がする。これらの「仮定」も今後民主化、形式的法治主義がすすめば、すすむほど消えていってしまうのだろうか?私たちはまだ「公」への信頼を持ち続けていられるのであろうか?

あまりに個人的なことだが、著者の家族の仏教への信仰の深さが私にとっては救いだ。

■追記

406206846Xマオ―誰も知らなかった毛沢東 上
ユン チアン J・ハリデイ 土屋 京子
講談社 2005-11-18

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そういえば、これも読まなきゃ。

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2005年12月 8日 (木)

[書評] 「俺様国家」読了後雑感 China risk and Japan

4166604694”俺様国家”中国の大経済
切込隊長・山本一郎
文藝春秋 2005-10-20

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面白かった。本書のあとがきだけでも、これから10年以上は娑婆で生きていこうと想っている日本人なら、十分に読む価値がある。

私にも、昔から、米国と日本と中国のトライアングルで考えるべきなんだろうな、という感覚があった。本書を読んであらためて、日本の命運が他国に握られているのかという現実を直視させられた。今の目の前の幸福を考えれば、目を背けたくなる現実なのだが、それを見ないといまの日常を維持することはできない。著者のいうように「維持するために改革せよ」という精神がどうしても必要なのだ。

私たちの生活を不安定化させているのは、巨大な経済であるという根本的な認識を著者は私たちに見せてくれる。いつぞや著者との個人的な会話でも話題になったように、「期待」によってお金が集合と離散を繰りえして見た目の景気をつくっているのだ。お金が集まるところは、一見派手だし見た目もよい。しかし、それは表層でしかない。高安先生の「経済物理学」のシミュレーション技法があきらかにしたように、3人以上のプレーヤーが集まればかならずカオス状態を引き起こす。かつ、プレーヤーが多ければ多いほど市場は不安定さ(volatility)を増すのだ。

エコノフィジックス @ はてなキーワード

この前提において、現代のような発行主体の国の岸を離れた「ワールドダラー」が世界を駆け巡る時代にあっては、かぎりなくこれはゆらぎ経済というか、カスケード危機をはらんだ経済なのだと思い知る。情報とお金とは、電気と磁気が電波を形成するように、世界を伝わっていくのだと想った。完全市場は、需要と供給の曲線の交わる静的な価格の調和を生むのではなく、ゆらぎをそもそも内包しているカスケード危機経済なのだと思い知るべきだ。これは多分、お金で計られる経済的な価値だけでなく、情報の流通、人の行き来などの局面でも次第次第にその真の姿を現してくるのだろう。

情報が行き渡れば、行き渡るほど、べき乗則的、1/f波的なボラティリティーが増えるのだ。そして、それに覇権を握るという国家意思が加わったときにはるかに複雑な問題を形成するのだろう。政治は政治的な人間にしか理解できないものだ。

こうした認識に立って本書を読むとき、改めて痛感せざるを得ないのは、国家とはなにかという根本問題だ。私にとって、国とは究極のところ民族のことだと感じる。民族とはなんとか表面的には言葉が通じて、常識、慣習といったごく通常の生活に根ざした部分で分かり合える人間の集団なのだ。民族=国家とは、お互いに地理的、歴史的、民族的に分かり合える連中で固まろうじゃないか、お互い親戚みたいなもんだから、利害だって根本のところでは一致するだろう、はなしゃわかるじゃねえぇ、といったごく肌居合いがあうかあわないかという程度のものだったはずだ。逆を言えば、きっと民族国家の外には、分かり合える連中というのはかなり少ない。いや、民族国家のボーダーを超えた先には分かり合えない連中しかいないといっても過言ではないだろう。

だからこそ国家間はパワーゲームになるのだ。

私は、グローバルもインターナショナルも信じられないという気持ちがしている。多分せいぜい二者間で第三国の言葉で話すくらいが、インターナショナルという言葉で想起できイメージである、宇宙に浮かぶ青い地球というぐらいがグローバルという感じでしかない。

いや、いつのまにか、本書の内容から随分遠くへ来てしまった。どうも、最近思考が脱線しがちだ。本来、勝手に日本のバブル崩壊時点における不良債権を超える不良債権を持った中国という国が抱えているカントリーリスクと日本がいかにバインドされてしまっているかという著者の危機意識をメインに語るべきであった。

反省!

■参照リンク
資本主義の中のポスト全共闘世代 by 切込隊長さん
経済物理学と経済学(一つの例) by kinoさん すみません。需要供給曲線が成り立っていないと断言した私は浅はかでした。

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2005年11月26日 (土)

[書評]チベットのモーツァルト echo of buddhism

4061595911チベットのモーツァルト
中沢 新一
講談社 2003-04

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「悪人正機」の中で、吉本隆明がやたらほめていたので、突然読み返したくなり本書を読んだ。自分にとってはなつかしい一冊であるはずなのに、本書の内容がやたらと新鮮に感じられた。本書から興味がひろがり何冊かの本を読んだのを覚えている。例えば、本書の冒頭で語られるカルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズを数冊読んだように想う。

4576000292呪術師と私―ドン・ファンの教え
カルロス・カスタネダ 真崎 義博
二見書房 1974-01

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本書の影響で、チベットに真剣に密教の修行に行きたいと17才の私は想っていた。その第一歩として、密教の寺のお坊さんをつかまえてサンスクリット語を教えてくれと頼み込んだり、断食道場に1週間ほど篭ったことを記憶している。ようは当時かぶれていたのだ。

39才の今の私が著者のカスタネダ論を読んで、薬を使わなくとも、異国へ行かなくとも、まだ仏教が生きているこの日本で、十分に仏道の修行はできると想った。著者が認めているように、本書の中に仏教の教え、仏教のヴィジョンがこだましているのを感じる。仏教の生の力が本書にはある。これは別にチベット仏教でなくとも、極彩色な部分を引いていけば、日本の仏教に十分に通じるものであろう。吉本隆明が指摘するようにクリステヴァだの、記号論だのといった部分は、捨ててしまって読むのがよいのだと想う。

私の浅薄な理解が及ぶ限り日本の密教、禅宗、浄土宗などだけでなく、本書の内容には最近のネットワーク理論と通じるものがあるように感じる。

たとえば、受胎からはじまるチベット仏教的な生理学、発生学の記述が素敵だ。本書で語れるような受胎した「卵」が人になるという状態に働く「生成の力」といった内容は、「べき乗則」にはまっている私からすると、非線形な科学の領域の言葉で記述することができるように想う。ここで記述されている「滴」とか「風」という言葉は、分裂した細胞の塊りであった受精卵から、頭から背骨、尾と続く脊椎が形成されるときの「対象性のやぶれ」の力を差しているような感じがした。

分子発生学はネットワークの夢を見るか?

あるいは、本書のあちこちで「打つ音」という記述がある。「打つ音」とは、ネットワークの言葉で言い換えれば、ノードとノードがぶつかり合い、エッジが生じる時の音をいうのではないだろうか?一般にネットワークというと、円や球で表された「ノード」が線で表される「リンク」でつながれているイメージをしがちだが、本来数学、物理学でリンクを表す「エッジ」という言葉が示すように、ものともの、ノードとノードがとが触れあうことによってネットワークは形成されていくのだ。この意味で、多少本書の言葉を借りて書けば、いま書いている「ブログ」というのはそのままでフラクタルであり、都市の隠喩であり、生成する力を含んでいる。ネットワークこそが力であり、バラバシモデルが示したように成長するネットワークには生命や非線形物理の特質を本質から含んでいる。すでに、世界の理として、点と点を結ぶ線といったごく基本的な世界の構成要素、あるいはグラフ理論のような幾何学的な数学のレベルから生成する力が含まれているのではないだろうか?

しかし、本書のあちこちに仏道の修行に対して客観的になりすぎていて、人類学者の目でしか仏道を捉えていないのがものすごくもったいないと感じる。著者のチベット仏教における修行はかなり進んだと想われるのに、著者の仏教の教えと師に対する感謝と敬意が感じられない。著者が学者であるから、その立場から本書を起こしているので、仕方ないといえば仕方ないのだが、非常に微妙であるところだ。

ま、本書で仏教との関連で精神分析の用語が語られるのも気に入らないのだが、「鏡像関係」とか、「言葉の底に潜む暴力」とかいう言葉を読んでいるうちに感じたのは、「攻殻機動隊」を作った押井守は本書を読んでいるのではないかという気がしてきた。

[書評] 攻殻機動隊 (HPO)

たまたま、本書を読んでいる最中に「攻殻機動隊」を見たせいか、以下の等式があたまに浮かんで離れない。

映画版攻殻機動隊 - 漫画版攻殻機動隊 =
      チベットのモーツァルト - 現代思想用語

たとえば、本書の以下のような記述に攻殻機動隊の冒頭のシーンを思い浮かべてはいけないのだろうか?

「お前に必要なのはリラックスして、夢の中で落下していくのを楽しめるようになるってことだ。落下こそ神霊の世界に触れるためのいちばんの近道だし、夢のなかでこそ力の領域が開かれてくる。」【夢見の技法】

あるいは、草薙素子が潜水してゆっくりと浮かび上がってくる時に、もう一人の自分とキスをするようにすら見えるシーンに、自我を形成するという鏡像関係を見てしまってはいけないのだろうか?

念仏者は阿弥陀仏との鏡像関係内で宙吊りになっている。ちょうどあてにならない恋人の心にむかって愛の告白を続ける主体が、不確かな他者との鏡像関係内で宙吊りになっているように。【極楽論】

また、攻殻機動隊の中のキーワードには、創発やネットワーク理論を思わせる言葉が多いことに初めて気づいた。「上部構造への移行」、「多様性」、「死」、「ゆらぎ」、「融合」。

特に草薙素子の最後の台詞は象徴的だ。

もうここには少佐と呼ばれた女も、人形使いと呼ばれたプログラムもいない

創発現象が起こってあらたな構造体が形成されれば、その構造体を形成するノードとはレイヤーが違ってしまう。

おっと、「チベットのモーツァルト」という主題から離れたところへ来てしまった。

■追記 平成17年12月16日

B0000076D8攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL
サントラ 川井憲次
BMGファンハウス 1995-11-22

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攻殻機動隊のサウンドトラックを聞いていたら、あの「ぬえ娘」達よりも太鼓の音が基調なのだと気づいた。しかも、オープニングの打撃音は単発というかひとつ、ひとつが孤立しているのに、「人形遣い」との「融合」に近づくにつれ、軽やかで、つながりをもった太鼓の音楽になっていくような気がする。もう最後は、宗教音楽にも近いところまで行っている。太鼓の音はエッジの生成の時の音なのだ。

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2005年11月13日 (日)

[書評]悪人正機 (吉本隆明) let's get physical!

4101289220 悪人正機
吉本 隆明 糸井 重里
新潮社 2004-11

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多分、大きな円を描いて人の生き方というのは変わっていくのだ。

著者の吉本隆明さんと言う人は、本当に人生の達人なのかもしれない。本気で取り組まれた著作を読んだわけでもないのだが、本書でおもしろおかしく語られている生き方は、私がリアルで人生の達人であると尊敬申し上げている方のおっしゃること非常に近い。もっと言ってしまえば、仏教関係の著作で「悪人正機」という言葉が出てくる「歎異抄」というよりも、私にとっては道元の「正法眼蔵」と響き合うような気さえした。

著者は、本当に正直に身体をベースに思考しているのだなと随所で感じた。著者は、かるがると「知識なんてものは、枝葉にすぎない。身体の問題こそが幹だ。」なんて言ってのける。既に古代オリンピックで基本的な陸上競技が網羅されていたように、人が人になってから今日まで身体の使い方は大して変わっていない。シンクロナイズドスイミングなんて無理に身体を使っているから我慢比べみたいに見えると、著者は言う。新しい問題は常に出てくるわけで、それはその都度その都度で解決していくしかない。それは、あたりまえ。言ってしまえば、知識はシンクロナイズドスイミングみたいなもので、あくまで身体が基本であって、知識は枝にすぎないのだ。

今のブログ界隈に生息する人々にもぜひ読んで欲しいと想うような章もあった。

そうそう、モテるか、モテないかについても、男女間の距離の問題であって、絶対的にモテる、モテないということではないと喝破している。私は全く不勉強なのだが、現在Web2.0という話題がブログ界隈ではホットのようだが、著者はネット社会についても、技術系が人間があまりに簡単にネットによって進化するであろうということに疑問を呈していたりする。人が変わる変わらないというのは、身体の問題であって、精神や知識の問題ではないというのだ。私はこの意見に深く共鳴する。

逆に身体の問題であるからこそ、歴史的な事象に対して身体の内からアプローチすることが可能であると著者はいう。例えば、源氏物語の当時の人々は風景に「声」を感じていたのではないかという、現代から見た源氏物語でなく当時の人の目線に立った源氏物語を感じるべきであるという話があった。一見荒唐無稽のようだが、寂寞とした風景を源氏の君が見たときに感じたかもしれない「声」を私もすこしだけ感じる部分がある。あることが終わるのを待つ時間、あまりに長かったので読了した本書と妻の読んでいた雑誌を交換したのだが、この章を読んで妻は私より実感を込めて、「そうだね」と言っていた。

身体に正直になるといろいろなことが見えてくるのだろう。自分にできることの更に上を目指すのではなく、その少し下をなすべきなのだという意見にも感心した。今の社会の中で、どうしても上昇指向から逃れる術がない。背伸びしてでも、少しでも高く、少しでも多く見せようとするのが、今の時代の標準的な志向性だ。この姿勢には、進化経済学というか、「ピーターの法則」の一番核心の部分を感じるのは、私だけだろうか?

[書評]ピーターの法則 (HPO)

著者に凄みすら感じたのは、経営やお金の感覚について語るときに実に経営者以上の感覚を捕らえているように感じらることろだ。「会社は平べったくなければならない」とか、「金持ちになるのは、借金して返せなくなるなんてことを気にしない人たちだ」とか、私も経営者のはしくれとして、多分そうなんだろうと感じる言葉が並んでいた。

昨年入院していらっしゃったのだそうだが、退院後に付け加わった一章がすばらしい。「意識的であるうちは、だめだ」という言葉には、身体ということを永年テーマにしてきた著者の至言だと私は感じる。

あ、それにしても失礼なことを書いてしまえば前回「相対幻論」で献上した糸井重里さんへの「一種の天才」という言葉は撤回させていただく。著者の生の言葉の持つ迫力の前では、失礼だが各章の最初に載っている糸井さんの言葉がうざく感じられて仕方がなかった。

[書評]相対幻論 context on the network world

しかし、一番の驚愕は、最後の最後に来て著者が中沢新一さんを称揚していることだ。しかも、まがりなりにも思想的なことに興味を持ち始めたきっかけであり、私が最初に触れたチベット仏教の書であり、サンスクリット語を習う気にさえしてくれた中沢新一さんの「チベットのモーツァルト」に著者は言葉を寄せていたというのだ。

4796701362チベットのモーツァルト
中沢 新一
せりか書房 2000

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嗚呼、私にとってのこの円環を感じさせてくれたすべての方々に感謝したい。

■参照リンク
[書評]心とは何か(吉本隆明) by finalventさん

はずかしげもなくトラックバックしてしまおう。この数日のfinalventさんの記事すべてにトラックバックしたいくらいなのだが、それはあまりに身の程知らずであろう。いくら私でも「羞恥心」は「しゅうちしん」と読むのだと言うこと位は覚えた。

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2005年11月 6日 (日)

[書評]相対幻論 context on the network world

4041501059相対幻論
吉本 隆明 栗本 慎一郎
角川書店 1985-06

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前々からひどいものだと想っていたが、私の記憶の危うさにあきれた。今の自分の形成に影響を与えた本書をまるきり間違えて記憶していたのだ。一体、私の記憶がこれだけ不確かならば、私が記憶している私という人格は一体どんな幻想に基づくものなのだろうか。あきれはてる。

しばらく前に「日記」にこう書いた。

あれは、浅田彰、吉本隆明、山口昌男の鼎談ではなかっただろうか?アマゾンでどうしても見つからない。無印良品の包み紙のような茶色い表紙だったと思う。自分がニューアカにはまるひとつのきっかけであった。また、やたら注が多い本の原型であったやに思う。

で、さっそくはてなで質問させていただいたらあっというまに答えをいただいた。本当にネット界隈というのは便利だ。

http://www.hatena.ne.jp/1130805454

そもそも、本書はニューアカデミズムの本などではないし、鼎談でもない。浅田彰と山口昌男の話は出てきても、対談に参加しているわけでもない。注釈も記憶しているほど多くはない。今回再読するまで、吉本隆明はばりばりのマルクス主義者だと私が信じていたことに至っては恥ずかしさのあまり声も出ない。散々探して見つからなかったのにはてなで教えてもらってから再度検索したら、ちゃんとアマゾンに登録されていて古本屋さんから数日で私の手元に届いた。お蔭様で、なつかしい表紙に再会できた。

やっぱり、糸井重里さんというのはやはり一種の天才なんだろうな。四半世紀近くも前に「世界がどーにかなりはじめて」しまっていると喝破されていたわけだ。いまブログ界隈で、あるいはブログ界隈の外で、ブログがおわってしまいそうだとか、会社がどうにかなってしまいそうだとか、国が終わってしまいそうだとか、議論されていることを当時すでに一言で表現されていたわけだ。四半世紀前というのは、いわゆるバブル景気がはじまるきっかけのプラザ合意の前だし、バブル崩壊後の「失われた10年」など予想もされていない時代であった。当時はまだ、「オジサンたちも怒ってい」たのだし、思想をファッションとして「カッコつけたい方々」もいっぱいいたのだ。なにか背骨がなくなってしまったような現代とは、違うものがそこにあったのかもしれないと想う。

私がブログで語りたい、学びたいと想っていたことのほとんどは、すでに本書で言い尽くされていたのだと再発見した。

今考えてみれば、この時代に話題になっていた「文法」とか、「コンテクスト」といった「思想」は、複雑ネットワークの考え方か読み直してみることが可能だ。「分節化」というのはノードの生成であろうし、「コンテクスト」とは、ネットワークの言語的表現であるといえはしまいか?どこかから拳骨がとんで来そうだが、ドゥルーズ=ガタリのリゾームなんて複雑ネットワークそのものではないか?べき乗則のはしりともいえるzipfの法則が、文中の単語の出現頻度から発見されたということもある意味納得できる気がする。

本書の中で、吉本隆明と栗源慎一郎が「必然力」、「自然力」という言葉を使っていたが、社会、貨幣、コンテクストを横断的に考えたときにあらわれてくる力という意味だと想う。妄想の上に妄想を重ねてしまうが、これは複雑ネットワークの中に内在するカスケードや、べき乗則などの法則性との関連で理解できないだろうか。

本書の前半の対談は、マルクスの労働と貨幣の理論から、文化人類学で扱われるような貨幣の原初形態、あるいはヨーロッパにおけるハイパーインフレの話など、貨幣の生成と消滅がテーマであったと想う。これらの議論は、そのまま安冨先生の貨幣論に具体的にシミュレーションされている現象だと私には思えた。現代日本では貨幣があまりに安定しているため忘れがちな事実だが、実際の貨幣も生成と消滅を繰り返しているのだ。

[書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs (HPO)

安冨さんの貨幣の生成と消滅を示すシミュレーションは、吉本が理解したマルクスの貨幣論と栗本の考えを具現化するものと位置づけられるのかもしれない。栗本が外部、内部の交換から市場の形成までを語っているが、安冨さんが示したのは、「人は人がほしがるものをほしがる」という仮定と「交換には商人か貨幣かあるいは両方が必要」という仮定で情報と商品が交換され、市場が形成される、という事実だ。

もっと言ってしまえば、安冨先生の業績は、ポラニー兄弟それぞれの研究をつなぐものであるかもしれない。経済人類学で貨幣を論じたカール・ポランニーと、ネットワーク、科学理論に潜む創発の力を論じたマイケル・ポランニーが兄弟だという事実がすさまじい。ま、この辺はあらためてポランニーを勉強してから書きたい。

カール・ポランニー by 山形浩生さん
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』 @ 千夜千冊

それにしても私にとっての現代思想の入り口とも言える20年以上前に出版された本書の問題意識から、未だに出られていないということがいささかショッキングだ。私はよほど不器用にできているのだろう。ま、不思議なのはあれ以上吉本への興味が深まらなかったことか。栗本も、RCサクセションも、橋本治も、ポラニーも、山口昌男も、挫折はしても読もうとする努力くらいはしたのに。

本書を再読して、正直一番感動したのは、栗本慎一郎さんのあとがきのこのくだりだ。

学者にせよ思想家にせよ、彼は徹底的に私的になることによってはじめて時代の公傷をにないうる。私的であることを拒否し感性を解放せざる者は、傲慢な教養主義の枠内にとどまることしか出来ない。

私がブログを書き始めて感じているのは、私にとって必要なのは「教養主義」などではなく、自分が生きるために、よりよく生きていくための知の在り方だったということだ。

うまくいえないのだが、それもまたやはり肌の感覚のような気がする。ただ、体温だけがいとおしい。

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2005年10月27日 (木)

[書評]アルファブロガー alpha bloggers landscape

4798110205アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから
FPN(フューチャー プランニング ネットワーク)
翔泳社 2005-10-21

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いま話題の「アルファブロガー」を読ませていただいた。

なんというか、11人の方のインタビューを読ませていただくことにより見えてくるブログ界隈共通の地平線というものがあるように感じた。たとえばそれは「ブログは、メディアリテラシーを高めるツールとして存在する」という側面だ。現代の複雑な社会において、既存メディアがなんらかの形で情報を偏光させていることに人々が気づき始め、漠然とした不信感が明確になってきているのではないだろうか?「大本営発表」から抜け出し、メディアからの情報を読み解き、自分に必要な情報を得るための「メディアリテラシー」の必要性が高まってきている状況が、ブログの価値を高めている。本書の中で、アルファブロガー達の何人かが「ゲート」という言葉を口にしているのはこの意味で正しい。

もうひとつは、ネットによって情報が安価になりあふれ出したことにより、大量の情報の渦の中で必要な情報が得ることが逆に困難になったという悩みがあるのかもしれない。アルファブロガーというのは、こうした情報の渦の中で自分と似た価値の軸を持ち、自分と似た情報の収集と分析を行ってくれるであろうという期待と信頼を得た人たちなのだと言えるのかもしれない。例えば、isologueの磯崎哲也さんのインタビューにものすごく共感を覚えた。多分、それほど違わない年代で、レベルは全く違うが商売をしながらネットとブログに係っているという共通点からなのかもしれない。私が、自分の仕事やブログについてかっこよく語る力があれば、磯崎さんのように語りたいと切に想った。もう攻殻機動隊にまで言及していらっしゃるし、「投げ銭100ポイント!」とかしてしまいそうだった。

本書を読んで、改めて私のような田舎者がアルファブロガーの方たちの何人かの方と直接お会できたり、相互認証というか、リンク、トラックバック、コメントを交換できたりしたというのも、今の時代のネットワークの進化の結果なのだと想った。ブログを読ませていただいていたり、お会いしたりしたことで、今回のインタビューも単に文字面だけでなくなんというか立体的に感じる部分が多くあった。ありがたいことだ。

例えば、アルファブロガー座談会で橋本大也さんに「身体改造系」という言葉を使って失笑をかってしまったのだが、「Passion for the Future」を初めとしてアルファブロガーの記事の傾向に、「自己の価値を高める手段としてのブログ」があると想う。昨年の無敵会議でハンサムなお顔を拝見した田口さんがご紹介されている、「すごい会議」、「getting things done」あるいは、ライフハックという考え方は私に非常にアピールした。ブログを頻繁に読んでいる世代はまだ成長途中で、自分をどんどん育てていくことに興味がある人たちなのだろう。

余談だ、最近、私のまわりで何人かの方が「学び続けることの大事さ」を口にされていた。なんといか、ブログ界隈でニュースや社会批評的な知識を加速度的に学んでいくのだけでなく、学習する方法すら進化させていくのだとすれば、本当にブログ界隈の人達とネットにアクセスしらしない人達とでは、人種が違うほど差が開いてしまうのではないだろうか?

これも「座談会」での会話だったと想うのだが、伊藤直也さんがおっしゃっていた「右脳プログラマー」という言葉が好きだ。アルファブロガーというのは、単に勉強家というだけでなく、ひらめきがある方たちなのだと想う。どうもこれまでブログを読ませていただいたり、直接にお話を伺ったり、インタビューを読ませていただいて感じるのは、「think like walking」というか、考えて考えて考え、論理に論理を積み重ねてブログの記事の核心的アイデアを得るというよりも、直感的に得ていらっしゃるように感じる。伊藤直也さんは確かシャワーをあびながら、アイデアが浮かぶとおっしゃっていたし、橋本大也さんはお散歩中に浮かぶとおっしゃっていた。私には神技的にすら見えるfinalnvetさんの記事は書き始めた瞬間に浮かぶのではないかと私は思っている(*1)。これは、また大量の情報の渦の中で生きていかなければならない現代の若い世代のこれからの生き方として示唆を与えてくれることなのではないだろうか?

最後になるが、本書の中のfinalnvetさんの言葉が直撃で胸につきささった。

この人は信頼できるなと思っていたブログが、選挙について沈黙することがあり、なーんだどんなに優れた人でも中立を装う旧メディアの真似事をしているだけなのか、という強い失望感が起こりました。

finalventさんが対象としてるのが誰なのかといことではなく、私には深く恥ずべき行為を行ったことが思い出された。実は先日の衆議院議員選挙でそれなりにブログで書くべきネタを得ていた。しかし、自分の身かわいさに一切口をつぐんだ。また大して効果はないと分かっていたのに、逆に自分の利害のからんだ情報を匿名で流した。自分のなさけなさにうんざりする。

なんとい