2006年4月 6日 (木)

[書評]自己組織化の経済学 その1 ~ 断続平衡 ~ S Curve

H18.4.12 追記

以下、当初書いた内容に間違いを発見し、強いショックを受けた上に、業務に時間をとられブログを更新できなかった。

[前回の内容はここから]



いやぁ、本当に面白かった。

4492312404自己組織化の経済学―経済秩序はいかに創発するか
ポール クルーグマン Paul Krugman 北村 行伸
東洋経済新報社 1997-08

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以前もっと既存の科学は、非線形・非平衡の科学の知見を取り入れて再構築すべきだとか、書いたような気がするが、いかに自分の無知をさらけだした言葉だったからよくわかる。

クルーグマンは、いとも簡単に自己組織化を目に見えるようにしてしまう。例えば、技術の優位性による普及率の均衡の変化を示すこのグラフだ。

Danzokuheikou01

PDFファイル
PowerPointファイル

これは、DVDとVHSのレンタルショップと家庭における普及のシェアを表している。普通、それぞれ直線であると仮定され、どちらか2つしかない技術であるとすれば、どちらかの技術優位性があがれば、なだらかに家庭とレンタルショップにおけるシェアがあがっていくということになる。しかし、直線でなく公文先生のお好きなS字カーブで書いてやるだけで、図だとDVDのコストだとか、画質だとかの技術優位があがるにつれて、どこかの均衡点からVHS市場が崩壊し、DVD市場の独占になってしまう様子が描かれているのがわかる。公文先生が、技術の進歩についてS字カーブにこだわっていらした理由がこれでわかる。直線的に進歩する技術では、なだらかにしか普及率が変わっていかないが、S字カーブであるなら、均衡点が一気に変化する様子を描くことができるわけだ。

と、内容を書こうとした時点で、お呼び出しがかかり出かけなければならなくなってしまった。続きは、正気を保っていられたら今日中に書くつもり。でなければ明日....


[ここまで]


なにで忙しかったかは聞かないでおいて欲しい。とにもかくにも忙しかった。とにもかくにも本題に戻ろう。これが正しい図だ。

Danzokuheikou02

PowerPointファイル

あまりにも恥ずかしいのだが、曲線の意味を取り違えていた。「DVDのシェア」と「VHSのシェア」ではない。R曲線を見て欲しい。当初、DVDを置いているレンタルショップが少なければ、家庭でDVDプレーヤーを置いているところも少ないはずだ。ところが、どこかの時点で臨界点を超えると、多分パーコレーション的に一気に家庭におけるシェアがあがる。ツタヤで急にDVDのソフトが増え、DVDプレーヤーまで売り出した頃を覚えている人は多いはずだ。H曲線は、逆に家庭でのシェアが増えるにつれ、レンタルショップでのシェアも増えるだろうという様子を示している。この2つの曲線が交わるポイントが、均衡シェアを示すことになるわけだ。つまり、VHSに負けて非常に少ないシェアに甘んじるのか、二者択一の世界に打ち勝ち、DVDが主流になるかのどちらかで均衡するということになる。

そして、曲線Hが次第に上側に平行移動していくということは、例えば技術革新でDVDプレーヤーが非常に安くなり、レンタルショップでDVDが置いてあるシェアが小さくとも家庭側では「安いから買っちゃえ!」ということで、より多くの家庭がプレーヤーを置くことになるということを示す。均衡点が一気に変化するという説明は↑のとおり。

ここで、このDVDの普及の様子をグラフで表せないか考えてみた。多分、家庭でDVDを買う動機は知り合いが買ったから自分もという、「人は人が欲しがるものを欲しがる」という心理であるに違いない。だとすれば、DVDの普及はパーコレーション的だと言えるだろう。パーコレーションでも、当初はすこしづつ、途中から一気にというロジスティック式的にシェアが増えていくに違いない。ロジスティック式を微分するとシグモイドになる。

シグモイド、べき分布、そして複雑ネットワークとしての生態学

シグモイド曲線で、クルーグマン先生の曲線をエクセルを使って描いてみた。

Sigmoido060412

エクセルファイル

わかりにくいかもしれないが、「s(x)の平行移動」という数字を少しづつ上げて行くと、2つの曲線の交点が(-5,0.01)あたりで交わっていた二つの曲線が(-2,0.32)に移動し、さらに上げると(8,1.3)にまでジャンプする様子がわかる。

シグモイドでこの曲線を近似しようとしたのが正しいのかどうかクルーグマン先生の意見を聞いてみたいものだ。

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2006年4月 1日 (土)

[書評]キリストの勝利 Victory Over Roman Empire?

結局、「ダ・ヴィンチ・コード」は十分すぎるほどハリウッド的エンラーテイメント小説だった。背景には、キリストの教えがカソリックという世界宗教に変質していく過程での史的事実に基づくミステリーがあった。一方、「キリストの勝利」は、カソリックがローマ帝国の国教化されていく過程そのものを描いていた。しかし、どちらを読んでも何故キリスト教がカソリックになった理由に肉薄できる気がしない。私が単に無知だというだけなのだろうが、なにか言及されていない流れがあったような気がしてならない。

4103096233キリストの勝利 ローマ人の物語XIV
塩野 七生
新潮社 2005-12-27

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「キリストの勝利」に登場するアンブロシウスとも実際に会っているアウグスティヌスについて松岡正剛さんは、こう書いていた

なんとも三位一体論とは恐ろしいものである。これは小声でいうしかないが、こんなことはむろんまったくのデッチ上げであり、しかも最も神聖な論議を尽くした末の成果だったのである。アウグスティヌスはそれをいっさい引き受けたのだ。ぼくにはいまもって、一人でこのことの秘密を告白する勇気をもちえない。

アウグスティヌスにおいて体系化された教えが、三位一体だというのが、カソリックの成立においてとても重要だ。三位一体というのは、祈りのたびに唱えられる例の「父と子と精霊の御名において」というやつだ。そして、この祈りの背景に松岡正剛さんが指摘するように強引に思想化したための「秘密」があるのだとすれば、重大な問題だ。また、「キリストの勝利」によれば、国教化していく中でギリシア・ローマの神々だけでなく三位一体派以外が迫害されていく様子が描かれている。

そして、「異端」であろうと「異教」であろうと、公的であろうと私的であろうと、それに関係するすべてのミサも祭儀も禁じられ、これに反した者の全資産は没収され、国庫に修められると決まった。そして、それは実に厳密に実施されたのである。(中略)だが、聖職者・一般信徒の別なく、幾度となく違反を重ねる者には、死刑さえも待っていたのである。キリスト教徒でいながら同じキリスト教徒から迫害を受け、悪くすれば殉教すると言う現象の始まりであった。

「ダ・ヴィンチ・コード」にもどって、非常に下世話な話しをすれば、教祖といわれる存在は昔からカリスマ的であり、異性から圧倒的な好意をもたれるくらい魅力的であることが多々ある。キリストも例外ではなく、女性信者は初期の普及に上でとても大事な役割を果たしたにちがいない。しかし、そうした女性原理的要素がカソリックが世界宗教として確立していく上では排除されたのだという「ダ・ヴィンチ・コード」の主張もこうした歴史的文脈において理解できる。

ここで大胆に類推してしまえば、当時のローマ人は、それこそ「経済人の終わり」で描写された第一次世界大戦後のドイツの人々に近い状態であったのではないだろうか?どうも経済も最盛期を超え期待できない、不敗を誇ったローマ歩兵も騎馬族の蛮族相手に精彩を欠いている、自分達の利害調整をゆだねた人格であるローマ皇帝の統治能力もかげりがみえ、税は細かく高く、官僚主義がはびこり、ローマの神々も救いをもたらしてくれない。こうし深い絶望の中終末論的側面を持ち、愛を口にしながら女性原理を否定せざるをえなかったという矛盾を抱えたまだ新興宗教でしかなかった現在のカソリック教会につらなるキリスト教の一派がたまたま強い権威を実現させてしまったという「事件」であったのではないだろうか?

カソリック教会が強かったから西欧文明が19世紀以降世界で派遣を握れたというわけではない。シルヴァーバーグの「永遠のローマ」シリーズではないが、暴君が時折出現する可能では大であったにせよ、ローマ帝国がカソリック化せずにいたら暗黒時代といわれる経済も、科学技術も停滞し、政治的にも分裂した1000年を経験せずに済んだかもしれない。

ローマ帝国は、明治以降の政府にとっての徳川幕府のように、現在も続くカソリック教会にとってアンチ・テーゼであり続けているにだろう。また、カソリックはまだまだ西欧の社会において大きな影響力を持っているのだろう。

私のような素人が手を出せるようななまやさしい問題ではないとよくわかっているのだが、どうしてもカソリックの問題がちょうど1年前のフランス旅行以来頭から離れない。

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2006年3月26日 (日)

「ダ・ヴィンチ・コード」と聖婚の宇宙的構造 Maitreyi and Mircea

ようやく「ダ・ヴィンチ・コード」を読了したので、感想の続きを書こうと思ったが、ない!子どもがどこぞへ持っていってしまったらしい。

そもそも本当に読ませていい内容だったのが、判断に迷った。ま、しかし、一日でこの本を読み終えてしまったという子どもを誇りに思ってしまうばか親の私であった。

正直、読了した上に「世に倦む日日」のすぐれた批評を読んでしまった今、一体何を付け加えたら良いのか、わからない。

『ダ・ヴィンチ・コード』 by thessalonikeさん

特に「グノーシス獲得としてのセックス」は、すばらしい。

性とは何かを男が男の言葉で語らなければならない。女が語ったセックスについてのイデオロギー暴露を男がセオリーとして是認し肯首するのではなく、ジェンダー主義にそのままホールドアップするのでなく、男が男にとってセックスとは何かを自ら肯定的に再定義しなければいけない。男が男にとって性が人生の重要事であることを正当に認めること。そのことが大事だ。

性のさかりをすぎつつある中年の男として、拍手喝采を送りたい意見だ。

セックスの問題をいかに生理的、欲望的次元でなく象徴の持つ力を含めて語るか、実践するかは、歴史的にみればかなり古いといえる。宗教学者、ミルチャ・エリアーデは、1957年に出版された「聖と俗」の中でこう書いている。

当然のことながら神々の物語は、人間の結合に対して模範的典型となる。しかしなお別の一様相が強調されねばならない。それは結婚儀礼と、したがってまた人間の性的振舞宇宙的構造である。近代社会の非宗教的人間にとっては、夫婦合体のこの宇宙的にして同時に神聖な次元はなかなか理解し難い。しかし古代社会の宗教的人間にとっては、世界はしらせに満ちたものであった。しばしばこれらのしらせは符牒で書かれているが、そこには人間にその解読を助ける神話がある。人間の体験は総体としての宇宙の生命に一致する関係におかれ、それによって浄化されうるものである。宇宙は神々の至高の創造であるから。

私には、実に「ダ・ヴィンチ・コード」はこの構造を踏襲した小説であるように思われる。エリアーデの言葉を借りればいかに「非宗教的人間」である我々が登場人物の行動を通して、天文学的な宇宙の構造、地球の方位と時間を決める構造体とも関連する暗号=符牒を、数々の神話、伝説を用いて解読していくというのは、宗教的な象徴の力が現代にも十分に生きている証拠であるように感じる。しかも、ある種の中年男性には、理想的とされるセックスの予感で結ばれている。あ、私にとっての「理想」はもちろん違う(笑)。

ちなみに、20年ぶりくらいに「聖と俗」を開いてみて、訳者が「カトリックの学者であり、今日最も有力な宗教学者の一人」と紹介しているのを発見したのだが、エリアーデはカソリックなんですかい?!ちとショックだった。

■参照リンク
般若心経について by finalventさん

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2006年3月20日 (月)

[書評]クルーグマン教授の経済入門 The Age of Diminished Expectations

いんやぁ、この本を読んですんごく安心してしまった。やっぱり、世の中わかってる人はわかっているわけだし、私のようなパンピーが心配しなくてもいいことは心配する必要はないんだね。

4532192021クルーグマン教授の経済入門
ポール クルーグマン Paul Krugman 山形 浩生
日本経済新聞社 2003-11

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この本がどれくらいすごい本か、すごい本に山形さんがしたか、ということについては、ご本人の言葉にまさる言葉はない。

ぼくはこの本を読んで、目からうろこが山ほど落ちた。そうなのぉ!?生産性って、どうして上がったり下がったりするのかわかってないの!?インフレって経済大崩壊への序曲じゃないわけ!?G7国際サミットって、そんなどうでもいい代物なの?日米貿易摩擦ってのも、大騒ぎするほどのもんじゃないわけ?保護貿易っていいものではないけど、悪魔の尖兵でもなかったのね!?欧州通貨統合ってのも、そんな怪しげな代物でしかないのぁ!?

まして、私ごときが最近の日本の就業人口あたりの生産性なんぞ計算できないのもあたりまえだ。

我々の未来としての「ワンゼロ」 (HPO)

あ、そもそも生産性について書いた↑の記事では、クルーグマンの強調する経済における大事なことは生産性をあげることだという結論と全く反対なことを書いている。失業率と経済成長、NAIRUのこととか全く理解していなかった。ああ、恥ずかしい。

また、切込隊長さんの「経済は期待だ」というセリフとクルーグマンが書いていることは、結構ひびきあっているんじゃないかな。

エマージング市場の金融危機が、最終的にはどんな形に落ち着くのかは知らないけれど、この話が持っている意味というのはかなりこわい。この危機の分析が正しいんなら、多くの国は、要するに資本市場のきまぐれでしかないものにもてあそばれかねないってことだよね。国がこまった状況になるには、別にやばい政策をとらなくたっていい。

山形さんが「クルーグマンせんせいのこと」を紹介してくださってるけど、貿易、為替、都市に関して、最初のごく小さな条件の差が大きな結果の違いを生むという方向性の研究をしているらしい。こうした考え方は、あきらかに「べき乗則」的だ。この辺について書いてあるに違いない「自己組織化の経済学」を読むのが楽しみだ。

多分、結論的には全く間違っているに違いないけど、私がカオスについて考えたり、シミュレーションしたりした方向性はちょっとだけかすっているのかもしれない...かな?

インフレーションの形 (HPO)

をっと!興奮してお礼が後になってしまったけど、あえてお名前をあげないが、この本を紹介してくださった方には心の底からありがとうと言いたい!

■参照リンク
YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page

■追記 翌日

まる2年ぶりにm_um_uさんからクルーグマン先生の本書の貿易の考え方についてコメントしていただいていたことに気づいた。

つまり、 生産効率だけで考えると、どうしても理解不能なところが出てくるんです. んで、 それよりは「なんだか知らないけどA国のほうがB国に優るようになってて・・それが歴史的に続いてきた(信頼の形成)から、いまは「たろ芋」っていったらA国だ、ってなった(比較優位は歴史的偶然性によって形成された)>って考える方が自然な感じ・・・ってクルーグマンあたりが言ってたきがします...(「クルーグマン教授の経済入門」だったかな..)

今更ながら、ブログ界隈のふところの深さを実感する。m_um_uさん、ありがとうございます!

■追記2 翌日

あ、もうひとつ発見!

ちなみにインフレとデフレが社会に与えるわかりやすいインプリケーションは(既にご紹介したかもしれませんが)クルーグマンの「経済を子守りしてみると。」 http://cruel.org/krugman/babysitj.html によくまとまっております。ではでは。

御礼に行ってこよっと!

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2006年3月19日 (日)

[書評]高等学校 琉球・沖縄史 History as an Interaction Process

出張中にある方から現代の沖縄の建築技術の水準を考える上で米軍の存在は大きかったという話を聞いて沖縄の戦後史を勉強しなくてはいけないと思った。

4938984172高等学校琉球・沖縄史
新城 俊昭
地方・小出版流通センター 2001-03

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土産物を探しているうちに本書が目に入った。帰りの飛行機で、一番最後のBEGINの写真が載っている現代のページからスタートして、1万8千年前の港川人まで逆向きに読んだ。様々な情念と想いが交錯している沖縄の歴史を、門外漢もいいところの私がうんぬんすることは非常に危険だと改めて感じた。私にできるのは、せいぜい沖縄の歴史を通じて日本の歴史が理解するということだ。

これまで日本の現代史を理解すべく何冊かの本を読んできた。直接なぜいまの日本の姿になったのかを知りたかった。

[書評]歴史劇画大宰相 (HPO)
[書評]敗北を抱きしめて (HPO)
どついたれ by 手塚治虫
[書評]愛情はふる星のごとく (HPO)
[書評]大東亜戦争とスターリンの謀略 (HPO)
[書評]ワイルドスワン (HPO)
中国と歴史とリンク (「宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族」) (HPO)

どれだけ本を読んでも、多くの要素が複雑に絡んでいる日本の現代史の「なぜ」がよく理解できなかった。本書を読んで、近現代史の諸要素が絡み合いながら沖縄の人々にどのように影響してきたかをまのあたりにし、人々の生き抜いていこうとする力が歴史という織物を編んでいるのだと感じた。

もう少し俯瞰してしまえば、交通手段と通信手段の発展による統治可能距離の拡大が大きな意味を持つのだと再度感じた。

距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

要はブログ界隈を適応度地形と考えれば、つながればつながるほど、他者からの影響を好むと好まざるとにかかわらず受けるようになるということだ。

「文字」という通信手段でつながれば、文字を作り維持している力に拘束される。船と航行技術という輸送手段でつながれば、交易、そして文明の文物の必要性という形で拘束される。貨幣のつながりは、経済圏に組み入れられることを意味する。航空機という輸送手段は武力を行使できる範囲をひろげ、そこに組み入れられるいうことを意味する。そして、現代の放送、通信、ネットは、生活の根幹のレベルから、つまりは欲望という根本から、より広い世界につながり、とりこまれる。そして、その代償として地域性という多様性を差し出すことを求められる。

もしこのように一般化して見ることが許されるなら、沖縄の歴史と日本の歴史は少なくともこの800年あまりは同時進行の相似形であるように私には思えてくる。

余談だが、今回の出張ではタクシーにお世話になった。ばりばり地元の方もいれば、20年前に沖縄に移り住んだという方もいらした。いろいろな話を聞かせていただいた。地元の様子はタクシーの運転手さんに聞けよくいわれるが、歴史は生活の集積であり、ごく普通に暮らしている方々の声が一番大事なような気がする。

■追記 翌日

多少撮ってきた写真を載せる。集落から3つの山の王の時代、そして統一王府への変遷と、統治の正統性を外部から権威を与える中国からの文化の影響を感じた。

060319_1434001s

060319_1415001s

携帯で撮ったので、ぴんぼけで恥ずかしい。

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2006年2月27日 (月)

「経済人の終わり」の感想

finalventさんが以前ドラッカーの追悼文とも言うべき文章を書いておられ、ドラッカーの最初の著書の「経済人の終わり」とほぼ最後の著書の「明日を支配するもの」について触れておられた。かなり興味深く両著を読ませていただき、ドラッカーに見事にはまった。

はまると人にすぐ勧めるのが私の悪いくせで、「経済人の終わり」をある友人のうちに遊びに行ったときに、無理やり読んでくれとあげてきてしまった。それでも、律儀な友人なので、ちゃんと読んでくれ、わざわざ先日感想を送ってくれた。うしれかった。

このブログを読んではいないだろうけど、ありがとね!

本書を読んで、すべての主義主張、すべての合理的な考え方、すべての哲学と宗教に失望し、否定したいと思っている人間集団こそが全体主義を産むのだというドラッカーの直観のすさまじさを背筋に感じた。そして、その全体主義という創発現象は極端から極端に走るとドラッカーが予想したとおり、ヒットラーはユダヤ人の虐殺に走った。当初は誰も強制されたわけではないのに、満員電車と同じで、いつのまにか人が集ってきて、「空気」が生まれ、全体主義が生成されたのだ。

感想を送ってくれた友人が書いてくれたように、この問題は、現代に至っても解決していないのだと私も思う。いや、「下流社会」などという言葉で経済的成功を夢見ることをあきらめ、冷笑的な態度とマスコミの表面的な情報で全ての権威に失望し、ブラックボックスな技術の理解を到底無理だとねを上げてしまい、ネット界隈の表面的な議論の激流についていけず、リアルでの行動に行き着かないでいる今の日本人こそが真剣に全体主義の恐怖を自らに問うべきなのだと思う。

別な若い友人が全体主義とアダルトチルドレンの比較をしておられたが、非常に共感する。


一九二三年十一月十一日、二〇〇五年十一月十一日 by finalventさん

447837211X「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1997-05

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4478372632明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命
P.F. ドラッカー Peter F. Drucker 上田 惇生
ダイヤモンド社 1999-03

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4532312329ドラッカー20世紀を生きて―私の履歴書
ピーター・F. ドラッカー Peter F. Drucker 牧野 洋
日本経済新聞社 2005-08

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「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか @ はてな

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2006年2月25日 (土)

この世でただ一つの one and only

たとえば「クレヨン王国の12ヶ月」。

たとえば「馬と少年」。

私にとっては「霧の向こうの不思議な街」。

食べちゃったお菓子。割れちゃったガラス。

みんなもとへはもどらない。

読むべき時期に読むべき本というのはある。

大人になるとは毎日の体験がすべて多くのうちのひとつ、one of many、になってしまうということだ。

老いるとは、今の私のように帰らない少年時代の幸せな読書体験をなつかしむようになることなのだろう。

さゃさん、ありがとうございます。


4061470434クレヨン王国の十二か月
福永 令三
講談社 1980-11

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4001163756馬と少年
C.S.ルイス ポーリン・ベインズ 瀬田 貞次
岩波書店 2005-09-10

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406273706X霧のむこうのふしぎな町 新装版
柏葉 幸子 竹川 功三郎
講談社 2003-03-15

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4091912524ポーの一族 (2)
萩尾 望都
小学館 1998-07

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2005年12月31日 (土)

[書評]セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 Advertisement, Sexuality and Semiotics

4334060072セクシィ・ギャルの大研究—女の読み方・読まれ方・読ませ方
上野 千鶴子
光文社 1982-10

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年の瀬というか、今年最後の記事が、扇情的な昭和50年代カッパブックス的なタイトルの本書だというのも、なにか来年を暗示するものがあるのだろうか。タイトルとは裏腹に、本書は商業広告におけるセクシュアリティーを記号論の観点から見事に論じた良書だ。出版されて30年近く経過した今にも通じる分析がちりばめられていると思う。また、セクシュアリティーの発現については、palさんの記事に大変刺激を受けていたところだったので、興味深かった。

本書の背景となるのは、デズモンド・モリスやコンラート・ローレンツあたりなのだろうが、これをもろに日本の広告写真の分野に応用しているのがすばらしい。視覚的な「記号」というのは、上野千鶴子も四半世紀前にはこうであったのかと実感した。ちなみに、本書は彼女の「処女喪失」作なのだそうだ。

4094600132マンウォッチング〈上〉
デズモンド モリス 藤田 統
小学館 1991-11

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広告の世界にこれだけ性的なシンボルがちりばめられていたとは知らなかった。本書のすぐれたイラストを転載できないのが残念なのだが、マスの広告において、直接的な性的な表現形態でなくとも、またほんのちょっとしたしぐさ、かるく傾けた姿勢などで記号的な意味と意義をもって使われていることを見事に分析している。広告だけではなく、商品のデザインや商業アニメーション、実写の映画など表現の世界でいくらでも応用可能な、陰喩的でもある性的な誘惑、拒否、逃避、あるいは、反発と見せた服従などの性のトリックがふんだんに掲載されている。これを読んでいると、男女の関係とは遙か過去から続く所詮ゲームのようなものなのだと実感する。

また、女性が同性を見る視点はすでに男性の視点を我が物としているのだという分析があった。この辺が記号の記号たる部分なのだろうか?欲望と直接結び付いていると仮定してしまいがちな男性が好んで見る女性的な特徴(そう例えば豊かな乳房など)というのは、性的な記号として実在しうるということであるのだろう。なんというか、上野千鶴子は本書によって「処女喪失」することにで、より自由になれたのではないだろうか。「私の中の彼へ」直接触れることができたのではないだろうか?ま、男性としての性を持つ私としては、女性が男性の視線、記号の体系から開放されてしまったときに、いかなる結果が待つのかは、そら恐ろしいものがある。

しかし、ここにおいて、初めて体験としてのフェミニズムの一端を初めて理解できるような気持ちになった。つまり、フェミニズムは理論体系としての固定的な学問なのではなく、手段あるいは獲物がなんであっても自分で自分を開放するための体験なのだ。ある女性にとってはそれは古典文学かもしれないし、別の女性にとっては商業広告かもしれない、あるいは、男性とのつっこんだ交際ですらそのきっかけとなりうるのかもしれない。うまく言えないのだが、この辺に捕食生物としての女性の性を感じるのは、私だけだろうか。

男性側からすると、左手で右側の髪を触ること、ポケットに手をつっこむ動作、ぬれたくちびる、これらがどのような性的な象徴を持っているかについてのあまりにあからさまな議論には当惑されるが、この時点の上野千鶴子にはとても必要なものであったのだろう。もしかすると、いまブログ界隈で議論されている女性と男性の関係について割りと深いところから示唆をあたえるのではないだろうか?多分、絶版になっているのだろうが、私も古本屋で見つけることができた。機会があれば一読されることをオススメする。

■参照リンク
異性を騙すヒト by pal さん ちなみに、この記事を書いている途中で妻が私の背中に立った。たまたま開いていたpalさんの記事の「尻」のイラストを見て、「こういうのっていかにもオコト好みの格好よね。palさんにだったら、いつでも私のを見せてもいいわと言っておいて。」と言って、紅白の観賞へもどっていった。orz
【気儘に】あふぉざんす(三) 萌 by it1127さん

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2005年12月21日 (水)

[書評]倒壊 - 大震災で住宅ローンはどうなったか various cases

4480420444倒壊―大震災で住宅ローンはどうなったか
島本 慈子
筑摩書房 2005-01

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思っていたよりも、建築というよりローンや、被災者のお話の分量が多かったので、ここで書く。本書は、阪神大震災の時に、今話題になっている構造偽造事件のマンションの建替え、補修といった問題と同様の困難に直面された方々の姿が描かれている。住宅ローンが残って、住宅が消失してしまうというやるせない心境に共感せざるを得ない。

本書の記述だけでは、よく分からないのだが、比較的マンションというのは、旧い戸建てなどに比べて損害や、死傷者の発生というのは少なかったようだ。「倒壊」とかいうと、9.11の時のように完全に高層の建物が崩れ落ちてしまうような印象があるが、梁や柱が座屈などして、使用を継続するのが危険という状態になるマンションが多かったようだ。「中破」以上のものも大分あったが、文字どうり「倒壊」して、人がなくなったマンションはごく少数だったらしい。この辺は、1Fに柱しかないピロティー構造になっていたか、全階を通じて壁がバランスよく配置してあったかといった建築の構造のバランスの考え方でも大分結果は違ったらしい。

それはともかく、筆者によればこの震災で実に1万5千世帯以上の方々がローンを抱えながら、住宅の滅失という状態にあったらしい。「滅失」に至らないまでも、ローンを抱えながらもかなりの修繕が必要な状態に陥った方々がもっともっと多くいたのではないだろうか?世帯により、大分レベル感は違ったのではないかと思うが、それでも何万もの人が住めないか、補修が必要な住宅のために重いローンをかけて、被災生活を送っていらしたという現実が本書において生々しく描かれている。

先日、it1127さんからヒントをいただき、現在の構造偽造マンションの建替えで、つくば方式(定期借地権/スケルトンインフィル分離方式)はどうかというアイデアを考えていたのだが、既に神戸で具体的な提案があったようだ。しかし、全体で100棟あまりの分譲マンションが建替えられた中で、2件と実例は少ない。ということは、定期借地法式は決して決定版という解決策ではなかったのだろう。今回の例でも、都市再生機構などに土地の権利を譲り渡し、定期借地の建物所有と純粋な賃貸借に権利を変えてしまうというのが、わりと大きな負担がなく建替える方法だと私は思っていたのだが、理想と実際はあくまで全く別なのであろう。

著者の記述から類推すると、どうもマンションの建替えはそのマンションの中できちんとコミュニティーができていたかどうかが重要だったと感じさせる部分がある。まして、定期借地権方式という土地の権利を公社などに売り渡してしまうという考え方は、なかなか難しいものがあるのかもしれない。土地を所有するという選択に多くの人はこだわっているのだ。

マンションを巡る実例としては、本書に描かれている建替えか、補修かをめぐっての区分所有法下におけるトラブルについてのインタビューも心が痛む。みんな異常な状況の中、誤解が誤解を産み、裁判沙汰になり建替えも補修もできないマンションの管理組合があったらしい。こうしたケースも、大変残念だが今後さまざまな場面で出てくる話だろう。

私は、阪神大震災の時に、公費はほとんど投入されなかったと記憶違いをしていたのだが、解体に対してはかなりの公費が投入されたようだ。今回の偽造によるマンションの解体費用の地方自治体等の負担というのも、まんざら先例がなかったわけではないらしい。ただ、補修よりも建替えに向けて政策誘導が行われたということに著者は疑惑を感じている。しかし、この辺にゼネコンや政府の強い意図を見出し実証するのは難しいだろう。

震災における悲劇というのは、これまで賃貸にいた方が被災者向けローンで家をたて、それまで持ち家だった方がローンを抱えて借家住まいになるというケースも結構あったらしい。今回もそのような形が出てくるのだろうか?

なによりも、胸をいためずにいられなかったのは、自己破産を選択した少数の方々の話だ。しかし、これも明確には書いていないが、自己破産を選択した人は無理にダブルローンを抱えてしまった方など、1万5千世帯に比べると本書が書かれた98年までで数十、改訂された04年までで数百という単位らしい。今回の事件では、そのような方ができるかぎり発生しないことを祈るばかりだ。

本書は、全体として女性的というか、取材対象の方々への共感が前面に出ていすぎたことが気になるのだが、今回の構造偽造で被害を受けられたマンション住人の方々にはぜひ読んで参考にしていただきたいと切に思った。

あ、そうそうやっぱりマンションというのは、新しいムラの形にならなければならないんだなと実感した。住人のお互いが信頼関係が築けるマンションであるかどうかが、マンションの価値に直結しているという事実が、実はある。

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2005年12月14日 (水)

[書評]ワイルドスワン Chinese Reality and Japanese Fantasy

4062637723ワイルド・スワン〈上〉
ユン チアン Jung Chang 土屋 京子
講談社 1998-02

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「ワイルドスワン」を「公」への信頼性の物語として読み解くことができそうな気もしている。また、家庭における普遍的なつながりを再考するきっかけとしても、読めそうだ。

本書で圧巻なのは、文化大革命に代表される政治の苛烈さだ。

本書を読んでいる間、悪夢の中をさまよっているようであった。私の頭の中は祖母、母、娘と連なる「ワイルドスワン達」の生き様と自分が少しだけ体験してきた現代の中国の姿とでいっぱいになっていた。なんというか、自分の生き方の反省を迫られるような迫力があった。文化大革命における著者の家族構成といまの私の家族の構成が近い。「お母さん」が38歳で「下放」されたときの様子を「50代以上に見えた」と書かれていたのに胸が痛んだ。

それでも、これだけの激動をこの家族が生き抜いてきたのは、意思の力と家庭の教育力の力なのだと思う。著者の父の王愚(愚に徹する)という名前の通り、父親は子どもに真実の信念を見せたのだと思う。また、この父親は、書籍の読み解きを通して、古典を含む生きた学問の形を子どもに見事に伝えた。私は私の家族にこれだけ誠実でいられるであろうか?

それにしてもここで語られるのは、生きた歴史なのだ。フィクションでない歴史をまなぶことは、今を理解することになる。ここで述べられた真実は、現在の日本にもそのままあてはまるのかもしれない。中国の歴史に何度か見られた政治への民衆の参加という問題は、日本においても切実な問題であろう。このまま政治への無関心が続けばかならず民主主義の変質をきたすことにつながるのではないか?日本における民主主義と権威主義政治、そして無関心の果ての形式的法治主義が深刻に問われる日は近いのではないかと感じた。

歴史を通して民族性は変わらないのかもしれないと数冊の中国関連の本を読んで感じていたのだが、現在表面に見えてきている中国人の特性のいくつかが顕著になったというのものはかなり文化大革命の影響であったと知った。いや、本書によれば民主主義と大改革を志向した中国において、毛沢東が皇帝への先祖帰りを起こしたというべきなのだろうか?「ナウシカ」の皇弟を思い出す。

本当の中国を知っていますか? by 山本秀也さん

考えてみれば、映画の「ラストエンペラー」における満州帝国崩壊後の展開というのは、いや、満州帝国の成立と崩壊自体、本書と重なるのだ。私は、ラストエンペラーの最後ので紅衛兵が旗をふりかざしながら踊る場面が異様な感じがした。また、文化大革命で「この人は人生の教師だ」と訴えるシーンも印象的だった。それらのシーンがなぜ異様であったのかが、本書においていくつか解決したように思う。あの時代は、中国人にとってすら本当に異様な時代であったのだ。そして、その異様さは現代の中国に直結していることを、足を踏み入れた人々は必ず感じるであろう。

B0001CSB80ラストエンペラー
ジョン・ローン ベルナルド・ベルトルッチ ジョアン・チェン
松竹 2004-11-25

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ここのところ、中国びたりであったが、どうも中国人の話を読んだり、聞いたりしていると自分がはだかになったような気がする。なんというか、欲望も、性愛も、自己を強く主張する生き方も、あまりにあからさまなのだ。逆にいうと日本人というのは、ある種のファンタジーというか仮定の中でのみ生息できるのということなのかもしれない。いわく、「人のためにしたことは自分に返ってくる。いや、無私であるべきなので、返ってくることすら期待してはいけない。」。いわく、「一筋の道を追求しつづければ、必ず達人の道に達する。」。いわく、「純粋無垢であることは価値のあることである」。

これらは、仏教や禅がまだ日本の中でこだましているから、みながそう仮定を置けるのかもしれない。そして、それがいまの日本の生産性の高さの原動力のひとつであるような気がする。これらの「仮定」も今後民主化、形式的法治主義がすすめば、すすむほど消えていってしまうのだろうか?私たちはまだ「公」への信頼を持ち続けていられるのであろうか?

あまりに個人的なことだが、著者の家族の仏教への信仰の深さが私にとっては救いだ。

■追記

406206846Xマオ―誰も知らなかった毛沢東 上
ユン チアン J・ハリデイ 土屋 京子
講談社 2005-11-18

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そういえば、これも読まなきゃ。

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2005年12月 8日 (木)

[書評] 「俺様国家」読了後雑感 China risk and Japan

4166604694”俺様国家”中国の大経済
切込隊長・山本一郎
文藝春秋 2005-10-20

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面白かった。本書のあとがきだけでも、これから10年以上は娑婆で生きていこうと想っている日本人なら、十分に読む価値がある。

私にも、昔から、米国と日本と中国のトライアングルで考えるべきなんだろうな、という感覚があった。本書を読んであらためて、日本の命運が他国に握られているのかという現実を直視させられた。今の目の前の幸福を考えれば、目を背けたくなる現実なのだが、それを見ないといまの日常を維持することはできない。著者のいうように「維持するために改革せよ」という精神がどうしても必要なのだ。

私たちの生活を不安定化させているのは、巨大な経済であるという根本的な認識を著者は私たちに見せてくれる。いつぞや著者との個人的な会話でも話題になったように、「期待」によってお金が集合と離散を繰りえして見た目の景気をつくっているのだ。お金が集まるところは、一見派手だし見た目もよい。しかし、それは表層でしかない。高安先生の「経済物理学」のシミュレーション技法があきらかにしたように、3人以上のプレーヤーが集まればかならずカオス状態を引き起こす。かつ、プレーヤーが多ければ多いほど市場は不安定さ(volatility)を増すのだ。

エコノフィジックス @ はてなキーワード

この前提において、現代のような発行主体の国の岸を離れた「ワールドダラー」が世界を駆け巡る時代にあっては、かぎりなくこれはゆらぎ経済というか、カスケード危機をはらんだ経済なのだと思い知る。情報とお金とは、電気と磁気が電波を形成するように、世界を伝わっていくのだと想った。完全市場は、需要と供給の曲線の交わる静的な価格の調和を生むのではなく、ゆらぎをそもそも内包しているカスケード危機経済なのだと思い知るべきだ。これは多分、お金で計られる経済的な価値だけでなく、情報の流通、人の行き来などの局面でも次第次第にその真の姿を現してくるのだろう。

情報が行き渡れば、行き渡るほど、べき乗則的、1/f波的なボラティリティーが増えるのだ。そして、それに覇権を握るという国家意思が加わったときにはるかに複雑な問題を形成するのだろう。政治は政治的な人間にしか理解できないものだ。

こうした認識に立って本書を読むとき、改めて痛感せざるを得ないのは、国家とはなにかという根本問題だ。私にとって、国とは究極のところ民族のことだと感じる。民族とはなんとか表面的には言葉が通じて、常識、慣習といったごく通常の生活に根ざした部分で分かり合える人間の集団なのだ。民族=国家とは、お互いに地理的、歴史的、民族的に分かり合える連中で固まろうじゃないか、お互い親戚みたいなもんだから、利害だって根本のところでは一致するだろう、はなしゃわかるじゃねえぇ、といったごく肌居合いがあうかあわないかという程度のものだったはずだ。逆を言えば、きっと民族国家の外には、分かり合える連中というのはかなり少ない。いや、民族国家のボーダーを超えた先には分かり合えない連中しかいないといっても過言ではないだろう。

だからこそ国家間はパワーゲームになるのだ。

私は、グローバルもインターナショナルも信じられないという気持ちがしている。多分せいぜい二者間で第三国の言葉で話すくらいが、インターナショナルという言葉で想起できイメージである、宇宙に浮かぶ青い地球というぐらいがグローバルという感じでしかない。

いや、いつのまにか、本書の内容から随分遠くへ来てしまった。どうも、最近思考が脱線しがちだ。本来、勝手に日本のバブル崩壊時点における不良債権を超える不良債権を持った中国という国が抱えているカントリーリスクと日本がいかにバインドされてしまっているかという著者の危機意識をメインに語るべきであった。

反省!

■参照リンク
資本主義の中のポスト全共闘世代 by 切込隊長さん
経済物理学と経済学(一つの例) by kinoさん すみません。需要供給曲線が成り立っていないと断言した私は浅はかでした。

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2005年11月26日 (土)

[書評]チベットのモーツァルト echo of buddhism

4061595911チベットのモーツァルト
中沢 新一
講談社 2003-04

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「悪人正機」の中で、吉本隆明がやたらほめていたので、突然読み返したくなり本書を読んだ。自分にとってはなつかしい一冊であるはずなのに、本書の内容がやたらと新鮮に感じられた。本書から興味がひろがり何冊かの本を読んだのを覚えている。例えば、本書の冒頭で語られるカルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズを数冊読んだように想う。

4576000292呪術師と私―ドン・ファンの教え
カルロス・カスタネダ 真崎 義博
二見書房 1974-01

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本書の影響で、チベットに真剣に密教の修行に行きたいと17才の私は想っていた。その第一歩として、密教の寺のお坊さんをつかまえてサンスクリット語を教えてくれと頼み込んだり、断食道場に1週間ほど篭ったことを記憶している。ようは当時かぶれていたのだ。

39才の今の私が著者のカスタネダ論を読んで、薬を使わなくとも、異国へ行かなくとも、まだ仏教が生きているこの日本で、十分に仏道の修行はできると想った。著者が認めているように、本書の中に仏教の教え、仏教のヴィジョンがこだましているのを感じる。仏教の生の力が本書にはある。これは別にチベット仏教でなくとも、極彩色な部分を引いていけば、日本の仏教に十分に通じるものであろう。吉本隆明が指摘するようにクリステヴァだの、記号論だのといった部分は、捨ててしまって読むのがよいのだと想う。

私の浅薄な理解が及ぶ限り日本の密教、禅宗、浄土宗などだけでなく、本書の内容には最近のネットワーク理論と通じるものがあるように感じる。

たとえば、受胎からはじまるチベット仏教的な生理学、発生学の記述が素敵だ。本書で語れるような受胎した「卵」が人になるという状態に働く「生成の力」といった内容は、「べき乗則」にはまっている私からすると、非線形な科学の領域の言葉で記述することができるように想う。ここで記述されている「滴」とか「風」という言葉は、分裂した細胞の塊りであった受精卵から、頭から背骨、尾と続く脊椎が形成されるときの「対象性のやぶれ」の力を差しているような感じがした。

分子発生学はネットワークの夢を見るか?

あるいは、本書のあちこちで「打つ音」という記述がある。「打つ音」とは、ネットワークの言葉で言い換えれば、ノードとノードがぶつかり合い、エッジが生じる時の音をいうのではないだろうか?一般にネットワークというと、円や球で表された「ノード」が線で表される「リンク」でつながれているイメージをしがちだが、本来数学、物理学でリンクを表す「エッジ」という言葉が示すように、ものともの、ノードとノードがとが触れあうことによってネットワークは形成されていくのだ。この意味で、多少本書の言葉を借りて書けば、いま書いている「ブログ」というのはそのままでフラクタルであり、都市の隠喩であり、生成する力を含んでいる。ネットワークこそが力であり、バラバシモデルが示したように成長するネットワークには生命や非線形物理の特質を本質から含んでいる。すでに、世界の理として、点と点を結ぶ線といったごく基本的な世界の構成要素、あるいはグラフ理論のような幾何学的な数学のレベルから生成する力が含まれているのではないだろうか?

しかし、本書のあちこちに仏道の修行に対して客観的になりすぎていて、人類学者の目でしか仏道を捉えていないのがものすごくもったいないと感じる。著者のチベット仏教における修行はかなり進んだと想われるのに、著者の仏教の教えと師に対する感謝と敬意が感じられない。著者が学者であるから、その立場から本書を起こしているので、仕方ないといえば仕方ないのだが、非常に微妙であるところだ。

ま、本書で仏教との関連で精神分析の用語が語られるのも気に入らないのだが、「鏡像関係」とか、「言葉の底に潜む暴力」とかいう言葉を読んでいるうちに感じたのは、「攻殻機動隊」を作った押井守は本書を読んでいるのではないかという気がしてきた。

[書評] 攻殻機動隊 (HPO)

たまたま、本書を読んでいる最中に「攻殻機動隊」を見たせいか、以下の等式があたまに浮かんで離れない。

映画版攻殻機動隊 - 漫画版攻殻機動隊 =
      チベットのモーツァルト - 現代思想用語

たとえば、本書の以下のような記述に攻殻機動隊の冒頭のシーンを思い浮かべてはいけないのだろうか?

「お前に必要なのはリラックスして、夢の中で落下していくのを楽しめるようになるってことだ。落下こそ神霊の世界に触れるためのいちばんの近道だし、夢のなかでこそ力の領域が開かれてくる。」【夢見の技法】

あるいは、草薙素子が潜水してゆっくりと浮かび上がってくる時に、もう一人の自分とキスをするようにすら見えるシーンに、自我を形成するという鏡像関係を見てしまってはいけないのだろうか?

念仏者は阿弥陀仏との鏡像関係内で宙吊りになっている。ちょうどあてにならない恋人の心にむかって愛の告白を続ける主体が、不確かな他者との鏡像関係内で宙吊りになっているように。【極楽論】

また、攻殻機動隊の中のキーワードには、創発やネットワーク理論を思わせる言葉が多いことに初めて気づいた。「上部構造への移行」、「多様性」、「死」、「ゆらぎ」、「融合」。

特に草薙素子の最後の台詞は象徴的だ。

もうここには少佐と呼ばれた女も、人形使いと呼ばれたプログラムもいない

創発現象が起こってあらたな構造体が形成されれば、その構造体を形成するノードとはレイヤーが違ってしまう。

おっと、「チベットのモーツァルト」という主題から離れたところへ来てしまった。

■追記 平成17年12月16日

B0000076D8攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL
サントラ 川井憲次
BMGファンハウス 1995-11-22

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攻殻機動隊のサウンドトラックを聞いていたら、あの「ぬえ娘」達よりも太鼓の音が基調なのだと気づいた。しかも、オープニングの打撃音は単発というかひとつ、ひとつが孤立しているのに、「人形遣い」との「融合」に近づくにつれ、軽やかで、つながりをもった太鼓の音楽になっていくような気がする。もう最後は、宗教音楽にも近いところまで行っている。太鼓の音はエッジの生成の時の音なのだ。

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2005年11月13日 (日)

[書評]悪人正機 (吉本隆明) let's get physical!

4101289220 悪人正機
吉本 隆明 糸井 重里
新潮社 2004-11

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多分、大きな円を描いて人の生き方というのは変わっていくのだ。

著者の吉本隆明さんと言う人は、本当に人生の達人なのかもしれない。本気で取り組まれた著作を読んだわけでもないのだが、本書でおもしろおかしく語られている生き方は、私がリアルで人生の達人であると尊敬申し上げている方のおっしゃること非常に近い。もっと言ってしまえば、仏教関係の著作で「悪人正機」という言葉が出てくる「歎異抄」というよりも、私にとっては道元の「正法眼蔵」と響き合うような気さえした。

著者は、本当に正直に身体をベースに思考しているのだなと随所で感じた。著者は、かるがると「知識なんてものは、枝葉にすぎない。身体の問題こそが幹だ。」なんて言ってのける。既に古代オリンピックで基本的な陸上競技が網羅されていたように、人が人になってから今日まで身体の使い方は大して変わっていない。シンクロナイズドスイミングなんて無理に身体を使っているから我慢比べみたいに見えると、著者は言う。新しい問題は常に出てくるわけで、それはその都度その都度で解決していくしかない。それは、あたりまえ。言ってしまえば、知識はシンクロナイズドスイミングみたいなもので、あくまで身体が基本であって、知識は枝にすぎないのだ。

今のブログ界隈に生息する人々にもぜひ読んで欲しいと想うような章もあった。

そうそう、モテるか、モテないかについても、男女間の距離の問題であって、絶対的にモテる、モテないということではないと喝破している。私は全く不勉強なのだが、現在Web2.0という話題がブログ界隈ではホットのようだが、著者はネット社会についても、技術系が人間があまりに簡単にネットによって進化するであろうということに疑問を呈していたりする。人が変わる変わらないというのは、身体の問題であって、精神や知識の問題ではないというのだ。私はこの意見に深く共鳴する。

逆に身体の問題であるからこそ、歴史的な事象に対して身体の内からアプローチすることが可能であると著者はいう。例えば、源氏物語の当時の人々は風景に「声」を感じていたのではないかという、現代から見た源氏物語でなく当時の人の目線に立った源氏物語を感じるべきであるという話があった。一見荒唐無稽のようだが、寂寞とした風景を源氏の君が見たときに感じたかもしれない「声」を私もすこしだけ感じる部分がある。あることが終わるのを待つ時間、あまりに長かったので読了した本書と妻の読んでいた雑誌を交換したのだが、この章を読んで妻は私より実感を込めて、「そうだね」と言っていた。

身体に正直になるといろいろなことが見えてくるのだろう。自分にできることの更に上を目指すのではなく、その少し下をなすべきなのだという意見にも感心した。今の社会の中で、どうしても上昇指向から逃れる術がない。背伸びしてでも、少しでも高く、少しでも多く見せようとするのが、今の時代の標準的な志向性だ。この姿勢には、進化経済学というか、「ピーターの法則」の一番核心の部分を感じるのは、私だけだろうか?

[書評]ピーターの法則 (HPO)

著者に凄みすら感じたのは、経営やお金の感覚について語るときに実に経営者以上の感覚を捕らえているように感じらることろだ。「会社は平べったくなければならない」とか、「金持ちになるのは、借金して返せなくなるなんてことを気にしない人たちだ」とか、私も経営者のはしくれとして、多分そうなんだろうと感じる言葉が並んでいた。

昨年入院していらっしゃったのだそうだが、退院後に付け加わった一章がすばらしい。「意識的であるうちは、だめだ」という言葉には、身体ということを永年テーマにしてきた著者の至言だと私は感じる。

あ、それにしても失礼なことを書いてしまえば前回「相対幻論」で献上した糸井重里さんへの「一種の天才」という言葉は撤回させていただく。著者の生の言葉の持つ迫力の前では、失礼だが各章の最初に載っている糸井さんの言葉がうざく感じられて仕方がなかった。

[書評]相対幻論 context on the network world

しかし、一番の驚愕は、最後の最後に来て著者が中沢新一さんを称揚していることだ。しかも、まがりなりにも思想的なことに興味を持ち始めたきっかけであり、私が最初に触れたチベット仏教の書であり、サンスクリット語を習う気にさえしてくれた中沢新一さんの「チベットのモーツァルト」に著者は言葉を寄せていたというのだ。

4796701362チベットのモーツァルト
中沢 新一
せりか書房 2000

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嗚呼、私にとってのこの円環を感じさせてくれたすべての方々に感謝したい。

■参照リンク
[書評]心とは何か(吉本隆明) by finalventさん

はずかしげもなくトラックバックしてしまおう。この数日のfinalventさんの記事すべてにトラックバックしたいくらいなのだが、それはあまりに身の程知らずであろう。いくら私でも「羞恥心」は「しゅうちしん」と読むのだと言うこと位は覚えた。

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2005年11月 6日 (日)

[書評]相対幻論 context on the network world

4041501059相対幻論
吉本 隆明 栗本 慎一郎
角川書店 1985-06

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前々からひどいものだと想っていたが、私の記憶の危うさにあきれた。今の自分の形成に影響を与えた本書をまるきり間違えて記憶していたのだ。一体、私の記憶がこれだけ不確かならば、私が記憶している私という人格は一体どんな幻想に基づくものなのだろうか。あきれはてる。

しばらく前に「日記」にこう書いた。

あれは、浅田彰、吉本隆明、山口昌男の鼎談ではなかっただろうか?アマゾンでどうしても見つからない。無印良品の包み紙のような茶色い表紙だったと思う。自分がニューアカにはまるひとつのきっかけであった。また、やたら注が多い本の原型であったやに思う。

で、さっそくはてなで質問させていただいたらあっというまに答えをいただいた。本当にネット界隈というのは便利だ。

http://www.hatena.ne.jp/1130805454

そもそも、本書はニューアカデミズムの本などではないし、鼎談でもない。浅田彰と山口昌男の話は出てきても、対談に参加しているわけでもない。注釈も記憶しているほど多くはない。今回再読するまで、吉本隆明はばりばりのマルクス主義者だと私が信じていたことに至っては恥ずかしさのあまり声も出ない。散々探して見つからなかったのにはてなで教えてもらってから再度検索したら、ちゃんとアマゾンに登録されていて古本屋さんから数日で私の手元に届いた。お蔭様で、なつかしい表紙に再会できた。

やっぱり、糸井重里さんというのはやはり一種の天才なんだろうな。四半世紀近くも前に「世界がどーにかなりはじめて」しまっていると喝破されていたわけだ。いまブログ界隈で、あるいはブログ界隈の外で、ブログがおわってしまいそうだとか、会社がどうにかなってしまいそうだとか、国が終わってしまいそうだとか、議論されていることを当時すでに一言で表現されていたわけだ。四半世紀前というのは、いわゆるバブル景気がはじまるきっかけのプラザ合意の前だし、バブル崩壊後の「失われた10年」など予想もされていない時代であった。当時はまだ、「オジサンたちも怒ってい」たのだし、思想をファッションとして「カッコつけたい方々」もいっぱいいたのだ。なにか背骨がなくなってしまったような現代とは、違うものがそこにあったのかもしれないと想う。

私がブログで語りたい、学びたいと想っていたことのほとんどは、すでに本書で言い尽くされていたのだと再発見した。

今考えてみれば、この時代に話題になっていた「文法」とか、「コンテクスト」といった「思想」は、複雑ネットワークの考え方か読み直してみることが可能だ。「分節化」というのはノードの生成であろうし、「コンテクスト」とは、ネットワークの言語的表現であるといえはしまいか?どこかから拳骨がとんで来そうだが、ドゥルーズ=ガタリのリゾームなんて複雑ネットワークそのものではないか?べき乗則のはしりともいえるzipfの法則が、文中の単語の出現頻度から発見されたということもある意味納得できる気がする。

本書の中で、吉本隆明と栗源慎一郎が「必然力」、「自然力」という言葉を使っていたが、社会、貨幣、コンテクストを横断的に考えたときにあらわれてくる力という意味だと想う。妄想の上に妄想を重ねてしまうが、これは複雑ネットワークの中に内在するカスケードや、べき乗則などの法則性との関連で理解できないだろうか。

本書の前半の対談は、マルクスの労働と貨幣の理論から、文化人類学で扱われるような貨幣の原初形態、あるいはヨーロッパにおけるハイパーインフレの話など、貨幣の生成と消滅がテーマであったと想う。これらの議論は、そのまま安冨先生の貨幣論に具体的にシミュレーションされている現象だと私には思えた。現代日本では貨幣があまりに安定しているため忘れがちな事実だが、実際の貨幣も生成と消滅を繰り返しているのだ。

[書評]貨幣の複雑性 ecology of blogs (HPO)

安冨さんの貨幣の生成と消滅を示すシミュレーションは、吉本が理解したマルクスの貨幣論と栗本の考えを具現化するものと位置づけられるのかもしれない。栗本が外部、内部の交換から市場の形成までを語っているが、安冨さんが示したのは、「人は人がほしがるものをほしがる」という仮定と「交換には商人か貨幣かあるいは両方が必要」という仮定で情報と商品が交換され、市場が形成される、という事実だ。

もっと言ってしまえば、安冨先生の業績は、ポラニー兄弟それぞれの研究をつなぐものであるかもしれない。経済人類学で貨幣を論じたカール・ポランニーと、ネットワーク、科学理論に潜む創発の力を論じたマイケル・ポランニーが兄弟だという事実がすさまじい。ま、この辺はあらためてポランニーを勉強してから書きたい。

カール・ポランニー by 山形浩生さん
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』 @ 千夜千冊

それにしても私にとっての現代思想の入り口とも言える20年以上前に出版された本書の問題意識から、未だに出られていないということがいささかショッキングだ。私はよほど不器用にできているのだろう。ま、不思議なのはあれ以上吉本への興味が深まらなかったことか。栗本も、RCサクセションも、橋本治も、ポラニーも、山口昌男も、挫折はしても読もうとする努力くらいはしたのに。

本書を再読して、正直一番感動したのは、栗本慎一郎さんのあとがきのこのくだりだ。

学者にせよ思想家にせよ、彼は徹底的に私的になることによってはじめて時代の公傷をにないうる。私的であることを拒否し感性を解放せざる者は、傲慢な教養主義の枠内にとどまることしか出来ない。

私がブログを書き始めて感じているのは、私にとって必要なのは「教養主義」などではなく、自分が生きるために、よりよく生きていくための知の在り方だったということだ。

うまくいえないのだが、それもまたやはり肌の感覚のような気がする。ただ、体温だけがいとおしい。

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2005年10月27日 (木)

[書評]アルファブロガー alpha bloggers landscape

4798110205 アルファブロガー 11人の人気ブロガーが語る成功するウェブログの秘訣とインターネットのこれから
FPN(フューチャー プランニング ネットワーク)
翔泳社  2005-10-21

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いま話題の「アルファブロガー」を読ませていただいた。

なんというか、11人の方のインタビューを読ませていただくことにより見えてくるブログ界隈共通の地平線というものがあるように感じた。たとえばそれは「ブログは、メディアリテラシーを高めるツールとして存在する」という側面だ。現代の複雑な社会において、既存メディアがなんらかの形で情報を偏光させていることに人々が気づき始め、漠然とした不信感が明確になってきているのではないだろうか?「大本営発表」から抜け出し、メディアからの情報を読み解き、自分に必要な情報を得るための「メディアリテラシー」の必要性が高まってきている状況が、ブログの価値を高めている。本書の中で、アルファブロガー達の何人かが「ゲート」という言葉を口にしているのはこの意味で正しい。

もうひとつは、ネットによって情報が安価になりあふれ出したことにより、大量の情報の渦の中で必要な情報が得ることが逆に困難になったという悩みがあるのかもしれない。アルファブロガーというのは、こうした情報の渦の中で自分と似た価値の軸を持ち、自分と似た情報の収集と分析を行ってくれるであろうという期待と信頼を得た人たちなのだと言えるのかもしれない。例えば、isologueの磯崎哲也さんのインタビューにものすごく共感を覚えた。多分、それほど違わない年代で、レベルは全く違うが商売をしながらネットとブログに係っているという共通点からなのかもしれない。私が、自分の仕事やブログについてかっこよく語る力があれば、磯崎さんのように語りたいと切に想った。もう攻殻機動隊にまで言及していらっしゃるし、「投げ銭100ポイント!」とかしてしまいそうだった。

本書を読んで、改めて私のような田舎者がアルファブロガーの方たちの何人かの方と直接お会できたり、相互認証というか、リンク、トラックバック、コメントを交換できたりしたというのも、今の時代のネットワークの進化の結果なのだと想った。ブログを読ませていただいていたり、お会いしたりしたことで、今回のインタビューも単に文字面だけでなくなんというか立体的に感じる部分が多くあった。ありがたいことだ。

例えば、アルファブロガー座談会で橋本大也さんに「身体改造系」という言葉を使って失笑をかってしまったのだが、「Passion for the Future」を初めとしてアルファブロガーの記事の傾向に、「自己の価値を高める手段としてのブログ」があると想う。昨年の無敵会議でハンサムなお顔を拝見した田口さんがご紹介されている、「すごい会議」、「getting things done」あるいは、ライフハックという考え方は私に非常にアピールした。ブログを頻繁に読んでいる世代はまだ成長途中で、自分をどんどん育てていくことに興味がある人たちなのだろう。

余談だ、最近、私のまわりで何人かの方が「学び続けることの大事さ」を口にされていた。なんといか、ブログ界隈でニュースや社会批評的な知識を加速度的に学んでいくのだけでなく、学習する方法すら進化させていくのだとすれば、本当にブログ界隈の人達とネットにアクセスしらしない人達とでは、人種が違うほど差が開いてしまうのではないだろうか?

これも「座談会」での会話だったと想うのだが、伊藤直也さんがおっしゃっていた「右脳プログラマー」という言葉が好きだ。アルファブロガーというのは、単に勉強家というだけでなく、ひらめきがある方たちなのだと想う。どうもこれまでブログを読ませていただいたり、直接にお話を伺ったり、インタビューを読ませていただいて感じるのは、「think like walking」というか、考えて考えて考え、論理に論理を積み重ねてブログの記事の核心的アイデアを得るというよりも、直感的に得ていらっしゃるように感じる。伊藤直也さんは確かシャワーをあびながら、アイデアが浮かぶとおっしゃっていたし、橋本大也さんはお散歩中に浮かぶとおっしゃっていた。私には神技的にすら見えるfinalventさんの記事は書き始めた瞬間に浮かぶのではないかと私は思っている(*1)。これは、また大量の情報の渦の中で生きていかなければならない現代の若い世代のこれからの生き方として示唆を与えてくれることなのではないだろうか?

最後になるが、本書の中のfinalventさんの言葉が直撃で胸につきささった。

この人は信頼できるなと思っていたブログが、選挙について沈黙することがあり、なーんだどんなに優れた人でも中立を装う旧メディアの真似事をしているだけなのか、という強い失望感が起こりました。

finalventさんが対象としてるのが誰なのかといことではなく、私には深く恥ずべき行為を行ったことが思い出された。実は先日の衆議院議員選挙でそれなりにブログで書くべきネタを得ていた。しかし、自分の身かわいさに一切口をつぐんだ。また大して効果はないと分かっていたのに、逆に自分の利害のからんだ情報を匿名で流した。自分のなさけなさにうんざりする。

なんというか、所詮同じ穴の狢にすぎない私が、メディアリテラシーの必要性を訴えるとか、大本営発表だと「旧メディア」を批判することは大笑いなのだ。

■注

*1 もし、また間違った推察をしていたらお許しください。私の勝手な思い込みかもしれません

■参照リンク
ブログの終わりじゃなくて、アルファブロガーの終わりでしょ(笑) by catfrogさん

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2005年9月20日 (火)

[書評]ピーターの法則 peter revolution

4478760853ピーターの法則
ローレンス・J・ピーター レイモンド・ハル 渡辺 伸也
ダイヤモンド社 2003-12-12

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先日の記事で、「パーキンソンの法則」と本書を取り違えるという失態を犯してしまったので、少々慌てて読んだ。

意外なことに並行して読んだスチュワート・カウフマンの「自己組織化と進化の論理」と本書がいくつかの視点を共有していることに気づいた。結論から先に言ってしまえば、本書で言う「無能(incompetence)」とはカウフマンの言う適応度地形におけ局所的適応という丘に登りきってしまった状態なのだと言えるのではないだろうか。

適応度地形(フィットネス・ランドスケープ)で捉える「適応」(Adaptation) by 井庭崇さん

私が理解できている範囲で、適応度地形を説明すれば、n個(対)の遺伝形質の組合せで、それぞれどちらをえぶかという状態を1か0であらわせば[10010011111]といった数列で表現できる。この状態毎に個体の環境における適応度が決められるとすれば、n次元の空間の平面で適応度を地形としてとらえることができる。そう、例えば鳥のように「翼がある」という属性と「骨が軽い」といった属性はかなり適応度が高い位置の組み合わせだろう。「赤い体毛」と「短いくちばし」では、あまり適度度に関係しないのかもしれない。「身体が大きい」と「足が長い」という組み合わせでは、逆に適応度が低いように想われる。

進化の過程において、局所的な適応の山に登ってしまった場合、一旦その適応度の「山」を降りなければより高い適応度に移行できないという難しい状態に陥る。「山」を降りるには、交配可能な遺伝プールの中でできるだけ自分と違った個体と遺伝子情報を交換し、次代には大きな「ジャンプ」を行うか、中間説ではないが突然変異を蓄積して丘をだらだらと降りていくしかない。部分的な適応度をさげるということは、どれだけ多くの個体の死に至ることを意味しても、大いなる進化の坂をより高くまで上っていくためにはしかたがない。

この辺の考え方を社会において十分に安定した「環境」である会社組織、官僚組織などに「挿入」すると、数々の「ピーターの法則」が導けるように感じる。ピーターいわく、「昇進は必ず無能に至る地位まで続く」という局所的適応の例、「強制上座送りという問題先送り」という遺伝的ジャンプ、「無能が無能を創るという自己再生産」という局所的適応からの脱出の困難さ、などなど。読んでいる間は抱腹絶倒なのだが、読後にかなり真剣に悩んでしまう言葉が多くあった。多分、いまの日本の状況は、本書の書かれた30年くらい前の西欧の状況と同じか、それより国民が素直でお上を信じている分、深刻なのだと気づきはっとする。そして、いま日本が直面している問題は決して日本独自の問題なのではなく、構造的に社会が成熟化、安定化すればするほど必然的に生じる問題なのだと気づく。

いや、それはまた別に論ずべき問題だ。

ここで注目したいのは、こうした観察から著者が「創造的無能」という生き方を提唱していることだ。それは、先の適度度地形で言えば丘の途中で踏みとどまれということだと想う。それははからずも、著者自身が「不思議の国のアリス」の「赤の女王」を引き合いに出して述べている状態だ。

「いいこと、ここにきたら、とにかく全速力で走り続けないと、今いる場所に残れないのよ!分かった?」

もしかすると、カウフマン達は既に本書を読んだからこそネーミングしたのかもしれないが、生物学でもライバル状態のまま共進化せざるを得なくなる状態を「赤の女王効果」と呼ばれているのだそうだ。

著者は、「創造的無能」という言葉で我々に問いかけてくるのは、果てして我々がいま社会的な進化として信じていることが本当に「局所的適応」でないのか、真摯に自らに問うことであると想う。

■参照リンク
組織の自己崩壊に関する研究 by kazamaさん

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2005年9月 6日 (火)

経営に役に立つ本? books for management

たまたま機会があって、自分の蔵書を整理してみた。今回初めて分野別に分けてみたのだが、思ったよりも自分は経営関係の本を多く読んで来たのに気がついた。私の身長ほどの本棚一本が埋まって、まだ床にはみ出している。本棚ひとつ分ビジネス書を読んでもいまの自分程度なのだから、いかにこの手の本が実践の役に立たないかを実感した。これ以外に、ビジネススクール時代の書籍がダンボール10箱くらいはどこかにしまってあるはずなのだが、まったくとは言わないが、ほとんど今の自分に役にたっていないことに気づく。

では、自分の今の行き方、今の商売に影響を与えてくれた本とはどんな本なのか?少し前につくったメモを参考にしながら挙げてみた。


479531912Xパーキンソンの法則
C.N.パーキンソン 森永 晴彦
至誠堂 1996-11

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確か本書の主な研究内容の発端は、著者の英国の海軍省の研究だったと聞いた。組織は常に肥大していく、という衝撃的な内容を含む本だと記憶している。原子炉の購入の会議でも、問題になるのは原子炉の本質的な経済的、環境的な効果なのではなく、数ペンスのねじの値段ばかりで、わかっているやつは発言しないとか、人の集まる組織についてするどい考察を加えていた。自分がいつか経営に携わることが全くイメージできないまま、「ああ、やっぱり人が集まると大変なんだなぁ」、と想っていたあの頃読んだ本だ。

4896190068月刊 選択
created by 飯塚昭男
選択出版株式会社 1975-

これはいまも続く雑誌なのだが、私を大きく変えた記事が多々あった。たとえば、学生のころ、「ニューアカ」のブームの到来についての記事を読み、浅田彰と中沢新一を知った。そして、いまの商売ではある意味必要条件だといわれている学部に進むのをやめて、全く関係のない学部に進学した。あるいは、本書の記事をベースに中国人と鄧小平が死んだとき中国がどうなるかを議論した。香港のビルの多くが返還以前から、軍の所有になっているという受け売りを披露したとき、えらく彼に関心されたのを覚えている。石油戦略についても007ではないが、かなり早くからカスピ海周辺のパイプラインの重要さを訴えていたように記憶する。すごい雑誌だと想った。これからもそう想い続けていたいと希望する。

4101152403峠 (上巻)
司馬 遼太郎
新潮社 2003-10

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今の商売に進む決断を与えてくれた私にとって大事な本だ。独自の普遍的な世界観を開きながらも、自分の運命を自覚し、故郷の防衛に準じた河合継之助の姿に本当に感動した。感動のあまり、生地から終焉の地までをめぐり歩いた。人の生き方の美しさをつくづく感じた。私の妻によれば、男の価値はその死に様で決まるのだそうだ。河合継之助のの生き方を想うと、めいっぱい生きれば、めいっぱい死ねるのだろうと改めて感じる。

まだ純粋さが至上の価値を持っていた学生時代だった。

4896190068王陽明研究
安岡 正篤
明徳出版社 1960-03

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河合継之助に興味があることをご報告したら、越川春樹先生から本書を薦められた。安岡先生は、20歳になるかならないかで本書を書いたという。王陽明が地方に飛ばされ、命の危機にさらされながら坐禅をするシーンに私は感動した。なんというか、中国の古典と仏教が並存して身近にある環境に私は育ったのだと想うのだが、その2つに架け橋というべき存在があることを本書を読むまで知らなかった。やっぱり、経営者になろうと想ったら腹なんだよね、と感じた青春の日々の貴重な読書体験だった。

4766780272世界最強の教育機関 ハーバード・ビジネススクールは何をどう教えているか―スーパーエリートはこう育てられる
佐藤 正忠
経済界 1987-03

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ま、私はハーバードに行ったわけではないのだが、読書体験を語る上で一応ビジネススクールについてコメントしないといけない。ビジネススクールに2年行くのも本書を読むのも10年もたてばあまり変わらないな、という自嘲をこめてここに置く。

私が修士号をいただいたのは、ワシントンD.C.にあるアメリカン大学という学校のビジネススクール(経営大学院)だった。米国の高等教育の標準化は非常に進んでいてあまり日本では名前の知られていないこの大学でも、コアカリキュラムと言われる会計、ファイナンス、マーケティング、生産管理、人事(HRM)、企業と社会(CSR)などの科目の教科書と教授法は非常にすぐれていた。なにせ微積分もろくろく知らない、経営に関する科目をとったこともない、貸し方借り方も分からないという学部卒の米国人などを卒業するときには、一人前にしてしまうのだから大したものだ。私はたまたま4年とすこし社会人としての経験を日本で積ませていただいてから入学したので、ひとつひとつの授業が非常に身近に感じられた。多少の奨学金をいただけるくらいがんばってちょうど2年で経営管理学修士(MBA)をいただけたのは、自分の誇りだった。

ま、それでも日本で会社の経営に携わるようになって役に立ったなと想うのは、会計などのごく基本的な科目であるように想う。マーケティングや不動産ファイナンスなどの知識も知識としては役にたったかもしれないが、知識というものが問われることは実際の経営においてかなり機会がすくない。実は経営のエッセンスというものは数字であり、その人自信のセンスなのだと思い知らされる経験をこの10年あまりで何度もした。この意味では、ビジネススクールはかなり無力であろう。それでも、あの時下手な英語で議論に切り込み、フロッピー何枚も何枚もレポートを書き続けた日々はまだ昨日のことのように感じられはする。

1568849427Doing Business on the Internet for Dummies (For Dummies)
Dummies Press
Hungry Minds Inc 1997-11

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本棚の整理で出てきてなつかしくページをめくってみてしまった。本書以後の私のネットへの認識は変わった。まだ、米国にいたときに本書と出会ってこれからはインターネットだと確信して帰国した。しかし、似た商売に従事している友人に会った時に、私はインターネットのビジネスにおける未来について熱心に話しをしたのだが、「うん?インターネット?なにそれ?お前の説明に説得力ないな。」と言われた。いやぁ、その時に助言を受けていなければ、雨後の筍のような日本のネットビジネスに入って、あっというまに淘汰されていただろう。やはり、本業が大事なのだと最近強く感じる。友人の一言にいまも感謝している。

本書の内容にもどれば、技術的な記述が多かったが、最後は信頼の問題がネットで問われることになるだろうということが冷静に書いてあった。サイトに訪れる方々、取引をネット上でやろうとする取引先、みなリアルで直接会わない関係であるからこそ、相手との信頼性が大事になる。だからこそ、信頼性を高める工夫がネットビジネスでは不可欠だと書いてったように記憶する。これは、ある意味どの商売でも真実であろう。そうそう、それでもネットに熱かった10年前のことだった。

4833416921六韜・三略
守屋 洋 守屋 淳
プレジデント社 1999-10

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本書を読んで、やはり術数というか、そういう面も必要なのだと、中国の文明の懐の深さを実感した。記憶違いかもしれないが、割と神秘的な術の記述と人の機微に通じたごくごく現実的な策略の手法の両面が載っていたように想う。この辺の混在がいかにも中国なのだという気がするのは私だけだろうか。いずれにせよ、人の世の複雑さ、人の企みのややこしさを実感していた頃の読書体験だった。

4103096101ローマ人の物語〈1〉― ローマは一日にして成らず
塩野 七生
新潮社 1992-07

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もしかすると、こと商売に関して言えばこのシリーズが一番役に立っているかもしれない。シリーズ全体を通して本当に人の真実のあり方というのを教えてくれる。聖書なんていうのも、人のあり方のありのままの記述だと想うのだが、逆になまなましすぎてついていけない。塩野さんの文才と考察が特にカエサルに関するところで、光輝いている。ちょうどリーダーシップに必要な人のあり方を抽出してくれているように私にはおもえる。正直、私は守勢型の立場にいるので、実はカエサル後の皇帝たちの姿からも学ぶことが多かった。実は、ビジネス書の本棚の一番上にこのシリーズのこれまで出た全巻を置いた。多分、これからもいくども読み返すであろう本との出合いであった。

ああ、そう塩野さんの本は「チェーザレ・ボルジア」からはじまって実にリーダーシップを発揮しようとしている人には参考になる本が多い。ほとんど読んでいると想う。おすすめの作家だ。

4478460019トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして
大野 耐一
ダイヤモンド社 1978-05

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なんというか、ここまでくるともう執念という感じさえするトヨタ生産方式の生みの親の大野耐一さんの明快なご著書だ。企業における生産管理の大切さ、会社がつぶれてしまうのではないか危機感の大事さをまざまざと教えてくれた。サブタイトルの「脱規模の経営」とは、トヨタはGMに規模でかないっこない、ではどうしたらいいのか?、という深い諦念から生まれた大野さんの腹の底からしぼり出すような言葉だと想う。今月号の「選択」によれば、そのトヨタが数年のうちにGMを追い越して世界一の会社になるシナリオが練られているというのだから、商売というのはどう化けるか分からない。大野さんのこの危機意識をに今の自分は正面から取り組むべきなのだろう。

4382042690道元禅入門
田里 亦無
産能大出版部 1973-05

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気がついている人がどれだけいるかしらないが、本ブログのサブタイトルである「自己をならふといふは 自己をわするるなり」という言葉は、道元の「現成公案」の言葉だ。実は、経営と禅はかなり密接な関係にあると私は信じている。私は今、本書の著者である田里亦無 先生が開かれた会に参加させていただいている。まだ入門すらできずにいるのでここで書くことがためらわれるのだが、この会を継がれた佐藤無得先生とお会いするたびに蒙を啓かれるというか、新鮮な驚きを感じる。本書との出会いも、この会との出会いも人によってもたらされた。やはりご縁なのだなという実感が、私がブログを書き始め、べき乗則にはまる原因だった。禅と経営との関係をどう感じるかは人によって違うかもしれないが、私にとって禅は不可欠なのだと断言できる。



こう書いてみると、読書について経年的に書くということは、実は自分のこれまでについて語ることなのだと納得する。企図せず恥ずかしい自分自身をさらしてしまった。万一、どなたか商売を志す方に役に立つようなことがあれば、それは望外の幸せであろう。

■参照リンク
ピーターの法則 by 堀内 浩二 さん
「峠」から「菜の花」へ by あくびさん 私もきっといつか息子に読ませよう
安岡正篤 【経営倫理学用語辞典】初稿  by 曹操閣下さん
六韜(りくとう)をご存知ですか? by toritons  今度守屋先生をお招きします
無事帰宅 by usamiさん ごぶさたしてます。同じ感想を持っていてくださってうれしいです。
「トヨタ生産方式―脱規模の経営をめざして」(最近読んだ本) by yutahiroさん
仏教入門その4 by finalventさん
興味がてら読んでみるのもいいかもしれません  by 大西学さn

■お詫び 平成17年9月13日

お恥ずかしいのですが、「パーキンソンの法則」と「ピーターの法則」を記憶違いしていたことにいまごろ気づきました。

4478760853ピーターの法則
ローレンス・J・ピーター レイモンド・ハル 渡辺 伸也
ダイヤモンド社 2003-12-12

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もうしわけございません。ただいま、名誉挽回のため鋭意読書中でございます。読了しだい「書評」させていただきます。

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2005年8月28日 (日)

[書評]情報社会学序説 At home in the last modern

475710135X情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる
公文 俊平
NTT出版 2004-10

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大変興味深かった。

以前、公文俊平先生の論文を読ませていただいて涙がでるほど感動した。

From Wealth to Wisdom: A Change in the Social Paradigm 国際経営情報学会講演記録

インターネットが一般に普及しはじめるより3年も前の論文だ。1992年に既に公文俊平先生は大きな社会的な「力」の変遷がインターネットから起こるを予見していた。国と国とを単位とする「威のゲーム」、資本主義の結果としての「富のゲーム」、そして92年以降ネットワーク社会において「智のゲーム」が始まるという予感はまったく正しかったのだと想う。公文先生の予言とおりなのか、「富のゲーム」については特に日本においてこの10年あまり雑誌から、家電、ソフトウェアなどさまざまな「商品」の「貨幣」建ての価格が下落し、商品によっては表面の金銭的な価格としては「無料(タダ)」のものがヒットとなるというところまで資本主義は行きついてしまった。そして、30代以下の世代におけるゲームや、アニメや、あるいはネットにおけるような「キャラクター」と「ネタ(情報)」への関心の高さを見ると、貨幣も含めた物体としての「商品」を所有するという「富」への関心から、必ずしも物質的な結実をもたない「商品」のシンボル的な力の「消費」へと移行しつつあるようにさえ想われる。

そう、本書において公文先生は、日本のこうした若い世代のこの10年あまりの動向に関心を持ち、そこに「智のゲーム」の萌芽を見ていらっしゃるように想われる。特にいわゆるオタク文化に期待を向けておられるように感じる。

一方、本書はこうした情報社会の変遷への興味を出発点として、シグモイド曲線に似た「S字波」をモチーフとした文明論、地域通貨への洞察、そして、べき乗則の世界へと展開されていく。実に私と関心が共通なことにびっくりした。参考図書のリストに、バラバシや、高安先生があがっていたのもうれしい。安冨先生の論文はご存知なのだろうか?鈴木健さんがGLOCOMにいらっしゃるから、きっともうご存知なんだろうな。いや、ちと寄り道に入りかけているが、この辺は一旦置く。

今回、読了してどうしても気になって仕方がなかったのが、文明の進化がひとつのテーマであるにもかかわらず「絶滅」についての考察がないことだ。べき乗則は、多分リンクから離れて死滅し、淘汰されていくノードの存在が前提にあるような気がしてならない。本書からは、こうした「絶滅の予感」がない。文明論のアナロジーとして使っていらっしゃるシグモイド曲線は、私が理解している限りでは、成長し、数が増えていくノードの間で、えさ場(ニッチ)の取りあいが生じる様子を記述したロジスティック関数から得られると想っている。また、リアルの社会との関わりがどんどん薄くなる方向でネット界隈に生きる若者が、公文先生の期待する「智のゲーム」の時代を生き抜く「智衆」であるとは私には想いずらい。本書において「創発」という言葉で示される自己組織化の多くの現象も、どちらかというと「賢いつもりで人間は行動しているが、それでも全体としてみれば極めてシンプルな形にいきついてしまう」と読むべきではないだろうか?

なんというか、自分自身、自分の属するコミュニティー、組織、あるいは国といったものが安定している、永続すると想いこむことの弊害が、いまの日本の社会に多く散見されるような気がしてならない。社会的なネットワークに背を向ける、「社会とかかわらないで生きていく」とか、「社会主義など過去のものだ」とうそぶく彼らからは、「死のにおい」、いや「生のにおい」がしないように感じるのは私だけだろうか?彼らの生き方は、今が変わらない、自分も変わらないとい前提であるような気がしてならない。もっとも彼らの対極にある日本の支配層といわれる老人達も自分たちが不死であると誤解しているような気もするが、それはまた別な話題だ。今の日本は「死」が遠ざかっている社会であるがために、逆に大きな淘汰の時代を迎えているような気がしてならない。「繁栄の中に衰退の種がある」という山本七平の予感についてはすでに書いた。

ちなみに、生成と絶滅という観点からナウシカを読みなおすと本当に示唆するところが多いように感じる。そうそう、あとこの辺の視点から旧約聖書の「伝道者の書」を読みなおしたいとも想っている。「伝道者の書」の「空」とは「永遠に持続するものはどこにもない」という意味ではないかと想っているが、山本七平ならぬ我が身の浅薄な知識ではトンデモのそしりをさけるすべもない。

■参照

情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる by 公文俊平先生 し、しらなかった。ご本人がブログ形式で本書を公開していることを。
ゾウと人間のゲーム by palさん もうなんかFIFTH EDITIONに刺激されっぱなしです。

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2005年8月18日 (木)

[書評]「空気の研究」 Japan as Network-One

感動した!

4167306034「空気」の研究
山本 七平
文芸春秋 1983-01

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多分、ちょっとグーグルで検索すれば、あるいは書店に足を運べば、本書の解説は幾千も見つかるに違いない。いや、解説などを読むよりも、以下の私の拙い書評を読むよりも、本書を直接読んでしまった方が有意義であろう。それでも、自分がなににどう感動したかを書きたい。書きたくてたまらない。

まず、本書の日下公人の解説で山本七平が4つの世界を持っていたという話に感動した。

・日本人及び日本社会論の書き手としての世界
・日本陸軍物語の語り手としての世界
・聖書の専門家としての世界
・山本書店店主としての世界

どれをとっても超一流の切れ味を持つ山本七平に比べることすらおこがましいが、以前から「修身済家治国平天下」という言葉を生き方の縦糸だと信じてきた私にとって、山本の4つの世界の発見は実に意味深い。特にいまこの時機にこのことと出会えたというのは実に稀有だ。いまの自分を肯定されたように感じる。

ちなみに、本来儒教の言葉である「修身済家治国平天下」を自分なりにいいかえれば、こうなる。

・まず何があっても自分を修めることだと腹に決める。
・自分の家庭、自分の家族の絆を大切にする。
・自分の商売に一生懸命になる、夢中になる。
・自分が、自分の地域社会、日本という国、そして、地球とつながっていることを自覚する。

あ、「空気の研究」の書評として筋を通すために、山本は本書において儒教的な「父と子の倫理」を「空気」を増幅するものとして批判している。擬似的な「父と子」の間の「黙秘の徳」と言われた、絶対的な倫理よりも情況的な倫理を優先するという態度をするどく批判した。

いや、どうも感動のあまりに儒教だの空気だのをまぜこぜにしてしまいがちだが、これだけの社会批評を行いながらも「山本書店店主」であり続けた山本七平のように、私も商売をやる者としてブログと商売を(nimさんの言葉を借りれば)「公私混同渾然一体」したいと感じた。

次に感動したのは、本書における分析の的確さ、根っこの確かさだ。昭和の日本人がいかに「通常性」という人としての根っこに触れずに、日本のリーダーたちにとってすら正体不明の力であった「空気」というものに支配されてきたかを実に端的に描いている。集団を支配する「空気」をしぼませてしまう「先立つものがないんだよな」といった現実に根ざした「水」という言説も、実は「空気」と同根であるかを見事に分析している。

日本教の社会学」を読んだときに、山本の力強い言説を一定の方向へ人々を走らせる「空気」と見るか、空気をしぼませてしまう「水」とみるかが重要だと書いた。しかし、私のこの時の視点はまだまだ相対的で、「昭和の空気」の中でしかなかった。

ちなみに、この「空気」の結果として、まるで戦略上の意味がなかった戦艦大和の出撃などを山本は分析しているが、ブログ界隈でこの恐ろしさを伝える記事を見つけたのでリンクさせていただく。

そろそろ「歴史的評価」ってやつをしようじゃないか by 山口浩さん

根っこがなにか、どこにあるのかという問題は大きな問題だ。私はいかに「空気」を克服するかが本書の最大のテーマだと想うのだが、その答えがここにあると信じる。山本は、本書の最後の章でファンダメンタリストの言説としてミュンツァーの長文を引用しているが、この意味は大きい。ミュンツァーは、聖書からの引用だらけの文章を書きながら、実にルターを現実的な立場にたって批判しているのだと私は理解した。「キリスト教の根本主義という進行と現実的な運動」と比較しながら、第二次世界大戦前の山本自身の体験に基づく「現人神と進化論」が並び立つ日本人の心性について触れている。米国人には、サルから現人神が生まれたのだと論理的に帰結するこの2つの信念が両立することが理解できなかったのだという。示唆するところが大きい。

以前、児童心理学者の文章かなにかで、あまりにリアルにかつ真剣に怪獣ごっこ遊びをしている5才児に「本当は怪獣なんていないんだよ」と言って聞かせたというくだりがあったように記憶している。児童はけろっとして、「そんなこと知っているよ。いま遊んでいるだけなんだよ。」と答えたという。この児童の中では、「怪獣は本当は存在しない」という知識と「怪獣ごっこ遊びのルール」が渾然一体として存在していて矛盾を生まない。生活という根っこに触れているからだと私は想う。

日本人の心性の問題もこれと同じだ。根本を絶対的に把握した上で、対象に対する「臨在感的把握」をするのならまだ救いがある。「あの時の空気を理解しなければ、大和をなぜ出撃させたのか理解できない」と、なぜ大和を出撃させてはいけないかを十分に把握した上で決断するならまだ救われる。問題は、30年を経過して、いま現在が山本が予言した通りになってしまっているのではないかということだ。山本は、あとがきにおいてこうした「現人神と進化論」が並立する根っこを持った心性に触れたあとでこう書いている。

この辺がわれわれの根本で、われわれがもし本当に「進歩」を考えるなら、この点の再把握を出発点とすべきであろう。もちろん「白石にもどれ」と言ったところで、それは、現在のアメリカがピルグリム父祖の時代にもどると同様に、否それ以上に不可能なことである。われわれは戦後、自らの内なる儒教的精神的体系を「伝統的な愚の部分」としてすでに表面的には一掃したから、残っているのは「空気」だけ。「現人神と進化論」といった形で自己を検証することはすでにできず、そのため、自らが従っている規範がいかなる伝統に基づいているかさえ把握できない。従ってそれが現実にわれわれにどう作用し、どう拘束しているかさえ、明らかでないから、何かに拘束されてもその対象は空気の如くに捉え得ず、あるときはまるで「本能」のように各人の身についているという形で人びとを拘束している。これは公害問題などで、”科学上の問題”の最終的決定が別の基準で決定されていることにも表われているであろう。

私は、戦後30年にして書かれたこの言説は、更に30年後の「われわれ」の状況をあまりに端的に描写しているような気がしてならない。

最後に、本書がどれだけ未来を見通していたかということへの感動についれ触れたい。本書の主張を最近の相互作用に関する非線形の科学の知見と比較してみるとよくわかる。ネットワーク理論の帰結、相互作用シミュレーション、もっといえば安冨さんの「貨幣」シミュレーション、と山本の到達した結論が相似的である。やはり、日本はこうしたシミュレーションで予測可能な非常に質的に同じ運動をする「ノード」の集合体として社会が成り立っているといっても過言でないのかもしれない。山本は言う。

明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に”奇跡の復興”をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊滅さす力を持つ「なにかのちから」のはずである。

私は、誓って私の記事で以下のように書いたときに本書は読んでいない。

「交換」という市場の力が、ブログあるいはブロガーを「貨幣」としての価値を持ちうるまで相転移的なリンク構造の中心に立たせることになり、この同じ力がそのブログないしブロガーを崩壊に導くと言うことはできないだろうか?

最初の感動が去ったいま、やはり問題はこれをどう私が読むか、どう行動するかという問題だと改めて感じる。山本の射程は確実にいまの私を捉えている。

■参照リンク
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1 by finalventさん
[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2 by finalventさん : 特にコメントの渡辺さんとのやりとりに注目されたい。
「空気」の研究 by essaさん
「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
誤解 by gskayさん

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2005年7月30日 (土)

[書評]手塚治虫のブッダとネットワーク思考 Buddha and Power Law

4267013063ブッダ (第6巻)
手塚 治虫
潮出版社 1993-01

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思い立ってから1ヶ月あまり、ようやく読了した。

本書の「ブッダ」の言うこととバラバシなどの「ネットワーク思考」とが似ているよいうに感じる。同じことを別の言葉で言っているとしか私には思えない。「すべてはつながっている」、「すべては生まれ、生き、そして死ぬ」、それだけのことだ。そして、ただこれだけのことから、ブッダの得た真理やネットワークの法則性を導出できるというのがなんとも不思議だ。

「ブッダ」とネットワーク思考とに関連がありそうだと思ったのは、福田先生のお話を聞いたときだった。ここから、「ブッダ」を読み直そうと想った。ちょうどブログで、自分にとって生きることの意味の根源は「子ども」なのだとブログに書いた翌日のことだった。

  • 「心を元氣にする”にんげん貸借対照表”」~おかげさんの部~ by 福田茂夫さん
  • [書評]希望格差社会 (HPO)
  • 福田先生のお話は、手塚治虫の「ブッダ」がすべてがつながっていることに気づき、そして悟るの瞬間の絵からはじまった。「ブッダ」の絵と山田方谷の肖像が並んでいた。この2枚の絵をてがかりに、企業会計の話へと進んでいった。山田方谷は、私がいまの職業を選ぶきっかけとなった河合継之助の師匠筋にあたる人物だ。「ブッダ」の万物すべてが手をつないでいる絵ではないが、ほんのいくつかのリンクで福田先生と自分がつながっているように感じた。それも、自分にとってとても深いところからのリンクだ。

    正直、数年前に読んだときは非常に薄く平坦な印象しかなかった。再読してみて、今回は全く印象が変わってしまった。衝撃といってもいいかもしれない。この数年で、自分が変わったということなのだろうか。なんとも不思議な読書体験だった。

    前回の「べき乗則とネット信頼通貨を語る夕べ」以来、生と死、生成と消滅からべき乗則、べき分布が生じるという現象が数多く存在することを知り、かなり興味を持って追っていた。ブッダのせりふのひとつひとつがこの事実を指し示しているような気がしてならなかった。

  • [書評]貨幣の複雑性 (HPO)
  • 絶滅 : 悪い遺伝子か弱いカオスか by Ricard V. Sole et al, (鈴木康生さん訳)
  • 先日の「べき乗ナイト」で発表しただいたのタダシさんのシミュレーションも同じ結果を示していたが、大きな消滅の後に小さな/少ない種が新たに生まれたニッチという餌場を占めることによりべき乗分布が生じるということはかなり普遍的な事実のようだ。

  • エージェントシミュレータを使用した自己創発パタンとベキ乗分布 by 小松正さん
  • 手塚治虫は、ふとしたことで人殺しとなった男の最期にあたってブッダにこう語らせている。

    「お前が生涯でただ一人救った赤ん坊は100万人の子孫を得るだろう。」

    化石生物の研究により大絶滅があった後の種の多様化のいて、同系列から分岐していく種の数がべき分布するのだという。「死滅」を生き残るということは尊いことなのかもしれない。

    ■追記

    どうもなにか言い忘れているなと想いながら、仕事をしていた。ふと、一番大事な「自己犠牲」というキーワードについて触れ忘れていることに気づいた。

    多分、本書の中で最高の行為は、一番冒頭に出てくる自ら火に飛び込んだウサギのように、自分を犠牲にして人を生かすことだ。これは、世界というネットワークの生成と消滅を全面的に受け入れし、その理解を実践する行為だとは言えまいか?ナラダッタのように、アッサジのように、自分をなくしてしまう、わが身をも差し出してしまうことが最高の行為だと描かれている。

    これと対比的に王侯貴族が自己の保存のみをはかり、生成と消滅のプロセスに対して我欲で臨むことが最も否定的に扱われているように感じる。アジャセ王子、ルリ王子のエピソードは典型的な例かもしれない。

    自分が全くネットワークの一部だと自覚すれば、自己犠牲はなんら苦痛ではなくなる。自分自身がその一部にすぎないのだから。そんな感覚を手塚治虫は「ブッダ」の中で描きたかったのではないか?

    ■参照リンク
    山田方谷マニアックス by 備中高梁観光案内所
    手塚治虫研究・伝言板 by 佐藤和美さん

    ブッダの名句 [キャッシュなのでいつかは消えてしまうかも]

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    2005年7月25日 (月)

    [書評]ドリーム・ボディー・ワーク everything is nothing

    4393363639ドリームボディ・ワーク
    アーノルド ミンデル Arnold Mindell
    春秋社 1994-07
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    本書を読んでいるうちに、本書の内容というよりも自分の生きてきた中でのユングのインパクトについて書きたいと感じた。本書の具体的な内容と禅の体験の比較などについて語りたい気もするが、私の手にあまるし、まだその時期ではないと思う。

    私にもいくつかの人生の転機があった。進学、就職、結婚、天職、職業上の決断などなど。なぜか、こうした転機の時期にはユングの本を読んでいた。ユングの本との出会いは常に偶然の形だった。そう、確か「ユング自伝」を叔父の家で見つけて読んだのがユングの「原典」を読んだ最初だった。この叔父といまは商売の上でパートナーとなっているのも、不思議なことだ。

    ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)
    4622023296
    ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
    462202330X

    「自伝」のごく最初に出てくる男性器を思わせるような地下の王の話しが印象的だった。そう、きっと進学について悩んでいるころに読んだのだと思う。自分がどう社会とかかわっていくか、ごく基本的なレベルで自分が誰であるかという問いを抱えながら、この本を読んだのかもしれない。結果としては、私は本来進むはずであった理系の学部への志望をやめ、心理学の専攻のある学部へと進むことを決意した。

    人間と象徴 上巻―無意識の世界 (1)
    河合 隼雄 訳
    4309240453
    学部に進んでから読んだのか、高校生時代にすでに読んでいたのか記憶が定かでないが、この本はユング心理学を外側から眺めるのに役だったように思う。ユング自身の言葉で語られて入門としては悪くないのではないだろうか?確か、冒頭の章でカソリックの象徴性について触れ、プロテスタントよりも精神的な病にかかる人が少ないと言っていたように思う。「自伝」ほど鮮明ではないが、象徴の持つ力に触れた感じがした。文化人類学とか、象徴とかに興味をもったのは、それなりに生きる力ということで言えば、なにか枯渇していた時期だったかもしれない。
    パラケルスス論
    C.G. ユング 榎木 真吉訳
    4622030586

    本当にほとんど内容は覚えていないのだが、錬金術と意識の変容について書いたあったように思う。数年勤めた会社を辞めて、再度学校へ行こうと決意したころに読んだように思う。たしか、エンデの「はてしない物語」も同じ時期に再読したように思う。なんというか、自分がなにを目指すのか、どうなろうと決めるのかという時期であったのかもしれない。

    ヨブへの答え
    C.G. ユング 林 道義訳
    4622012189

    この本をいつ読んだのか思いだせない。かなり危機的な状況であせりながら読んだような気がする。正直に行ってマリアの被昇天についてふれていたこと以外あまり具体的な内容が理解できなかったように思う。いうまでもないことかもしれないが、一般に思われているアニマ、アニムスなどの象徴的な話しよりも遥かにユングの著作は理論的というか、文化的、歴史的な内容を含み難しい。いや、もしかすると私の歴史の中ではある人の死にかかわる体験の時期だったのかもしれないといま気づいた。

    ここまで書いてみて、当時の追い詰められた気分や、変わらなければ、決めなければと思う焦操感が文章にでてこないが、それぞれのタイミングでかなり自分としては危機であったように思う。もしかするとまさにミンデルの言っていることなのかも知れないが、人の生きる歴史の中で、危機的な状況こそが、自分の中でなにかが変わり、流れ出し、日常で意識している部分と意識していない部分がつながっていくプロセスであると感じる。まあ、ただ生きつづけている限り、このプロセスには限りがなくて、一つの段階を越えたとしても次の段階ではまた考えられないような危機が訪れるということを繰り返してきた。

    あるいは、いつまでたっても「危機」が現れるのは、私が「危機とは必ず来るものだ」とどこかで思っているからかもしれない。私の生きる全体のプロセスにおいて、「常により大きな危機が訪れる」というモチーフが入りこんでしまっているだけなのかもしれないと、これまた書いているうちに気づいた。「常により大きな危機がくる」という信念のようなものをもっていると、闘いつづける修羅でありつづけなければならない。ありとあらゆる種類の闘いを日常ですることにあまりに慣れてしまっているので、これまで戦い続けることを疑問にも思ってこなかったか、今後ここを見ていきたい気がしている。

    うーん、あまりに個人的な内容すぎるかな?

    でだな、ユングの本をずらずら並べてなにを言いたかったかというとユングが「パラケルスス」や「ヨブ」において本当に目指したかった無意識と意識とか、アニマ・アニムスとか、文化と個人とかだけじゃなくて、全体なんだよ、ってことなのではないかということだ。そして、この「全体」という方向性をミンデルは見事に行動に、実践に移していると感じた。

    そうそう、私が一番感動したのは、ミンデルのこの言葉だ。

    コントロールしたいという気持ちを捨てれば、もっと自分をコントロールすることができるのだ。危険を冒すことが、結局はもっとも安全な手段となる。

    ■参照リンク
    アーノルド・ミンデルの本メモ書き by Hiroetteさん

    ■追記

    finalventさんがミンデルについて書いていらした。ちょっとびっくりした。

    [書評]身体症状に<宇宙の声>を聴く(アーノルド・ミンデル)

    いったい、このヘンテコな無意識不可分仮説にどのような意味があるのだろうか。明らかにそれは科学ではない。量子力学を持ち出すのは悪趣味だと言ってもよい。だがこの仮説の意味は、ユングがそうであったように、私たちの生存や人生の意味に関わってくる。存在を意味了解する(あるいは了解しつつ変容する、なんだかハイデガー臭いが)、というプロセス(生成)の基底に、この珍妙な仮説が眠っていることは、人生経験のある地点である種の経験的な理解として訪れやすい。

    先日、河合隼雄さんの「子どもの宇宙」を読んだとき、「ゲド」と「モモ」についての文章に触れたとき、深い深い人生、いや、宇宙の真理への理解へいざなうなにかがユング派の心理学にはあるのだと気づいた。

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    2005年6月25日 (土)

    [書評]希望格差社会 ... and "Who Is US?"

    4480863605希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
    山田 昌弘
    筑摩書房 2004-11

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    山口浩さんが山田昌弘さんについて書いてらっしゃるのに刺激を受けて、積読してあった本書を広げて読んでみた。

    一読して、山田昌弘さんの問題意識とロバート・B・ライシュのそれとは、相当に重なるように思った。労働の形態が変化し、分化していくというライシュの主張が現代日本において現実化しつつあるという認識が核であるように感じた。山田さんの場合は、労働の分化という問題ににリスク社会の到来という横糸がからんでくる。

    リスク社会だなんて、いつの時代だってあたりまえのことだ。どんなに安定しているように想える企業体だって、どんな資産家であっても存続していくことは、ほんとうに難しい。現代の日本でリスクが増大しているのか、それはなぜなのか、ということについては後に触れる。

    ■労働形態の分化

    まずは、ライシュの主張、いや予言からまとめておこう。(残念ながら、私はまだ「勝者の代償」を読んでいない。

    ザ・ワーク・オブ・ネーションズ by ロバート・ライシュ

    『THE WORK OF NATIONS』 by メモ置き場さん?

    15年以上前に出版されたこの本の中で、ライシュは「情報革命」により労働が、「ルーティン・プロダクション・サービス(繰り返しの単純作業が中心の職種)」、「インパースン・サービス(対人的な職種)」、「シンボル・アナリティック・サービス(問題解決者、問題発見者、戦略的媒介者の活動など)」の3つに分かれることを予測している。当時脚光を浴びたのは、当然この3番目だったのだが、前の2種の労働に対して暗い予測をしている。メモ置き場さんの言葉を借りたい。

    まず「ルーティン・プロダクション・サービス」である。これは、繰り返しの単純作業が中心の職種で、かつての大量生産企業の中心的な役割を果たしていたものである。旧来のブルー・カラーに加えて、中間・下位管理職による規制的な監督の仕事も含まれる。標準的な手順や定められた規則に拘束され、それを監視する管理者も上から監視されている。賃金は、労働時間や仕事量によって決定される。必要とされるのは、読み書きと簡単な計算、信頼性、忠誠心、対応能力で、標準的な教育を受けていなければならない。確認しておく必要があるのは、ライシュが「情報化時代」において生まれる多くの情報処理関連の仕事が、このルーティン生産に分類される低所得の仕事に過ぎない、といっている点である。「情報革命」(と当時は呼んでいたようだ)は、一部の人々をより生産的にした一方で、処理する膨大なデータを生み出し、多くの単純作業を創出していると、ここでは分析されている。

    ライシュは、当然所得の不平等化についても触れている。

    労働が分化していくという前提において最大の問題は、どなたかがおっしゃていたように、いまの日本の社会においてこの分化が階級の固定化につながるかどうかということなのだろう。民主主義化の日本では、言明することすら非難を受けるかもしれないが、代を越えて一定の資産を存続させる、あるいは地位を継承させるということは、とても難しい。少なくとも、日本において表層だけだったとしても民主主義が続く限りは、貴族階級のようなものが再度出現するとは考えにくい。

    ちょっと余談なのだが、もっといってしまえば民主主義とは関係なく本当に資産も、地位も、決して代を越えて継承していくものではない。もともと社会というのはものすごく変動するものだ。江戸時代だって、出世していくやつもいれば、家系図を売り払う磊落したやつだっている。いま、「続・日本の歴史をよみなおす」という本を読んでいるが、1000年前だって商船を運用して日本中を交易してまわっていた人物もいれば、一生同じ土地で暮らしていく者もいたのだという。近代以前の階級社会といっても、少なくとも日本においては実はかなりの自由度があったようだ。そして、そうした豪商たちも存続しているかというと、はなはだあやしい。そう、たとえば鎌倉の通りぞいのお店で何代前から存続しているか、累代の経営者か、聞いてみればよくわかる。

    当然、問題はいまこの人生においてごく初期の段階で、労働の種類が限定されてしまうのかどうかということだ。「情報革命」の進展は、どう考えても止めることができないだろう。梅田さんが指摘していらっしゃるように、情報も常識的な意味での「知の創出」もコモディティー化してしまっている(ライシュのシンボリック・アナリストと、「知の創出」は違うと感じている。が、これも別な話)。あとは、それを活用する側のスキルなどの問題なのだが、こここそが最大の問題点であろう。多分、以前政府が中央から地方へと再分配の機能を果たすことにより社会の安定化に努めたように、シンボリック・アナリストたちから、ルーティン・ワーカーへの教育や知識の再分配という機能がこれから重要視されるようにならざるを得ないのではないだろうか?

    ■リスク社会

    そして、次にリスク社会ということについて、感じたことを書きたい。

    ここにこそ「情報革命」の矛盾が存在するように感じる。ライシュが「グローバル・ウェブ」という概念で、すべてが国境を越えてつながっていくことを前提とし、労働の分化等を説明していることを見逃してはならない。市場への参加者が増えれば増えるほど、実は市場は不安定化していくことを、高安秀樹さんが指摘していた(なんとかこのシミュレーションを自分でプログラムしたいと思っているのだが、まだ果たせずにいる。残念!)。自分の周りの街、地域、という境界が交通網の発達やネットの発達によりらくらくと乗り越えられ、世界中と個人がつながり、ありとあらゆる境界が消滅していくという未来像は、技術的にも、社会的にも、明るい未来を約束するもののように思われてきた。しかし、現実は高安秀樹さんのシミュレーションがひとつの典型を示すように境界が消滅し、参加者が増えれば増えるほど市場も社会も不安定化してく。

    この非線形性を時間から考えると、ゆらぎの問題となる。世にいうf分の1ゆらぎというのは、周波数と波長から計算される波のパワーと、その出現頻度が、べき分布するという時系列のべき乗則なのだと、ゴールドスロープさんから教えていただいたロングテールのところで論じたようにべきの指数が問題なのだが、もし時間がたっても指数が安定であるなら、サンプル数の増加や、対象とする時間軸を長くとることによってロングテールは長くなり、逆にハブの大きさが大きくなり、ゆらぎも大きくなる。勝手に解釈してしまえば、社会的な事象において大きなパワー、大きくそれまでの予測=常識を越えた事象、が必ず起こるということになる。そして、その例外的な予測を越えた大きな波が、社会的な変動をもたらすのだと最近感じる。

    要はどれくらいの時間のスパン、長さでこの世をとらえるか、生き方を決めるか、ということだと信じる。いまだけなのか、明日も食べられればいいのか、いまの自分の人生だけなのか、子どものことを考えるのか、その差だけだ。

    ああ、どれだけ傲慢に聞こえてもいい。私は明日のたれ死んでもかまわない。ただ、死ぬ瞬間まで家族のことを、自分の商売のことを、そして明日への夢と希望を考えつづけ、行動しつづける。

    と、ここまで書いて気がついたことがある。私が「信仰」しているものがなんなのか分かった。私にとっての来世とは、子どもという未来なのだ。これがどれだけ個人的な想いであったとしても、私はすべての人がこの想いを共有しているのだと信じられてしまう。それが、「信仰」ということの本質なのだろう。しかし、これはまた別な話、また別な機会に語ろう。

    ■参照リンク
    米国の労働市場と日本へのインプリケーション by 高山与志子さん (「高スキル・高収入と低スキル・低収入の職種が同時に増加」まさにライシュの予測した社会の到来だ。
    梅田さんの「同世代の企業人を見つめて悩んでしまうこと」を読んだ。  by catfrogさん

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    2005年6月20日 (月)

    [書評]愛情はふる星のごとく revolution and me

    4006030762新編 愛情はふる星のごとく
    尾崎 秀実 今井 清一
    岩波書店 2003-04

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    不倶戴天の敵と勢い込んで斬りこんでいったつもりが、そこにいたのは、自分と同じ年頃の、自分と同じような興味を持ち、自分と似たような家族を持つ一人の男だった。

    その男とは尾崎秀実のことだ。ゾルゲ事件の核心的な首謀者の一人だ。近衛文麿や、西園寺公一などからの信任を悪用し、国家機密をソ連に流したスパイだ。

    たとえば、以前触れた「大東亜戦争とスターリンの謀略」という恐ろしげなタイトルの本では、尾崎の手記から以下の部分が抜粋されていた。

    勿論、私の行っている如きことが猛烈な反国家的な犯罪であることはいうまでもありません。従って理論的には、その行動を是認しつつも時に具体的行動の後ろめたさを感じたことも否定できません。私は常に露見、逮捕と伝ふ如き場合の結果を自分の一個の死と結びつけて考えておりました。「要するに死ねばいいのだろう」と伝ふ点に一つの覚悟の基礎を置いて居たわけであります。

    尾崎自身が認めているように、日本の国を裏切り、政府高官に重用されたという立場を悪用し、日中和平工作を妨害し、国論を北進から逸らし、同じ国民の多くを死地に向かわせた文字どうりの国賊だ、間違いない。

    尾崎は、この手記で驚くほど的確な共産主義に基づく世界の情勢判断と今後の来るべき世界について記述している。コミンテルンの戦略が入っているのは間違いないが、この手記は非常に正確な表現で、精度の高い文章であった。その思想の結実として、スパイ活動をしたことを認めている。事実、私の知り得た限りでは、どこかの政治結社とは違い、ソ連から金などをもらっていたわけではない。完全な共産主義の革命家なのだ。

    ところが、最後まで来て切々と訴えているのは、家族への想いだ。

    職業的革命家はやはり家庭を持つべきではないと考えます。

    と前置きした上で、女学校に入った娘、母子家庭となった後の将来の心配などについて触れている。私は、ここを読んだときに不覚にも自分自身の子ども達への想いとの共通性を感じてしまった。

    私も毎朝坐禅を坐る。獄の中で、尾崎も相当に坐ったと思われる記述が本書の中に随分あった。私がこのブログのテーマとしてタイトルに掲げている「自己をならふといふは 自己をわするるなり」の出典である正法眼蔵の現成公案も読んでいたようだ。この禅の導きかわらからないが、尾崎が不眠症の妻へ贈った「処方」はほとんど私が考えていたのと同じだった。

    というのは此の僕の身心「起死回生法」ともいうべきものは具体的な治療法ではあるのだが、第一に、生命の秘儀を覚り、「死」の大事に徹見すること。第二、これを目標として勇住邁進、不断に坐禅(女は正座にてよし)三昧なること。(日常自己のつとめに全力を傾倒する間は別、この期間はそれこそ全力をあげてたとえ些事といえどもこれに当たること。)第三、一種の呼吸法(腹式呼吸の一種である深呼吸ですが、これに多少の工夫があります)。この呼吸法は第二の場合と次の第四の場合に用いる。第四は老、仏の道でいう内観の法です。つまり精神統一のための呪文の如きもの「オンマニパドメフム」でもよければ、「南無阿弥陀仏」でも、または白隠のあの「遠羅天釜」に書いてあるような気海丹田中心の反復語でもいいのです。

    そのほか、つい先日の「日本教の社会学」で取り上げられていた文天祥の「正気歌」、漱石への興味、いつか読みたいと思っていた藤村の「夜明け前」など、共感を覚えてしまうテーマを取り上げているときりがない。

    なによりも、逮捕されてから刑が執行されるまでの間の生活態度に非常に興味を持つ。この重要な記録がまさに本書なのだと思うのだが、読書すること、書くこと、坐ることで、次第次第に深まっていく尾崎の心境を切に感じる。これは、不遜ではあるが私がブログを始めてからの心境の変化といくつかの点で共通している。

    どうもいかん。

    こういう共通性を見てしまうと、ころびそうになってくる。いや、もし自分が尾崎と同じ時代に生まれていたらどう行動したろうかと想像してしまう。あまりにも私は歴史を知らないのだが、やはり戦前には想像を絶する貧富の格差、権力の横暴というものがあったのではないだろうか?革命家を革命家たらしめたのは、尾崎が打ち倒そうとした資本家や政治家、そして軍部そのものではないのだろうか?そして、それらに反発する青年将校などの動きを更に自分の権力強化につなげようとした老人たちがいたのではないだろうか?

    昨晩、公開中の「Zガンダム~星を継ぐ者~」を子どもと見にいった。年寄りじみた感想と笑われるかもしれないが、つくづく子どもに言い聞かせたのは武田信玄の「軍勝五分をもって上となす」という言葉だ。勝ちすぎた組織、国家は、驕り高ぶる。自分に戒めたい。

    ■追記 平成17年6月22日

    まあ、そうは言っても尾崎と私は全く違う人間だ。生まれた時代も背景も違うし、主義主張が大幅に違うのはもちろん、尾崎のような端正な文章は私には書けそうもない。この文章は、たまたま共感したところを強く書いたに過ぎない。

    ただ、私がここで書きたかったのは、たとえ独房で読書していたとしても、単に知識を得る、思索するということを超えて、耽読というかそのこと一筋になっている尾崎を感じる。なんというか、私は本を読んでいても、文章を書いていても、頭がしんとなる時間の持続がときどきある。

    本書の解説を書いている松本という男によれば、尾崎の最大の功績は北進(つまり日本が独逸とソ連を挟撃すること)を止めさせるべく世論を誘導したことであるし、この手紙で表された家族への情の表現、あるいは明治天皇の御製への言及も、罪を軽減させるために作為的にしたことであるかのように書いている。私は真に尾崎の意図したところはわからない。ただ、本書を読んで獄の中で刑の執行を待ちながら、なんらかの身体と心の持ち方に達したのだろいうということをおぼろげに感じる。

    ■参照リンク
    泉 幸男が評する『ラスト・サムライ』と『スパイ・ゾルゲ』  by 泉幸男さん

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    2005年6月 7日 (火)

    [書評]日本教の社会学

    ・「日本教の社会学」(ISBN:4051012611、ISBN:4061458159) by 山本七平さん、小室直樹さん (以下、敬称略) *1

    本書は、これまでの山本七平の日本人論を、小室直樹らとの対談の中で、いかに一般に使えるような「ツール」とするかの試みであり、また山本七平の日本人論の集大成である。非常に示唆に富む、また先を読みぬいた内容であったと想う。日本人が日本人でなくなる日まで、読み継がれるべき本である。ぜひ復刊してほしいものだ。

    散漫になってしまうが、私の感じたことを書きたい。この本がいかに貴重な視点を提供しているかを示すために、まず8章、9章の「日本資本主義」の結論部のヴェーバーになぞらえた4つの要素を引用する。

  • 機能主義

  • 絶対的規範としての勤労のエトス

  • 町人の合理性とある面の所有原則の確立

  • 崎門学に基づく下級武士のエトスの一般化
  • この部分の前も後も非常に重要な示唆に富むのだが、本書のテーマすべてについて「感想」をまとめることは私の力の範囲外だ。この4つについて自分の理解しえた範囲を「表現」したい。

    ■機能主義

    キリスト教の神議論などに触れるとつくづく感じてしまうのは、日本人ってものすごく現世利益主義だということだ。少々前からカソリックとの対比についてこだわっているのだが、F.NAKAJIMAさんに教えていただいたカソリックのイエズス会の「霊操」は確かに表面的には禅に近いのかもしれないが、あくまでそのそこにあるのは、神の義ということ、神の栄光ということだと想う。

    霊操 by イグナチオ・ロヨラ

    本書には記載はないが、日本教にメシヤ論というものがあるとすれば、それは来世において人を救いあげるという存在ではなく、いまこの世でどう悩みや問題を解決してくれるかという「機能」なのだろう。現世利益、機能主義という観点から言えば、神でも、仏でも機能を果たしてくれるのなら、メシヤたりうるのだ。はなはだ私の仏教理解は浅薄なのだが、日本においては来世を示す弥勒菩薩への信仰でも、来世を示す仏が存在することによる俗世における救い、とかになるのではないだろうか。現在の苦しみを緩和するものであれば、たとえ地震や雷だのの災害でも日本人にとってメシヤになりうるのではないか。

    「神は空名なれども名あれば理あり。理あれば応あり」

    この言葉の先に当然、現代日本人も位置しているので、たとえば「風の谷のナウシカ」における「青き衣の人」というのも現世利益だと感じている。が、これはまた別な話だ。


    ■勤労のエートス

    米国の民主主義ですら、成熟期において「生活哲学」という考え方にまで到達した。これは、いかなる政治哲学であっても理念の高さが問題なのではなく、日常の生活にまで根付いた思想になりうるかが一番大事なことであるという考え方だと私は理解している。

    [書評]米国の保守とリベラル (HPO)

    その成立を追う余力はいまの私にはないが、日本においてかなり早い時期に生活習慣としての「勤労」ということが社会の中にセットされていたのだと想う。それは、哲学や理念としてでなく、多分明確な意味での宗教でもなく、単純な損得という経済概念でもなく、生活そのもののが勤労の習慣であり、勤労の習慣によって生活がなりたっているという信念だ。「あなたは労働する必要はないのじゃないの?」という人まで、就職ということに固執するのは、こうした勤労習慣の反映であるような気がしてならない。ちなみに、何の疑問もなく貴族制や超大金持ちが歴然と存在する欧米において、私が見聞きした限りにおいて、労働する必要もなく必要も感じない層というのが存在するようだ。

    小室が本書の別の箇所で、「レーベンス・ヒュールンク」という言葉を使っていたこと、「エートス」を「行動様式」としていたことにとても意味を感じる。

    マックス・ヴェーバーの宗教の定義は、レーベンス・ヒュールンク、つまり生きざま、行いの仕方、行動様式---もっとも単なる外面的な行動様式だけではなくて、外面的な行動様式を内面から支えるような心的条件を含めた行動様式(エトス)ですけど---彼の場合は「エトス」という言葉と「宗教」という言葉をほぼ同じ意味に使っているわけです。


    ■所有原則

    ここでは、本書の中とは、違う言葉で説明したい。

    所有の原則が認められるというのは、取引の相手を信頼できるかどうか、絶対者が厳然と存在するか対の世界か、という2つの軸によって決定されるように想う。絶対者が存在し、その絶対者を自分が信じ、取引する相手も信じているときに、すべては契約によって執り行われる限りにおいて、自分の所有物と相手の所有物を厳然と分割できるであろう。相対的な相手を信頼できるか、できないかは、相手が同じ絶対者を信じているか以外は関係なくなる。言葉ありき、契約ありき、なので、所有の概念を導出することが可能になる。

    逆に絶対者が存在しない場合はどうなるだろうか?この場合、相手を「信頼」できるかどうかにかかる。ほとんどの場合、絶対者を共有しない時点で所有の概念の存在は難しくなる。絶対者である神が産まれてから死ぬまで、いや死んでからさえ保証してくれているので、その信頼できない絶対者に服従するものを殺そうと、略奪しようと、罪の意識を感じることはないだろう。つまりは、所有の概念を導出することは極めて難しい。ややこしいのは、絶対者を共有しないが、相手を信頼することができるという特異な状況だ。

    多分、日本がこのケースにあたるのだろう。山本七平と小室は、見事にこの状況を分析している。ただし、私はこの前提としての仮定に相手に絶対者は共有しないまでも、自分と非常に似た性質をもっている等質性の問題があるように想う。これは、あとで複雑ネットワーク関連のパーコレーションのアナロジーにおいて触れたい。

    なんというか、「天皇絶対」(空体語)といいながら、「上官絶対」(実体語)だったような人間関係において、「貨幣」という本来絶対的な交換尺度が、自分が大事に想っているものは、相手も大事に想うだろう、ということで成立してしまえる。そして、いつからそうかは知らないが日本の人間関係がムラという非常に閉じたコミュニティーの中で閉じているのであれば、自分の大事、相手の大事、という概念からお互いの大事=所有物を尊重しあい、トラブルを避けるという概念、習慣が形成されうると私は感じた。あまり正確な山本の思想の反映でなくなってきてしまったが、等質性を仮定できれば所有概念は導出しうるのだと想う。

    ■崎門学(純粋性)

    歴史的、文献的な検証はあまりにも私の守備範囲を越えるので、他の山本七平の書籍を参照してほしい。ただ、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」での「禁欲」(ストイシズム)に変わるのが、「純粋」という言葉だろうと私は理解した。日本において「純粋」であることがなによりも大事だという概念があるように想われる。これと対極にあるのが中国文明だし、西欧文明だろう。「オーソドックス」とか「シンプル」という言葉が、日本語と西欧語でまったく違う意味を持つというのは偶然ではない。

    この純粋さの極地として、たとえば、本書に取り上げられたこんな言葉が私には鳴り響いた。

    (2.26事件の若手将校達には)「目的もなければ規範もない、単に純粋性があるだけ。しかもその伝統というのは脈々として新左翼に生きている。」

    ■個人的な意見

    って、ここまで書いてきたものすべてが感想にすぎないのだが...

    問題は、こうした特性を持つ日本人の集団である日本という国を、山本七平とできる限り同じ視点に立って考えたときに、どうして行くべきか、私個人はどう行動すべきか、という問題が残る。たとえば、ロシアになってしまったソ連と手を結ぶといったテクニカルな分析(*2)は非常に重要である。あるいは、中国との対し方についてもかなり強力な示唆が本書から得られるであろう。しかし、日本という国の中身自体はどうかわっていくべきなのか、変わらなくてもいいのか?私自身は、この分析手段を得た後にどうこれからの未来を設計し、行動すべきなのか?私は、21世紀の今日になってもこの結論は出てきていないように想う。ただ、もしかすると主体的に変わっていこうとする以前に、ここ述べられてきたような日本人像というもの自体が失われつつあるのかもしれない現代に不気味さを感じる。なんというか、私の所属する世代は本書の延長線上にある現代という時代において、本書の主張を「水」ととらえて批判の術とするか、「空気」ととらえて時代になじむか、迷ってしまうだろう。

    この流れにおいて自分なりに本書を受け止めようとする試みとして、私としては、「ネットワーク思考」という視点から再度本書の延長線をひく努力をしたい。

    ■複雑ネットワーク論からみた日本教、ふたたび

    余談だが、最近「生成・死滅」と「複雑ネットワーク」について考える。なんというか、やはり集中が進む、ノードの密度があがる、過度にクラスター係数の高い密度の濃いネットワークが構成されるということは、死滅への道のひとつである。「生成」と「死滅」が多くの現象において見られるということは、現象をネットワーク構成体として捕らえたときに、それぞれの現象が一定の法則を共有しているということの現れであるように感じる。

    たとえば、組織を人が作ろう、運営しようとすれば必ず直面する矛盾があるように思う。それは、組織を安定させ、利をむさぼろうとようとすれば、巨大化せざるを得ず、巨大化しようとすれば、内部の矛盾化、弱体化をさけられない。あるいは、ネットワーク固有のカスケード危機といったものを避けることができない。

    この「日本教」の分析が明らかにしている処々の日本人に性質というものは、よくもわるくもネットワークにおけるカスケード危機、あるいは「創発」という現象が、日本人の集団において非常に起こりやすいということの帰結だと私には想える(*3)。

    先日参加させていただいた「複雑ネットワークの科学」の著者であられる増田先生の講義で、複雑ネットワーク理論と日本人の等質性の問題がつながるように感じた。増田先生のご専門でいえば、パーコレーションの問題としてとらえた疾病の流行とも比較できるかもしれない。疾病の広がりで、例えば病原菌に対する抗体が血液型によって決まるとする。あるA型の人にだけかかる特定の伝染病があっても、A型の人もB型の人もO型の人もAB型の人もいるとすれば、A型の人の周りをA型以外の人でかためるという方法で伝染を抑える方法がとれる。しかし、A型の人しかない集団があったとすれば、あっというまにその集団はこの伝染病が蔓延してしまうだろう。同様にして、日本人の集団というものが他の集団に比べて等質性であり、その等質な性質がなんらかの病なり、経済環境なり、社会的な状況なり、思想なりに「感染」しやすいとすれば、米国などの社会に比べて「蔓延」しやすく、同時期大きな被害を受けやすいということになる。

    これらの特徴というのは、なにも現代において明らかになったことではなく、これまでもさまざまな目的のために使われてきたし、これからも利用されることなのだろう。「空気」というものは、戦前も、戦後も、雑誌でも、クラスでも、会社組織でも、お役所でも、TVでも、ネットでも、2chでも、ブログでも、活用されている。ネットワーク分析とはまさにこの空気の支配を客観化、可視化するために使うべきでないか?

    もっといってしまえば、もしべき乗則なり、複雑ネットワークなりの研究が進んで口コミや創発の条件があきらかにされたとしたら、それは得に日本において特有な独占や独裁の形を生み出しかねないということだ。まあ、いままでのところ自分が見聞きした限りでは、ネットワークのリンクの密度があがればあがるほど逆にカオス的というか、初期条件の差が大きく結果に影響しやすくなるということが明らかになりつつあるように思う。つまり、そうした複雑系の科学であってもマーケティングや政治的な信条を共通化させることにはつながりにくいということだ。

    ここまで思考を進めて、トンデモと言われることを恐れずに現代日本に「社会学」を当てはめるといくつかのことに気づく。

    ひとつは、実体語としての日本の資本主義の実力が十分についている限りは日本人の謙虚さなどによらずとも空体語としての日本人論は、「だめだめ日本人」を向くということだ。逆に、昨今「普通の国日本」というか、「強い日本」論が今後取り沙汰されるのだとすれば、それは実体語としての日本経済がいよいよ行き詰まったということ示すのだろう。中国人は多分これを交渉のテクニックとして意識的に行うが、日本教徒の日本人は集団的にこれを意識にのぼらせずに暗黙のうちに行う。

    あと、ひとつ恐れるのは、敗戦であれ、安保であれ、山本七平が記述した時代には、「空気」が呼吸できないほど悪くなり(あるいは「空体語」があまりに重くなり)、空体語と実体語の天秤を「ひっくり返す」事件が必ずあった。しかし、こんにちのバブルといわれた経済の隆盛な時代がおわってから、天秤がひっくりかえらないまま時代がつながってしまっているような気がしてならない。天秤がひっくりかえらないまま、時代の「空気」があまりに呼吸しずらくなっているように感じる。この結果が、なんらかの日本人でない日本人、夏目漱石の「草枕」の冒頭の「人でなしの国」につながらないことを祈る。

    あ、でも読み返してみるとなにもこの結論にたっするのに、ネットワーク理論を持ち出すことなかったかな。あはは。

    ■注

    *1

    本書は、ずいぶん以前から廃刊になっていて、いまでは、古本か図書館をさがすしかないらしい。

    アマゾンマーケットプレイス
    著作情報

    私も、前田慶次郎さんにコメントで背中を押していただき、ようやく落札できた貴重な一冊だ。


    *2

    ちなみに、本書において山本と小室はすでにソ連の崩壊の予想をし、ソ連が脅威たりえないことを「空気」に「水」をさしながら、分析している。81年の時点でだ。

    また、余談だが山本の「空気」とか「水」とか、式目などに代表される「通達」行政など四半世紀がすぎても、日本の体制のあまりのかわらなさに涙が出る。しかし、人は変わらなくとも法律と役人(外郭含む)は増えた気がする。誠にこの世は住みにくい。本気で「人でなし」の世に逃げなければならないかもしれない。


    *3

    SYNC」を読んでから、「結合振動子」のモデルがあたまから離れない。自分でもシュミレーションなどを作ってみたのだが、あまり理解できているわけでない。ただ、同期現象がおこるためには、集団全体に対して送られる「シグナル」が通常必要なのだということは理解できた。振動するノードが複数あるとして、それぞれ周期がある程度ちがってもやはり全体に対して同期信号が送られていると全体で調整が行われる系というのが存在するようだ。

    ただ、このモデルでは日本人において創発現象、同期現象が起りやすいと断言する根拠とはならない。ノードの等質性ということから、もう一歩踏み込むことが必要なのだが、まだ私にはわかっていない。なんとはなしに、単なるシグナルでなく、価値の交換、効用の交換というものがからんで始めてなんらかの社会的な同期現象が生じるのではないかという感じがしている。

    ■参照リンク
    山本七平読者連絡会
    山本七平と天皇制をめぐる議論 @ asyura
    『日本教の社会学』読書記録 by j_taiyaki さん @ 「浮かんでは消えてゆく思考のかけら」
    [書評]日本教について (HPO)
    「日本教」モデルをネットワーク分析する (HPO)
    「はてなブックマークのコメント欄が酷いのは許せない」と批判する人がいるのは日本教という宗教に反しているからだ。と解釈できそう by otuneさん

    ■追記 翌日

    うわっ!梅田さんが本書の復刊リクエスト記事をだしていらっしゃる!!!ちなみに、私は7500円で落札しました....

    [読書] 山本七平、小室直樹

    「圏外からのひとこと」のessaさんからも...感動!!!

    「日本教の社会学」復刊リクエスト投票

    こりゃ、もう最高の誕生日プレゼントですね。ヒデキ、カンゲキ!

    ■追記2

    恥ずかしいので、あえてリンクを貼らせていただかなかったのだが、最初に山本七平を読み直そうと思ったのは極東ブログのfinalventさんの2つの記事だった。

    [書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 1[書評]日本人とユダヤ人(イザヤ・ベンダサン/山本七平) Part 2

    深く深く感謝もうしあげたい。

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    2005年5月27日 (金)

    [書評]ASTERIA実践ガイド


    ・「ASTERIA実践ガイド」 by 東海林 賢史さん、中川 智史さん、江島 健太郎さん

    [A面]ハブとしてのASTERIA

    インフォテリアの平野社長から本書をいただいた。とても光栄なことだ。最近、結構ブログ界隈の方から、いろいろなお誘いや仕事からみの依頼をいただいたりする。本当にリアルとブログ界隈がかぶっているというか、相互作用している。純粋にうれしい。

    ともあれ、これはきっと自動車が現在の交通システムのハブであるように、ASTERIAはさまざまなソフト環境のハブを目指したものなのだと実感した。

    バラバシの「新ネットワーク思考」によれば生化学の分野でさまざまな種類のたんぱく質があるのだそうだ。この中で多くの種類のたんぱく質と化合することができて、生化学的にほかの種類をつなぐハブとして機能を果たしてたんぱく質があるという。

    新ネットワーク思考 by バラバシ

    たとえば、電車や、飛行機や、船などさまざまな手段が、現在の交通体系の中にある中で、すべてをつないでいるのはトラックなり、乗用車なりの自動車だ。このことは、ハブをとりさるとネットがばらばらになってしまうように、現代の生活において自動車がなくなってしまったことを想像してみれば、いかに生活がばらばらになってしまうかがわかるだろう。

    本書を読ませていただいて、データを流れとしてとらえれば、確かにメールであろうと、XMLであろうと、さまざまなデータベースであろうと、プログラムを書かないでも加工することは十分に可能なのだと実感した。要はリンクの問題なのだ。この場合は、さまざまな構造体を持つデータをリンクとし、メールソフトや、データベースマネジメントシステム、表計算、などのソフトウェアをノードと考えるべきだ。この前、「ニューロマンサー」を読んだばかりなので、データの流れがほんとうに目に見えたら楽しいかなとか、思いながら読了させていただいた。

    ニューロマンサー by ウィリアム ギブスン

    [B面]4GLとASTERIA

    5、6年前からだろうか、リアルである長いお付き合いをさせていただいているK先生と、なんどかこういう会話を交わしていた。ちなみに、この方は私よりかなり年上だ。

    「いやぁね、ひでき君、とにかくプログラムいらないんだよ。記号を並べていくだけで、データが加工できちゃうんだ。データもね、どんな形だっていいんだってさ。そりゃ、多少の業務分析は必要だけどね。全部自分でできちゃうじゃない。これからプログラマーいらなくなっちゃうくらいすごいよ。データも線でつなぐだけ、定義するだけでコンピューターが適当にやってくれるんだ。いや、いまはほんと秘密なんだけど、かなり開発がすすんでるんだよ。あなたのところで、テストしてみない?」

    「いやぁ、とても興味があります!」

    と、言ってにっこりしながら、内心こう思っていた。

    そんな、理想的なソフトがあるわけない。

    私には、以前プログラムレス・プログラム、第四世代言語というのに、いやというほどかかわった時期があった。もう15年も前のことだ。当時、私は総務系の部署で知る人ぞ知る「mapper」というソフトを使っていた。大量のデータを、定型的に処理しなければならない部署だったため、毎夜毎夜かなりの時間を「第四世代言語」、「プログラムレスプログラム」と呼ばれる、いまは吸収されてしまった会社の端末の前ですごしていた。当時は当然CUI(キャラクターユーザインターフェース)しかない。なにができるか画面にぜんぜんでてこないので、コマンドもいちいと覚えないと使えない。プログラムレスといいながら、かなりわかりにくいスクリプトを書かないと、肝心なところで処理出来ない。この辺にうんざりして、あるマック・エバンジェリストな課長と共謀して、GUIベースのマッキントッシュ上の4thDimensionというソフトに乗り換えてしまった。

    なんていってもマックだし、GUIだし、オブジェクトだし、なかなかのりのよい環境だった。かなり夢中になって、当時はやりかけていた部門コンピューティング(え、死語?)を実現させた。さすがにコードの難しい部分半分はプロにお願いしてしまったが、日常で変化せざるを得ない部分は自分でコーディングした。楽しくも、エキサイティングな体験だった。それでも、コードが必要だという部分がネックだった。mapperよりも一歩後退したといっていい。事実、私が退職してしまってからは、外部の専門家を使わざるを得なかったらしい。

    その時の体験から言えば、ASTERIAがこの実践ガイドに書いてあると通りのソフトだとしたら、部門コンピューティングが必要な、あるいはミドルウェアが必要な分野において、非常に威力を発揮するのだろう。ASTERIAがあれば、当時やろうとしていたことのほとんどは、「渋谷単身赴任」といわれるほど、端末の前で、マッキントッシュの前で、残業しなくてもソリューションできてしまっただろう。なによりも、4thDimensionのときには失敗してしまった、次の担当者への引き継ぎも十分にできだだろう。

    このソフトの持つ、データの流れのすぐれた抽象化は、非常に理解しやすいと想われる。また、プログラム自体をフロー図として理解できる。たぶん、あとはデータベース側のE-R図が理解できれば、問題はないだろう。

    正直、まだ本書をぱらぱらと読んだだけに過ぎない。まだソフトとして使ったわけではない。しかし、自分にとってとてもデジャヴュというか、ああ、こういうのがあったらいいだろうな、と15年以上前に「こうであれば理想だな」と感じていた姿がここにあるように感じる。

    と、ここまで書いてみて、まさかくだんのK先生は、インフォテリアと関係がって、K先生が話していたソフトって、ASTERIAのことなんだろうか?という疑惑でいっぱいになってしまった。まさか、そこまで世界は狭くないよねぇ。あとで、K先生に電話して聞いてみよっと!

    ■追記 平成17年5月30日

    K先生にお電話してみたところ、違うソフトのパッケージで、機能も大分違うようです。やっぱり、「そこまで世界はせまくない」ようです(笑)。

    ■参照リンク
    ASTERIAの本が完成した! by pinaさん
    『ASTERIA実践ガイド』の発刊にあたって by 江島 健太郎さん

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    2005年5月21日 (土)

    「カトリックはなぜ永続するか」

    やっぱり、この本が絶版ということ自体がいまの時代がいかにまがっているかの証明だ。

    日本教の社会学
    ISBN:4051012611

    いますぐ復刊ドットコムへいこう!

    絶版本を投票で復刊!

    なんというかここのところいだいてきた疑問が溶けていく。あまりに山本七平の射程は現代をとらえている。

    shibuya

    ■参照リンク
    カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか?  (HPO)

    本書に見事に私の求める答えの方向性が示されていたように感じる。

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    2005年4月20日 (水)

    [書評]けなす技術 l'art pour critiquer

    「けなす技術」 by 山本一郎さまさん

    おもしろかった。ページの紙が厚いことと、「SNSNS」という誤植があったことを除けば本書こそこそまさに私がブログ界隈について書いてほしいと願っていた本だといえる。

    いや、こういう書き出し方で始めては真に本書を読んだことにはならない。この本で学んだ「けなす技術」を遺憾なく発揮しなければ、真っ向から本書をうけとめたことにならない。

    では、ヒアー・ウィー・ゴー・アゲイン!


    まぁ、原稿が遅れたらしいし、校了までの時間がないなかでやったことはわかるんだけど、ちょっとあせりすぎたんじゃないかな?結構、誤植っぽいのあるよね。

    たとえばp.60の「SNSNS」って「SNS」でしょ?その数ページ先のアクセス実験の結果を示す表の2段目の「ココログ」、「マイページ」というのも意味不明だ。「ニフティー」が「ココログ」なのは、わかるとして「マイページ」ってなんなんだろうか?

    をっと、他にも「まちがい」を指摘しているサイト発見!

    ★「切込隊長」氏の新刊に誤り発見 @ ★てれびまにあ。

    それから、紙厚すぎ!最近流行る本がみんな紙を厚いからという理由で、山本一郎さんの本まで厚くなる必要はないでしょ。そんなにうれなきゃならないの?お金持ちなんだから、本で稼がなくてもよいじゃないの?

    だいたい「けなす技術」というタイトルからして、ウケをねらいすぎ?どうして素直に「メディアのリテラシーをきちんとつけたうえで、積極的に物事を批判的に見て、表現し続けることがブログでは大事である。」とか書けないのだろうか?あるいは、もっと素直に「煽る技術」とかタイトルをつけた方が的確だったのではないだろうか?紙媒体にしてすら、実に刺激的で伝播性の高い切込隊長さんの言葉がちりばめられていた。

    ただ、言葉の問題についていえば、本書が想定する読者層がどの辺なのか不明確だと感じた。山本一郎さんとして、一般読者に対して書いているのだとするとネット用語が多すぎる。1年以上もブログを書き続けた私でもわからない単語が頻出している。「けなす技術」というタイトルもネットになじみのない読者にはあまりに否定的な印象を与えてしまうだろう。逆に切込隊長さんとしてブログ界隈の住人を対象としているのなら、踏み込みが甘いのではないだろうか?食い足りない感あった。もっともっと、時事問題に対してつっこんでほしかった。もっとも、これが紙媒体の表現の限界なんだろうか?

    そうそう、しかもここに書いてあるISEDからみの内容はロングテイルや、べき乗則、複雑ネットワーク理論で説明できるものばかりじゃないか!山本一郎さんは私のブログを読んでいないのだろう。実にけしからん話だ!いや、さすがにこれは冗談だが。

    実は、本書を読了して一番感じたのは、隊長の愛だ。「ブログで語り続けろ」、そんなメッセージを受け取った。p.136のコラムを読んで実はじーんときてしまった。「ニートでもいい、ひきこもりでもいい、生きろ」ということだと感じた。ありがとう切込隊長!


    うーん、まだまだ本書の読み込みが足りないらしい。あまり「けなす技術」が生かされない書評になってしまった。あまりに中途半端だ。嗚呼、これを素直に反省して日々修行だな。

    ■参照リンク
    けなす技術 by 橋本大也さん
    ネットコミュニケーションを考察する『けなす技術』  @ Artifact 

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    2005年2月 8日 (火)

    [書評]万物理論 Distress

    橋本大也さんの昨年のベストSFだというので「万物理論」を読み始めた。かなり感動した。確かに、これは近年まれに見るベストSFかもしれない。

    いきなり余談だが、つい1年前まで私はもはや読むべき本はないと信じていた。一昨年は、多分年に1、2冊しか読んでいないだろう。ブログに出会ってから、やたらと読書量が増えた。ブログの関連で読むことになった本の1冊1冊にはずれがない。すばらしい読書体験を私に与えてくれた名著がいくつもある。読書のためのフィルタリング機能としてだけでも、ブログをするということはすばらしい。しかも、なぜだかわからないが実にもってこいのタイミングで、その都度その都度読むべき本の情報がもたらされる。本書を読んだタイミングなどもう奇跡的といえるかもしれない。

    これから読むであろう人が多いことと、橋本大也さんが一切ストーリーの紹介をしておられないことに敬意をはらって、ストーリー、メインのネタ(dope?笑)には触れない。

    例えば、この本を読んだタイミングがよいという意味では先日読んだジョン・メーナード=スミスの「生物は体のかたちを自分で決める」に出てくる還元論者と全体論者をめぐるキーワードのリストがほぼそのまま出ていた。

    傲慢で自信過剰、抑圧的、還元主義的、搾取的で、精神的に貧しく、人間性を奪うーーーそんなものを「男性的」以外になんと呼べばいいのでしょう?
    左脳的、直線的、階層主義的


    あるいは、本書では東ティモールの問題にほんのすこしだけ触れられている。翻訳に時間がかかっているうちにこれなどはリアルがフィクションを追い越してしまった事例かもしれない。あるいは、こんな主張は私にダルフール問題に手をこまねいている西欧的なアプローチの限界を見る。

    レオポルド2世が墓からよみがえって
    「良心に苛まれるから、返そう
    このベルギーのものでない象牙や天然ゴムや金を!」といったなら。
    そのときわたしは、不正入手したアフリカのものでない利益を捨て
    殊勝にも計算法とそこから生じたすべてを引き渡すだろう
    が・・・・相手がわからない、なぜならニュートンもライプニッツも
    子どものないまま死んだから

    そして、おどろくべきことに本書で展開されている主張されていることと、HPOで追っかけてきたネットワーク思考と驚くほどの類似を見せる個所がいくつかある。

    「リンク、橋。そのとおりよ」

    あるいは、ちょっと過剰な解釈かもしれないがバラバシを読んだ人は知っているだろうが、こんなせりふも社会ネットワーク分析の先駆的な事例を思いださせる。

    「業界大手の少なくともひとつの役員会に名をつらねている」

    ここのところ「匿名」さんからコメントをいただいいき、"pathways"という人間の生化学的な反応から大脳の情報処理まで、ネットワーク的な観点から分析する分野がここ数年でもりあがってきていることを教えていただいた。これだけの引用だけではわからないかもしれないが、まさにこの研究を思わせる台詞がある。

    「ニューロン、心臓、腸、たんぱく質とイオンと水が脂質の膜につつまれている細胞、発生の過程で分化する組織、マーカーホルモンの勾配の項さにスイッチをいれられる遺伝子、たがいに噛みあう百万の分子の形状、四価炭素、一価水素、電子の共有を介して結合する原子核、それを構成する用紙、静電気の反発力を相殺する中性子、・・・」

    ちなみに、本書の発表は1995年だった。"pathways"はまだ産まれていないか、せいぜい揺籃期であったはずだ。

    うまくいえないのだが、またここで示される世界観というものに非常に親近感を持つ。それは、私がこのブログを書くことと、座ることによって世界の見え方が変容してきたことに近いものだと感じる。そして、著者であるイーガンの世界観の前提として以下のような記述に深い諦念を感じる。これは、ゲーテにつながるのではないだろうか?

    脱出を思い描くのは意味がなく、誤った計画で、おろか者の夢であると。 この病んだ体が、ぼくというものすべてなのだ。

    ■本書のアマゾンの書評を書いているみなさんへ

    おまいらぜんぜんわかってないよ!この作品は最初から最後までひとつのテーマと愛でつらぬかれているんだぜ。前半がおもしろくて後半がおもしろくないだと?ちがう、ぜんぜんちがう!!!

    ■参照リンク
    万物理論 by 深上鴻一さん
    「万物理論」 by chokoさん
    万物の理論 (A Theory of Everything) by Tedさん
    『万物理論』読了 by シノスケさん
    [本]万物理論 by kimtetsuさん
    孤独ではない宇宙 by シュンペータさん
    [SF][J] 万物理論 by itaさん ネタバレあり。思いっきり注意。
    「シュレディンガーの猫の核心」が核心をついていない理由 @ 分裂勘違い君劇場

    ■追記 平成17年4月9日

    Hiroetteさんの「精神の成長過程の説明レポート」は、インパクトがあった。私が本書を読んで感じた「穏やかな愛」という具体的な形は、Hiroetteさんの先生がおっしゃっていることに近いのかもしれないと想う。なんというか、私は全然俗にそまっている人間だが、みなが自分を肯定できれば、あまり世の中で大きなトラブルというおはなくなるような気がする。

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    2005年1月31日 (月)

    ブログの価値と思考の相関関係 interaction

    今日は、某ブログ有名人と同じ政府機関ご出身の某研究所の社長さんのご講演を聞いた。ここのところ疑問に思って書きためてきたことと非常に似た結論をお話しされていたので、非常にうれしくなってしまった。

    まず、時代認識だが、英語の「危機」という言葉は坂の頂上あたりを意味するらしい。(*1)。のぼり坂からくだり坂に変わる頂上付近が一番目先がきかない。日本はまさにこの状態なのだという(参照)。

    また、日本の経済成長を見るときに、非常に先鋭化して進んだ民間セクターの効率化と国債競争力によりなしとげられているという(参照)。そして、やはりこの社長さんも公的なセクターのリストラが進んでいないことを懸念しておられ、安易な増税を行えば人々の反発を買うばかりか、深い失望感が広がりとりかえしのつかないことになるだろうと心配しておられた。*2

    ひるがえって個々の企業のとるべき道としては、やはり人口減少社会に応じた事業展開をいかに早く構築するかが大切だとおっしゃっていた。どうも嫌われやすい話題であるが、これからなんやかやいっても仕事をして生きていかなければならない身としては、人々がこの減少をどう感じ、どう対応した行動をとるかを見定めることはとても大事なのだろうと思う(参照)。

    その他、「業界内シェアをあげることが大事だ」とか、「企業内の経営者なら戦略を定め行動レベルまで具体化した指示をだすことがプレーヤーとしての役割だ」、等々とても共感できる内容だった。自分なりにこれまでべき乗則とマーケティングの関連で論じたいと思ってきた内容に近いと思った。

    なによりも最後にお話しされていて「横の自己責任、縦の世代責任」という言葉はほとんどそのまま自分の生きかたと重なると感じた。これは、本ブログが追求する重要な結論のひとつであろう(参照)。

    いずれにせよ、非常に優秀な方のお言葉と、私のような雑音というかSPAMでしかないような者がネット上でさまざまな方から教えていただくことにより自分なりにまとめることのできた記事との間に少しは似たものがあることに深く感動してしまう。この辺にブログを書き続ける価値を感じるのは私だけだろうか?

    ■注

    *1
    確か講演会では"crisis"とおっしゃっていたが、実際にはラテン語の"periculum"から派生した"peril"とおっしゃりたかったのではないかと推測する。「per:~をとって」と「culmen:頂上」があわさった言葉のように思う。

    いや、やっぱcrisisでいいのかな?
    http://members.jcom.home.ne.jp/k-ohtake/article015.html

    *2

    ちなみに、この記事は、svnseedsさんからのコメントをいただく前に書きました。修正しようかよほど悩みましたが、あえてこのままアップします。

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    2005年1月12日 (水)

    [書評]三四郎 only yesterday

    おかげさまでこのブログも1周年を向かえることができた。正確なアクセス数はわからないが、とりあえずアクセスカウンターは10万を超えた。記事170本に対して、コメントを952本も頂戴した*1。本当に本当にありがたい。

    これは、いまここでこのブログを読んでくださっているあなたのおかげです。私の不定期更新で悪文ばかりのブログをお引き立ていただき、ありがとうございます。敢えてお名前はあげませんが、ほんとうにほんとーうにこころから感謝もうしあげます。

    と、いうことで1周年を記念して私の大好きな夏目漱石にトライしたい。高校生のころチャレンジしてまとまらなかった私にとって難易度Aの作家だ。お題は「三四郎」とした。例によって結論から書いてしまえば、「三四郎」で描かれている時代といまの時代にかなり共通性があるということだ。私には、以下の4つの点が本書の書かれた100年前と気分的に共通すると感じられた。

  • あたらしいメディアは常に登場し続け、若い世代はそれに反応・適応しようとする。

  • 時代の精神、世代の差という議論はいつの時代にもある。

  • 恋愛はいつの時代にもあまりに鮮烈である。

  • 平和で自由な時代の後にも、騒乱の時代が訪れることがある。
  • ネット全盛の21世紀の現代とみまごうばかりなのは、例えば「ダータ・ファブラ、ダータ・ファブラ」と叫びながら与次郎が以下のような演説をぶつ時だ。

    社会は激しく動きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。

    「文芸」を、インターネットや、ブログなどと置き換えてみるとこの与次郎の気概というものはいまここでブログを書いている我々とあまり変わらないことに気づく。当時「雑誌」が雨後の筍のように創刊されたと聞くが、それは我々がインターネット、ブログというコミュニケーション手段を得て、なんとか情報発信しようとしているのと実は変わらないことかもしれない*2。最近、ネットをめぐってビールを飲む会が実際行われたとも聞く。ここでコーヒーまで飲まれたかは知らない。

    世代の違いについてはいいふるされた感があるかもしれないが、広田先生がこう言っている。

    近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。

    この前後で明治何年生まれかで世代が違うよと言う話になるのだが、明治を昭和に読みかえると、現在ネットでもみかける論になってくるように感じる。いわく昭和50年より前に産まれたか、後に産まれたかという類の議論だ。メディアに対する感性で世代を分けるということが、ひとつのキーかもしれない。この辺も、100年前から変わらない世代間の感性の違いではないだろうか?

    ちなみに、露悪主義ということについては、与次郎が広田先生について「偉大なる暗闇」という論文を書いたことの顛末が語られるのだが、事大主義的に天下国家を論じながらつまるところ自分の利害、思惑に結び付けていてはいけない。実に偽善的な露悪主義になってしまう。この事実は、時代は変わっても文章をものす意気に燃えるブロガーへの警鐘になるのではないか?

    美彌子と三四郎の邂逅のシーンにどきどきする。100年前にもこんな大胆な男女のやりとりがあったのだなぁ、と思う。現代において男女が集って「Pity's akin to love.」をどう訳すかといった妙のある会話を持つだろうか?あるいは、原口さんが描こうとしている最中の美彌子の美しさはどうだ?

    三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたからである。

    いや、正確にいえば三四郎の目に映じた美禰子の美しさのあまりのなつかしさに私は息が詰まる。この小説は夏目漱石自身が学生だったころの自分をなつかしいんで書いたような気がしてならない。貝が砂粒を核に真珠をつくるように、思い出はいつしかあなたの中で神話になる。そう、過ぎ去った恋愛の思い出には神に対するような敬虔な隔絶がある。

    文字というのは共通性を浮かびだしやすく、画像は時代の差をことさらに強調しやすいように感じる。画像全盛の今の時代では100年前の風俗はことさらに古臭く感じてしまうが、文字を読んでいる限りこの差を感じない。たとえば今回「ああ、だから夏目漱石が好きなんだ」とつくづく思ったのは、以下のような文章を図書館で見つけるシーンがさらりと書かれているからだ。

    「ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫(ごう)も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化(じゅんか)一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。」

    ちなみに、ヘーゲル、コジェーブ、フクヤマと玄孫(やしゃご)引き位のヘーゲル理解しかないが、ヘーゲルは実に現代的だと思う。フランシス・フクヤマの翻案を差し引いても、的確に現代文明の今という展開を予測していたように感じる。そこには、こうしたヘーゲルの姿勢があったのだと感銘してしまった。やはり、「ためにする学問」ではだめなのだ。

    実は、本書の魅力はここで引用した部分以外で語られている極々日常的な場面にある。なんというか、のどかさのある時代だったのだなと感じさせる場面が随所にある。しかし、この時期すでに日露戦争を経験している。そして、この後第1次世界大戦を経て第2次世界大戦に突入していく。ここから先の20世紀はまちがいなく19世紀までとはけたの違う騒乱の世紀だった。しかし、三四郎や広田先生のエピソードに流れているのは、かなり楽観的な空気ではなかったか?

    そして、いま私が恐れるのは「ぼんやりとした不安」を抱えながらものほほんと生活していた三四郎の後継者である我々は、またこうした騒乱の世紀を生きるのことになるではないだろうかという恐怖だ。与次郎の「ダータ・ファブラ」="de te fabula."とは、「ほかでもないあなたのこと」という意味のラテン語なのだそうだ。そう、どのような時代が来てもただ自分自身の問題としてとらえ、逃げないということ以外道はないのだ。

    ■注
    *1
    多分半分は私自身のコメントかな♪ちなみに、記事は約2日にひとつ、コメントは記事1つにたいして5.6個になる。また、実はここで得た人と人との関係がなによりも大切に感じる。social capitalという言葉があるが、social network capitalだろうか。「つながって」くださっている方々、ほんとうにありがとうございます。

    *2
    ただし、メディアの伝達スピード、規模はどんどん加速化している。この加速化のもたらすものは、我々をどこに導くかを想像するだにめまいがする。
    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

    ■参照リンク
    青空文庫 図書カード 三四郎
    ここに1908年9月から12月にかけて朝日新聞に連載されたとある。ちょうど物語の季節と重なる。なるほど。
    夏目漱石『三四郎』 by とくひろさん
    『門』夏目漱石 by 円相堂さん
    やっと「三四郎」 by シュミットさん
    夏目漱石 by みつまめさん
    漱石「三四郎」ゆかりの地(東大)散策 by Sammyさん

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    2004年12月18日 (土)

    [書評]伝わる・揺さぶる!文章を書く finding the alpha blogger

  • 伝わる・揺さぶる!文章を書く by 山田ズーニーさん
  • なんというか、ここのところ文章恐怖症に陥っていた。つくづく自分は「文章下手の文章好き」かなと思い知らされたことがあった。よく人から「あんたの書いていることはわからん!難しげに見えすぎる!」といわれる。

    本書には、いくつか「伝わる・揺さぶる!文章を書く」ためのキーワードがある。そのひとつは、「問うこと」だろう。正直、私にとって一番のキーワードは「読む人の立場になる」ということであったが、これは後述したい。いずれにせよ、機能から見たときのブログにおいてますます文章力が重要になってくるのだ思うし、そのためには本書は重要なヒントをもたらしてくれるであろう。

    どのような経緯であれこのブログにたどり着いていただいたあなたありがとうございます!)の中で、冒頭の節を読んでさまざまな「問い」が生まれたと思う。「どっかで聞いたような言葉だな?なんだっけ」、「こいつはなんのうけをねらっているのだろう?」、「こいつはなにか偏向しているのか?」...あなたに起こったこうした「問い」を文章を書く自分の中で予想して、文章の先を組み立てていけるかどうかが、ひとつのポイントであろうと思う。

    さて、ブログの読者として、あるいは下手な文章をブログにつづる者として、私にはいつかはこういう文章を書きたいと思ってお手本にさせていただいている方が何人かいらっしゃる。たとえば、橋本大也さんだ。橋本さんが書いていらっしゃる「Passion For The Future」はすばらしい。橋本さんは奔放にさまざまなトピックを扱いながらも実に「伝わる・揺さぶる!文章」を書いておられる。本書を読んだいま、改めてこれまで読んできた橋本さんの文章を思い出すと実にこの本のポイントを満たしていることがわかる。「機能する文章」、「集め方・絞り方・決め方」、「自分の根っこの想い」、そしてなによりも橋本さんの文書には「相手の側から見る・他者の感覚を知る」という視点がある。橋本さんには、「自分にしかわからない言葉を使わない」(思考停止しない)など文章を読む人への配慮を感じる。

    しかるに、自分の書く文書はなにか?多分悪文の見本のようなものだろう。横文字でも、漢字でもやたら日常の会話にでてこないような言葉を使っている。普通の言葉のような言葉でも「リアル」だの、「ネットワーク思考」だの、自分にしかわからないような定義で使ったいたりしている。つまりは、私が文章を書くときには他者への思いやりがないのだ。他人の視点という感覚なく書いているのだ、今回気がついた。

    これは、本書を読み、橋本さんの文書を思い起こしたとき、一番自分にとって反省させられた点だ。今後、自分は自分のブログにといて「伝わる・揺さぶる!文章を書く」ように努力することを宣言して、この文章をしめくくりたい。

    ああ、一言だけ付言すればこの本書の著者の山田ズーニーさんがかかわられた進研ゼミの「小論文講座」は私が文章を書き始めるきっかけであった。この意味で、本書と自分の縁の歴史は古いのかもしれない。

    ■参照リンク

  • ないものねだり by yujimさん

  • 伝わる・揺さぶる!文章を書く by 橋本大也さん
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    2004年12月 7日 (火)

    [書評]人は変われる I can change!

  • 人は変われる―大人のこころのターニングポイント by 高橋 和巳さん
  • なんというかまさに私の生きているのは「小さな世界」なのだと感じる。本書との出会いもいくつもの偶然としか思えないような出来事が重なって現象した。なにかここのところ出会うキーワードが限りなく重なっている。一時期知人とのどうしようもなく偶然な出会いが頻発したことがあったが、今度はどうもキーワードが重なりすぎる現象が起こっているようだ。

  • 世の中狭い (HPO)
  • しかし、まだ今回のキーワードの重なりを自分の言葉で語りなおせるところまできていない。それでも、できるかぎり語ってみよう。そもそも私がこのブログで書いていることは、常に自分に手が届かないかもしれない課題に挑戦し続けてきたことの記録なのだと思う。

    たとえば、私が縁を感じてしまうのは、高橋さんの次のような言葉だ。

    私は、この相転移という概念が気に入っている。こういった物理学でいう相転移と同じような現象が中枢神経にも起こって、短い期間で神経細胞のネットワークが組み変わるということが起こるに違いない。

    高橋さんはこの文章を少なくとも1995年以前には書かれていたようだ。よく知られているように、もともと相転移前後の粒子の記述するために「べき乗則」*1が使われていたという。バラバシなどは、1999年以降にこの「べき乗則」がWebのトポロジーとして近似値であるらしいスケールフリーネットワークにおいて観察されることを証明した。

  • 複雑ネットワークの調査および問題定義 by 佐藤 史隆さん、 廣安 知之さん、 三木 光範さん
  • 決して高橋和巳さんはスケールフリーネットワークや創発やべき乗則をこの時点で予想されていたとは思わない。しかし、ネットワーク思考についてなんらかのイメージをもっていらしたのではないだろうか?そういえば、著者は脳機能のマッピングを研究された方だという。私もまがりなりにも感覚知覚心理学で卒業論文を書いたのだが、実は大学のころにホフスタッター中埜肇先生の影響を受けて「創発」やある種の相転移前後のネットワークの状態に非常に近いイメージを持っていた。これについてはまた機会をあらためて語りたい。

    先日から私はひとつ予想をたてている。それは、心理学=認知科学的な思考と現代のネットワークから得られる知見が近づいてきているのではないだろうか?ということだ。私のまわりでネットワーク的な思考を展開していらっしゃる方に、もともと認知科学、心理学系統の専攻の方が多いような気がしてならない。これは、インターネットというネットワークと大脳の機能という神経ネットワークとの間で相関性があり、類似の発想がお互いの分野で有効だからではないだろうか?

    では、ネットワーク思考やこうした心理学的なアプローチが前提とする主体はどこにあるのかという問題が頭から離れない。たとえば高橋さんは本書の中で「主観の再建」ということを言っている。たとえば、こういう言葉に私は強く動かされる。

    私の意思がどこから来ようが、神経細胞は私の意思を実現させるために動いていることは間違いないからだ。このとき、神経細胞はもう私の主観から独立な「客観的な物」はない(原文ママ)。すでに、主観性に利用され、主観性のために働いている「物」であり、私の主観性と対立することはない。主観性から独立した「客観的な物」はきえる。
    運命の自覚のとき---、それは主観性と客観性の交差点である。この交差点で、主観性は運命に浸透しはじめ、運命を動かしはじめる。

    ちょうど、竹田青嗣さんの本を読み終わったところだったのだが、竹田さんのいう「現象学的還元」と高橋さんの主観、客観の議論は私にはとても相関的に映る。

  • 現象学は〈思考の原理〉である by 竹田青嗣さん
  • あるいは、竹田さんのホームページで紹介されている「愚か者の哲学」という本の章立てと本書の章立てを比べるだけでも楽しくなってくる。どっちが哲学書でどっちがカウンセリングの本かわからない(笑)。あまりに、キーワードが重なっているように私には見える。それも、私の人の縁によっていずれの本とも出会うことができた。ここにかかわる方たちに本当に深く感謝したい。まったく、不思議でならない。

    私にいま必要なのは知性でなく、身体自体が生きようとする力の根源までさかのぼる純粋さを見出すことだと感じる。そして、本書や竹田さんの著作は私が生きようとする世界において、まさにこの世界自体が私に生きよ!と語ってくれる基本構造を解き明かしてくれているように感じる。強い、強い力を感じる。

    竹田青嗣さんの現象学的還元については、更にネットワーク思考における「信憑構造」への考察で触れたい*2

    あ、なにか一番大事なことを書き忘れているが、本書はカウンセリングの本であり、非常に心動かされるケースについて高橋さんが真摯に書いていらっしゃる。心理学用語としての「転移」の可能性を感じるが、なんとなく程度に悩みをもっている方には非常に参考になる本だと感じた。

    ■註
    *1 :もともと「power law」という言葉は、「べき乗則」と翻訳するのが定訳らしい。「法則」というと将来に対する拘束を含むようだが、「べき乗則」には拘束的な意味は薄い。

    *2 :いや、あるいは逆に言う方が正しいのかもしれない。現象学的還元で見出されるであろう信憑構造において、ネットワーク思考が実存するか、成立しうるか、と。

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    2004年10月30日 (土)

    [書評] 脱走と追跡のサンバ the show must go on

    つい先日、半ば冗談で記事のタイトルを本書からとった。その直後にお世話になっている方のお引越しをお手伝いにいったら、「好きな本をもっていってください」と言われたので、手近にあった段ボール箱を覗き込んだら正真正銘の本書を見つけてしまった。しかも、文庫本の初版だ。多分、四半世紀ぶりに読み直し、以前とはまったく違う印象をもった。シグマリオンIIIを使い始めたなんて軽いノリの記事に「脱走と追跡のサンバ」とタイトルをつけたのは、軽率だったかもしれない。

    思い込みというのは恐ろしいもので、「筒井康隆はSF作家だ」としてしかとらえていなかった私は、本書をスラップスティック、ドタバタ喜劇だとしか記憶していなかった。いったいどんな読み方をしていたのか、再読してみると自分で不思議なくらいだ。

    本書は、小説世界の枠組や約束ごとを次々に飛び越えてしまうという意味で、メタ小説だといえる。押井守が「紅い眼鏡」の中で、いきなり書割を押し倒して映画撮影所を抜け出ていく主人公を撮っていたのが「メタ」な技としては印象的だった。筒井康隆は、押井守以上に鮮やかに小説世界を連続技でどんでん返しさせていく。

    メタ小説であるだけでなく、本書は実は哲学書だったのだと「再」発見した。これぐらい冷静に情報の本質、時間の本質、そして自分の内宇宙を見つめた小説を私は知らない。本書には目次がついていないのだが、あえて章立て書けば以下のようになる。筒井康隆の筆にかかえると、情報も、時間も、空間も素っ裸にされてしまうのだ。

    カスタネットによるプロローグ
    第1章 情報
    マリンバによるインテルメッツォ
    第2章 時間
    ティンパニによるインテルメッツォ
    第3章 空間・内宇宙
    ボサ・ノバによるエピローグ

    主人公の「俺」は、どうしてもぬぐいされない世界への違和感を元にテレビ局、コンピューター、天文台、原子時計研究所、吾妻ひでおの漫画のように多層的に出てくる自分、恋人であり母親であり姉である女の経営する会社、自分を追跡する自分、はてはマッキンレーの山頂までかけぬけていく。この中で、いくども小説世界だと信じていたものが、テレビの書き割りになってしまったり、回転木馬が加速してとびちったり、胎内めぐりよろしく都市の下水道をくぐっていく。もうこの時点で筒井康隆はほとんど現代文学の域に達していたのだと感じる。これをSFと読むとスラップスティックになってしまうが、文学として捉えれば村上春樹を超えてはいまいか?小説や映画の壁をなぎたおしていくメタな連続技でいっても、押井守をはるかに先取りしているように感じる。

    メタ小説であり、哲学書である本書を書いたこの筒井康隆の冷徹した視線の確かさはなんなんだろう。最初の書きだしから最後の1行にいたるまで、筒井康隆が例性さを失わなかった文字はひとつもない。ジャズ・ヴォーカルのパブリングのように軽やかに、情報も、時間も、空間、内宇宙も突き抜けていく。

    せいぜい、「この登場人物はユングのいうアニマで。。。」、とか書けば、書評の結論めいたものになるのだが、筒井康隆では事情が異なる。一体、筒井康隆はなにをしたかったのか?

    「これはなにについてもいえることなんだが、原点を探るために夾雑物を切り捨てていくとする。(中略)さて、残ったものはいったい何か。そいつが原点だって。とんでもない。そいつはもはや、ありふれた、どこにでもある、誰もが持っている、実につまらないちっぽけな、屑みたいなものの切れっぱしに過ぎないんだ。」

    そう、それでも残るのは書く主体、表現しつづける主体としての自分だ。地の果てまで走り去っても、筒井康隆は語りつづけなければいけない。

    ■参照リンク
    [読書]きょうの食い合わせ by mikegameさん
    無題 @ 圏外からのひとこと
    WEBの時間、サイトの寿命 by Jun Hirabayashiさん

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    2004年10月17日 (日)

    宮澤賢治はどこへいったのか? Where has Kenji gone?

    kenji.jpeg

    ■鉄道と賢治とネットワーク

    宮澤賢治について、何冊かの本を読んだ。賢治にとって、当時ピカピカであった鉄道が持つインパクトについて感じた。賢治にとって鉄道は東京というハブにつながるリンクだったのだろう。エスペラントも、チェロも、国柱会も、みな鉄道というリンクがもたらしたものなのだ。

  • 雨ニモマケズ 新版 宮沢賢治童話全集 12」 edited by 宮澤清六さん、堀尾青史さん

  • 宮沢賢治殺人事件」 by 吉田司さん

  • 「雨ニモマケズの根本思想 by 龍門寺 文蔵さん
  • それぞれ、本との出会いがあった。

    雨ニモマケズ 新版 宮沢賢治童話全集

    宮沢賢治の「雨ニモマケズ」について「雨ニモマケズを4つにわける」という記事を書いたはいいが、自分が宮沢賢治について何もわかっていないなと思い、古本屋に本を探しにいってみつけたのが本書であった。「雨ニモマケズ」のタイトルだけにひかれた買ったのだが、宮沢賢治のかなりしっかり者の弟である宮澤清六と、賢治を紹介したことで有名だという堀尾青史の編集の全集であった。つまりは、後で述べるように賢治の死後に、賢治が有名になっていく過程に一役買った全集の末裔なのだ。

    この本の序章である宮澤清六の「兄、賢治の一生」はかなり率直な文章であったと思う。

    この文章を読むまで、私は宮澤賢治が好きではなかった。唯一以前に宮澤賢治について読んだ「宮沢賢治 修羅に生きる」の書き方がよくなかった。妙にもってまわった書き方で、地元で賢治の家族が差別されていたような、いなかったようなことを書いていた。まだ素直に「結核患者が多くでるといわれ、一族がマキと呼ばれていた」とあからさまに書いてくれたほうが印象がよかっただろう。お蔭様で、私の賢治の印象といったら、シスターコンプレックスで、なにをやらせてもまともにできない無能者、どこか薄暗いもののある、嫌いなタイプのデクノボーといったものにこり固まっていた。

    本書で、はじめて「春と修羅」以外の詩作や短歌などを読み賢治の文才が豊かであったことを知った。なにしろ美術の時間に読まされて、絵を描かされた「ヨダカの星」とか、国語の教科書に載っていた「おっぺると象」くらいしか印象がなかったのだ。ともあれ、手紙や著作により賢治と法華経の接近の過程について知ることが出来た。賢治が家族に依存しながらも、法華経の信仰に生きようとした姿や、死の床にあっても物語を書き続けた姿に共感を覚えた。

    宮沢賢治殺人事件

    「雨ニモマケズを4つにわける」のヒントは、そもそも極東ブログのfainalventさんにいただいた。その上、finalventさんの日記のエントリーでご紹介いただいたのがこの「宮澤賢治殺人事件」だった(ありがとうございました!)。あわてて取り寄せてすぐ読了したのだが、そのインパクトを自分で整理できずなかなか本書について書けなかった。あれから、3ヶ月たちようやく本書について書くことができた。なにが障害になって本書について書くことができなかったかは、後で考えることにしよう。

    「宮澤賢治殺人事件」は、ある意味では宮澤清六の伝を覆す試みであったと感じる。生前に名前が出なかった賢治の著作をまとめ、売り出した一群の人々をかなり克明に追っていた。なにせ著者の吉田司の母親がその一人であったというのだから、その著述は的確だ。著者の筆にかかると、賢治は結局「東京モダン」というスタイルを、花巻へ運ぶいわば文化の行商人ということになってしまう。また、賢治にとって鉄道の持つ意味が、作品の上からも経済的、家系的な問題からもかなり丹念に追われていた。私は、本書で初めて鉄道がモダンなものであったのだという感覚を得ることができた。賢治は、田舎に閉じ込められ、好きでもない家業につくことを強制され、自分は不遇だと思っていたに違いない。だが、質屋があこぎな商売だなんて後付の理屈にすぎない。賢治はただ商売に向いていなかった、それだけだ。そんな賢治が自分の力を発揮できたのは、幻想の中と鉄道で逃げ出した東京だけだったのだと、作者は主張している。

    それでも、病弱な身体を引きずって信仰に生きようとした姿を私は評価したいし、ヴァーチャルランドの中でしか、自分の思いを遂げることが出来なかったにせよ、執念ともいえるエネルギーで賢治の書いた作品が、さまざまな過程を経て現代にいたるまで読みつがれていることは否定できない。行間に宮澤賢治の作品への愛が感じられるにもかかわらず、なぜ吉田司が偶像破壊を目指さなければならなかったのが、私には読み取れずにいる。それこそが、私の限界なのかもしれないが。

    「雨ニモマケズ」の根本思想

    本書は、「雨ニモマケズを4つにわける」でリンクのお願いをさせていただいた蓮城寺のご住職から教えていただいた(ありがとうございます)。まあ、「4つにわける」はテーマの設定は悪くなかったかもしれないが、細部についてはまったくの素人考えだったなと感じた。法華経への理解がすすまないと「雨ニモマケズ」が目指したところは見えてこないのかもしれない、というのが本書を読んだ素直な感想だ。

    本書は、そもそも「中外日報」という宗教界の新聞に連載された記事が元になっている。したがって、宗教的なことに理解のある読者を想定してかかれているため、賢治を宗教界から見た視点にたって書かれた論評集だととらえられる。

  • 宗教新聞「中外日報」
  • 賢治自身の深い信仰と法華経の理解、そしてそれがいかに賢治の作品の中に結実しているかが本書の「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」の分析を通じて伝わってきた。私には法華経を語る知識も、法華経に対する信仰もいまのところないのだが、それ以上に宮澤賢治の時代における法華経のもつインパクトが伝わってきた。本書にあげられているだけでも、賢治が一時勤めた国柱会と高山樗牛や石原莞爾との関係の一端が理解できた。また、法華経信仰がいかに現代の世の中で大きな影響と力をもっているか、そして、その原型が国柱会にあったかを感じる。鉄道すらも巨大な仏教のメタファーだったのだと感じた。そして、そのメタファーは今に生きるわれわれにとって歌や詩や物語を通じてごくごく近しいところに存在しているというのだ。驚嘆してしまう。

    そう、ここでもまた鉄道が問題なのだ。

    ■銀河鉄道はどこにつながっているのか?

    賢治に興味を持つ方なら、これらの本はかなりおすすめの本かもしれない。いままでとは違った賢治像が浮かんでくることは確かだろう。今現在もグーグルなどの検索エンジンで「宮澤賢治」と入力するとおびただしい数の記事が出てくる。現代のわれわれの世代の宮澤賢治に対する深い関心を感じる。いま率直に、賢治にとって鉄道が持つ意味というのは、我々にとってインターネットが持つ意味にかなり近いのではないかと感じている。

    賢治が発明した銀河鉄道は長い長い軌道を経て、いまこのネットワークにつながっているのだ。

    ここに至り、なぜ賢治について数ヶ月間かけなかったのが、自己了解できるように感じる。それは、銀河鉄道からネットワークという現代の鉄道でつながり、私と同じにおいがかすかにする賢治の偶像の破壊を試みた吉田司があまりにも正鵠をいていたので、しばらくかけなかったのかもしれない。

    ■参照リンク
    雨ニモマケズを4つにわける (HPO)
    よだかの星と しあわせ切符 by 瀬戸智子さん 瀬戸さんの菩薩さまのようなやさしさが伝わってきます。やっぱり、賢治って不軽菩薩なんですかね?

    ■おわび

    文中で、一番核になった「宮澤賢治殺人事件」をご紹介いただいたことをきちんと明記しておりませんでした。finalventさん、大変失礼いたしました。

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    2004年9月20日 (月)

    [書評]ぼくんち bokunchi

    ぼくんち by 西原理恵子

    全巻を読んで。かなり落ち込んだ。読了した直後に会った方から「顔色悪いよ。疲れてんじゃないの?」とか言われてしまった。つい感情が生理に出る方らしい。

    しかし、本書がいまこうしてここに存在しているということは、この中の登場人物の誰かは生き残ったということだ。それはどうしても必要なことであり、私にとってひとつの救いだ。

    悪く取ろうとすれば、いま私が生きている現実もこの「ぼくんち」の世界と大して変わらないのかもしれない。自分自身も含めてエゴや、自我、自分の利益をむさぼろうとする衝動、男と女の間の欲望などがうずまいている。そして、それらの多くは実を結ばない。

    二太が山に向かって手を合わせるシーンがあった。しかし、山の上に住む「お金持ち」には「お金持ち」の苦しみや汚さがある。地の上にはどこにも天国はない。誰の上にも神はいない。あるのは、人間が生きているという現実だけだ。

    身勝手なようだが、この本を読んだ後でもなにも変わりはしないであろう私のこの現実を私自身がどう生きるのか、なにを生きていくのか、生き残っていけるのか、生き続けて生きたい。

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    2004年9月16日 (木)

    [書評]経営分析の初歩が面白いほどわかる本 Two More Steps to Accounting

    経営分析の初歩が面白いほどわかる本 by 市川利夫さん

    本来自分の商売についてのことはこのブログでは書かないことを原則としているのだが、著者の市川利夫さんのセミナーに出させてもらったので、この出会いを出会いとして素直に受けとめそのさわりを書く。どうも私の同僚諸兄の方々もたまに記事を読んでらっしゃるようなので、私のセミナー出席でかけた負担のお詫びに少しは役に立つことを書こう。

    多分本書は、会計や財務の初心者むけに書かれた本だと思う。本当に電卓片手に演習問題を解きながらでも、一日で読めてしまう内容だ。しかし、やはり著者ご本人の解説を聞かせていただく幸運に恵まれたせいかとても含蓄の深い内容を含んでいるように感じる。もっといってしまえば、ここで語られている内容はMBAカリキュラムのAccounting(会計)の授業で1月くらいかけて学ぶ内容に匹敵すると感じた。MBAのコースの基本科目はコアカリキュラムといってかなり標準化が進んでいる。米国の会計やファイナンスの教科書のわかりやすさ、すばらしさは感動ものだ。多分、ハーヴァードの連中でもこのレベルでは変り映えしない内容をやっている。大体、大学院で初めて会計に触れるアメリカ人はかなりの比率に達するはずだ。それくらいの水準だった。

    会計を無味乾燥で、退屈で、誰がやっても同じだと感じる人は多いだろう。だが、会計はかなり強力な経営の武器だ。いや、これなしでは経営が成り立たない。商売を商売として理解できない。きちんと会計戦略を持ち、日々の活動にあたるべきだ。最近のように企業の信頼性がゆらいでいるいま、自分の会社の経営状況を冷静に分析し、どのような活動を通してどう貸借対照表までを改善していくかは大きな経営課題だ。自分の会社の経営分析をしてみると、実によく会社の長所から弱点、そして今後どのようになっていくかがわかる。経営者でなくとも、取り組んでみるべきだと私は信じる。

    本書で、経営分析のごくごく初歩から、分析のやり方、指標の解説、資本政策の考え方、キャッシュフロー経営の具体的なコア、決算書の読み方、会計基準の変更のリスク、管理会計の一部などをカバーしている。この薄さの本でこれだけの内容をカバーしているというのは驚異的ですらある。それでいて、かなり分かりやすい。一方、単に分析を行うだけでなく会計戦略をいかに行動計画にまで具体化し、実行するかというプログラムまで含まれている。実は表面づらの記述を越えて、書いてある内容は深い。この深さは、実際に本書を自分の仕事などに応用してはじめて感じられるものであろう。

    今回のセミナーでは、私はこの本を使って上場会社の分析を実習でやった。会計はまったくの初心者だという実習グループのメンバーとかなり突っ込んだ分析が以下の13の指標で出来たように感じる。かなり強力な武器だ。

    ・支払能力の検討
         自己資本比率:自己資本÷総資本×100
         流動比率:流動資産÷流動負債×100
         当座比率:当座資産÷流動負債×100
         固定比率:自己資本÷固定資産×100
         固定長期適合率:固定資本(自己資本+固定負債)÷固定資産×100
    ・収益性の検討(売上利益率)
         売上総利益率:売上総利益(売上-原価)÷売上×100
         売上営業利益率:営業利益(売上総利益-一般管理費)÷売上×100
         売上経常利益率:経常利益÷売上×100
         売上当期利益率:当期利益÷売上×100
    ・収益性の検討(資本回転率)
         総資本経常利益率:経常利益÷総資本×100
              (=売上経常利益率×総資本回転率)
         売上経常利益率:経常利益÷売上×100
         総資本回転率:売上÷総資本
         売上債権回転率:売上÷売上債権
         棚卸資産回転率:売上÷棚卸資産
         有形固定資産回転率:売上÷有形固定資産

    上記の式で会計独特の言葉がわからないという人は、ネットでしょこっと調べてみるか、本書を一読されることをおすすめする。数字の偉大なところは、上記の比率分析であれば、大企業でも中小企業でもおなじ尺度でその支払能力や、収益性、安定性などを評価できるとことだ。一社だけでなく二、三社を横並びにして分析してみると非常に分かりやすいし、自分の会社の妥当性が検証できる。

    そう、それに私の同僚諸兄、そうあなたですよ、あなた!ぜひ、自分で勉強してみてはどだろうか?

    余談だが、このセミナーの途中で専門の先生を呼んで「気功」をやった。ほんのさわりだけだったが、大変貴重な体験をさせてもらった。興味のある方のために、今日来られた劉超さんという先生のホームページのアドレスを置く。

    http://www2c.airnet.ne.jp/akiyama/yokohama/index.html

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    2004年9月 7日 (火)

    手塚治虫と心中物 ~when a man loves a woman~

    ■歌舞伎の心中物

    先日、たまたま「火の鳥・未来編」に出てくるマサトという少年とルーピーという異星の生物のタマミの逃避行を読んで、これは手塚治虫の作品の中で出てくるひとつの類型なのだはないかと感じた。少年と少女との逃避行という歌舞伎でいう心中もののようなパターンを持つ作品を、手塚治虫はいくつか書いているように感じた。

    ライオンブックスに収められた「安達が原」に代表されるように、手塚治虫のいくつかの作品には歌舞伎の影響が認められる。男と女の死出の旅を「道行き」というと思ったのだが、歌舞伎に詳しい友人に聞いたら親子の旅でも、義経一行の旅でも、旅をすることを「道行き」というらしい。「心中もの」とは、最初から愛が実ることのないことがわかっている男女が駆け落ちしてどちらかあるいは両方が死んでしまうという類型をもつ一連の歌舞伎をさすと理解している。

    やはり、実際にリストアップしてみないと具体的でない。ちょっと思い出したままにリストアップする。

    ■「アポロの歌」:1970年

    これは、近石昭吾のくりかえされる成就しない少女との愛の物語だ。愛を拒絶するあまり残酷な行為を繰り返し、精神病院に収容された近石少年へ加えられる治療という現実と、無意識で垣間見られるナチスドイツ支配下でのドイツ人の少年とユダヤ人の少女の生死をかけた一瞬の恋や、セスナで不時着した動物が仲良く暮らす現代の無人島におけるパイロットと女カメラマンの反発しながらも惹かれあう恋、そして未来の合成人間の女王と迫害される人間の少年との結ばれる想いの物語などが、交差しあいながら物語は進んでいく。

    舞台劇にたとえれば幕間にあたる、ギリシアの神殿のような場所でのシーンで、近石少年は、さまざまな時代で、さまざまな状況で、惹かれあい、恋に落ちるが、決して結ばれることがないと女神に宣託される。現実でも、ほかのどの時代でも、世間は二人の愛を迫害し、追い詰め、死に追いやろうとする。恋の成就することのないこの冷酷な世界から逃げようとしても、どの恋でも、どの物語でも、恋が成就する前に二人のうちのいずれかが死を迎えてしまう。最初から結ばれることがないことを宣言されてしまっている男女の愛の「心中物」だと私には読める。

    ・同作品の「Tezuka Osamu @World 解説

    ちなみに、この手塚治虫ワールドのページを読んで知ったのだが、「火の鳥 ギリシア・ローマ編」でも、似たモチーフが出てくるらしい。

    ■「百物語」(ライオンブックス5~8話):1971年

    この作品は、手塚治虫お得意のファウストを下克上の時代の日本に換骨奪胎した物語だ。女悪魔のスダマとの契約により若返った不破臼人は、メフィスト=スダマをお供に世界を漂白する。次第に自分の力に目覚めていく不破に悪魔のスダマは恋をしてしまう(!)。そして、不破臼人は若さも得、一国の主ともなり、最後の願いである美女として、目の前のスダマを選び取る。満足してしまえば、契約によりファウストよろしく魂を悪魔にあけわたすほかない。これも死を運命付けられた旅の果の「心中物」のひとつではないだろうか?

    ちなみに私は、ちょっといろっぽいポーズのスダマが好きだぁ!

    ・同作品の「Tezuka Osamu @World 解説」

    ■「火の鳥・復活編」:1970年

    昔いとこのコレクションの中で見つけたこの作品は、私にとって最初の手塚作品との出会いであったかもしれない。それ以来、「火の鳥」は何度読んだかわからないくらい読んだように思う。事故により身体の大部分を機械に変えられてしまった主人公のレオナは、人間も花も生き物がみな無機物にしか見えない。しかし、レオナには人間に見えるロボットのチヒロと恋に落ち(!)、未来都市から二人で逃げていく。しかし、文明の産物である二人は高度に保護された未来都市から逃げ出しても生きてはいけない。結局、レオナは生物的には死んでしまうが、チヒロとひとつに溶け込みあたらしいロボット、ロビタに生まれ変わる。死んでいっしょになるというのは、心中の殺し文句ではないか?

    ・同作品の「Tezuka Osamu @World 解説

    ■「どろろ」:1967~69年

    あまりここでネタばれしてしまうと、どこかから槍が飛んできそうなのだが、百鬼丸とどろろの漂白は、実は道行きというのにふさわしいように思う。生まれる前から48の魔物に身体の部分をとられてしまった百鬼丸は、自分の身体をとりもどすために旅をしながら妖怪を退治していく。この妖怪というのが実に人間くさい。金への欲望、復讐への妄執、食への貪欲さなど、あるいは高度成長時代のむきだしになった人間くささが反映されている。ここで語られる思慕の念も、常に満たされることはない。

    ・同作品の「Tezuka Osamu @World 解説

    ■「きりひと讃歌」:1972年

    いわずと知れた「白い巨塔」をベースにしたといわれる作品。ある難病とそれをめぐる人間模様がじつに生々しい作品だ。東京、東北を思わせる寒村、そして中国と主人公のきりひとが好むと好まざるとにかかわらず旅をしていく。難病の調査のために訪れた閉ざされた村のたづ、あるいは極限の芸を演じるために精神的に病んでしまった芸人の蓮花など、この旅の途中で、きりひと関わる女性が次々に死んでいってしまう。また、別に語られるきりひとのライバルである占部と女性の関係など、決して満たされることのない男女の関係と死に満ちている作品だ。

    ・同作品の「手塚治虫のすべて 解説

    ■「やけっぱちのマリア」:1970年

    よく性教育漫画だといわれる作品。実は、かなり荒唐無稽なストーリー展開を見せる。しかし、最初から結ばれることのないことがわかっている人間でない少女のマリアと、やけっぱち少年の恋の物語でもある。

    ・同作品の「Tezuka Osamu @World 解説

    ■「安達が原」(ライオンブックス第1話):1971年

    短編なのだが、私にはかなり印象的な作品だった。革命に生きた男女の時間を越えた物語なのだが、あまりにも悲しかった。完全なSF作品なのだが、前後の歌舞伎の謡をモチーフにしたページが非常に美しいと感じた。

    ・同作品の「Tezuka Osamu @World 解説
    ・「「安達が原」のユーケイ」 by 佐藤和美さん

    ■「アトムの最後」:1970年

    内容的にはアトムの最後というよりも、男女の駆け落ちとその顛末がメインの作品だ。あえてここで書かないが、私にはかなり意外な結末だった。これも死と成就しない恋の物語の類型だといえよう。これ以上書くとどうしてもネタばれは避けられないのでやめる。

    ・同作品の「手塚治虫のすべて 解説

    ■「品川心中」:1966年

    ネットで探していたら出てきた。落語がオリジナらしい。私は未読だが、この落語がベースだとすると偽装的な男女の心中といったことらしい。

    ■男が生きる、生き延びるということ

    以上、「心中物」という関連で思いついたリストをネットで調べながら以上を書いた。当初思いつきで作ったリストで、上に含まれていないのは「ネオ・ファウスト」くらいだが、良く思い起こしてみるとこの作品には最初から報われることのない男女の愛は描かれてはいない。逆に、「品川心中」はネットで初めて知ったし、「アトムの最後」も調べているうちに思い出してリストに加えた。

    驚くべきことにほとんどの作品が1970年前後に集中して書かれている。私はかなり熱烈な手塚治虫ファンで、すべてとは言わないが手塚作品のかなりを読んでいると思う。しかし、上記のリスト以外に最初から実ることがない、あるいは恋人が死んでしまうことが決定されている恋愛をテーマにした作品が思い浮かばない。まあ、もともと手塚作品で男女の恋愛をおとぎ話にならないシリアスに書いた作品というのは少ないということはある。

    あえてこのほかに男女の道行きあるいは心中ものとして想い浮かぶのは、「未来人カオス」、「シュマリ」くらいだ。いずれも上記のリストの作品とはあまりにもテーマの設定が異なるように感じる。

    そこで、仮説なのだがこれらの手塚治虫の「心中物」は、手塚が自分で生き延びるためにどうしても書かねばならない作品だったのではないだろうか?この問題の1970年に手塚治虫は42歳になっている。つまりは、男の厄年だったのだ。手塚治虫にとって、この年齢というのは実は人生の転換点だったのではないだろうか?私のごく身近な男性でも厄年に生きるか死ぬかの思いをなんらかの形でしている方が多くいるように感じる。そして、この転換点を乗り越えるためには、性愛にも近い男女の恋愛関係が必要だったのではないだろうか?いや、決して手塚治虫のスキャンダラスなことを書こうというのではない。実生活の上ではなくとも、自分の作品の中で男女の愛を描くことが男の人生を生き延びるためには必要だったのはないかと感じる。

    実際手塚治虫は1968年に虫プロを設立したが、1971年にはいろいろな争議の末に社長を退陣している。また、1973年にはとうとう虫プロを倒産させてしまった。1970年前後の年というのは、かなり手塚治虫にとって危機的であったに違いない。そして、その危機がこの天才をして火の鳥シリーズや、上記のような非常に迫力に満ちた作品を生み出させることになったのだと感じる。

    ■無謀なトラックバックにあたり... 「手紙に書いたkiss」 by リリカさん

    ええと、私のようなものがトラックバックをさせていただくのは気が引けてしまうのですが、同時期に公開された天才といわれる人と恋愛についての関心ということでトラックバックさせていただきます。

    > ふたりが抱きあったのは、しかし、彼の想像にすぎない。からだが触れあうことさえなしに、愛を経験させてくれる別世界。

    リリカさんのように適切で美しい表現ができませんが、この辺の感覚が自分が手塚治虫について書いていて彼が作品に託した思いなのではないかと感じました。

    ■「プロジェクト2501」by たりぼんさん へのトラックバックにあたり 平成16年9月23日

    「リンク元記事」をみていてたたりぼんさんの記事からのアクセスがあったので、ひさしぶりに読み返えさせていただきました。

    > 彼がロボットと意識を融合し「ロビタ」となりましたが、たくさんのロビタは世界をどのように認識していたのでしょうか。手塚治虫はそれを描いては居ませんが。

    勝手な憶測をすれば、融合した後は描く必要のない世界なのかもしれません。↑にかいたように男と女の関係に代表されるように、人が葛藤しながら、苦しみながら、戦いながら生き抜いていくというのが「火の鳥」の物語なのでしょう。もしそこに解決があるとすればコスモス=火の鳥と融合するということなのかもしれません。

    そして、それはそのまま手塚治虫自身の生き方と重なるのかもしれません。

    ■参照リンク
    Manga3 by イノガミさん

    ■追記

    なにかここで感じた手塚治虫の聞きと通底するものを感じた。

    影とアニマの関係についての語り口調にはなにか不思議な思いがこもっていた。真面目に見つめる女子学生に、いやこれは男性の中年期、40歳ころの危機の問題になる、というようなことをくぐもりながら言っていた。
    [極東ブログ:河合隼雄先生のこと]

    気がつくと私も数え年で42だ。このエントリーをあげたときには想像もつかない不思議な感じがする。

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    2004年8月25日 (水)

    [書評]素晴らしい世界 what a wonderful world!

    うう、泣きそうだ...

    m_um_uさんが以前記事を書いていらした本書を手に入れてから席の後ろのロッカーに積んだままにして何週間たったのだろうか?

    クソ忙しく(もないか...)残業していて、ふと手にとって読み始めた。

    ここには、本当に世界があった。人の生き様があった。

      「お前ら二人とも、それぞれそれでいいのさ。」

      「キミって子供だね。大人は大人で必死なのよ。」

      「逃げてねーよ・・・、これでも前に進んでんだよ・・・。」

      「・・・サービスです。」

      「誰ひとり自分が世界から消えるなんて考えてもいないのよ。」

      「『ああなんて素晴らしい世界だ』嘘でもいいからそう思ってみれば、昨日よりちょっと楽しい気分。かも、ですわよ。」

    人は寂しく生まれて、寂しく死んでいく。これは事実だ。みなただ生まれ来て、いまここに生き、そしてどこかで死ぬ。これを意味がないと見れば、意味がないまま生まれ、意味がないまま生き、そして意味がないまま死ぬ。

    本当の自分なんていない。自分なんて人から与えられるものじゃない、きっと自分でつくりあげるものなのだ。青い鳥だって、探しにいったからいまここで見つかった。探しに行かなければ、自分で行動しなければ、青い鳥を自分の家で見つけることはできなかった。

    苦しみながら、つまづきながら人はあるがままで生きていく。いまあるがままの自分をひきづりながら、自分をなだめすかしながら、ときには立ち止まり、おびえて一歩も歩けなくなり、それでも死ぬまで生きていく。ここにこそ、素晴らしい世界がある。

    m_um_uさん、ありがとうございます。美しく、そして素晴らしい世界を見せていただきました。

    ・「素晴らしい世界 1」、「素晴らしい世界 2」 by 浅野いにお

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    [書評]信頼と安心の年金改革 ~ Mostly What I Need From You ~

    信頼と安心の年金改革 by 高山憲之さん

    ■第一印象

    私のように年金問題のプロでもない人間がいうことではないが、著者は相当この業界に長くいらっしゃる方なのだと感じた。どの辺に日本人が関心をもっているか、どう言えば読者に受けるかを相当考えぬいていらっしゃるように感じた。ただ、ちょっと問題をオーバーにもりあげすぎではないだろうか?

    そんなこんなで、どうも枝葉末節ばかりが気になり全然全体がまとまらないのだが、読後いくつか気になったことを書いてみる。

    ■年金の受給権

    ・p.6 「年金の世界では保険料を拠出すると年金の受給権が発生する。」

    ごく簡単に書いていらっしゃるが、前回の記事における「とおりすがり」さんとの議論を経て、今私が結構疑問に思っているのが日本にいる我々には「年金の受給権」なるものが存在するのかどうかだ。「受給権」があるということは、普通に考えれば保険料を払っている人たちに対して政府は将来年金を払うという約束をしたことになり、固い言葉でいえば、国民への債務をもっているということだ。

    ほんとうに債務があるかとか考えていたら、たまたま古川元久議員のホームページに、内閣との質疑が掲載されているのを発見した。この中で特に明確に述べられているわけではないが、国民に対する「債務」を政府なり、担当官庁なりが負っているという感触はこの答弁からは感じられなかった。

    【すぐわかる古川元久-政策】公的年金制度等に関する質問主意書&内閣からの答弁書(ワードファイル)

    私達のように保険料を負担している被保険者たちが、国に対して受給権という債権(受給権)を持っているかどうかというのは、債務に対する法律の規定一つでどうとでもなりうる。なにせ法律を作るのも、運用するのも担当官庁によってなされている。受給権の定義すらわかっていないが、これはいかようにもなってしまう種類のものなのだろう。今回の改正案の強行採決の様子などをみていると、本当に何千万円と保険料をはらっていても、法律を変えられたら保険料が紙切れ同然になる。いや、いくら払ったかの記録すら普通の人はもっていないし、いくらもらえるかの予測もない、紙切れ以下だ。

    なんとなくこの辺が、↑の答弁書で「賦課方式を基本とした方式」で「収支を均衡させる」年金なんて矛盾した表現につながっているような気がする。この答弁書の文書に自己陶酔を感じてしまうのは、私だけだろうか?被害妄想なのだろうか?いったいこの答弁を読んで、狐につままれた気がしない人がいるのだろうか?一体、これでどうやって厚生年金に加入することによって「老齢、障害の不安を解消し、安心して働くことが可能」になるのだろうか?

    ■年金債務は実在するか?

    そういえば、法律的に年金財政が破綻した時、政府がその債務を負うと関連する法律に書いてあるのだろうか?根拠法を読んだことがないことに今更ながら気がついた。

    厚生年金保険法 @ 法庫

    第2条 厚生年金保険は、政府が、管掌する。」とあるから、さすがに年金財政は最終的には政府の責任だということになるだろうと類推する。Yahooの辞書によると「管掌自分の管轄の職務として責任をもって取り扱うこと。」とある。だが、もし年金が破綻したら日本政府に対する各金融機関の各付けは地に落ち、国債がまったく消化できないという状態に陥るのは目に見えている。まあ、そうなったとしてももっと言ってしまえば政府は国民の税金でまかなわれているわけだし、日本の国債も国内で消化されているようなので、政府がなにをやろうと最終的な責任を取る実体は私たち一人一人だということにはなるのだろう。

    あまりに当たり前であるが、一応、受給権の規定も条文にちゃんとかいてある。

    (受給権者)第42条 老齢厚生年金は、被保険者期間を有する者が、次の各号のいずれにも該当するに至つたときに、その者に支給する。

    どうも、この条文の主語が政府なのか、厚生労働省なのか、社会保険庁であるか明確ではないが、年金というものは「支給」していただくものであって、どうもむりやりにでも請求できる債務といったものではなさそう。ただ、この法律に基づいて行動して支払いが滞ったら大変なことになるだろうが、積立金がこれだけある限り絶対にそんなことにはならい。ちなみに、多くの諸外国で年金支給の何年分にもあたる積立金をもっているところはない。異常値だ。

    こう考えてみると、「受給権」という約束にもどづく年金支払いの約束というものは果たして著者がいっているように本当に「債務」といえるものなのだろうか?

    ■本当に600兆円なの?

    百歩譲って政府が我々に「受給権」を認めていたとしても、年金財政が破綻してしまえばもうどうしようもない。著者は、現行の厚生年金だけで過去拠出分と将来拠出分の支払いを約束した債務としてあげている金額の600兆円が納得いかなかった。そこで、以前自分が作った人口&年金収支シュミレーションにDCF(現在価値)の考え方を取り込んで計算してみた。ああ、人から指摘される前に言い訳しておかべ人口のシュミレーションも、年金の収支もかなり仮定の多いあやういものである。どのような仮定を置いているかについてくわしくは「ひともすなる年金といふもの」という記事をご覧いただきたい。

    エクセルファイル

    高山教授の試算は「100年分、割引率4%、物価上昇率1.5%」だったが、私の試算は手抜きをして「60年分、割引率2.5%」とした。これは、「割引率4%-物価上昇率1.5%=2.5%」だろうという考え方からだ。これでも、現在価値で厚生年金だけで281兆円余りの給付の赤字が生じることになる。60年間で名目値の合計だと660兆円になる。私の試算には税金からの負担分が入っていないので、ちょっとずれが大きすぎる。

    いずれによせよ、一応は今回の「改正」でこの赤字額は圧縮されたのは事実であろう。

    ■まだまだ続く...

    本書の本当の価値は、海外の事例などをかなり公平に論じているところであろう。世界銀行のレポートがこの10数年あまりの世界の年金議論の発端となったことは知らなかった。著者は、「公的年金」についてのレポートだといっているが、このレポートのタイトルを正確にいえば、「Averting the Old Age Crisis」(老齢の危機を回避するためには」)だという。例によって答弁書にもあったが、生活保護や高齢者福祉などと本来年金は一体不可分のものとして議論すべきである。

    ちょっと寄り道だが、「開発」を主要任務とする世界銀行が「老齢の危機」の問題を扱うのか違和感があったが、kohさんのブログを読んで少し腑に落ちた。

    「開発」とは何か by kohさん

    世界銀行のレポートは、もうちょっと恣意的に年金を経済開発に使おうという意思が見え隠れしているようだ。それにしても、kohさんの記事を読んで「開発とは社会変革なのだ」と私には納得できるものが得られた。そうなのだ、社会を開発するとは、社会を変えるということなのだ。世界銀行的な「開発」観からいえば、その国に住む人がなんとか安全に生活できるようになるのがまず社会改革の第一歩なのだろう。その後にいく開発の段階があるのか分からないが、そういう意味では上述の「答弁書」ではないが「働けなくなった老後の安心を自分で作り出す、相互に支えあう」という年金は実は究極の開発であり、究極の社会改革なのかもしれない。

    本書において理論的な背景も、かなりマクロ経済に近いところまで説明されている。年金関連の本としてはただしい理解をされているように感じた。だが、どうもこの辺を日本の現状に適用しないところ著者の考え方との落差を感じる。実は、海外の事例を見ても、やはりそれぞれの国の事情があり、引きずるものがあり、なかなか究極の解決はないようにも思われる。ドイツの最近の不景気のひとつの原因は公的年金をめぐる混乱があるともいう。スウェーデンの年金改革がかなり評価が高かったようだが、本書にはあまり取り上げられていない米国式の年金が、日本にわりとあてはまりやすいように感じた。これはあくまで私見、直観にすぎない。

    私がこの記事で触れきれなかったことについて、Hiroetteさんや珠丸さんの記事が大変本書についてよくまとめていただいていた。

    【公的年金TF】信頼と安心の年金改革 by高山憲之 メモ書き by Hiroetteさん

    国の高齢者就労促進対策(高山憲之教授「信頼と安心の年金改革」より その2  by 珠丸さん


    ちなみに、この本を読んでいてなんとはなしに思いついたのは、臨時国会の間に民主党は年金改革の廃案を求めるのでなく運用、収支、徴税率などの情報を第三者機関の監査こみで公開させる法案を提出すべきだったのではなかったかと感じた。もし、この法案を与党が否決すれば与党は「よらしむべし、しらしむべからず」体質が色濃いことが明らかになり、かなりのダメージだし、通れば一得、かつ国民の年金信頼が増すと思うが、いかがか?

    ■参照リンク
    [書評]信頼と安心の年金改革 (HPO)

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    2004年8月15日 (日)

    [書評] 年金大改革 ~ a wild pension chase ~

    [書評] 「年金大改革―「先送り」はもう許されない」 by 西沢和彦さん

    ■年金をめぐる冒険

    くりおねさんの記事に刺激され、本書を読んだ。

    たとえば、米国人にとって公的年金とはなにか?感覚的に一番身近なのは、ソーシャル・セキュリティー・ナンバー(social security number)が公的年金の登録番号であるということだろう。ああ、もっとも本書によると米国では「年金」でなく「社会保障税(social security taxes)」という税金なのだそうだ。ソーシャル・セキュリティー・ナンバーは、公に自分を表す基本番号になっている。米国に住むようになると、なにはともあれ誰でもとらなければならないのが、ソーシャル・セキュリティー・ナンバーだ。免許証から学生証、銀行口座、医療保険まで、個人を示すありとあらゆるところに使われる。米国に住む人にとって、とてもなじみの深いものだ。そう、ちなみに詳細は知らないが米国民であるなしにかかわらず、米国に住んでいればとらなければならないものらしい。社会保険事務所にいったときに、賃貸契約書の提出を求められて記憶がある。

    Social Security Tax by IRS Frequently Asked Questions

    翻って日本人に公的年金はなにかを問えば、「毎月給料から引かれたお金があとで返ってくるはずであろうお金」という程度の認識で、自分にどんなかかわりがあるのか、なんのためにあるのか、どんな役に立つのか、日常で関係があるのか、皆目感覚的に自分から離れてしまっているものだろう。年金手帳に番号なんかあったっけ?という感覚だ。

    本当に公的年金はなんのために払うのか?公的年金制度はそもそもなんのためにあるのか?

    この答えを本書、「年金大改革」を読みながら探していきたい。

    ■雇用コストからみた公的年金

    本書を読んでいてなるほどと思ったのは、年金負担を雇用コストとしてとらえていることだ。

    P.38 (正社員として雇用できないのは)高まる雇用コストや 新規正規雇用を抑制している側面も否定できない。

    P.48(厚生年金制度は)むしろ常用雇用に抑制的なメカニズムとなっている。

    あなたが給与所得者であるなら、一度や二度は自分の給与明細を詳細にみたことがあると思う。健康保険、雇用保険とならんで厚生年金、厚生年金基金などの支出項目があるのをご存知だろう。だが、案外盲点らしいのが社会保険の労使折半という制度だ。つまり、雇用主と労働者の間で社会保険関係については半分ずつ負担する。しかも、雇用主側の負担は給与明細には出てこない。つまり、あなたが給与明細を見て「ああ、こんなに厚生年金をとられているんだ。」と思う額と同じ額が会社で負担されている。いわゆる「福利厚生費」として、会社の財務報告書に記載される項目である。本来あなたの給与の一部を構成する金額なのだ。

    そういやあ、本書における各国の年金制度で労使折半なんてどこにも出てこなかったけど、あるのかな?

    私の住む県内で数十ものチェーン店を展開しているある会社では、正規雇用の社員は数人しかいないという。雇用コストの問題でけではないのだろうが、レジから店長にいたるまで、あるいは会社の事務のかなりのところまですべてパートなのだという。これは経営の面からみたら雇用コストを抑える意味で合理的だし、たぶん女性が多いと思われるパート社員にとってもいらない労使折半分などの費用を賃金としてもらえるとか、勤続しつづけなければいけないという会社の昇進の仕組みからのがれられるということで、それなりに快適なのかもしれない。だが、これでいいのか?国全体でこういう雇用形態が一般化したら公的年金制度は厚生年金も国民年金も崩壊するだろう。

    あるいは、私の個人的な体験だが、従業員に自分が社会保険を負担しているという意識をもってもらうため、社会保険の会社負担分を給与明細に記載できないかを以前調査してみたが、社会保険労務士に強く反対された。「給与支給金額を労使折半分も含めて明示すると、それは給与に含まれますます社会保険費用が増えてしまいますよ。それに、そんなことをすると陰に陽にいじわるされるってうわさですよ。」といわれた。「いじわる」ってなに?

    ちなみに、国民年金と厚生年金の一体化をよく政治家が口にするが、この会社分担分の「雇用コスト」は、どう手続きさせようというのか?被用者であった人が独立した場合は、いきなり公的年金負担額が倍になるのか?非常に疑問だ。

    ■厚生年金に年末調整はない

    もっといってしまえば、本書の範囲よりはるかに微視的な問題だが、社会保険の手続きは非常に煩雑であり、非関税障壁ではないが「非金銭負担」というべき雇用の費用がかかっている。正直、私は私の所属する会社で毎月給与計算をしているが保険事務所への申告手続き、社会保険の変動の反映、社会保険労務士への報酬など、結構な手間と時間を費やしている。

    給与計算をやっていて、一番腹が立ったのが、パソコンで計算している給与データを年に一度の賃金の報告書の提出でプリンターで出力したものをもっていったら、たった一項目出力の順番が違うというだけで拒否され、手書きで全部書き直させられた。私の使っているパソコンソフトメーカーによると、全国的にはこのパソコンソフトで出力した書式の方が一般的だというのに、この業別組合の書式とは違うのだという。ちなみに、繰り返すが出力した内容自体に過不足はない。順番が違っただけ。この精神的苦痛と時間は、"priceless"と叫びたくなるくらいひどいものだった。

    ちなみに、厚生年金の負担は12ヶ月のうちの3ヶ月分の給与を各年金事務所に報告することによって決定される。最近、賞与も同率でかかるようになったので賞与のたびに報告しなければならない。これらの手間はまだしも、所得税などでは年末調整というものがあって年末に必ず実際に払うべき税金と控除額との差を計算して還付するなり、払い込むなりの手続きを行うのだが、厚生年金、厚生年金基金で年末調整が行われたとは聞いたことがない。つまり、かならずしも保険料率と払い込む額が一致しないままでも還付も、追加負担もない仕組みになっている。

    社会保険の保険料の年末調整? by [Y&K]無料相談センター

    ■マクロ経済的観点の必要性

    本書の第3章では公的年金の「積立金」について詳述されている。

    年金の自主運用が始まっている事は知っていたのだが、本書を読んで始めて知ったのは、これが2007年まで財政融資資金特別会計から段階的に返還が行われていて、厚生年金の積立金の140兆円あまりのまだ3分の一程度の自主運用がはじまった段階なのだという。

    これは、ぜひ経済学に詳しい方の意見を聞いてみたいという意味でここに書くのだが、公的年金積立金の自主運用に国債や財政投融資から資金が戻されると市中金融機関に国債の消化が促されるのではないだろうか?というか、年金積立金を返還するための100兆円を超える金額を国債で調達しようとするとその市場における国債の消化に問題が出るだろう。つまりは、国債価格が下落して金利高につながると想像する。民間金融機関にも収益の圧迫圧力になるだろ。非常にマクロ経済的な分析を行うべきポイントであるが、年金の自主運用とのからみでのマクロ経済的な分析というのはお目にかかったことはない。本書にも現代投資理論との関係で、これだけの規模の資金のポートフォリオを組むことは不可能だという指摘があった。

    2007年の返還完了まであといくらもない。

    ちなみに、この章を読んでいて年金積立金の想定の利回りを4.5%もの高率で設定しているという話を読んで思い出したのが、以前デリバティブ取引で合衆国のカルフォルニア州オレンジ・カウンティの財政が破綻して、前代未聞地方政府の破産宣言につながった。投資の破綻の理由は、投資ポートフォリオ構築における条件設定の範囲を越えた額の投資行動だったと聞く。つまり、破綻するはずのないポートフォリオを組んだが、それはあくまでも限られた分量しか取引されていないデリバティブ商品の市場範囲内で有効だったところへ、その市場額をはるかに越える資金を「負け」をとりもどすためにつぎ込んだために生じたという。まあ、公的な資金をデリヴァティブにつぎこむというのはやりすぎであったのだろうけど。

    流動性で躓いた人たち by 矢口 新さん

    ちなみに、2002年現在の公的年金の自主運用ではすでに5兆円を超える運用損をだしているそうだ。


    ■公的年金問題の前の一個人は、ゾウの前のアリか?

    まだまだ、本書のテーマははばがひろい。これだけで、書評としたらきっと作者の西沢さんに怒られてしまうのだろうが、私の印象に残った部分だけをひろわせてもらった。それでも、本書が示す最大の成果は、ある程度の情報開示があれば、複雑だといわれる公的年金制度において検証、提言が一個人で十分に行いうるということを実証したことであろう。もちろん基礎的な統計データをまとめるのにこそ莫大なエネルギーが必要とされるのだろうが、予算的にも人材的にも莫大な資源を使いながらも5年に一度しか公的年金の再計算を行わない官僚たちは日々なにをしているのだろうか?あるいは、米国では国債でした公的年金の積立金を運用しないとしながらも四半期ごとに詳細なレポートをインターネットで開示しているというが、公的年金の自主運用のレポートは開示されているのか?

    そろそろ最初の問いに戻りたい。公的年金は、我々にとってなんなのか?著者は、次のように書いていた。

    P.72 公的年金制度は、保険料を拠出する国民と年金の給付を行う政府との間に交わされた契約と見ることができる。

    日本にはおいては、果たして契約関係というべきものが成立しているのかはなはだ疑わしい。国庫からいくらとか、消費税を財源として国民年金の帳尻をあわすとか、さまざまな議論があるようだがいっそ米国なみに社会保障税として全てを税金化してしまった方が逆にわかりやすさが増すと感じた。厚生労働省の「世代と世代の助け合い論」には全面的に賛成しかねるにしても、これから人口構成の内の高齢者の割合が非常に増えて、個々の家族で親世代の面倒を見ることができないのなら、誰かが面倒をみなければならない。なんらかの費用負担は不可欠なのだろう。だから、その財源が税金であれ、公的年金であれ自分たちが納得の行く制度が必要であるし、自分たちが負担しなければならないということは間違いのない事実だ。この意味で、また介護保険との関わり、医療保険とのかかわりで、公的年金の税制化が議論されてしかるべきであろう。

    しかも、多分史上もっとも裕福な65才以上人口を支えるために、史上最も親世代よりも貧乏になるであろう我々40才以下の世代が支えなければいけないというパラドックスを社会的にも、個人的、心情的にもどう解決したらよいのか?

    いまのままでは、公的年金とはなんなのか誰もなにも納得のいく答えをだせない。

    そして、ごくごく小さなわがままを最後に言わせてもらえば、せめて厚生年金も年末調整をしてほしいし、労使折半などとわかりにくいことをせずに一本で給与明細に記載することができるようにしてほしい。公的年金が税金になれば窓口が一本化するので、すこしは事務手続きも減るだろう。もっといえば、年金が税になれば公的年金を払わないと今度は脱税になる。年金の空洞化の防止にも役立つだろう。それは、財務省と厚生労働省の管轄の問題があるから難しいとかいう話は聞きたくない。ことは、かなり切羽詰っている。

    余談だが、本書ではかなり詳細に年金関係のシュミレーションを行う実務的な方法が述べられていた。それは、以前私が厚生年金の雑駁なシュミレーションをしたときの手法とかなり近かった。また、年金討論会で見せていただいた4991枚のデータ部分から類推できる手法とも近いように感じた。精度においてまったく比較にならないのだろうが、ちょっとうれしかった。

    ひともすなる年金といふもの (HPO)

    ■この本は国民の必読書かもしれない

    まずは、真剣に本書を読んでいただきたい。私のブログにおいて、「読め」などとかくつもりはさらさらなかったが、これは本当に日本国民の必読書かもしれない。最初の1章を読んだだけでも、世代別でこんなに年金の払込額と受け取れる額が違うのかと愕然とすること請け合いだ。公的年金の問題ひとつとっても、きちんと思考すれば国家とあなた自身とのかかわりについて、認識が新たになると感じた。

    ■追記 平成16年8月15日 「週刊!尾花広報部長」へのトラックバックにあたり...

    年金討論会の時は、大変お世話になりました。「後だしじゃんけん」的な出席のお願いだったにもかかわらず、参加させていただき、するつもりのなかった質問までさせていただき、年金問題を考えるきっかけとなりました。ありがとうございました。

    みなさまのご努力によりCD-ROMデータまで厚生労働省の方々から出していただけるようになってよかったですね。いま、お盆のお休みを利用して年金問題を一生懸命勉強中です。

    ■追記 平成16年8月16日 「小子化問題とか年金のこととか、それが何か?」@月ナル者へのトラックバックにあたって

    別件でトラックバックをいただいたのだが、ふと興味深い記事をかいていらっしゃったのを発見したので、すかさずトラックバックさせていただいた。以下のような問題を指摘されているように感じた。

    ・労働力の現象への対策としての移民の問題
    ・現在あるいは将来のいわゆる外国人労働者への課税の問題
    ・もうちょっと拡大して年金の問題

    ちなみに、まだ調査不足でこれから調べところなのだが、この記事の冒頭にかいた米国のSS#(ソーシャル・セキュリティー・ナンバー)は、外国人として入国して移民となるとか、市民権を得るとかしたときまで統一された番号で学歴、職歴、賃金、保険加入歴などを追跡していける仕組みだと思う。

    月ナル者のGiraudさんご指摘の問題も、今後年金、税制、諸保険制度の改革において議論されなければならない問題であると感じた。

    ああ、でも「そんなのは現在のところ無視されるほどの誤差くらいの問題でしかない。」とか言われて終わりなんだろうな...

    ■「 【公的年金TF】年金の積立金と財政投融資について」へのトラックバックにあたって 平成16年8月18日

    相変わらず時勢に疎い私は、Hiroetteさんが、こんなに分かりやすく、すばらしい記事を書かれていると今日まで気がついていなかった。更新をストップされてから、きずくとはうかつだった。Hiroetteさんは、多分一番の焦点である積立金の問題にぐいぐいと筆をすすめていらっしゃる。リンクされている財務省理財局のページも分かりやすかった。更新を再開されてから改めていろいろと意見交換をさせていただきたい。

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    2004年8月10日 (火)

    [書評] アップルシード 2巻 apple seed 2nd volume

    アップルシード=りんごの種」の物語。「攻殻機動隊」で有名な士郎正宗の代表作のひとつ。

    りんごとは地球のことを指すのだろうか?たぶん宇宙に浮かぶ青いりんごだ。また、エデン=理想郷からの人類の追放をも意味するのだろう。「りんごの種」とは、あまい果肉にうまった硬い種であり、新しい種=新たな理想郷、新たな人類を生むものという意味だろう。

    「だろう」が続くのは、まだ古本屋で見つけてきた1巻と2巻しか読了していないからだ。最近公開されたアニメーションも見ず、最終巻が何巻なのかすら知らず、物語を最後まで読まずに書評を書こうという無謀なトライをしてみる。

    士郎正宗は、この作品で人類は理想郷を作り出せるのか?、作り出せたとしても理想郷を維持する人間を継続的に生み出せるのか?、真の理想郷とは何か?、という思考実験をしたかったのだと感じる。理想郷を作り出そうとしているのは、この物語の舞台となる人工都市オリュンポスの、理性と感情のバランスのとれた作られた人類=バイオロイド達と総合管理局を構成するコンピューターだ。オリュンポスの「総合管理局」は、コードウェイナー・スミスの人類補完機構のように、来るべき次の世界大戦の後の世界を管理している。

    ちなみに、人類補完機構シリーズの作者である「コードウェイナー・スミス」は、ポール・ラインバーガー博士のペンネームで、博士はリアルの世界で戦中戦後の米国のアジア外交において陰に陽に活躍されたと聞く。

    ・はてなキーワード:コードウェイナー・スミス

    人類補完機構のモットーは、ちょっとながったらしいが「監視せよ、しかし統治するな。戦争を止めよ、しかし戦争をするな。保護せよ、しかし管理するな。そしてなによりも、生き残れ!」」だそうだ。これは、ほとんどこのままアップル・シードの総合管理局のモットーに使えるのではないだろうか?疲弊しながらも大国のいくつかは大戦を生き残り、自治を行っている。総合管理局のコントロールのもと、すこしずつ復興していく過程にある。もしかすると、この後の世界が攻殻機動隊へと続くのだろうか?

    スミスの人類補完機構のどちらかというと静的な管理された世界にくらべ、思考実験としての興奮度は本作の方がはるかに動的であるように感じる。人類補完機構にせよ、オリュンポスの総合管理局にせよ、完全にはたらけばはたらくほど、現代の我々がかかえる「豊かさの矛盾」、「最後の人間」問題を引き起こしていく。

    しかし物質の豊かさは、共同体を不必要にし、集団を解体し孤立をまねく!...このままでは遠からず社会は機能を失い、地球は人間にとって不便なものとなるだろう。

    以前の記事で、「私は、衣食住と安全が満たされてしまった社会というのは、決して理想の社会ではないと感じてきた。」と私は書いた。自己言及など老害のあらわれかもしれないが、こう書いたベースにはヘーゲル=フクヤマがあったように感じる。

    この辺の矛盾を、本作の作者が1992年のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」の出版に先立つ1985年以前に発表しているということは特筆すべきことではないか?たしか、作者は私とあまり年齢がかわらない。1961年生まれだから、当時まだ24才のはずだ。引き比べると、自分の非才を嘆きたくなる。

    『歴史の終わり』メモ by ???さん ちなみにいまだに更新がない。このメモの作者はどこへいってしまったのだろうか?

    2巻の結論は、総合管理局をつかさどる巨大コンピューター、ガイアの暴走という形できちんと示されている。この点でもフクヤマよりも作者は上かもしれない。

    釣り合っていない巨大な天秤。理想化自身が目的の理想郷。よくできた道具。

    「巨大な天秤」とは、世界をその上に載せた人類の生存をその使命とするガイアのことだろう。一応、ネタバレを回避しながら書けば、作者が2巻の結末で示したかったのは、去勢されたような人間の静的な理想郷など存在しないといこと。そして、苦しみながら、ゆらぎながら、危険に身をされしながら、生き抜いていくことこそ人間の本質であり、人間の生き方なのだと私は感じた。ことここにいたり「ファウスト」との相関性を感じる。

    ■参照リンク
    竹田青嗣インタビュー「哲学は進歩したか」 @ ゑれきてる
    APPLESEED / アップルシード by THUNDER さん(?)

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    2004年8月 1日 (日)

    「雨ニモマケズ」を4つに分ける

    不謹慎な話から始める。自宅のおトイレの壁に、「雨ニモマケズ」が長いことはってあった。しらばく、それを見ているうちにこれは全体が4つにわかれ、それぞれがまた4つにわかれるような感じがあった。

    先日、極東ブログのfinlaventさんが「菩薩行」との関連を指摘されていた。そして、宮沢賢治の手帳に書いてあったこの詩の通常の表示では「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わりになっているのだが、この手帳の次のページに法華経とおぼしき経典の抜書きがあったことを詩碑へのリンクを通して教えてくださった。

    ・手帳の写真:

    詩碑 


      南無無邊行菩薩
      南無上行菩薩
     南無多寶如來
    南無妙法蓮華経
     南無釋迦牟尼佛
      南無浄行菩薩
       南無安立行菩薩

    この「南無妙法蓮華経」とある前後の名前を調べたところ、法華経の中の「従地涌出品第十五」に出てくる四大菩薩の名前だとわかった。

    従地涌出品第十五 by kuukiさん

    また、無量百千萬億の地涌の菩薩が國土虚空に満しているのが見えた。この中には四人の導師(四大菩薩)がおり、名を上行無邊行淨行安立行と言い、上首唱導の師であった。が釈尊に挨拶をする。

    「雨ニモマケズ」とその次のページがもし対応するとすると、以下のようになるように感じる。ただし、四大菩薩が示す菩薩行と詩の内容は必ずしも一致しないし、「第十五品」の順番とも違うように思われる。

    ・南無無邊行菩薩
         雨ニモマケズ
         風ニモマケズ
         雪ニモ
         夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ

    ・南無上行菩薩
         慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラツテヰル
         一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
         アラユルコトヲジブンヲカンジヨウニ入レズニ
         ヨクミキキシワカリソシテワスレズ

    ・南無多寶如來 南無妙法蓮華経 南無釋迦牟尼佛
         野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

    ・南無浄行菩薩
         東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ
         西ニツカレタ母アレバ行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
         南ニ死ニサウナ人アレバ行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
         北ニケンクワヤソシヨウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ

    ・南無安立行菩薩
         ヒデリノトキハナミダヲナガシ
         サムサノナツハオロオロアルキ
         ミンナニデクノボウトヨバレ
         ホメラレモセズクニモサレズ

    ・帰命
         サウイフモノニワタシハナリタイ

    四大菩薩の名前と対応しないように思われる部分が二つ有る。「野原ノ...」という部分と「サウイフモノニワタシハナリタイ」という部分だ。「野原ノ...」の部分は、位置的に「妙法蓮華経」とともにかかれている、多寶如來と釋迦牟尼佛に対応するように思われる。これは、法華経の中の「見宝塔品第十一」で多寶如來と釋迦牟尼佛が塔の中で座るいう「二佛同坐」を意味するように感じられる。そう、まさにここに詩の作者は「ヰ」たいのだということを意味するようだ。

    見宝塔品第十一 by kuukiさん

    では、もう一行は何を意味するのか?finalventさんは、もうひとつ「帰命」という言葉を教えてくださった。「南無」という言葉は、「身も心も挙げて仏に帰依する」という意味のサンスクリット語の音訳で、意味を訳したのが「帰命」ということなのだという一文をネットで見つけた。

    正信偈・断片 by 釈尼慶喜さん

    「南無」が「帰命」であるなら、まさに「サウイフモノニワタシハナリタイ」という行は、ただ「雨ニモマケズ」といった人間になりたいということではなく、仏に成るという誓いである「帰命」なのだ。この行の重要さを見つめたい。

    この他、「従地涌出品第十五」の持つ法華経の中での位置の意味やら、宮沢賢治が好きだったという「譬諭品第三」と手帳にあった「11.3」の関連など、論じべき点はいくらでもあるようだが、学者でもない、宮沢賢治も大して知らない私がこれ以上書くことはやめておく。ただ、ちなみにこうした言葉を死の予感を持ちながら書いた宮沢賢治の死は、決して「惨めな失敗」などではなかったと強く感じた。

    この記事をブログで書くかどうかかなり悩んだが、宮沢賢治が37才で亡くなったと知って、37才をなんとか生き延びた私が、いま書いておくべきだと感じて書いた。

    余談だが、私はよくブログの記事を書く前に内容を人に口で話してみて自分の頭の整理をしながら話のポイントを探るということをする。今回は、車の中で以上の話を妻にしてみた。10分間ほどかけて大汗を書きながら大意を説明すると妻はこういった。

    「そんなこと読んだらわかるじゃない?なにをごちゃごちゃ話ているのかと思った。大体、ひできさんはこの詩を暗誦するほど読んだの?」
    「あ、いや、まだ完全には覚えてないけど...」
    「暗誦してみれば、この詩が仏さまになるくらいの誓いを死の床でしたってわかるわよ。ほら、子どもだっていえるわ。」

    と言って、後ろの席に座っていた上の子ども二人に暗誦させてみせた。「参りました」という感じだった。

    ■追記 平成16年8月4日

    本文でリンクさせていただいた「宮澤賢治の詩の世界」というサイトを作っていらっしゃる浜垣さんにリンクのご承認をいただくメールをうったところ、非常に重要なお話しをいただいた。ご許可をいただいてので、一部抜粋して掲載させていただく。
    (以下、線内は引用)



        南無無邊行菩薩
      南無上行菩薩
     南無多寶如來
    南無妙法蓮華経
     南無釋迦牟尼佛
      南無浄行菩薩
       南無安立行菩薩

    の部分は、日蓮が佐渡で書き、その後すべての日蓮系教団が「御本尊」と位置づけている「十界曼荼羅」の、最上段の部分を抜粋したもので、略式の十界曼荼羅とも言われます。十界曼荼羅の全体のテキストは、たとえば下記のサイトにあります。http://www.hct.zaq.ne.jp/renjouji/honzon.html

    「雨ニモマケズ」は、現在は「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わるものとして一般に理解されていますが、手帳に記されていた様子からわかるように、上記の略式十界曼荼羅までが一まとまりのテキストなのだとする説も、昔からあります。


    少し驚いたことに、浜垣さんが教えてくださったサイトの中で「にちかめ」さんが宮沢賢治とその作品と法華経信仰の関連について述べられ、「野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ」をそのまとめの言葉して使っておられた。

    http://www.hct.zaq.ne.jp/renjouji/yasuragi.html

    もし、私がこの記事において宮沢賢治の信仰の一旦に触れられたのだとしたら、ほんとうにうれしい。


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    2004年7月26日 (月)

    夏休みの100冊 ~teenager books~

    昨晩、妻と新潮文庫の100冊のリストをネットでみているうちにあきたらなくなって自分たちでリストを作り始めた。原則は、まがりなりにも自分たちどちらかが読んだことがある本、二人が中学になった子どもに読ませたいと合意できる本、という二点から選択した。気が付いたらちょうど日本の作品と海外の作品が同じ数になった。順番もめちゃくちゃだし、選択の好みもおもいっきり偏っている。また、「プロレゴメナ」などといわず「14歳からの哲学」の方がいいかなとか、もう幼稚と子どもが感じるかもしれないものもあるな、とかすでに迷っていたりする。それでも、みなさんがどうされているかネタをふるためにも(?)ブログに載せる。

    1 古事記 → 古事記物語(鈴木 三重吉)[青空] (現代語訳 古事記 河出文庫 福永 武彦 (編集)
    2 源氏物語 紫式部 全文 (全訳源氏物語 (上巻) 角川文庫 与謝野 晶子
    3 枕草子 清少納言 全文 (枕草子 岩波文庫 池田 亀鑑
    4 こころ 夏目漱石 [青空] (こころ 新潮文庫 夏目 漱石
    5 それから 夏目漱石 → 「それから」予告 [青空] (それから 新潮文庫
    6 草枕 夏目漱石 [青空] (草枕 新潮文庫
    7 夢十夜 夏目漱石 [青空] (文鳥・夢十夜 新潮文庫
    8 坊っちゃん 夏目漱石 [青空] (坊っちゃん 新潮文庫
    9 吾輩は猫である 夏目漱石 [青空] (吾輩は猫である 新潮文庫
    10 羅生門・鼻 芥川龍之介 [青空] 、 [青空] (羅生門・鼻 新潮文庫
    11 蜘蛛の糸・杜子春 芥川龍之介 [青空] 、 [青空] (蜘蛛の糸・杜子春 新潮文庫
    12 雪国 川端康成 (雪国 新潮文庫
    13 友情 武者小路実篤 (友情 新潮文庫
    14 武士道 新渡戸稲造 (武士道 岩波文庫
    15 金閣寺 三島由紀夫 (金閣寺 新潮文庫
    16 豊饒の海4部作 三島由紀夫 (春の雪奔馬暁の寺天人五衰 新潮文庫)
    17 檸檬 梶井基次郎 [青空] (檸檬 新潮文庫
    18 小川未明童話集 小川未明 (小川未明童話集 新潮文庫
    19 みだれ髪 与謝野晶子 [青空] (みだれ髪 新潮文庫
    20 王陽明研究 安岡正篤 (王陽明研究 明徳出版社
    21 銀河鉄道の夜 宮沢賢治 [青空] (新編銀河鉄道の夜 新潮文庫
    22 注文の多い料理店 宮沢賢治 [青空] (注文の多い料理店 新潮文庫
    23 春と修羅 宮沢賢治 [青空] (新編宮沢賢治詩集 新潮文庫
    24 沈黙 遠藤周作 (沈黙 新潮文庫
    25 海と毒薬 遠藤周作 (海と毒薬 新潮文庫
    26 敦煌 井上靖 (敦煌 新潮文庫
    27 孔子 井上靖 (孔子 新潮文庫
    28 おろしや国酔夢譚 井上靖 (おろしや国酔夢譚 文春文庫
    29 砂の器 松本清張 (砂の器〈上〉砂の器(下) 新潮文庫)
    30 点と線 松本清張 (点と線 新潮文庫
    31 生きがいについて 神谷美恵子 (生きがいについて みすず書房
    32 燃えよ剣 司馬遼太郎 (燃えよ剣 (上巻)(下巻) 新潮文庫)
    33 坂の上の雲 司馬遼太郎 (坂の上の雲〈1〉 文春文庫
    34 竜馬がゆく 司馬遼太郎 (竜馬がゆく〈1〉 文春文庫
    35 峠 司馬遼太郎 (峠 (上巻) 、 (中巻) 、 (下巻) 新潮文庫)
    36 塩狩峠 三浦綾子
    37 氷点 三浦綾子
    38 思い出トランプ 向田邦子
    39 三国志 吉川英治
    40 宮本武蔵 吉川英治
    41 親鸞 吉川英治
    42 ボッコちゃん 星新一
    43 風の歌を聴け 村上春樹
    44 輝ける闇 開高健
    45 夏の闇 開高健
    46 チェーザレ・ボルジア あるいは華麗なる冷酷 塩野七生
    47 ローマ人の物語 塩野七生
    48 深夜急行 沢木耕太郎
    49 火の鳥 手塚治虫
    50 太平洋戦争 児島 襄
    51 新約聖書
    52 旧約聖書
    53 ギリシア神話 呉茂一
    54 千夜一夜物語
    55 ロミオとジュリエット W.シェークスピア [青空]
    56 リア王 W.シェークスピア
    57 ハムレット W.シェークスピア
    58 オセロ W.シェークスピア
    59 ドンキホーテ セルバンテス
    60 方法序説 デカルト
    61 カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー
    62 戦争と平和 トルストイ
    63 ファウスト 第1部・第2部 ゲーテ [青空]
    64 若きウェルテルの悩み ゲーテ
    65 プロレゴーメナ I.カント
    66 初恋 ツルゲーネフ
    67 車輪の下 H.ヘッセ
    68 あしながおじさん J.ウェブスター
    69 赤毛のアン モンゴメリー
    70 人間とは何か マーク・トウェイン
    71 武器よさらば ヘミングウェイ
    72 老人と海 ヘミングウェイ
    73 ナイン・ストーリーズ J.D.サリンジャー
    74 ライ麦畑でつかまえて J.D.サリンジャー
    75 かもめのジョナサン リチャード・バック
    76 大地 パールバック
    77 異邦人 カミュ
    78 悲しみよこんにちは F.サガン
    79 星の王子さま A・サン=テグジュペリ
    80 初めに行動があった A.モーロア
    81 点子ちゃんとアントン E.ケストナー
    82 二人のロッテ E.ケストナー
    83 ファーブル昆虫記 ファーブル
    84 最後のユニコーン P.S.ビーグル
    85 アクロイド殺し アガサ・クリスティ
    86 オリエント急行の殺人 アガサ・クリスティ
    87 そして誰もいなくなった アガサ・クリスティ
    88 なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? アガサ・クリスティ
    89 Yの悲劇 エラリー・クイーン
    90 ソフィーの世界 Y.ゴルデル
    91 はてしない物語 M.エンデ
    92 モモ M.エンデ
    93 ナルニア国ものがたり C.S.ルイス
    94 19本の薔薇 M.エリアーデ
    95 指輪物語 J.R.R.トールキン
    96 ゲド戦記 ル=グイン
    97 論語 孔子
    98 荘子 荘子
    99 菜根譚 洪自誠
    100 ジョイ・ラック・クラブ A.タン

    ■追記 1 平成16年7月28日

    ネット上でどこまで全文が読めるかすこし作業してみた。やはり、青空文庫は偉大だ。海外文学はもしかすると、グーテンベルグプロジェクトのようなものがあるのかもしれない。

    追記 2 平成16年7月28日

    調子にのって、大人として読んでおくべき本はどんなものか勝手に考えてみた。いそがしい大人でも読める最低限10冊のひでき版とする。あとで、変えるかもしれないことを事前に断っておく。

    ・7つの習慣 S.R.コヴィー
    ・職業としての政治 マックス ヴェーバー
    ・ザ・ワーク・オブ・ネーションズ R.B・ライシュ
    ・大国の興亡 ポール・ケネディ
    ・歴史の終わり フランシス・フクヤマ
    ・Language/30 Latin テープ付
    ・世界の終わり・ハードボイルドワンダーランド 村上 春樹
    ・帰還 ~ゲド戦記最後の書~ A.ル=グイン
    ・バガー・ヴァンスの伝説 S.プレスフィールド
    ・正法眼蔵 道元

    ■トラックバックいただいた方々

    みなさん、とても楽しげなのがうれしい。同様の企画があったことも教えていただいた。

    何を読む?読ませる? by rararapocariさん
     あはは、昔から夏休みの宿題と課題図書の感想文というのは夏休み中におわらないものと、相場がきまっていますよね。

    「夏に読みたいこの一冊」関連メモ・気になる本と夏休みの100冊リスト by yukattiさん すばらしい読書体験をシェアしてくださってありがとうございます。山下達郎が「夏への扉」を歌ったのはご存知ですか?

    夏休みの100冊っ  by Shuさん やっぱり、こういうリストって作る楽しみがありますよね。お互いの読書歴とかよくわかりますしね?御疲れ様でした。

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    2004年6月21日 (月)

    [書評]イギリス式月収20万円の暮らし

    イギリス式月収20万円の暮らし方 by 井形慶子さん

    著者の井形慶子さんとは一度お会いしたことがある。仕事の場だったので、当然なのだが雑誌編集者、ラジオのパーソナリティー、会社の社長と、多くの役割をてきぱきとこなされていてほんとうにお忙しそうだった。きゃしゃなお身体なのに、あれだけ元気よく、はきはきと活躍されているお姿に圧倒された。

    実は、この本をいただいたあとも、正直ぺらぺらとめくったあと、なかなか読み進められなかった。斜め読みで、読んだような気になっていた。あれだけお忙しい方が、イギリス式のゆったりとした生活について書かれるというのは、少々矛盾じゃないかなとか、感じていたからかもしれない。

    しかし、それはとんでもない思い違いだった。「こころをなくす」忙しさという病にかかっていたのは、私の方だった。私の気持ちが忙しいかったから、この本の真の価値をよみとれなかっただけだったのだ。

    最近、なにか憑き物が落ちたように、気持ちにゆとりができてきた。仕事はあいかわらずなのだが、気の持ちようだけで随分違うものだ。この本を今日だけで、2回も読みかえした。これは、書物や文章をざっと読んで分かった気になっている私には本当にめずらしいことだ。ちょうど、いま私が読むべき本にだったのだろう。

    さぁ、どこから書き始めようか、やはり自分の体験から語り始めるのが一番説得力があるだろう。

    2回目読むうちに、自分のイギリスでの体験が思い出された。ひと夏をデヴォンシャー州のトーキーという街で過ごしたことがある。楽しく語学学校に通った、お芝居を見た、英国風のお茶も楽しんだ、映画のマチネーも見た、ヨットも乗った、ウマにも乗った、バスにも乗った、ディスコも通った。40の声をまもなく聞こうとしている現在にいたるまであれだけ楽しんだ夏の記憶はない。ヨットに乗ったときにごつごつした岩をガイドが「あれは、サッチャーロックだ。」と揶揄していたから、きっとまだかなりイギリスが経済的には厳しい時期だったろう。それでも、ホストファミリーのご夫妻も実に生活を楽しんでいた。デタッチド・ハウスと呼ばれる、イギリス風の続き長屋に、我々のような海外からの居候を数名泊めて世話をしながら、自分たちはほぼ毎晩パブへ通っていた。

    下世話な話しかもしれないが、これだけ楽しんでもひと夏で10万円までは使わなかったように記憶している。もちろん、宿泊費用も、昼間通っていた語学学校も日本で払込済みだったから純粋な生活費はほとんどいらない生活だった。しかし、同じことを日本でしようとしたら、10倍くらいかかってもおかしくないように感じる。

    この「質素だけど楽しかった」というのが私のイギリスの印象だ。井形さんは、見事にこの感覚を実際の生活の中で楽しんで展開していらっしゃることがこの本を読んでよく伝わってきた。洋服の着方、スーパーの買い物の仕方、ハウスキーパーの使い方、イギリス人がうまくお金をつかっている様子がよくわかった。日本の広告やら、目先のニュースやらにふりまわされている私達とは違う、落ち着いた伝統と常識が生活の中に根付いているようだ。イギリス人にいわせると「人間はもともと何もしなくとも元気できれいでいられるようにできているのよ。」、化粧をすればするほど、肌があれ化粧をしなければならなくなる、という話しが面白かった。

    ただ、この本を読んでいまやばいなと思っているのは、「お金がなくとも、経済的に成長していなくとも、楽しめるじゃないか、もうなにもいらないな。」と自分が感じてしまっていることだ。野望も、野心も、物欲も、私から消えてしまったら、日本で社会生活をしていけなくなりそうで怖い。

    「持つものは、より多くを持ちたくなる」

    ほとんど余談だが、今朝出掛けに妻とこの本の話しをした。妻はこういう話しをしてくれた。

    「この前とても欲しかったバッグを買ってもらったんだけど、自分の手にしたとたんに興味がなくなっちゃった。ものってむなしいわよね。ほんとうの満足はないよね。」

    涙が出そうだった。

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    2004年6月18日 (金)

    おもかげの国 うつろいの国

    NHK講座のテキスト「おもかげの国 うつろいの国」にハマってしまった。で、おもわずこれを軸にすこし日本の歴史と文学について勉強する気になった。どうせやるなら、一人ではさみしいので、「はてなグループ」というのを作ってやってみることにした。

    http://omokage.g.hatena.ne.jp/

    まだ使い方もよく分かっていないが、ひまをみつけてキーワード定義とか、リンクさがしとかチャレンジしてみたい。

    あ、あ、なんかいっぱい既に存在するんですね。み、みのほど知らずかも...恥じをさらす前に大学1年の時に中西進先生の授業でCを付けられて以来文学系統は苦手分野だということを告白しておこう...

    この稿続く

    ■関連リンク
    うんちく日本史XYZ by 松岡正剛さん
    it1127の日記 : おもかげの国うつろいの国(一) by it1127さん
    it1127の日記 : おもかげの国うつろいの国(ニ) by it1127さん

    おもかげの国 うつろいの国 by しし丸先生
    ふじすえさん (HPO)
    私的キーワードリスト (HPO)

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    2004年6月 8日 (火)

    [書評] 攻殻機動隊 Ghost in the Shell

    [書評] Ghost in the Shell 「攻殻機動隊」(*1)

    cover


    西暦2029年 ---
    企業のネットが星を被い
    電子や光が駆け巡っても、
    国家や民族が消えてなくなるほど
    情報化されていない近未来

    1995年に発表された「攻殻機動隊」の冒頭シーンに興奮してから10年余り、改めてこの映画の価値と先見性を実感できる2029年の未来から逆算された過去の地点に、私達は立っている。今、あらたな視点で「攻殻機動隊」を体験することが可能なのは、私達が過去10年間以上にわたってネットとつながった生活を経験してきたからだろう。1995年以前のネットワークといえばまだ単純なパソコン通信しか日常にはなかった。パソツーは、スター型のネットワークにしかすぎず、現在のインターネットのように中心のないネットワークは、まだ一般には体験されていなかった。こうした時代に、今日私達が問題とするようなネットワークの分散と集中の問題、ネット上の自己同一性の問題(現在の問題で言えば例えば匿名の問題)、国際的な民族的混乱と対立の問題、などを予見した「攻殻機動隊」を作った知性たちというのは一体なんなのか、感嘆するばかりだ。

    「攻殻機動隊」にはあまりにキーワードが多すぎて、どこから始めたらよいのかわからない。いまさらネタバレでもないので、いっそ最後の草薙素子と2501との融合からはじめるべきなのかもしれない。例えば、情報生命体2501を作った公安6課と、公安9課の激しい戦闘があった旧い博物館で進化の系統樹をマシンガンで打ち抜くシーンはかなり示唆にみちている。これは、草薙素子と2501の融合が地球上の生命体の人類の新しい進化である、という意味でもあろうし、人間がすでに進化の袋小路に達しているということを示しているようにも思える。

    「攻殻機動隊」以前に描かれてきた単体でしか存在してないサイボーグや、ロボットのSFと比べて、ネットがすでにそこに存在していることが「攻殻機動隊」の世界ではあたりまえになっている。ネットの存在は私達に、「攻殻機動隊」の冒頭の義体の製造工程の映像で暗示されるような電子顕微鏡の微細な視点から、個体の輪切り画像のような対象内部の視点、そして、神のごとき高見の視点まで、自由にどこへでも焦点を結ぶことを可能にした。地表の細部の構造を見ながら、衛星軌道上からの画像を眺め、発想することすら、ネットを駆使すれば既に可能だ。「攻殻機動隊」は、すでにそうした情報の自由さが自明のものとなっている社会で、次はどこへ進むのかという方向性を示している。

    「攻殻機動隊」の中で、くりかえし語られるキーワードの一つは、集中化による多様性の喪失だ。大量生産により生み出された自分と全く同じ身体を持つ別人格との出会い、たぶんグーグルのごとく単体で十分にネットを覆い尽くしてしまう力をもつネット生命体2501、自分の魂の領域までハックされ妻も娘も過去の記憶も人形使いにより偽造されてしまう清掃局員...「攻殻機動隊」には、個性、多様性を喪失するエピソードが重層的に語られている。これらのエピソードは、いまのままの技術では不可能なこともあるが、2chの匿名問題のように表現された自分が自分であることが証明不可能な現代のネット社会に棲息する私達なら、十分この混乱の深さを実感できるのではないだろうか。

    本ブログにおいて繰り返し分析してきたように、一体化された社会、グローバルな市場、緊密なネットワークにおいては、個体個体の違いは、正規分布ではなくベキ乗分布(*2)により表現される。個人の所得、企業の規模、国家のGDP、ネットのリンク、SNSの地域分布などが、恐ろしいくらいに偏って集中し、存在することになる。いわば、ネットワーク社会とは、真っ平らな、境界のない社会であることが実感されつつある。これは、フランシス・フクヤマのいう「歴史の終わり」の後の社会なのだろう。「攻殻機動隊」で描かれる世界は、こんな世界ではなかろうか?

    自分の環境も真っ平らな空間になりはて、自分自身も自分であることが証明できないような世界において、どのように自分が自分であることを証明したらよいのか?多様な解釈が可能な「攻殻機動隊」を改めて見て、私が感じたひとつの結論は、子供を生むということ以外ありえないということだった。「自分に自信がもてないのに子供なんて」ということばが聞かれる現代の少子社会に異を唱えたい。実は、自分が自分であるといことは極めて状況的なことだ。この状況、この偶然を、自分が自分であるという必然に変えることは、他者と交わり、あらたな人格、多様な子孫を自分で生み出していくということ以外にない。

    もう少しマイルドな言い方をすれば、自分にしか作れない結果を残すということだろう。簡単に言えば、他者から信頼される、他者から自分が自分であると認められる、ということは約束を守るということだ、期待に応えるということだ。これ以外に、自分が自分であることを他者に証明する方法を私は知らない。顔を変えることも、名前を変えることも、別な人格になりすますこともできる高度なネットワークを実現した技術社会において、ネットワークの信頼されるノードでありつづけるということはノードの機能をきちんと果すということしかない。マンガ版の「攻殻機動隊」で草薙素子の価値を、「荒巻部長」が「草薙をすてるということは、膨大なネットワークを切り捨てるということだ。霊能者よりも貴重なのに!」と評価していた(記憶によるので、正確な引用でない。電脳が欲しい!)。

    こうしてやっと記事の最後まで来て「攻殻機動隊」の最初のシーンにたどりつくのだが、子供を生む、結果を作るということを私の中にある別な言葉で表現すれば、自分でビルから飛びおりるというイメージにつながる。しばらく前に「電車男」のエピソードがネットの上で話題を読んだ。私は、この話は、「電車男」が新しい神話を、トゥルーストーリーを、ネット上に生み出した、ととらえている。誰かがどこかで書いていたかもしれないが、ネット以前、近代以前、歴史以前の社会においては、文化を人間社会に伝播するミームに相当するものは、物語しかなかった。私達の共同体の共有のトゥルーストーリーである神話も、強力な伝播力を持ったミームであった。構造主義で切っても、機能主義的社会学できっても、精神分析で切っても、神話は決して荒唐無稽な物語ではない、きちんと構造をもち、構成され、場合によっては人間の持つ深層心理、集合的無意識の論理をもった物語だ。ミームとは、「攻殻機動隊」の言葉をかりればゴースト障壁の複製だ。しかも、複製によって劣化することなく、常に共時的に「遺伝」していく。

    原人プルシャが死ななければならなかったように、古事記のオオケツヒメの死体から穀物が生まれたように、トゥルーストーリーは、死と再生を語る。谷へ落ちて、そこからはいあがってはじめて人間は人間になる。ネットの上での、自己投機というものが、どのような形になるのか、明確には私にはわからない。ただ、ネットの上で真の行動を起こし、自分を投機した「電車男」は、ネットの上の信頼性、自己同一性、そして、リアルの女を得ることができた。「電車男」は、自分をいままで考えもしなかった行動へ追いやり、自分を再生させることができたのだと私はとらえる。それは、草薙素子の物語が超高層ビルから飛び降りるところから始まるように、死と再生は繰り返される。

    飛び降りること、海に潜ること、は単純な死のシンボルということではない。死と同様の鮮烈さをもつのかもしれないが、自分が自分であるとおもっている自分を捨て去ること、自分の対象物への固執から離れること、などと等価なのかもしれない。

    攻殻機動隊を9年ぶりに見て、そんなことを感じた。

    ■注記

    *1
    「攻殻機動隊」のDVDを買って夜中に見た。妻に「じゃあ、倹約なんていわないで私も洋服買っていいわよね。」といわれた...多分、今回の記事が自己ブログ史上最高の投資額になるのだろう。
    私の誕生日を記念して、私の大好きな「攻殻機動隊」について語りたい。いつぞや書いたか記憶が定かでないが、私がいまここにあるというのは、間違いなく父祖をはじめとする私を取り巻くあらゆる方々のご恩があるということだ。ご恩というネットワークの結節点として、いま私がここにいる。深く、深く、感謝したい。

    *2
    例えば、
    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ
    [書評] 都市経済、 テクノロジー、 クラスタ、 そして、 べき乗則
    愛に空間を

    これについては、たくさんの方からヒントをいただいている。例えば、
    地形の輪廻と「麗しい澤」 by BigLoveさん
    ベキ乗分布。 by akillerさん
    ベキ法則って? by it1127さん
    「アオイショウメイの連鎖」モデル by m_um_uさん
    山口浩さんからの「そそる」論文のご紹介

    ■参照リンク
    GHOST IN THE SHELL by akiさん (「ダイアローグ」を読ませていただき、あらためて自分がどれくらい攻殻機動隊にはまっているか自覚しました。自分の書き言葉ってめちゃくちゃ影響うけてますね。ありがとうございます。)
    プロジェクト2501 by たりぽんっさん
    グリゴリの捕縛
    ・『産霊山秘録』 by 松岡正剛さん (「草薙」って鎮護の意味があるんですね
    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)
    curated consumptionから連想するもの (HPO)
    [書評] アップルシード 2巻 apple seed 2nd volume (HPO)

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    2004年5月27日 (木)

    [書評] 技術経営入門 改訂版 ~ 成功体験を捨てる ~

    [書評] 技術経営入門 改訂版 by 藤末健三さん

    「無職(色)の男としがない3人のおやじの飲み会」も迫っているので、すこしふじすえさんについて予習しておこうと思い、アマゾンで「技術経営入門 改訂版」を頼んだら、昨日届いた。

    読み始めていきなり目にはいったのは、「個々人の過去の成功体験が新しい発想を阻害している」という言葉だった。ちょうど、今朝、社内の打ち合わせで「失敗が大事だ。成功体験を捨てるためには、失敗した経験を真剣に受けとめなければならない。」という話をしていた。企業が、その成功体験を捨てるというのは、実は大変なことだ。過去の成功によっていまの企業の形がある。ある意味、今の自分を、今の会社を未来に向かって投げ出せ、といっているのにに等しい。

    では、投げ出した先にはなにがあるのか?

    投げ出す先になにがあるのかは、わからない。ますます、成功体験をなげだすのが難しくなる。

    私がいま「技術経営」について整然とキーワードで解説している本書を読んで感じているのは、商品・技術という側面と、市場という側面で、企業は成り立っているということだ。

    企業は、本社屋ではない。企業は、工場の建物ではない。企業は、預金口座ではない。企業は、法人登記ではない。企業は、そこで働く個々人でもない。これら目に見えるすべてを足しあげた総和以上の力がそこにないのなら、個々人で勝手に商売をすればよい。総和以上の力を発揮しうる企業の魂ともいうべきものは、なにかを経営者は説明できなければならないと感じる。

    こんな問題意識から、本書を読むと二つの側面が自分に飛び込んでくる。ひとつは、企業にとって基本的なものである使命も技術もひっくるめた会社の命ともいうべき側面である。そして、もうひとつは、その企業の命によって決まる市場の形だ。あるいは、その市場の形によって企業の命の形も決まる。本社屋も、工場も、預金口座も、法人登記も、会社の外形にすぎない。会社の外形は、技術という命と市場のあとからついてくる。この2つの側面で会社の魂は出来ている。

    会社の使命、命というべき側面は、「コアコンピテンス」、「コアテクノロジー」、「ドメインデザイン」、「人材のコンピテンシー」などのキーワードにより表される。1+1を3にも4にも、100にもする力の根源は、ここにあるといってよい。私の感覚では、まずトップからはじまる行動があり、それにつながる多くの行動が、商品となる技術、技術となる商品を結実させる。そして、その商品が市場に出て、その商品独自の地位を築く。このサイクルがまわりだせば、人が育ってくる、企業風土ができてくる。

    もうひとつの側面から考えれば、市場から決まる側面だ。その企業の市場をどう定義するか、その企業の市場の領域をどう決めるか、という問題だ。これは、「SWOT分析」、「死の谷」、「規模の経済」、「範囲の経済性」、「事業ドメイン」といったキーワードへとつながっていくように感じる。自社の強み、弱み、機会、脅威を、市場で見る。市場に入っていくときが一番エネルギーがいる、先が見えない、お金ははいってこない、つらい。精神的に一番弱るのがこの段階だ。そして、市場であげる売上の額と必要な利益がつりあってくる時期が確実におとずれる。商品がちょうど売れるだけの大きさの市場が見えてくる、明確に市場を定義することができる。企業の営業マンに「あなたのお客様は誰?」と聞いたら、自信あふれる答えが返ってくる。ここで、再度会社の形に合わせて、次にどこへ向かって自分の成功体験を投げ出すかを、定義しなおさなければ、明日はない。

    個々の言葉の懇切丁寧な定義は、ぜひ本書を読んで欲しい。

    では、お前はなにをしているんだ、と聞かれるだろう。私の会社の会社案内に載せてある言葉を開陳するのが手っ取り早いかもしれない。

    「創意工夫を積み重ねよりよい明日を築きます」 我が社には研究室こそありませんが、全員で日々の仕事を通じ独自商品の開発に取り組んでおります。
    ごまめのはぎしりかもしれないが、中小企業においては、実は日々の仕事のひとつひとつが、実は技術開発だ。日々の行動が、先にふれたキーワードを実践するものでなければ、企業を企業たらしめる行動でなければ、明日はない。日々の活動を通して、商品をつくり、技術を積み上げ、その過程を通して技術開発を自分の腹に植えつける。このサイクルを、どうまわすかが私の課題だと感じている。この私の目的は、近いようで遠い、難しいようで簡単な、ことなのかもしれない。

    まずは、「成功体験を捨てる」というところから始めたい。

    ■追記 (平成16年5月30日

    Dainさんからトラックバックをいただいた「新入社員のひよっ子たちへ(その1:たぶん連載になる)」という記事を読ませていただいた。コンピテンシーというのだろうか、成功する経営者、成果をあげる社員の行動には、必ずパターンがあるように感じる。気持ちでも、ポジティブシンキングでもない、格別頭がいいかでもない、行動だ。私は、特に営業に対して責任をもっているが、営業マンには2種類しかいない。売れる営業マンと、売れない営業マンだ。その2種類の営業マンの違いをちきんと言葉にでき、行動させられるのが、経営者と言われる資格のあるやつだ。

    ■参考リンク
    ふじすえブログ 著書・掲載記事等
    [書評] 都市経済、テクノロジー、クラスタ、そして、べき乗則 (HPO)

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    2004年5月24日 (月)

    [書評] ファウスト、最期の科白

    言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知」の最後に、「あとは、ファウストの最期の科白を参照されたい」とか、書いてしまったので、フォローしようと思い、昨日、過日読んだ「ファウスト」を本棚から引っぱり出して、読み始めた。能書きをたれるまえに、まずは、肝心のファウストの最期の台詞を、「筆写」したい。


    ファウスト 第二部
    ゲーテ 作 高橋義孝 訳

    第5幕 宮殿の大きな前庭
    (11560行目から)

    ファウスト

    あの山の麓に沼がのびていて、
    これまで拓いた土地を汚している。
    あの汚水の溜りにはけ口をつけるというのが、
    最後の仕事で、また最高の仕事だろう。
    そうして己は幾百万の民に土地を拓いてやる。
    安全とはいえないが、働いて自由な生活のおくれる土地なのだ。
    野は緑して、よく肥えて、人も家畜も、
    すぐに新開地に居心地よく、
    大胆で勤勉な民が盛り上げた
    頼もしい丘のまわりに平等に移り住むだろう。
    外では海が岸の縁まで荒れ狂おうが、
    中の土地は楽土となるのだ。
    潮が力づくで土を噛み削ろうとしても、
    万人が力を協せて急いで穴をふさぐだろう。
    そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
    それは叡知の、最高の結論だが、
    「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
    自由と生活を享くるに値する」
    そして、この土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、
    子供も大人も老人も、まめやかに歳月を送り迎えるのだ。
    己はそういう人の群を見たい、
    己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
    そういう瞬間に向かって、己は呼びかけたい、
    「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
    己の地上の生活の痕跡は、
    幾世を経ても滅びるということがないだろう---
    そういう無上の幸福を想像して、
    今、己はこの最高の刹那を味わうのだ。

         (ファウスト、うしろざまに倒れる。死霊たち、彼をだきとめ、その身体を地面に横たえる)


    私は、あまり一度読んだ本を二度三度と読み返さない方なのだが、「ファウスト」は、多分、中学生で一度、高校で二度、大学で一度、社会人で最低一度は読んだ。読むたびに、自分に迫ってくる個所が変るように思う。また、読書という体験から伝えられるメッセージも変る。なにか教養というものに対して幼いあこがれがあったから、最初の頃は単に名作として無理矢理読んだ。あるいは、手塚治虫の「百物語」などとの関連で読んだのかもしれない。青春のころは、グレートヒェンとの恋物語として読んだように記憶している。自分の恋と、ゲーテの恋を重ねていた。ゲーテが恋多き人生だったと、解説にあったことで安心した。

    今回は、最低でも十数年ぶりに第二部から読んでいるのだが、実に面白い。随所に人生の知恵が隠されている。まだ、それらをきちんと自分の文字として、まとめるには自分の筆力があまりにも足りないのだが、くすくす笑ったり、現代との接点のあまりの深さに鳥肌立ちながら、読んでいる。実によい読書体験だ。うれしい。

    さて、なぜネットの話しでファウストの最期の科白かというと、ファウストが最期で語っているのは、あるべき人のつながりのあり方であると、常々感じていたからだ。フクヤマの最後の人間ではないが、私は、衣食住と安全が満たされてしまった社会というのは、決して理想の社会ではないと感じてきた。科白の中の「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活を享くるに値する」という個所が好きだ。リアルのものであれ、ネットのものであれ、人が集まる場はこうあるべきだと感じる。ファウストが、「とまれ、お前はいかにも美しい」と叫ぶのは、真の人の満足を味わったからだと、高校生のようにナイーブに思ってしまう。ウェブの上で、このような場所が作れないのだろうか、というのが記事を書き終えたときの素直な感想だった。

    しばらく前に、人によく語っていたのだが、私は「リスク・ジャンキー」なところがある。「危険中毒者」なんて言葉があるかどうか知らないが、常に自分を目いっぱいのところまで張っていないと、満足感が得られない。人生は、常に自分の全てを投資するだけの価値があると信じている。たとえ、それで全てを失うことになろうとも、私は、私として常に自分の身を最前線に置くことで、初めて自分の存在の外形を感じることができる。

    とても、とても、あまりに不徹底で自分に甘い男なので、自分をファウストになぞらえることなどできないが、いま、こうして記事を書き綴っている行動も、大きなリスクを背負いながら日々自分の仕事に駈けずりまわっている行動も、自分にとっての生なのだろう。いま、この場で生きていられることを、素直に感謝したい。

    ■参照リンク
    松岡正剛の千夜千冊 -ヴィルヘルム・マイスター- by 松岡正剛さん
    ・ゲーテ『ファウスト』の再読,再々読 by 鷲山恭彦さん (エンコード注意)
    シニフィアンの戯れ ~『座右のゲーテ 』(齋藤 孝 (著) )を読んで記す。~ by it1127さん
    言葉の神、ウェブの神、ネットの神、そして、約束の知 (HPO)
    男と女 (HPO)

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    2004年5月 7日 (金)

    [書評] 疾走

    以下、重松清の「疾走」をめぐるnimさんと私のメールの対話。つい、面白かったので、nimさんにねだって記事にしてしまいました。平文が自分で、ボールドがnimさんです。


    nimさんへ、

    ご紹介いただいた「疾走」ようやく読み終わりました。本当にありがとうございます。なかなかよいですね。最後まで読んで物語の構造が理解できました。最後にひとつだけ希望が残ったのがほんとうに救いだなと思います。人間ってやっぱり限りなく生き物なのだなと思いました。だから、シュウジに、そんなにつっぱしらなくとも、大丈夫なんだよ、どんな状況になっても生きていること自体が大事なんだよ、と言ってあげたくなってしまいました。でも、そう感じている37才の自分というものは、もしかすると傲慢なのかなとか、感じております。

    暗いでしょ?
    おまえはという独特の語り口が誰によるものなのか最初のうちは凄く抵抗があるんだけど、最後に近くなって腑落ちすると構成の妙味に関心させられますよね。この本を読むと、自分が自分であること、それを人に認めてもらうこと、認められたい自分、認めてあげたい自分、人を遠ざける理由、人から遠ざかる理由、そんなものがぐるぐる自分の周りをまわってしまうんですけど、ちょっと時間を置いてもう一回読もうかなとも思ってます。
    傲慢っていうのは、多分人間の特質で少なからず誰しも持っているものだと思うんですけど、傲慢=自我(エゴイズム)だとすれば、実は傲慢な態度そのものが一番人間を理解する為の表現なのかもしれないと思います。

    「疾走」の少なくともある一面は、自分が自分であることを認められているかどうかという物語だと感じておりました。フクヤマ色にそまってしまった私が、認知欲求という視点からこの物語にコメントしたらそれこそ傲慢かしらと、悩んでいたのですが、nimさんの感性からも同様の感想をもっていらっしゃるのだとしたら、確信がもてます。

    コミュニケーションの成立と自我、あるいは認知という関係についてのnimさんのご意見にも近しいものを持ちます。そうなんですよ、ブログやってて思うのは、コミュニケーションとかいうけど、書いている自分が一番関心があるのは、実は自分自身について語ることなんですよね。自分について語っているうちに、たまたま自分の自我=傲慢に近しい言説を見つけると、それを借用して、あるいは誤認して、また書いて、それでコミュニケーションがとれたと傲慢に思っているのが、人間なのでしょうね。

    そうですよね。
    自分でもたまに自分の文章を読み返したりするんですけど、なんて傲慢な薄い文章だろうと思うことが多いんです。でも、それでも自分に引っかかってくれる人たちを捜してる自分がいる。そんな感じです。

    自分のそんなつたない文章でも、もっとつたない自分自身でも、それを気にかけてくれる人がそばにいるというのは、幸せなことなのだと感じています。

    アクセス数を気にしないようにしているつもりでも、アクセスカウンターが動いているのをみると、ああよかった、誰か読んでくれているんだ、みたいな安心があったりして...でも、一歩間違うと、世界から見捨てられてしまったくらい不幸な気持ちになったりします。シュウジが感じていた絶対の孤独というは、こんな感じだったのかくらい落ち込んだりして...

    だって、孤独っていうのは、相手が自分を認知してくれていないという事を感じるという事なんですから、孤独をテーマにする以上、それは自己実現やら自己の存在の追求ということと同義だと思って構わないんじゃないでしょうか?少なくとも僕にとっての孤独という単語はそういう意味を持っています。後は、そのベクトルが自分自身に向いているのか、外に向いているのかの違いなんだと思います。

    あー、しかし自分の息子すらブログのネタにしてしまう「ひでき」としては、こういう対話もブログにどうしたらまとめられるとか考えているのが、自分でもちょっとはまりすぎかなと感じます。(笑)

    (大笑)
    いいんじゃないですか?(笑)
    僕がひできさんにメールを出すということは、言葉をひできさんに贈るという行為ですから、もしこのメールのやり取りで引用やら参考やらに値する部分があれば存分に使っちゃってください。

    ■参照リンク

    ■追記

    極東ブログでfinalventさんが秋葉原の事件と「疾走」のモデルである造田博との比較が行われていた。両者ともに「認めてほしい!」という声が聞こえてくる。だから、無差別殺人が許されるとも、社会的な悪がこれら二人を生んだのだとも言うつもりはない。ただ、4年前に上に書いたように「認めてほしい!」といううずきともいうべき切望が私の中にあることは認めざるを得ない。

    ほんとうにただただ亡くなられた方への哀悼の意をささげるばかりだ。

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    2004年4月 7日 (水)

    [書評]できる人、できない人

    「採用の超プロが教える できる人 できない人」 安田 佳生 (著)

    以前、人事関係の仕事をしていたことがある。その時の実感と、本書はとても近いものがあるように感じた。例によって作者と私は1年違い。経歴もなんとなく近しいものを感じる。本書を、発想、行動するときのポイントをまとめた本として、読んでいきたい。あ、たぶん私が読み解くより本書を読んだ方がはるかにわかりやすいかもしれない。非常にわかりやすく、読みやすい本だった。

    本書では、人材を経験があるなしにかかわらず仕事ができる人を人材と定義している。これは、私にも実感がわく。どんな立場でも、できるやつは成果をあげるしできないやつは成果があがらない。この差は本当に明確だ。よくいわれる20対80の法則はあてはまるのだろう。つまり、「20%の仕事のできる人間が、会社で必要な仕事の80%をこなしている。」ということだ。あるいは、「会社の利益の80%は20%の社員があげている。」といってもよい。これは、中小企業にいると本当にあからさまに感じる。中小企業では、仕組みでもうけるところまで会社の組織ができていないので、大企業よりも明確に個人の差がでる。かといって、必ずしも個人個人の力が明確に打ち出せない大企業もあまり魅力的な職場とは言えない。いくつかの商売人が自然に育つ仕組みを持っている大企業は本当にいまのびているのを実際に目で見ている。

    では、仕事のできる人間というのはどういう人間なのか?本書では、いくつかのポイントをあげている。たとえば、リードタイムの短いやつ。仕事を達成する時間というのは、個人差はあまりなかったりする。しかし、その仕事をしあげるための段取り、仕事にかかるまでの時間ができるやつとできないやつとで違うという。個人も工場も生産性の測定の仕方、向上のさせ方では同じ原理であるといえる。大野耐一さんの本を読んだときも、トヨタ生産システムをつくっていくなかでは、生産開始までのリードタイムをいかに短くするかに血眼になっている様子が語られていた。

    それから、本書では場を読むことを含むコミュニケーション能力をあげている。これもわかる。仕事というのは決して一人ではできない。グループの力を発揮させるためには、基本的なコミュニケーション能力はとても大事だ。もっといえば、一人でできることは限られている訳なので、人をどう自分の仕事の達成にまきこみ、的確な指示なり依頼なりをあたえて、一人ではできない仕事を達成するということは、実はコミュニケーション能力の問題だ。「7つの習慣」では「デリゲート」とか書いてあったやつだ。これと関連してコミュニケーション能力には、自分がいまなにを達成すべきかという感性もふくまれるだろう。これは、シュミレーション能力だ。戦国の武将が出陣前に息子と粥をたべていた。食べている途中で、なんども汁をめしにかける息子をみて、「ああ、こいつは死ぬな。」と思ったというあれである。(ああ、これはfinalventさんが書いていた話だったか...)

    それから、エネルギーと素直さをあげている。実は、本書の中であげている要素の中で、この2つの要素こそが20歳までに勝負がついてしまう能力なのではなかと思う。そう、あふれんばかりのエネルギーを持っているというのも能力だし、素直さも能力のうちだと思う。仕事がら年上の方とも年下の人ともいろいろな場面を経験してきた。たとえば製品の設計をするとか、顧客から要求事項をヒアリングするとかいうコミュニケーション能力や専門知識というのは、案外経験とその人間の意欲と習慣で改善するものだ。しかし、その意欲と習慣をいつまでも継続できるというエネルギーは、案外先天的なこのだし、人の話を聞く耳を持たぬという人間は、60歳になっても、70歳になっても(あ、だからこそかな)案外その態度は変わらない。ちょっとはずれるが、ある人が私にこう教えてくれた。決心の強さというのは、勇敢な行動をするのでもなく、いままでとどれだけ違ったことをするかということでもなく、ひとつのことをどれだけ継続するかということだ。けだし、真実だ。

    実は、ここからが本題なのだが、では、こういった能力をそなえた人間だけの企業を作ったら優秀な企業になるかどうかということを問題にしたい。うそかほんとか知らないが、蟻を観察していて、はたきものの蟻と怠け者の蟻があることが発見されたそうだ。それでは、働き者の蟻だけをあつめれば超働き者の生産性の高い集団になるか実験したそうだ。働き者蟻は働き者蟻だけ、怠け者蟻は怠け者蟻だけで、巣を作らせ観察した。なんと、こうなると働き者蟻の中からは怠け者蟻が出て、怠け者蟻からは働き者蟻がでて(どのような指標ではかったはしらないが)生産性の差は、わずかであったという。非常にある意味納得性のある話だと感じた。

    本書で言っているように、平均からはずれたものがあらたな価値をつくりだす。そして、平均的な均一な人間しかいない組織は衰退する、ということは真実だと思う。私も働くものの一人として、まったくだらしない人間ばかりで組織を組めといわれれば、たぶん拒否する。しかし、組織ひとつひとつにあるべき姿かたちというものはあるように感じる。これも本書がいっているように、ダーウィンは「環境の中で生き残るのは、最も大きなものでもなく、最も強いものでもなく、常に変化しつづけ適応するものだけが生き残る」のだ。これは、均質な人間だけを採用していたのでは、達成できない。

    日本は人材の質が落ちてきたので不景気になった、と本書は指摘する。私は、決して人材の質が落ちたとは思わない。むしろ、能力的な面や意欲の面ではあがってきている気がする。すくなくとも私のまわりには同年代でおもしろいやつがいっぱいいる。とてもこれからの日本にわくわくしている。だた、意欲の面で一理あるなと思うのは、社会が安定化しすぎているためか、飼い慣らされ、これまでの発想の延長でしか考えられない、行動できない人間が比率的に増えているかもしれないといういやな予感はある。これをやぶるのは、同質の人間、優秀な人間だけでつるむのではなく、自分であらたな価値観をつくるように行動することだ。安定をもとめず、自分自身を未来に向かって賭ける、投機する。本を捨てよ、街にでよ。そんな感じだ。

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    2004年4月 3日 (土)

    [書評]職業としての政治 その2

    職業としての政治 by マックス・ヴェーバー

    ヴェーバーは、いろいろな政体とその形について分析していただけでなく、この後のドイツにおけるヒットラーの出現を予見していたのではないかと思わせるような言葉を残している。たとえば、「選挙の集票『マシーン』を伴った指導者(ヒューラー)を選ぶか、凡庸な政党政治家、職業政治家をえらぶしかない」(p.74)とか、「10年後に失望するかもしれない」、「この講義の聴衆がくじけているか、『俗物になりさがっているか』」(p.103)「悪い予感がする」と、言っている。たぶん、第一次大戦で破れたばかりのドイツの若者に夢を託しつつ、その当時の状況がうわすべりしたような感覚を持っていたのだろうと思う。

    いずれにせよ、この社会学の巨人が翌年に没したことを考えるとこのドイツの青年に対する言葉は、単に社会学的、政治学的なな知見をのべただけでなく、どのような態度で、どのような姿勢で、政治という一個の人間が集団全体に対してなにができるかという問題に対して、いかに真摯に臨むべきかという言葉まで熱をもってひびいてくる。

    ヴェーバーは、ごく現実的な力の分析を行っている。やはり、ごくあたりまえに政治家が力をもつためには、「官職任命権」をもっている政治的な組織、役職者が権力をにぎるということも主張している。日本においても、この辺の事情は全く異ならない。以前、憲法15条について書いたように、日本の憲法においても実は国民に罷免権が認められているが、実効性をもたないということは、ひとつの欠陥だと思う。

    ああ、それからこれはどうしても書いておきたい。ここのところ、キーワードが重なりすぎるくらい重なっている。この講義の中にまで「バガヴァット・ギータ」が取り上げられている。つい先日、「ギータ」をもとにした「バガー・ヴァンスの伝説」についてコメントしたばかりなのに。戦争を説き、深い体験について語る神としてクリシュナがどのような意味を私についてもつのか、稿をあらためて書いてみたい(参照)。

    ちなみに、ネットをちょっと調べると「職業としての政治」の書評がいっぱい出てきた。それらの多くが、やはり抜粋形式でかかれているのを発見し、この本を読むと抜粋したくなる気持ちになるのは自分だけでないことをを知った。ヴェーバーの文章は、やはり無駄のない文章であることの証明のようだ。ほんとうに箴言がここにはある。最後に参考とさせていただいた方のサイトのリストを掲げた。

    最後になってしまったが、このようなすばらしい知的体験をさせてくださった極東ブログfinalventさんに深く感謝する。

    以下、後半部分からの抜粋である。(前半の抜粋はこちら

    *()内は、私の補足を示す。
    *「...」は途中省略個所を示す。

    p.63
    アメリカで人民投票的な「マシーン」がこのように早くから発達した理由は、アメリカでは、いやアメリカでのみ、人民投票でえらばれた大統領が...官職任命権も握っていたからである。

    p.70
    専門的に訓練された官僚層がドイツでは圧倒的な重要性をもっていた...。

    p.74
    ぎりぎりのところで道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり転職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的素質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。そして、後者は、党内反対はの立場からよく「派閥」支配と呼ばれるものである。

    p.77
    政治家にとっては、情熱-責任感-判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。

    p.78
    (判断力)すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間にたいして距離をおいてみることが必要である。「距離を失ってしまう」ということは政治家にとってそれだけで大罪のひとつである、

    p.80
    デマゴーグの態度は、本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観をもとめ、またその態度が無責任だから、内容的な目的を何一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。

    p.83
    あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭世気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために闘わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。

    p.84
    (戦後処理について)...これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利益の侵害は許しても、名誉の侵害の侵害だけは断じて許さない。

    p.92
    (結果に対して責任を持というとする責任倫理家に対して、)心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙論的な倫理的「合理主義者」である。

    p.94
    政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶようなものであること。さらには、善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。...これらが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。

    p.95
    戦争が生活秩序全体の中に完全に組み込まれてたことを、われわれは「バガヴァッド・ギーター」の中のクリシュナとアルジュナの対話から知ることができる。

    p.99
    およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、(指導者が目的のために、部下を装置とし必要とするという)この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する席にを、片時も忘れてはならない。

    p.102
    問題は年齢ではない。が、修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力を持つこと、これだけはなんとしても欠かせない条件である。

    p.103
    これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間---老若を問わない---がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる。」と言うなら、測り知れない感動を受ける。

    ...残念ながら私はあれやこれやいろんな理由から、どうも悪い予感がしてならないのだが(1919年の)10年後(である1929年)にはとっくに反動の時代が始まっていて、諸君のうちの多くの人が---正直に言って私もだが---期待していたことのまずほとんどは、まさか全部でもあるまいが、少なくとも外見上たいていのものは、実現されていないであろう。

    p.105
    自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が---自分の立場から見て---どんなにおろかで卑俗であっても断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「転職」を持つ。


    <参照>
    稲葉八朗さんによる抜粋
    ・MyMeme:「職業としての政治」
    ・トート号航海日誌(読書録)「職業としての政治」

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    2004年3月31日 (水)

    [書評]職業としての政治

    職業としての政治 by マックス・ヴェーバー


    そう、「職業としての政治」だ。これは本当にすばらしい本だ。たとえ政治へのかかわり方が、パートタイムであろうと、フルタイムであろうと、投票しかしない人であろうと集票マシーンといわれる人であろうと、この本に現代に至る政治の形がみな書いてあるように思う。ちなみに、本当に選挙を中心としる装置、マシーンという言葉がこの本の中にでてくるのだが、この言葉を一つのキーワードとして、なぜ自民党のような政党では、議員はたんに票を投じるだけの存在になるのか、なぜ幹事長というのがあんなにえらいのか、みなこの本の中で説明されている。本当に蒙を啓かれるとは、このことをいうのであろう。

    この本は、マックス・ヴェーバーの最晩年の講義をまとめたものだという。1920年が没年であるので、死の1年前である。第1次世界大戦が終わったばかりのこの時期に、ここまで現代にいたるまでの政治の形について正確に分析し、人々のそれからの動きについて予見していたということは、筆舌に尽くしがたい価値があると思う。この本の、もう一つのすばらしさは、ヴェーバーのドイツの青年に向けてのことばである。青年達を育てようとする、ヒントを与えようとしている最後の節の言葉はほんとうに胸にしみる。

    いくつか、気になった言葉を抜け書きしたい。ちなみに、テキストは岩波文庫版による。

    *()内は、私の補足を示す。
    *「...」は途中省略個所を示す。

    p.9
    国家とはある一定の領域で...正当な物理的暴力の行使の独占を...要求する人間共同体である、と。

    p.14
    どんな形態の政治的支配?伝統的支配、合法的支配、カリスマ的支配

    p.22
    人が経済的な意味政治でのために生きることができるためには...ずばり言えば、恒産があるか、でなければ私生活の面で十分な収入の得られるような地位にあるか...

    p.23
    労働者だけでなく...企業かも、そして近代的な大企業家の場合はとくに、この意味での余裕がない。

    p.28
    アメリカ合衆国では、猟官政治家による素人行政によって、...数十万の官吏が大統領選挙の如何で替えられてしまい...

    p.25?
    「職業政治家」は、...その第一は聖職者で、...第二は...文人である。...第三の階層は、宮廷貴族である。..第四の範疇は、...「貴紳」(ジェントリー)...第五の階層は...法律家である。

    p.39
    そして、事件を利害関係者に有利なように処理することこそ、まさにヴェテラン弁護士の腕というものである。

    p.41
    政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり...

    p.43
    つまりジャーナリストは一種のアウトサイダーとして、...社会的に評価される。

    p.48
    権力者が定期的に選ばれるようになると、政治は必然的に利害関係者による運営という形をとる。


    p.50
    (イギリスの場合のように)大貴族、わけても国王は、選挙法改正まで多数の選挙区における官職任命権を握っていた。

    p.51
    (イギリスでつくられた政治)クラブの指導は臨時の仕事なので副業や名誉職としておこなわれ、クラブのない場合も...同じく副業や名誉職として行われていた。

    p.53
    (フランスの場合)代議士はそれぞれ官職任命権をもち、また一般に、自分の選挙区のあらゆる問題について各種の恩顧を施したが、...地方名望家との接触も忘れなかった。

    p.54
    もちろん実際に権力を握っているのは、経営の内部で継続的に仕事をしている者か、...政党政治の根っこのところを金銭や人事の面で抑えている人間たちである。...アングロサソン諸国ではこれを、「機械」(マシーン)などとうまい言葉で呼んでいる

    p.58
    (イギリスで)この党首とならぶ党組織の最も重要な職業政治家といえば「院内総務」である。

    p.61
    今日イギリスの国会議員は、2,3の閣僚(と若干の奇人)をのぞいて、一般に訓練の行き届いたイエス・マンにすぎなくなっている。...議員は投票だけして党を裏切らなければよい。

    これからがクライマックスですが、ちと寝ます...続きはこちら...

    ■参照リンク
    name by イノガミさん

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    2004年3月30日 (火)

    [書評]バガー・ヴァンスの伝説 小説版

    先日、この映画版についてコメントした。映画を見て本当に感動した。自分のもとめているなにかが語られているのだと感じた。しかし、映画とネットでちょこっと調べただけでは、どうも十分に理解できなかったので、翻訳本だが映画の原作を読んだ。

    本書「バガー・ヴァンスの伝説」を読んでみて、これは映画と小説が全く別物であるという好例であることがわかった。以前、「ナインス・ゲート」を読んで、映画では物語の半分しか語られていなかったということを発見したときも驚愕したが、今回はそれ以上の驚きがあった。映画はどこまで行ってもゴルフの映画だが、小説の方は精神世界に深く分け入っている内容だった。

    実は、小説版はもうそのまま「バガヴァット・ギータ」だったのだ。冒頭に引用されているとか、ネットで見かけてことを前回そのまま書いてしまったが、とんでもない。全体のストーリー構成から、名前までみんな「ギータ」だ。ウィル・スミス演じるバガー・ヴァンスという名前も多分バガヴァットのもじり、ギータの中でクリシュナが語りかけるアルジュナ王子から多分マット・デイモン演じるジュナの名前がきている。映画のセリフで"field"という言葉が、ゴルフコースのことだとして翻訳されていたが、これは「フィールド」という完全に独立の言葉として語られる、小説版のとても大事なキーワードだ。

    ストーリーとしても、映画では最初と最後しか姿を見せないジャック・レモンの演じた老年時代のハーディが小説版では大活躍する部分がとてもいい。映画で語られた部分と語られなかった部分のつなぎ役であり、彼なしではそもそもこの物語が成立しない。

    では、小説版では一体なにがメッセージとなっているのか?これはかなり難しい問いだ。多分、ギータは何を言おうとしているのかという問いに答えられなければならないのだろう。あくまで自分に残った言葉で語りたい。それは、人生で一番大切なのは、グリップであるということだ。本書を読んで、頭でなく、自分の手こそが考え、語り、行動するのだ、と感じた。

    <参照>
    「バガヴァッド・ギーター」 in インド哲学へのいざない
    ・映画版「バガー・ヴァンスの伝説」

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    2004年3月18日 (木)

    [書評]マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆

    マンガ日本の歴史43巻 「ざんぎり頭で文明開化」 石ノ森章太郎

    書評というほどのものには、とてもなりそうにないが、感想を書きたい。

    歴史を見る時、レンズをどこにあわせるかがとても大事だ。遠い過去のことほどいくら拡大しても、望遠鏡でみるように、概略的、概括的なものならざるを得ない。近くなればなるほど、レンズは近接の、それこそ顕微鏡のような、こまかい細部を見るようになりがちである。自分の不勉強をあきらかにするだけかもしれないが、石ノ森章太郎の明治政府のはじまりを書いたこの作品は、とてもちょうどよい倍率で、焦点を結んでいるように思われる。これまで読んだ明治をあつかったどの本よりも全体の流れをクリアーにイメージできた。

    そもそも、倒幕から明治政府が確立している時期に、なにか新しい政策がうちだされるたびに、一揆がこれだけおこっていることと頭の中で連動できていなかった。そういえば、教科書で読んだような気がする程度だ。たかだが、100年前の我らの父祖がこれだけ血気盛んだったとはイメージできていなかった。本当に薄氷を踏む思いで、明治の元老は文明開化を進めたに違いない。日本も中央集権国家が定着するまでには、かなりの血がながされたのだと理解した。

    大体、これだけ中央集権がすすんでしまった現代からは、とてもとても廃藩置県の重さとかは理解できない。実は、日本は事実上戦国大名以来明治維新まで地方分権国家あるいは小国乱立の国だった。だからこそ、ビスマルクのプロシアに共感をもったのだろう。ついこの間まで諸侯の乱立する後進国が、フランスをくだすまでの国に変化したのだから、日本もこれにならおうとするのは、心情的によくわかる。

    それと、大久保にしろ西郷にしろ、あるいは後の伊藤博文にしろ、みな年齢が若い。いまの自分と対して変わらない。まだ、人生50年の時代だったのだろうか?現代の我々は、健康で40代をむかえられるにもかかわらずその成し遂げたこと、その意気の高低において、とてもとても比べものにならない。死ととなりあわせであった覚悟の違いなのか?

    こうしたことをかなりのスピードをもって概観できる、マンガというのは実に便利だと改めて感じた。まあ、自分の無知をさらけだしているだけだという話でもあるが...

    若干、問題意識として、藩籍奉還、廃藩置県と、今政府手動で行われている市町村合併、道州制が重なるように感じた。これはまた探求していきたい問題だ。

    <参照記事>
    [書評]歴史劇画大宰相
    [書評]太平洋戦争

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    2004年2月27日 (金)

    [書評]歴史劇画大宰相

    歴史劇画大宰相 第1巻 さいとう たかを, 戸川 猪佐武 著

    マンガで学ぶ歴史ということでもう1冊。下書きでお蔵入りしていたのを復活させてしまおう。まあ、これも書評というより感想レベルだな。

    歴史のレンズの比喩を再度使わせてもらう。今度は、ちょっとレンズが近すぎる。石ノ森章太郎の信長、秀吉あたりを扱った巻のときは、ちょっと遠すぎてピンぼけしている感じがした。これは、逆にマンガというメディアでは、ちょっと荒すぎる。やっぱり、原作にあたらなくてはだめだと感じた。この本だけでは、吉田茂がどういう動機で動いたか、どういう判断をくだしたかが現れてこない。信長や秀吉なら、結構歴史というフィルターが余分な、いらない行動やエピソードを省いて、かなり詳細に語ったとしてもきちんとその像が写ってくる。吉田茂では、マンガでは粒子があらすぎるようだ。

    しかし、ここで問題にすべきなのは、占領軍の統治下で宰相をやるということがどういうことなのか、いかに日本が徹底的にアメリカにコントロールされていたのか、どれくらい我々の父祖が貧しい生活を耐え忍んできたか、そういったことを学び取るべきであろう。

    また、戦後の混乱期で政治家というものが、何を目指してきたのが、どうして自民党を作らねばならなかったのか、そういう事実をまなんばないと、ほんとうのいまが見えてこないのだなと一人で納得している。

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    2004年2月26日 (木)

    [書評]太平洋戦争

    [書評]太平洋戦争 児島 襄 著

    「太平洋戦争とはなんだったのか?」ということについて考えたい。

    ある人が私にいった。「戦後の政治や今の自衛隊の状況を理解するには、終戦を理解しなければならない。終戦を理解するには、第二次世界大戦を理解しなければならない。そして、どうして第二次世界大戦に日本が参戦したのかを考えなければならない。これを辿っていくとどうしてもすくなとくとも明治までを視野にいれて歴史を学ばなければ現代を理解できないうことになる。」そして、私に勧めてくれたのがこの「太平洋戦争」という本だ。

    大変な労作だと思う。正直、この本を読むまでいかに日本が緒戦で勝利をおさめ、いかに終盤にいたるにつれて日本が、日本人が苦しい、すさまじい戦いをしなければならなかったか、知らなかった。兵士だけでも200万人以上の戦死者が出たと言う事実をよく理解していなかった。また、農協から食管法、大政翼賛会から自民党、それから多分電通にいたる戦後の政治や社会の要素が戦時中に形作られたかのプロセスがわかった。

    スミソニアンに93年頃に訪れた時に、ちょうど日本系米国市民への米国政府の謝罪というイベントを受けて太平洋戦争中の米国におけるプロパガンダ等について展示されていた。また、ちょうどホロコースト博物館もオープンした時期だと記憶している。いずれの展示も戦時中の恐怖のあまり相手方をどれくらい過大評価していたかをデモンストレーションしていた。

    スミソニアンで見た展示で、宣伝用のチューイングガムに、日本兵はゴリラかなにかのようにかかれていた。米兵のパンフレットにも、日本兵は疲れを知らず、死をも恐れず、夜襲の得意な、スーパー戦士としてかかれていたそうだ。事実、初戦では日本軍は負け知らずだった。なぜこれだけの国力しかない国が、そこまで戦えるのかと恐怖をもって語られた。だからこそ、硫黄島の勝利は、米兵の日本兵に対する恐怖心を克服する上でたたえられたのだ。ワシントンにも大きな、大きなモニュメントがたっていた。例の数十人の兵士が旗をたてようとしている図だ。

    やっと、キーワードが出てきたのかもしれない。相手に対する無知が生む恐怖が戦争を引き起こし、深刻化させたように思えてならない。いまでは当たり前のように使われているGPSも、衛星も当時はなかった。レーダーも実用化されたのは、戦争が始まってからだ。索敵の失敗や、連絡の不十分がどれだけの作戦を悲劇に導いたか本書には詳しい。太平洋を行き交う情報も、いまと比べると格段、いや何万分の一以下の情報しかなかった。このような状況下では、極めて限定的な情報の中で、かつ、疑心暗鬼の中で決断をくだすしかなかった。

    逆にいえば、いまの軟弱な我々から見れば、どれだけ燃料も、食料も、情報も、技術も、弾丸も、兵器も、不足している中で我々の父祖達がいかに戦ったという事実をこの本から学びたい。いまの我々が、戦犯、戦争責任ということを語るときには、いかにも自分達は正しい岸に立っていて、戦争について意思決定をした指導者達を断罪する資格があるような錯覚をもたらす。しかし、戦犯とされた彼等が日本の国を滅亡させようと意図してこの戦争を起こした訳ではない。企図しなかったから、罪がないというのではない。一度は、自分自身を当時の状況においてどのような選択肢を選べたか、どれだけ恐怖心を自分で克服できるか、やってみるべきだということだ。

    今は、ここから安易な教訓を引き出したくはない。ただ、この歴史の事実と向きあうために、本書を再読したい。

    ■参照リンク
    文明という名の暴力~『「勝者の裁き」に向きあって』 by d-mateさん
    ・[書評]マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆
    [書評]歴史劇画大宰相
    距離、時間、そして統治と戦争

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    [書評] ゲド戦記

    小さい頃はあんなに楽しくゲド戦記を読んでいたのに、いまは翻訳が気になって気になって仕方がない。そもそもタイトルが日本語と英語で全然違う。

    巻数  オリジナル版 邦訳版
    1巻  A Wizard of Earthsea 1968年  影との戦い 邦訳初版1976年
    2巻  The Tombs of Atuan 1971年 壊れた腕輪 邦訳初版1976年
    3巻 The Farthest Shore 1972年 さいはての島へ 邦訳初版1977年 
    4巻  Tehanu 1990年 帰還 邦訳初版1993年
    外伝集 Tales From Earthsea 2001年 伝説は永遠に―ファンタジイの殿堂〈3〉 ハヤカワ文庫FTに一部収録
    5巻 The Other Wind 2001年  アースシーの風 邦訳初版2003年

    ぼくらは、もしかしてル=グインを読んでいるつもりで翻訳者の文学を読んでいたのではないか?この疑念には実際に原典にあたるしかないないので、とりあえずナメクジのようにのろいが"The Other Wind"を読んでいる。

    翻訳の問題はまた別に触れたい。

    それにして、ル=グインが私に及ぼした影響は大きい。最初に読んだのは、小学生のころだったろうか?なんとはなしに物語の奥底にある影のようなものをおぼろげに感じたのを覚えている。これが発展して、「精神分析入門」へ導かれたり、「ユング自伝」などへの興味につながっていった。最終的には中学生の時はまってしまった心理学、人類学、ファンタジーへの興味が、家庭の事情や家族の期待等により技術系の大学へ進もうとしていた高校2年の自分に転生して、心理学関係の学部への転向をよぎなくさせたといってもオーバーではないのかもしれない。

    この物語は、ゲドの成長の物語であると同時に作者自身の成長と老いの過程の物語であると考える。そして、もしかすると私の成長の物語かもしれない。以下、この視点から一冊一冊コメントしていきたい。


    「影との戦い」 ~自分の影、ゲドの影~

    いまから読むと、どうしても、ユング心理学とか、哲学とか、人類学との関係を考えたくなってしまう。でも、あまり「解釈」をするより、この本はすなおにファンタジーとして、ゲドの成長の物語として読むべきなのかもしれない。これを書いたころのル=グインは、いくら民俗学者の父親がいたとしてもまだあまり自覚的に「思想」的要素を物語りに組み入れてなかった。このころの彼女は純粋にストーリーテラーとして、生きていたのだろう。それでも、昔から、変化の時にはこの本を読み返したくなった。数年前に、これを読みたくて仕方がなくなったのも、思い返せば、自分自身の中で影との対決の時が迫っていたからかもしれない。

    「こわれた腕環」 ~ 目覚め ~
    第1巻が男の子が大人になっていく物語だとすれば、これは女の子の目覚めの物語。これまた、意識=無意識とかいうレベルで語ってしまいがちだが、純粋に闇のなかにつなぎとめられていた少女が、その紐帯を断ち切って男と出会う物語であろう。思想、学問的に解釈するよりも、テナーといっしょに闇から開放される物語としていっしょに追体験したい。暗く、思い迷路の中から外に出た時の開放感をゲドとテナーといっしょに味わったように感じた瞬間があった。ゲドに情けをかけるテナーの中にル=グイン自身を読み取ってしまうのは深読みすぎだろうか?

    「さいはての島へ」 ~ 右があるから左がある 、 あなたがいるからぼくがいる ~

    ゲドにとって、第1巻が誕生の物語で、第2巻が成熟の物語であるなら、本書は老年と死の物語である。生と死、若者と老人、純粋と不純、ハレとケガレ、ファンタジーと現実、いろいろなものが対で語られる。実は、対で存在するものは他方がなければ自分も存在しない。自分の対になるものが、空気がぬけるように、川がせきとめられるように、力を失ってしまったとき、ここにかかれているように自分自身もリアリティーを喪失してしまうのかもしれない。人間の根本にある力をフィーリングに過ぎないとはいえ、直に感じさせてくれるというのもファンタジーの力なのかもしれない。人間の根源を見極め、自分の中の「対」のバランスを取るのが成熟ということなのだろう。

    「帰還―ゲド戦記最後の書」  ~ル=グインという生き方~

    ほんとうに「帰還」を読み終えるのは、つらかった。ちょうど風邪ひきだったせいかもいれない。なぜル=グインはいまごろになって、暴力や性の問題をゲド戦記の世界へもちこんだのだろうか?幾重にも解釈ができる、どうしても解釈したくなってしまう。また、著者自身が解釈されることを読み込みながら書かれた作品であるような気がしてならない。

    ル=グインの視点にたてば、ファンタジーの枠組みの中に捕らえられていたアースシーの世界から、自分が年齢を加えて飛び出してしまったあとで書かれたのが本書であろう。外からアースシーの世界を眺め、そして、あらためて若いときに避けてきた性や暴力のもつ不可思議で奥深い神秘に正面からとりくんだひとつの答えが本書である。

    「アースシーの風」 ~ 思想、解釈、そして自己言及 ~

    現代のファンタジー作家の悲劇は、自分の生み出したものを自分で解釈しなおさざるをえないということではないか?生きている限り、まして芸術家といわれる人たちであれば、自分で自分の作品を思想的に、人類学的に、象徴的に語らざるを得ないのだろう。まして、サヨクだのウヨクだのの思想的な闘争にからまれたら、もうだめだ、芸術作品が産めなくなってしまう。どうも、ル=グインは老齢を迎えてこの辺の病にかかってしまったのではないだろうか?思想という病によってル=グインは、もう純粋なファンタジーを産むことができなくなってしまった...

    ■追記 (平成16年5月21日
    finalventさんに、今年の12月にテレビでゲド戦記が放映されることを教えていただいた。見たい!ざっと見ると「壊れた腕輪」がベースのようですね。でも、ゲドの成長とかからやるとかいうから、「影との戦い」の部分も少しはあるのかな?二夜で4時間の番組だそうな。sci-fiチャンネルって日本のCSとかでも見れるのかな?あ、みれなそうだな。でも、「砂の惑星」とかかなりビデオになっているから、ビデオでそのうち見れるようになるでしょう。楽しみ!

    EARTHSEA by Sci-Fi.com

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    2004年2月23日 (月)

    [書評]バンバイヤ 手塚治虫

    「バンパイヤ」 3巻 手塚治虫

    ここのところ映画を見てもなにか気にさわる。昨日、たまたま続き物の映画の第三作を見て腑に落ちた。ご都合主義が鼻につくのだ。映画だから、ハッピーエンドで終わってほしいと思っていても、不自然にものごとがおさまっていくのが気にらない。現実は、こんなにもうまくいかないことばかりだし、問題をひとつ解決しても、いつのまにか次の問題が引き起こされ、そして、またそのまた次の問題も解決しなければならないはめになる。

    一方で、手塚治虫の漫画のいくつかが結末がつかないまま終わっていたり、かなり悲劇的な終わり方をするのが、なぜなのか不思議でならなかった。「どろろ」しかり、「ガラスの城の記録」しかり、「人間どもあつまれ!」のエンディングもあまりにかなしすぎる終わり方だった。「バンパイヤ」の結末も「あーあ、二巻でやめておけばよかったのにな。」とずっと思っていた。ネタをほとんど未消化のままいったりきたりしながら描いてい構成が不自然だった。出版社との事情があって、無理やり続きをかかねばならなくなったのだろうが、三巻の終わりで中断されているのが悲しかった。

    しかし、バンパイヤを改めて読み直してみて、案外この不条理さがよいのではないかという気持ちになった。世の中、そんなに合理的にかつご都合主義的に終わるものではないのだ。あるいは、永遠に終わらない自分の物語というのはある。永遠に解決つかないであろう問題というものも、悲しいことだが、ある。そう、あとは不条理がのこるだけ、とムーンライダースの曲が聞こえてきそうだ。

    ■追記 (平成16年6月17日

    瀬戸さんから、「アドルフに告ぐ」の記事へのトラックバックをいただいた。この重みを受け止めたい。

    手塚治虫が見つめたものは、広く、遠く、そして、深い。そのまなざしは、人を見つめながら、人を突き抜けていた。そして、そこまでいっても手塚の手には不条理だけが残るというのは、何故だったのだろうか?手塚の中に潜み、彼を動かし、彼をして不条理の縁までつれていったなにものか、なのだろう。私には、手塚が「ファウスト」にあれだけこだわりつづけた理由がそこになるような気がする。

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    2004年2月15日 (日)

    [書評]我々は孤独ではない?

    「2001夜物語」 星野之宣

    我々は宇宙の中でどこまでも孤独な存在なのだろうか?衛星軌道上の天文台から非常にクリアで精密な画像が送られ、太陽系外惑星が続々と発見されている。今現在火星の上では、探査ロボットが地表を生命の痕跡をさがして動き続けている。しかし、なぜ未だにこの地球以外に知的生物の存在はおろか、生命の痕跡すらがみつけられないのだろうか?天文学者によればこの宇宙は開闢以来100億年を越えて存在しているそうだ。地球の生物が生まれ出て10億年ちょっと。地球がありふれた存在であるなら、我々の知覚しうる宇宙にいくらでも知的生物が存在していてもいいはずだ。いくつかの原因が想定しうる。

    A.知的生物は、なんらかの理由により、この地球にしか存在しない。

    B.知的生物は、存在するが、あまりにも存在の確率がまれであるため、我々が認識しうる空間の中には存在しえない。

    C.知的生物は、存在するが、物理法則により生まれ出た惑星の外ででることができない、あるいは、太陽系外へでるほどのテクノロジーは絶対的に存在しないため、お互いの存在をしることはない。

    D.知的生物は、過去に存在したが、すでに滅びてしまっている。知的文明の寿命は実は非常に短い。

    E.知的生物は、すでに存在していて、地球の生物を知っているが、なんらかの理由で自分たちの存在を隠している。

    考えればいくらでも仮説はでてきそうだ。

    そこで、星野之宣。星々へ出ていくテクノロジーをものにした人類の話。しかし、どこまでいっても地球外知的生物は存在しえない世界。これを読んでいて、私は仮説Dが頭から離れなくなった。どんな物理法則があるのか、どんな生物的な限界があるのかわからないが、知的生物自体はいくらでも発生したが、いずれも文明があまりにもかよわく短いため、我々とオーバーラップするような時間、空間に存在していないと考えたとき、背筋が寒くなった。もし仮設Dが正しくて、今現在知的生物と接触できていないということは、我々の文明自体が短命であるということの証明であるのだとすれば、我々はこんなにも地球の上でお互いを滅ぼすような努力ばかりしている場合ではないのではないか?戦争も、テロも、偏った農業も、環境を破壊するテクノロジーも、それでなくとも短い地球人類の文明の寿命をますます短くしているのではないだろうか。

    宇宙船地球号というイメージが提唱されてひさしいが、星野之宣を読みながら、あらためて我々はその貴重さに思いをするべきである。


    ■参照リンク
    ・火星探査ロボット オポチュニティー
    ・ハッブル宇宙天文台の捉えた最も遠い宇宙
    ・マイクロソフト共同創立者のポール・アレンが宇宙人探索のためSETIに1350万ドルを寄付
    ・「距離、時間、そして統治と戦争」 (HPO)

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    2004年2月14日 (土)

    [書評]キリンヤガ

    キリンヤガ マイク・レズニック

    失われてしまった世界をよみがえらせることができるか?最新のテクノロジーと寓話と魔法を使って...「キリンヤガ」はそんな物語だ。西欧の害毒により崩壊してしまった部族社会を、小惑星を改造して人工的に作り出した世界によみがえらせる。いくつかの思考実験がこの小説の根底に流れている。外の世界があることを知っている閉じた社会が成立しうるか?物質文明により崩れてしまった部族社会の価値観を、物質文明のテクノロジーを使って再生するという矛盾は克服しうるのか?伝統的な価値を守ろうとするリーダーは、社会の安定を思考するゆえに、逆に社会を不安定に陥れてしまうのではないか?これらの問いに、寓意ではあるが、みごとに作者は答えているように私には思える。そう、この物語の中には多く寓話がでてくるが、実はこの物語自体が大きな寓話なのだと思う。

    地球全体ですら、情報が発達し一体化がすすんだいま、実はキリンヤガと五十歩百歩の状況に陥りつつあるのではないだろうか?いや、もっと狭くとらえて日本だけを「閉じた社会」を守ろうとする人工的な部族社会だととらえれば、作者の問題意識とさまざまベクトルで語られるこの連作短編集のいずれも現象として起こっているのではないだろうか?自殺の問題しかり、老年の問題しかり、群を抜いた異才の排除する風潮しかり。。。深読みしすぎだろうか?

    それでも、この作品がひさしぶりのSFの佳作であることに間違いない。私は、この作品全般にただようもの悲しさがすきだ。

    ■追記

    Danさんが本書の書評を書いておられるのでR。一日にこんなに何度もトラバするときらわれるのでR。

    書評 - キリンヤガ

    そう、確かにコリバが抱える悩みは私自身の悩みでもある。寓話は現実を残酷なまでに私たちにつきつけるのだ。

    その意味では、いまだに私は「峠」の呪縛から逃れられていない。

    経営に役に立つ本? HPO

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    2004年1月25日 (日)

    [書評]ハイペリオンの世界

    ハイペリオン: ダン シモンズ

    SFの話をしたい。ひさしぶりにSF小説にはまっている。合計で2,500ページを(多分)超える4部作を読むのは一種体育会系ののりだったかもしれない。電話帳より分厚い本を中年の入り口に入りつつある私が読むということは、自殺行為のようなものだ。味気ない現実と対峙する仕事に全力を消耗し尽くした夜中に睡眠時間をけずって、また本をひろげて読むというのは、とても現実逃避な行為のかもしれない。話自体も夢と現実が交叉するような話だったせいか、起きていても心がハイペリオンの世界へいつのまにか還っていってしまうような気が何度もした。正直、読了した感想は「ようやく長い悪夢から覚められる」という感じだ。それでも、これだけの分量を一気に読ませるのは作者と訳者のわざなのだろうと思う。

    まあ、本について最低限の紹介をするのが筋だろう。4部作の最初の一冊だけを紹介しよう。タイトルのにハイペリオンとは、「時間の墓標」というどうも未来から過去へ向かって時間移動している遺跡のある惑星。ある教団の聖地となっている。このハイペリオンへ巡礼に向かう7人が語る小さな物語からこの小説は構成されている。カソリックの司祭、探偵、惑星の領事、詩人、戦士など、それぞれ全く別な環境と生い立ちを背負っていて一人一人の物語は独立していながら、それでいて全体で一つの壮大なストーリーが立ち上がってくる。「ハイペリオンの没落」とあわせると翻訳者の酒井氏が言っているように「あわせ絵」が見えてくるという。実によくできた小説といえる。

    まず最初に特筆すべきなのは、ダン・シモンズという作者の筆力であろう。とにかくめちゃくちゃうまい。これは普通のSF作家の域を越えている。背景描写がとても美しい。後の巻になればなるほどこの描写力のすばらしさはきわだってきて、背景描写をするために主人公達にいろいろな世界をまわらせている気すらしてくる。まあ、英語を読んでいないのでなんともいえないが、翻訳者の酒井さんがすごいということなのかもしれない。また他方、俳句から禅、チベット仏教、カソリック、へとつながる膨大な知識とセンス。背景の描写からもかなりの美的センスをかじる。すばらしいの一言だ。

    さて、この辺から本題に入っていきたいのだが、それにもまして私が感動するのは、この膨大な物語が「愛と時間」という一点で焦点を結んでいるということだ。批判的な人は、大風呂敷だけひろげて結論が妙にセンチメンタルなものだと感じるかもしれない。しかし、私にとって非常に深い感銘を与えてくれた。影響力を持つテーマであるといえよう。「愛と時間」というとそのもののタイトルのSFがあったし、語り尽くされたテーマなのかもしれない。

    6つの小さな物語で語られるのは、いろいろな時間の流れ方と愛のあり方である。まっすぐに続く時間、永劫に続く袋こじの時間、逆向きに流れる時間、思い出の中の時間、夢の時間、早い時間と遅い時間の出会い、などなど、SFならではの発想かもしれないが、愛には時間が必要なのだとあらためて感じさせられた。また、どんな時間の流れ方の中でも愛は成立しうることをこの小説は証明している。愛にもいろいろな形がある、恋人同士の愛、リスクや暴力と背中合わせの危険な恋、子供に対する愛、神の愛、死すべき定めの人間の世界愛、自然・環境への愛、宇宙を成立させる力としての愛。作者はこの小説のなかで、宇宙根源の原理は愛だといっている。どれだけその意見がオーソドックスで洗練されていないように響こうとも、私は作者に賛成である。

    どうも、先に書いたように毎晩夜更けにこの小説を読みついで来たせいか、夢と現の間でこの物語が語られてきた気がしてならない。きっとこの夢は私の現実生活にかなり影響をもっていたと思う。私の中でいつのまにか、ダン・シモンズの言葉が夢の言葉に変成されてしまったようだ。夢の言葉はいつも不思議だ。あんなに確信に満ち、興奮に満ちた夢でも目覚めを迎える時にはいろあせた石に変わっている。そろそろ私自身も覚醒の時を迎えねばならない。なんとかしてこのハイペリオンの夢から「愛」という光り輝く宝石を持って帰りたいものだ。

    2000.8.1

    ■参照リンク
    ★皇国の守護者★ by 芹香さん

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    [書評]がんばらないでゆこう!

    書評もどきを依頼されたんですが、テーマにあわないとぼつ。寂しいのでここにのせます。

    志賀内 泰弘、 日めくり「がんばらない」でゆこう 
              ~ がんばった人 まじめな人 疲れているすべての人に 捧げます ~

    ある日曜日の朝の会話

    「おはよう。おっ、なにこれ『がんばらないでゆこう』?」
    「疲れているパパへプレゼントね。」
    「ふーん、英語で「がんばれ」は『take it easy!』か、直訳すれば『気楽にとろうよ』じゃないのかな。そういえば映画で『take it easy!』とか言ってたな。」
    「『電車に乗り遅れると幸せになるかも!?』ですってパパには涙がでそうな話じゃない?」
    「うん、そうだね。ええっと、リオのカーニバルに出る人は所得も低くとも「でもハッピー!」か、そうかもしれないね。たぶん、これからは日本もがんばった人はがんばった人なりに、がんばらない人はがんばらない人なりに、幸せになれる社会になるのかもしれないね。決して悪い意味じゃなくてね。」
    「どういうこと?」
    「やっぱり、敗戦後、いやそれ以前からかもしれないけど、ひたするがんばって、がんばってがんばりぬいてきて、一時的には成功したかに見えたけど、やっぱり今経済的にも政治的にも破局にちかい状況にあるわけじゃない。がんばりすぎて、足をひっぱりあっているような世の中じゃ住みずらいばかりでしょ。大体ああいう政治家で不祥事なんかを起こしている人達だってあるいみがんばりすぎちゃったんだと思うよ。きっと、これからそれぞれの人がそれぞれの立場でそれぞれの幸せを馬頭素のでないと、そうとう住みにくい世の中になる。」
    「そうねぇ。私にはそういう国の状況とピンとこないけど、でも、やっぱりやるだけやって自分の限界を見極めた人じゃないとこういう話が実感として伝わらないのじゃないかしら。自分の限界がわかるからこそ、自分の6割の力でも仕事できるのだと思うわ。自分の限界もわからない、仕事のやり方もわからない、誰もかれもがみんながみんな力をぬいちゃあまずいんじゃないい?」
    「うーん、そうだね。ちょっとまってインターネットで調べてみよう。...ふむ、大体、これを書いた志賀内康弘さんって、そうとうなマルチ人間でスーパーサラリーマンといわれているらしい。それこそ、人並み以上にがんばってるひとなんじゃない。そんな志賀内さんが書くから説得力があるんだろうね。」
    「そんなにすごい人が書いているの。知らなかったわ。」
    「確かに自分に与えられた力や能力、立場といったものを十二分に生かすのでないと、それはほんとうに自分の人生を生きぬくことにはならないね。ある意味自分を生かしきれないとい人生の無駄は悲劇かもしれない。でも片一方で、『努力すれば必ずむくれわるのはうそだ』というのも真実だと思うよ。やはり、自分らしく生きるのが大事だね。」
    「やっぱり、自分の娘や若い人には能力ぎりぎりまで一度は力を発揮してほしいわね。」
    「そうそう、この前出版社から頼まれていた新人に贈る本にこれを推薦しようかな。」
    「新人にこういう脱力させるようなの勧めていいの?」
    「いや、君のいうとおり逆にこういう心境になるまでとことんやってみなさい、とことんやってみたら『がんばらないでゆこう!』といえるようになるよ、というメッセージをそえて紹介したいね。」
    「ねえ、見て、『映画は映画館でみよう』って書いてあるわよ。日曜日なんだから映画にでもいきましょうよ。たまには仕事ばかりしてないで家族孝行しなさいね。」
    「...そうか、それがいいたくてこれをプレゼントしてくれたのか。一本とられたな。あ、でももうこんな時間だ、もう出かけなきゃ。今日は仕事で遅くなるんじゃないかな。じゃあね。」
    「まったく、日曜日だっていうのに!人にいうよりさきに自分が『がんばらないでゆこう!』を実践したどうなの!」

    志賀内泰弘さんの紹介 http://homepage1.nifty.com/manyapage/folk/shigasupetop.htm

    2001/4/15

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    2004年1月24日 (土)

    [書評]ラテン語の楽しみ

    ラテン語にはまっている。学生の頃のように参考書を読み、テープを聞き、問題集を解く。これはついぞない楽しみだ。以下、初学者であることを省みず自分の使っている参考書を披露したい。21世紀の教養人を自称するならラテン語の教養は不可欠だと見出した!


    今をさること1992年に塩野七生の「ローマ人の物語」の第1巻が刊行された。この本の表紙にあった「res gestae populi romani」をきちんと読みたいというのが、私が最初にラテン語を読みたいと思うきっかけだった。この物語の広がりとともにラテン語を勉強したいという熱は上がっていった。カエサルの「来た、見た、勝った」も「vini , vidi , vici」とか判ると、「ああ、venirというフランスがあるから、そのもとで『来る』なんだな、vidiもvideoが一人称単数の『見る』という動詞でそのまま今のビデオの語源なんだな、viciはvictoryに繋がっているんだな」とか、創造するだけで楽しい。言葉がわかるということはその世界の成り立ちに触れるということであると思う。だからこそ今に繋がるラテン語を勉強することはそのままいまの社会を学習することなのだと思う。

    確か、最初に読み始めたラテン語関連本だったにもかかわらずまだ読み終わらない!しかし、さすがに少々はラテン語の知識が入ってきたせいか、すこしづつ頭に入り始めた。ラテン語を習い始めて最初に気が付いた「車の名前ってみんなラテン語じゃん!」というのも、この本にかなり体系的に記述されていることも再発見したし、格変化の覚え方もかなり解りやすく整理されていることが最近わかった。
    余談だが、例えば「イプサム=ipsum」というのは、そのまま「自分自身」という意味のラテン語。「ルーチェ」は、「光り輝く」。「ファミリア」は「家族」。カローラ、セルシオ、フィアット、などなど、ほんとうに車のネーミングってみんなラテン語!
    この本を読んで、現代社会でどれだけラテン語が生きているか理解できた。いろいろな団体やら政体における言葉から、考え方、ヨーロッパ人共通の古典的教養の母体。現代で一般に使われている「拒否権」を意味する"veto"や、「上院議員」を意味する"senator"はそのままラテン語である。ラテン語は決して死語ではない。しかも、一般教養を深めながらラテン語文法の基礎も平易に解説してくれているありがたい一冊。

    ン十年ぶりに、ノートに問題文を書き写した、文法の問題を解いた、和訳をした。文法書を読んでいるだけでは全然あたまに入らなかった名詞の変化や動詞の各のパターンが、問題をといていると自然にはいってきている。なぜかすごく楽しい。
    オビにある「失われた時をもとめて、典雅なる知の遊戯を楽しんでみませんか、一生の愉楽です、退屈しているひまはありません。」という一文は、ほんとうにその通りだと実感している。
    解答といっしょに別冊になっている単語集もものすごく貴重!これまらン十年ぶりに単語カードを買ってきて製作をはじめたところ。これは本当に「一生の愉楽」になりそう。

    いまだに苦労しているというか、全然ものにならないラテン語であるが、このテープを聞いて耳から覚える習慣がつき、これまでとっつきにくかったラテン語の単語が自然に入り、入門書も通読できるようになった。車に乗るといつも聞いている。でも、さすがに運転しながらラテン語を聞いていると少々眠くなってしまうのがたまにきず。しかし、言葉は言葉である。いくら本で読むより耳で聞いたほうがはるかに頭にはいってくる。やはり、usus est magister optimus.(実践こそ最良の教師)と実感した。

    ■参照
    ・ウィキペディア 「ラテン語文法
    ラテン語入門 by Taro Yamashitaさん (ラテン語ML、ROMで参加させていただいております。ありがとうございます。)

    ■追記 平成16年11月5日

    気がつくと、いつのまにかmixiで「ラテン語が好き!」なんていうコミュニティーをやっていたりする。また、楽し。

    ■追記 平成19年2月14日

    さすが!

    書評 - ラテン語の世界 by Danさん

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    2004年1月21日 (水)

    [書評] 運命、死、そして滅び 「風の谷のナウシカ」

    風の谷のナウシカ by 宮崎 駿さん

    このシリーズを読み直す度に自分のこころの奥底にあるなにかが反応する。自分でも言語化しえないこころの底と、今ここで薄汚く貪欲に自分が生きているという現実がこれだけ交叉しあう物語をしらない。まさしく汚濁をも、悪をもとりこみながら生きつづけるナウシカに自分のからだもこころも共鳴する。

    この長いナウシカの物語の進化=深化は、作者のこころの変化をそのままに映しているのではないだろうか。最初に世に出たナウシカは、映画で描かれた内にパワーを秘めながらも、族長の娘としての役目を十分に果たそうと必死にもがき苦しむする女の子だった。それが、この物語の中で、腐海の底、酸の海での争い、人々の生きているがゆえの悪、そして憎悪、あるいは、自分自身の死をも通り越し、善悪の彼岸を超えた境地へ到達する。特に滅びと死を経験するナウシカに、作者のこの世界への絶望を読み取るのは深読みなのだろうか?

    また、この物語の中に指導者の様々な形を読み取ることもできる。自分の統べる民を迫害する王、滅ぼす王、自分を犠牲にしてまでも同朋を生かそうとする長、国も民も捨て隠棲する王族、民が滅びても王としてのプライドを捨てない王子、そしてすべてを抱きしめ、すべてを包括し、そしてすべてを超越するナウシカ。王と民の在り方は、神話、民話からはじまる長い物語の伝統の基本をなしている。これも、この汚濁の世で誠実に生きようとする作者の姿を見出すのは見当違いなのだろうか?

    21世紀の今、作者自身にぜひこの全てを映像化し、昇華しきってほしい!

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    2004年1月13日 (火)

    [書評]迷いと自己 「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」

    「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 パウロ・コエーリョ著

    愛について語りたい。「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」があまりに衝撃的だった。泣きながらこの本を読んだ。自分のあまりのナイーブさにあきれながらも涙が止まらなかった。心臓に杭を打ち込まれたようにこころがいたかった。今までの自分をほとんどすべて捨ててしまおうとさえ思った。そう、本書は、信仰と、愛と、それから神秘体験について深く語りかけてくれる。

    「ピエドラ」を読んでいて、自分の中で恐れや見栄やお金などに執着することを捨てて愛に生きる、生きたいという熱望を自分の中に発見した。しかし、熱望と同時に執着を捨てることはこれまでの自分を捨てることではないか、愛を選ぶことによって自分がこれまで築いてきたものすべて失うのではないかと、恐怖を感じた。これまで、自分は、自分の内にあるコントロールできない衝動と世間の現実の間で器用に生きて、なんとか「おりあい」をつけてきたつもりだった。そのバランスにまっ正面からもう一度むかい合うのは、まさに本書の主人公の直面した、いままでの自分の人生を続けるか、すべてを捨てて愛に生きていくかという問いなのだろう。

    この本の作者のパウロ・コエーリョという人は神秘的な体験をベースにした小説をいくつか書いている。「アルケミスト ~夢を旅した少年~」というのもそうした延長線上にある作品であった。少年がある意味神秘的な体験を通して自分の人生の目的を達成していくという話だった。今回は、もっと神秘的な経験が前面にでているといえる。原始キリスト教にある「パンデモニア」、「なにか」が地上に降りてきて一群の人々にさまざまな言葉で話し始める体験、というのはまさしく現実に生きる人の目には隠された神秘の体験であろう。 また、このコエーリョはいつもなにか表面にかかれていることよりもっともっと深いものを感じさせる。

    神秘体験とともに、この主人公が身をもって示している方向は、人は自分の意思により自分の人生をえらびとらなければならいということだ。あまりに多くの人が自分のもっていた夢をあきらめて、自分の意志自体をあきらめて生きている。自分自身に「これでいいんだ、自分にはこれしかないんだ」と言い聞かせ、自分の意志をねじまげて臆病にいきることを強いることすらある。しかし、実はほんの一瞬にして人生の方向が変わってしまうことがあるのだ。自分の意志で自分自身をいまこの一瞬に投機すれば、自分の人生は変えることが出来る。自分の人生を自分で刈り取るためには、私ももっと自分自身を自分を腹に落とさなければならない。もっともっと瞑想したほうがいいのかもしれない。こころが自分で語りだすのを聞かなければならない。瞑想を通して、自分自身の行動と自分の人生を自分の体におとしていかなければならない。自己が自己をどう投機すべきなのか、賭けるべきなのか、瞑想する。こころはきっとこたえるだろう、「自分のなすべきみちをいけ」、と。「自分のなすべきことをなせ」、と。そう!「なすべきことをなせ」とは、「しなくてもいいことはするな」ということの対偶だ。選び取ることと捨て去ることとは常に同義だ。今現在も、自分が選ぶことで捨てるものがあることに恐怖している。

    私の人生の全ての混乱と汚濁の中に光を見出したい。そう、私は混乱と汚濁のなかに咲く花をさかせたい。これまで生きてきたことも、いまやっていることも、すべて一つの目的に収束していくという確信がずいぶん前からある。でも、それは待つのではなく自分で選び取るものなのだと、常に人は自分の人生を選ばなければならないのだと、今この本を読みおえて思っている。

    ■参照リンク
    [書評]超恋愛論(吉本隆明) by finalventさん (平成16年10月25日 「本当の恋愛に、不意に襲われる」という言葉ににこころひかれる。ひさしぶりにあじわう胸の痛さだ。
    男と女 (HPO)

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    [書評] 職業選択の自由 「13歳のハローワーク」

    「13歳のハローワーク」 村上 龍 (著)

    お正月の村上龍とカルロス・ゴーンの対談が興味深かったので、娘に買ってきた。今年テレビでみた村上龍は、以前の自分に好きなことだけをやっていた頃とは顔つきが違っていた。以前は、酒からドラッグからなにからで自堕落な生活を送っていることを思わせる、感性はあってもどこかにだらしなさのある顔つきだったと記憶している。今の顔は、やりたいことだけをやりつくしたあと、自分の本当の使命感に気づいた面構えだと思った。

    現在の日本のキーワードは「何をしたらいいかわからない」とテレビの対談でも話し、本にも書いていたが、現在の日本の状況に対して村上龍として何ができるかを考えて形にしたのが、前著「この金で何ができたか」であり、本書なのだろう。本書は、やりたいことだけをやってきた村上龍だからこそ書ける本だと思う。「小説家は最後の選択だ」とか、随所に自分自身が送ってきた人生と職業の選択に触れている部分が私にはそれでも一番説得力があったように感じる。今、彼はきっと将来の世代に自分がなにができるかを真剣に模索しているのだろう。

    アペンディックスとして、バイオやITについての未来像について具体的なインタビューも含めて「13歳」に分かるように書いているのも、大事なことだ。この部分を私自身が読んでいて、もしかするとあと10年から20年以内にインターネット以上のインパクトの有る技術革新が起こってもおかしくないのだと感じさせられた。今ティーンエイジャーである子供たちの職業の選択にとって、必ずこうした技術革新が大きな影響をもたらすだろう。

    これは、いい本だ。いま12歳の娘も真剣に読んでいた。

    ■参照リンク 
    [書評] 技術経営入門 改訂版 (HPO)

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    [書評] サムライと美 「武士道」と「ザ・ラスト・サムライ」

    「武士道」 新渡戸 稲造 (著), 矢内原 忠雄 (翻訳)

    ザ・ラスト・サムライ」を見た。ひさびさに「武士道」を読みたくなった。ハリウッド映画に日本の美がなんであったか、日本の武士道がなにであったかを、こんなにヴィジュアルにみせつけられるとは思っていなかった。この主演俳優であるトム・クルーズが撮影中にぼろぼろになるまで読んだというのが本書の英語でかかれた原著であるという。

    国際連盟で活躍した新渡戸稲造は、本書によって広く世界に知られるようになったという。ブリティッシュコロンビア大学の新渡戸記念公園とライブラリーを訪問したときのことが思い出される。カナダという異国においても、現在にいたるまで新渡戸稲造の記念碑的な施設が十分に維持管理されていることに新渡戸稲造の遺徳の大きさを見た。

    そして、今「武士道」がトム・クルーズや渡辺謙の姿を通じて世界の新たな世代にプレゼンテーションされたことに感動を覚える。世界の人々も「ザ・ラスト・サムライ」を見て本書を読みたくなってくれることを祈りたい。

    しかし、新渡戸稲造が描いた独特のストイシズムに基づく日本人の美しさはどこへいってしまったのだろう。節制と恥じを基調とし、なにごとも完璧を求めた人の生き方としての美しさ、世代を超えた稲作による山河の美しさ、伝統的な着物や建物の美しさ。もし「ザ・ラスト・サムライ」と本書だけで日本を知った人が現在の日本を見たら、どのような感想をいだくのだろうか。


    ■参照リンク
    [書評]マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆  (HPO)
    [書評]太平洋戦争 (HPO)
    距離、時間、そして統治と戦争 (HPO)

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    [書評] 祝祭と漢字 「漢字百話」

    「漢字百話」 白川 静 (著)

    漢字が占いに使われた甲骨文字から始まったことは知っていたが、こんなにも多くの漢字が祝祭とかかわっていたとは知らなかった。やはり、古代においては祝祭が人々の生活の上に強大な影響力をもっていたということであろう。古代においては、道徳すら祝祭との関連において理解されるべきだったようだ。

    この本を読んでからいろいろな感じを分解して考えるようになった。天という字が「二」と「人」にわけて考えてもいいんだとか、「妖」という漢字は「若い女」が妖艶なさまであるとか、「己」という字にはスパイラルのような呪がこめられていそうだとか、いままで単なる形象にすぎなかった漢字がなまなましく感じられるようになった。

    ■参照リンク
    『漢字の世界』1・2 by 松岡正剛さん
    ランダムドットキネマトグラムとランダムドットステレオグラムからの発想 (HPO)

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    書評の楽しみ

    最近、アマゾンの書評書きにはまっている。一応役職をいただいている身なので、あまりこういうことに時間を割いているのが会社にばれるとよくはないのだが...でも、楽しい。その他自分の個人的な意見を書き連ねていきたい。

    ■参照リンク
    [書評] 脱走と追跡のサンバ
    宮澤賢治はどこへいったのか?
    [書評]ぼくんち bokunchi
    [書評]経営分析の初歩が面白いほどわかる本 Two More Steps to Accounting
    手塚治虫と心中物 ~when a man loves a woman~
    [書評]素晴らしい世界 what a wonderful world!
    [書評]信頼と安心の年金改革 ~ Mostly What I Need From You ~
    [書評] 年金大改革 ~ a wild pension chase ~
    [書評] アップルシード 2巻 apple seed 2nd volume
    「雨ニモマケズ」を4つに分ける
    夏休みの100冊 ~teenager books~
    [書評]イギリス式月収20万円の暮らし
    おもかげの国 うつろいの国
    [書評] 攻殻機動隊 Ghost in the Shell
    [書評] チェンジングレーン
    [書評] 技術経営入門 改訂版
    [書評] ファウスト、最期の科白
    [書評] 疾走
    [書評] 「採用の超プロが教える できる人 できない人」 
    [書評] 職業としての政治
    [書評] バガー・ヴァンスの伝説 小説版
    [書評] マンガ日本の歴史43巻 明治の一揆
    [書評] 歴史劇画大宰相
    [書評] 太平洋戦争
    [書評] ゲド戦記
    [書評] バンバイヤ 手塚治虫
    [書評] 我々は孤独ではない? 「2001夜物語」 星野之宣
    [書評] キリンヤガ
    [書評] ハイペリオンの世界
    [書評] がんばらないでゆこう!
    [書評]ラテン語の楽しみ
    [書評]運命、死、そして滅び 「風の谷のナウシカ」
    [書評]迷いと自己 「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 
    [書評]職業選択の自由 「13歳のハローワーク」
    [書評]サムライと美 「武士道」
    [書評]祝祭と漢字 「漢字百話」


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