2006年6月 8日 (木)

ブログを書かないということ with or without you

けじめをつけなければいけないとい思いながら、日々がただすぎていく。

あれだけブログの記事を書くことが楽しかったのに、自然だったのに、書くネタも無くなり、書くという行為自体が自分の生活習慣から遠いものになる日がくるとは思っていもいなかった。

ブログを書かなくなると、日々の事件やら社会の変動に対して関心が薄くなっていくのを確かに感じる。不思議なものだ。やはり、世の情報や人の思考というものには、通貨的な性質があるというか、出しただけ自分に入って来るものなのかも知れない。

また、何年も本も新聞も読まない年月が再び始まったのかもしれない。そう、ブログの日々の前には、長いこと虫のように目の前の生活だけの行き方が続いていた。めくるめくブログ界隈の展開にこころときめいた日々も終わってしまった。

なんというかブログの日々を想うとき、自分の求める答えは外にあるのではなく、自分の日々の生活、日々の仕事の中にあるのだと気づかざるを得ない。自分が答えを外に求める限りどこまで行っても、答えは外へ外へ遠のいてしまうだけなのだ。幸せの蒼い鳥はやはりあなたの家にこそいる。

There is no place like home....

しかし、それは私の一方的な想い込みかもしれないが、ブログを書くことによって生じた絆は、消滅しないだろうと信じている。いや、消滅させはしない、反転させもしないと誓う。

正直に言えば、ブログを書くことは、いやブログを書くことによって生じた友愛と連体は、この半年あまりの予測もしなかった動乱の中で、私を救ったともいえる。深く深く、感謝したい。

みなさん、本当にありがとうございました。

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2006年4月13日 (木)

テレビってなに? politocal correctness vs. politeness

うーむ、ページランクがぐんぐんさがっている。「HPO」で検索しても、英語版のHPOよりランクが下で、結果の2ページ目だというのはやばい。たまにはわかりやすいことを書かないといけないようだ。

今年は交通媒体にテレビ番組の広告がやたら多いような気がするのは、私だけだろうか?番組の改編時期とはいえ、某JRのホームの広告はすべてテレビ番組であった。これはテレビが広報機能を放棄しているとはいえないだろうか?言うまでもなくCMのクライアントは、広報、広告の一環としてテレビであれば十分に視聴され、認識されると信じてお金を払っているわけだ。そのお金が番宣のために交通広告に使われているのだとしたらいささか不本意なのではないだろうか?

もう少し深読みしてしまえば、新聞雑誌広告も反応が悪くなってきていることをテレビ局はよくわかっているのだと思う。「R25」や無料アルバイト情報誌が、新聞に織り込まれているのではなく、駅におかれているというのも理由があるわけであろう。もっといってしまえば、末端の新聞店が本当に折り込み広告を入れているか最近は疑問であると複数のメディア関連の方から聞いた。ネットの時代であるのに折り込み広告も、宅配の新聞代も値段が下げられないジレンマを感じているのではないだろうか?

しかし、某局のディレクターが私に「真実や事件の背後にある原因を報道することが大事なのではなく、視聴者がみたいと思う映像が撮れればいいんです」と断言したが、実際駅の広告を見ていてテレビとは結局報道ではなく娯楽なのだなと感じた。ま、某ディレクターさんは「politicaly correct」でもなく、「politely correct」でもなかったということで終わりにしてしまおう。

■追記 翌日

こんな記事を見つけた。

最も視聴する広告はテレビ CM 、新聞・PC 上のバナーが続く  @ japan.internet.com

やはり、テレビ優勢は続くのか?それとも、バナー広告の健闘をたたえるべきなのか?

PC 上のバナー広告(9.7%)は3位にとどまっているものの、雑誌(2.7%)やラジオ(1.9%)、駅の広告(4.6%)、DM やチラシ広告(3.7%)などを上回った。

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2006年4月 5日 (水)

人類の競争力または「人間=最悪の環境汚染源」 Humanity

そろそろ本当にネタ切れだ。クルーグマン先生の本の書評をしようかと思っていたが、読了しなかった。

こういう時は、過去に書いた文章の転載をしてしまうにかぎる。

やはり、「環境問題」を真剣に考えるのなら人間の数を減らすことを考えるべきだと思う。

現在地球の資源の枯渇と自然環境の悪化が叫ばれている原因は、増えすぎた人類だと断定そて間違いない。もし、現在の60億の人類が野放図にその種を増やして30年しか居住可能な環境を維持できないのなら、これ以上数を人口を増やすのをやめて60年、1/6の10億に減らして180年とかの方が人類全体のためではないだろうか?

この問題を考えると、人類の種としての目的は一体何なのかということに帰着する。種としての目的をどう設定するかで、結論は全く変わってくる。「最大多数の最大幸福」を追求するなら、また「最大多数」が現存する人類一人一人のことを指すなら先のことは置いといて、このまま突っ走るべきであろうし、人類すべてが幸福な「涅槃」の境地に達することが目的であるなら直ちにすべての生産活動と生殖活動をやめて仏教の修業を始めるべきであろう。結論は目的により変わってくる。

私は決してクリスチャンではない。しかし、人類の目的を聖書に求めることができるかもしれないと思う。聖書の創世記で二つの命題が人類に与えられている。第一命題は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」でこれはとうの昔に達成してしまったといえる。第二命題とは、「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべてのすべての生き物を支配せよ」という言葉だ。「支配する」と言うことは、「管理する」すると言うことではないだろうか?創世記の昔から人類には環境問題を解決すべき責務があるということにはならないだろうか?であるならな、責任をもって人類の数をコントロールすべきであると考える。

すでに人類の人口は60億を超え、カロリーベースで消費食料が生産を追い越すのはもうまもなくであろう。西洋人が肉を食うのをやめてももう食料が足りなくなる時代はもうすぐだ。そこで改めて問われるのは、資源と経済力の分配の問題である。それでもやはり共産主義的な分配方法がいいのか、自由主義経済がいいのか、血と血をかけて争われる時代がまたくるのではないか? 

うーん、我ながら混乱した文章だ。かなり、一部の思想の影響を受けていたのだと、いまさらながらだが感じる。ただ、人類の行く末を考える時日本の少子高齢化とは、嘆くべきこことではなく、人類全体のゆくべき未来を先取りしているのだと言えはしまいか?

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2006年4月 4日 (火)

Unspotted "Made In Japan" Products

ほったらかしにしていた英語の練習ブログが、"Featured Subscriber"というので一瞬取り上げられたのに気をよくして、昨日の記事英訳してみた。ま、我ながらしょーもない翻訳だが、新しい記事を書く元気もないので、転載してしまう。

I enjoyed reading 5th, April Issue of Newsweek Japan. The featured article titled "NIPPON DAISUKI! ---We Love Japan!---" focused the new meaning of "Made In Japan." As subtitled "Anime and Manga are Old! Neo Japanese Culture Fascinates the World," the article intorduces various "Made In Japan" products that got popular outside the Japan with new usages. SUDOKU got popular in England for training brainpower, a famous actress loves disposable pocket warmers for her painful period, a high-grade KARAOKE compartment in London is the newest and most cool entertainment. Some American girls regard YAOI MANGA, the Japanese homosexual boys story, as "liberation from bondage of gender for women." It seems those "Made In Japan" products set the new way of lives.

Thinking of Japanese style of life, I found I am surrounded by quite unique not-high-tech "Made In Japan" products that I can not think of any counterparts in other world. However, the Japanese companies are enthusiastic in exporting high-tech products and are not interested in the value of Japanese traditional culture and modern life style of the Japanese. There are much business chances because any marketing textbooks tell us selling our uniqueness is the key for success in any business. The standardizations of shipbuilding, iron manufacturing, and semiconductor foundries are quite completed now in the 21st century. Among those once productivity-oriented industries, Japanese companies can not be the unique. Any companies in the world can get the knowledge of production operation and set up factories.

On the other hand, for example, you might start to sell 100% pure KONYAKU as an ultimate diet food. The Japanese people should look back their culture and traditional product in the light of worldwide marketing. They must look aound themselves as if they were foreigners.

During Edo period, the Japanese reached cultural height under long-lasting economic stagnation. As we, the Japanese, must face the aging society with few children, they might find many cultural values and wisdoms in the Japanese history and low-tech products.

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2006年4月 3日 (月)

「日本製」というブランド Variety for Enjoying Life

旧聞になってしまうが、4月5日号のニューズウィークの特集、「ニッポン大好き」を読んだ。サブタイトルの「アニメやマンガはもう古い、ネオ日本文化に世界が夢中」という言葉通り、脳を鍛えるトレーニングとしてのSUDOKUから、生理痛対策用具としての使い捨てカイロ、クールな娯楽としてのロンドンの高級個室カラオケまで、日本ブランドがいかに世界で競争力を持ち得るのかを知った。やおいマンガですら、「女性にとってジェンダーの束縛のない世界」として評価されているというのだ。

考えてみれば、日本の製品というのは日本以外の世界と比べて特殊なものが多い。にもかかわらず、世界水準に会わせて製品供給しているケースが多すぎるのではないだろうか?マーケティングの鉄則は、自社でしかできない商品、流通体制、独自のサービスなど、独自性をいかに発揮することだ。これまで日本が輸出してきた、造船、半導体、自動車など、工業製品はあまりに標準化がすすみすぎていて、日本独自という商品にはなりえない。案外、これから純度100%の寒天を「日本製のダイエット食品」として売り出せば、日本独自の製品として受けるのではないだろうか?

逆を言ってしまえば、日本人は、日本独自の商品についての意味を見直すべきなのかもしれない。寒天やかんぴょうなどいままでの価値基準を離れて、例えば外国人がはじめてその商品を見るような気持ちで見直すとブランド商品化になりうるものは多いのではないだろうか?

日本は元々成熟社会を江戸時代に経験し、技術革新ではない、文化による多様性の豊かさを享受してきた国なのだ。そもそも、日本語を使っていると言う独自性自体かなり今後価値をもってくるように私には思われる。少子高齢化していく中で、「日本製」の意味を素直に見直したい。

■参照リンク

【Cover Story】ニッポン大好き @ zassi.net

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2006年3月31日 (金)

見ること

絵を描く。

下手だけど、下手なりに描く。

描いてみると、自分がいかにものを見てなかったよく分かる。

木の枝の曲がり方、動物の身体の曲げ方、人の表情。

描いてみると、自分がこうだろうと思っている思い込みがいかに間違っているかわかる。

もう一度、見ることを学びたい。

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2006年3月24日 (金)

女性原理の復権 The Age of Aquarius

長らくカソリックは、私にとって不思議なものだった。ユングの「ヨブへの答え」を読んでから特にわからなくなった。

ヨブへのこたえ by C.G.ユング

聖母マリア被昇天 @ カトリック松原教会のホームページ

フランスを訪れた時に、ヨハネ・パウロ二世が亡くなった。

プロヴァンスの旅 (HPO)

日本に帰国する日曜日の朝になりひびいた鐘の音が忘れられない。

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? (HPO) 

フランス旅行から戻って来てこんなことを考えていた。

私にはどうも、カソリックは単に組織がしっかりしているから力を持っているという以上に人々をひきつける力があるように感じられてならない。
ああ、ただイスラエルをキリストの足跡を追って訪れた時に感じたものと、カソリックの寺院やカソリックの象徴に触れたときに感じるものは、大きく違う。死海のほとりで感じたものは、もっと別なものだったとはいえる。

ああ、あと決定的だったのは、「ハイペリオンの世界」とそのシリーズだね。

この辺の違和感がこの本を読みながら、解けていっている。

4042955037ダ・ヴィンチ・コード(上)
ダン・ブラウン 越前 敏弥
角川書店 2006-03-10

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小説は小説なので、どこまで信じるべきかは私にとって問題なのだが、非常に示唆されるものを感じる。ましてフィボナッチ数まで出てくるとあらば、これはもうたまらない。

まだ、読了してないから、読み終わったら感想書きます。あ、ブログ書いている間に、子どもに上巻を渡したら読み終わりそうな勢い。追い付かれないうちに、早く読んじゃおうっと。

■参照リンク
ダ・ヴィンチ・コード、ヴァリス、ヨブへの答え

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2006年3月22日 (水)

自殺のティッピングポイント My Lost Marbles

4870313944ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか
マルコム グラッドウェル Malcolm Gladwell 高橋 啓
飛鳥新社 2000-02

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いやぁ、なんかこうやってこの本の表紙をみるだけでなつかしいな。ちょっと前にこの本の想い出について書いた。あ、最初に書いたときから多少変えているよ。

私に「ティッピングポイント」をくれた方のことを思い出した。「この本は、きっとひできさんの将来を変えると思う」といってプレゼントしてくれた。もう会うこともなくなってしまったが、いま思うと確かに(べき分布的な現象やらネットワークの力の一端について書かれた)この本から出発した考え方が私の人生を変えつつあるのかもしれない。「SYNC」のラストで「ティッピングポイント」が模索した回答の一端が示されたときには戦慄した。

この本の中で、ミクロネシアの少年たちに起こった自殺の流行の話が議論されていた。今の私の疑問というのは、第3次自殺ブームといわれる昨今、話題になっているネットからみの自殺事件が果てしてこのティッピングポイント現象なのかということだ。あ、ちなみにティッピングポイントというのは、ある一定の数を超えて伝染病やら、ファッションやら、うわさ話などが伝わるとき、どこかで爆発的に全体に広がるポイントがあるという考え方だ。いわゆるパーコレーションの問題だね。パーコレーションについて詳しくは、↓を見てね。

ミュージカルバトン (HPO)

時間がないので、手短に言うとごく限られた部分では自殺のティッピングポイント、パーコレーションが発生している可能性がある。でも、それ以外では想定の範囲内らしい。

日本における自殺の精密分析 by 池田一夫さん、伊藤弘一さん @ 東京都立衛生研究所年報,50巻,337-344 (1999)

自殺の多くが中高年以上の男性だということを知ってた?

そもそも日本の男性は、女性の倍くらい自殺しちゃうんだよね。んで、昨今の自殺の多くは団塊の世代の方々が50代から60代という魔の世代に到達したために起こっている可能性が高いらしいんだな。あと、1930年代前半、いわゆる昭和一桁世代に第1次、第2次、第3次の自殺ブームを通じて、自殺の率が高いという現象もあるらしい。この年代の人達ってロマン主義者というか、とっても「熱い」人達が多いからね。なんとなく有名人の名前も浮かぶが書かないでおく。

そこんとこをわかってもらって上で、↑の論文の都内と全国平均を比べた図5と図6を見て欲しい。分かりにくいかもしれないが、色分けされたセルの縦の列が暦年を示している。一番右側の列が1995~98年だね。そして、縦に15歳から90歳まで15歳きざみで示したセルが並んでいるというわけだ。紫や赤が平均より高いといことなのだが、どうも有意に高そうなのが、90年代に入ってからの15歳を超えた青年期の女性たちだ。この論文にも書いてある。

女子の死亡率比の世代マップを図6に示す.女子で特徴的なのが,60歳以上の高齢域で顕著に死亡率比が低いのに対し,青年期から中年前期にかけて,死亡率比の高い区域が終始存在することである.特に,1980年代以降,死亡率比1.1を越えるセルが青年期で増加し,1995-97年では20-50歳代のすべてのセルが1.1を越える状況になっている.青年期で死亡率比が高く,高齢域で死亡率比が低いという現象は,東京以外にも,大都市を抱える大阪府と福岡県,さらに沖縄県でも観測される.この点から,都市部における青年期女子の高い死亡率比については,社会心理学的な考察の対象とすべき現象と考えられる

これだけでパーコレーションが起こっているとは結論づけられないけど、逆を言えばここの部分以外は現代に特有の現象ではなくて、いままでの第1次、第2次のブームの延長線上らしい。ネットが自殺増加の原因だとニュースなどでよく書かれているけど、「都市部における青年期女子」以外の部分について本当にそうなのかこのデータを見る限り疑問だな。

あ、ちなみに軽く書いてしまっているけど、現代に至っても自殺の原因の多くは精神的な悩みなどよりも病気を苦にした自殺なのだそうだ。米国や英国とかと比べて自殺の数が少ないのは、もしかすると尊厳死とか、クオリティー・オブ・ライフを医療でどう考えるのか、痛み止めをどのタイミングで投与するのかとかいう違いなのかもしれない。

ちなみに、自殺についてのもうすこし文化的な考察としては、この方のブログ記事が興味深かった。

自殺は感染する by 雨崎良未さん

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2006年3月10日 (金)

試練としての痛み Dear Prof. Eliade

以前、こんな話を書いた。it1127さんが、「痛みの文化人類学」というサイトを教えてくださってふと思い出した。恥さらしの上塗りで、ブログで公開したい。私にとって、試練としての痛みというとこんな感じになる。

小さな小石の童話

 むかしむかし、といってもそれほど大昔でないくらいの昔に、インディアンの少年がいました。名前は「小さな石」といいました。大きな草原にお父さんの「大いなる鷲」と二人で暮らしていました。少年が13歳になったとき、少年は酋長の娘の「野原のタンポポ」が好きになりました。「小さな石」はお父さんに「『野原のタンポポ』と結婚したい。どうしたらよいか。」と話しました。お父さんは「まだ早い。自分で家を作り、狩ができるまで待て。少なくともあと2回は冬を越さなければならない。」

 2年があっというまにたち、少年はたくましい青年になりました。「大いなる鷲よ。ぼくはもう自分で家をつくれる。狩の腕前は村で一番だ。今こそ『野原のタンポポ』を娶りたい。」と、またお父さんに訴えました。「それでは、お前は大人になり、戦士であり、狩人であることの証に足につるの縄をつけて『死の谷』へ飛び降りて見せなければならない。そして、ナイフひとつで底から上がってくるのだ。」とお父さんは応えました。「死の谷」の底では、夜魔物が出てくるという噂でした。何人もが自分の勇気を示すために飛び降りていきましたが、戻ってきた男は指で数えられるほどでした。

 いよいよ、『死の谷』へ飛び降りる前の晩に「小さな石」は「野原のタンポポ」に会っていいました。「恋人よ、ぼくは勇気を示すために谷へ飛び降りる。そして君を必ずぼくのものにしてみせる。」タンポポは応えました。「あなたの勇気を見せてちょうだい。きっと父の酋長もあなたの勇気を認めてくれるはずだわ。」

 『死の谷』への跳躍の日が来ました。村人達はドラムをたたき、「小さな石」をはげましてくれました。「小さな石」は体中に先祖から伝わる魔よけの模様を赤い土で描きました。夜が来て、金星がまたたき、流星が落ちてくるのがいくつも数えられました。「小さな石」は谷の上に立ちました。谷底は暗く何も見えません。ただ、頭の上の星だけが輝いていました。

 「小さな石」は大きな声で一声叫ぶと、頭から谷へ飛び込んでいきました。

■追記 平成18年3月11日

以下の小文を書いていたつもりだったのに、追加されてなかった。一応、ココログのメンテナンス不良のせいだと書いておこう。

私の中で、痛みと愛は結びついているように感じる。愛ゆえの痛み、痛みゆえの愛。愛も痛みもどちらも身体感覚だ。相手が私に与えるぬくもりとにおいという感覚と、相手が私に与える苦痛と苦しみという感覚は、実は近しいものだ。そして、痛みも愛も、時間とともに風化し、神話と化していく。



Mircea Eliade (1907-1986)
マイトレイ by Mircea Eliade

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2006年3月 8日 (水)

「博士の愛した数式」から耐震偽装に至る6次のつながり My Broken Love to Mathematics and Physics

ま、変にここのところ毎日書いてしまっていてネタにつまったので、苦し紛れのタイトルと理解していただいてかまわない。

一応、リンクから先に書く


「博士の愛した数式」
  ↓
Danさんのブログの記事、「数式が愛した文学」
  ↓
第三回東京ブロガーカンファレンス
  ↓
HPOブログ = ひでき、こと私
  ↓
「時間の矢」
  ↓
「応答性能に基く耐震設計入門」
  ↓
e^iθ = cosθ + i sin θ : 局座標系の表現としての複素数*1
  ↓
「博士の愛した数式」
...

あ、耐震偽装そのものが入ってないじゃないか!という指摘があるかもしれませんが、分かる人だけ笑ってください。

前半のリンクは簡単だ。私はまだ「博士の愛した数式」は読んでいないが、Danさんは美しい記事でこの小説を取り上げられた。Danさんと私は、東京ブロガーカンフェランスでお会いしている。リンクまでいただけた。これだけだ。

後半はちとややこしい。私は、熱力学の不可逆性を、開放系・非線形科学の立場から分子レベルの力学的分析までさかのぼって説明した「時間の矢」という本を、知恵熱まで出しながら読んだ。この中で繰り返し出てくるラグランジュアン、ハミルトニアンという力学系の基本事項にすら理解に時間を要した。どれくらい苦労したか、そして、いまだに私がどれくらい理解できてないかは、以下のwikiを参照してほしい。

http://wiki.fdiary.net/100books/?Time+Flies+Like+An+Arrow

そして、今日たまたま本屋で専門書をあさっていて手にした本が「応答性能に基く耐震設計入門」だった。これは多分建築の構造を扱った本としては奇書の類ではないだろうか?建築の構造を説明するのにラグランジェ、ハミルトンからはじめている。数式だけを眺めていると、かなり「時間の矢」に似ている。それでも、結論として出てくるのが最近ハウスメーカーさんが実用化した耐震ダンパーだというのがすごい。

この本の中で極座標系を説明するのに現れたのが、「e^iθ = cosθ + i sin θ」という式だ。この本の著者によると、自然対数、eの微分しても値の変わらないという定義から、運動している系の変移、r=a+ibと置けば、r=e^iθ、rの時間微分=速度=ie^it、rの二次の時間微分=加速度=-e^itの円軌道になるのだという(あー、全然なっちゃないっすね、私の理解...石丸辰治先生、ごめんなさい)。

Danさんがおっしゃっているように、この式から「博士の愛した数式」に出てくる「e^iπ + 1 = 0 」まではほんの半歩にすぎない。

と、いうことで、タイトルにつながる円環状のエッジができあがるということになる。つまらないネタでもうしわけないが、今日はこれまで!


4101215235博士の愛した数式
小川 洋子
新潮社 2005-11-26

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4627153015時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?
ウィリアム・グラハム フーバー William Graham Hoover 志田 晃一郎
森北出版 2002-04

by G-Tools


4395006450応答性能に基づく「対震設計」入門
石丸 辰治
彰国社 2004-03

by G-Tools

■注

*1 こう書くときっとDanさんからお叱りが飛んでくるんだろうな...

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