2006年6月 8日 (木)

ブログを書かないということ with or without you

けじめをつけなければいけないとい思いながら、日々がただすぎていく。

あれだけブログの記事を書くことが楽しかったのに、自然だったのに、書くネタも無くなり、書くという行為自体が自分の生活習慣から遠いものになる日がくるとは思っていもいなかった。

ブログを書かなくなると、日々の事件やら社会の変動に対して関心が薄くなっていくのを確かに感じる。不思議なものだ。やはり、世の情報や人の思考というものには、通貨的な性質があるというか、出しただけ自分に入って来るものなのかも知れない。

また、何年も本も新聞も読まない年月が再び始まったのかもしれない。そう、ブログの日々の前には、長いこと虫のように目の前の生活だけの行き方が続いていた。めくるめくブログ界隈の展開にこころときめいた日々も終わってしまった。

なんというかブログの日々を想うとき、自分の求める答えは外にあるのではなく、自分の日々の生活、日々の仕事の中にあるのだと気づかざるを得ない。自分が答えを外に求める限りどこまで行っても、答えは外へ外へ遠のいてしまうだけなのだ。幸せの蒼い鳥はやはりあなたの家にこそいる。

There is no place like home....

しかし、それは私の一方的な想い込みかもしれないが、ブログを書くことによって生じた絆は、消滅しないだろうと信じている。いや、消滅させはしない、反転させもしないと誓う。

正直に言えば、ブログを書くことは、いやブログを書くことによって生じた友愛と連体は、この半年あまりの予測もしなかった動乱の中で、私を救ったともいえる。深く深く、感謝したい。

みなさん、本当にありがとうございました。

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2006年4月13日 (木)

テレビってなに? politocal correctness vs. politeness

うーむ、ページランクがぐんぐんさがっている。「HPO」で検索しても、英語版のHPOよりランクが下で、結果の2ページ目だというのはやばい。たまにはわかりやすいことを書かないといけないようだ。

今年は交通媒体にテレビ番組の広告がやたら多いような気がするのは、私だけだろうか?番組の改編時期とはいえ、某JRのホームの広告はすべてテレビ番組であった。これはテレビが広報機能を放棄しているとはいえないだろうか?言うまでもなくCMのクライアントは、広報、広告の一環としてテレビであれば十分に視聴され、認識されると信じてお金を払っているわけだ。そのお金が番宣のために交通広告に使われているのだとしたらいささか不本意なのではないだろうか?

もう少し深読みしてしまえば、新聞雑誌広告も反応が悪くなってきていることをテレビ局はよくわかっているのだと思う。「R25」や無料アルバイト情報誌が、新聞に織り込まれているのではなく、駅におかれているというのも理由があるわけであろう。もっといってしまえば、末端の新聞店が本当に折り込み広告を入れているか最近は疑問であると複数のメディア関連の方から聞いた。ネットの時代であるのに折り込み広告も、宅配の新聞代も値段が下げられないジレンマを感じているのではないだろうか?

しかし、某局のディレクターが私に「真実や事件の背後にある原因を報道することが大事なのではなく、視聴者がみたいと思う映像が撮れればいいんです」と断言したが、実際駅の広告を見ていてテレビとは結局報道ではなく娯楽なのだなと感じた。ま、某ディレクターさんは「politicaly correct」でもなく、「politely correct」でもなかったということで終わりにしてしまおう。

■追記 翌日

こんな記事を見つけた。

最も視聴する広告はテレビ CM 、新聞・PC 上のバナーが続く  @ japan.internet.com

やはり、テレビ優勢は続くのか?それとも、バナー広告の健闘をたたえるべきなのか?

PC 上のバナー広告(9.7%)は3位にとどまっているものの、雑誌(2.7%)やラジオ(1.9%)、駅の広告(4.6%)、DM やチラシ広告(3.7%)などを上回った。

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2006年4月 5日 (水)

人類の競争力または「人間=最悪の環境汚染源」 Humanity

そろそろ本当にネタ切れだ。クルーグマン先生の本の書評をしようかと思っていたが、読了しなかった。

こういう時は、過去に書いた文章の転載をしてしまうにかぎる。

やはり、「環境問題」を真剣に考えるのなら人間の数を減らすことを考えるべきだと思う。

現在地球の資源の枯渇と自然環境の悪化が叫ばれている原因は、増えすぎた人類だと断定そて間違いない。もし、現在の60億の人類が野放図にその種を増やして30年しか居住可能な環境を維持できないのなら、これ以上数を人口を増やすのをやめて60年、1/6の10億に減らして180年とかの方が人類全体のためではないだろうか?

この問題を考えると、人類の種としての目的は一体何なのかということに帰着する。種としての目的をどう設定するかで、結論は全く変わってくる。「最大多数の最大幸福」を追求するなら、また「最大多数」が現存する人類一人一人のことを指すなら先のことは置いといて、このまま突っ走るべきであろうし、人類すべてが幸福な「涅槃」の境地に達することが目的であるなら直ちにすべての生産活動と生殖活動をやめて仏教の修業を始めるべきであろう。結論は目的により変わってくる。

私は決してクリスチャンではない。しかし、人類の目的を聖書に求めることができるかもしれないと思う。聖書の創世記で二つの命題が人類に与えられている。第一命題は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」でこれはとうの昔に達成してしまったといえる。第二命題とは、「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべてのすべての生き物を支配せよ」という言葉だ。「支配する」と言うことは、「管理する」すると言うことではないだろうか?創世記の昔から人類には環境問題を解決すべき責務があるということにはならないだろうか?であるならな、責任をもって人類の数をコントロールすべきであると考える。

すでに人類の人口は60億を超え、カロリーベースで消費食料が生産を追い越すのはもうまもなくであろう。西洋人が肉を食うのをやめてももう食料が足りなくなる時代はもうすぐだ。そこで改めて問われるのは、資源と経済力の分配の問題である。それでもやはり共産主義的な分配方法がいいのか、自由主義経済がいいのか、血と血をかけて争われる時代がまたくるのではないか? 

うーん、我ながら混乱した文章だ。かなり、一部の思想の影響を受けていたのだと、いまさらながらだが感じる。ただ、人類の行く末を考える時日本の少子高齢化とは、嘆くべきこことではなく、人類全体のゆくべき未来を先取りしているのだと言えはしまいか?

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2006年4月 4日 (火)

Unspotted "Made In Japan" Products

ほったらかしにしていた英語の練習ブログが、"Featured Subscriber"というので一瞬取り上げられたのに気をよくして、昨日の記事英訳してみた。ま、我ながらしょーもない翻訳だが、新しい記事を書く元気もないので、転載してしまう。

I enjoyed reading 5th, April Issue of Newsweek Japan. The featured article titled "NIPPON DAISUKI! ---We Love Japan!---" focused the new meaning of "Made In Japan." As subtitled "Anime and Manga are Old! Neo Japanese Culture Fascinates the World," the article intorduces various "Made In Japan" products that got popular outside the Japan with new usages. SUDOKU got popular in England for training brainpower, a famous actress loves disposable pocket warmers for her painful period, a high-grade KARAOKE compartment in London is the newest and most cool entertainment. Some American girls regard YAOI MANGA, the Japanese homosexual boys story, as "liberation from bondage of gender for women." It seems those "Made In Japan" products set the new way of lives.

Thinking of Japanese style of life, I found I am surrounded by quite unique not-high-tech "Made In Japan" products that I can not think of any counterparts in other world. However, the Japanese companies are enthusiastic in exporting high-tech products and are not interested in the value of Japanese traditional culture and modern life style of the Japanese. There are much business chances because any marketing textbooks tell us selling our uniqueness is the key for success in any business. The standardizations of shipbuilding, iron manufacturing, and semiconductor foundries are quite completed now in the 21st century. Among those once productivity-oriented industries, Japanese companies can not be the unique. Any companies in the world can get the knowledge of production operation and set up factories.

On the other hand, for example, you might start to sell 100% pure KONYAKU as an ultimate diet food. The Japanese people should look back their culture and traditional product in the light of worldwide marketing. They must look aound themselves as if they were foreigners.

During Edo period, the Japanese reached cultural height under long-lasting economic stagnation. As we, the Japanese, must face the aging society with few children, they might find many cultural values and wisdoms in the Japanese history and low-tech products.

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2006年4月 3日 (月)

「日本製」というブランド Variety for Enjoying Life

旧聞になってしまうが、4月5日号のニューズウィークの特集、「ニッポン大好き」を読んだ。サブタイトルの「アニメやマンガはもう古い、ネオ日本文化に世界が夢中」という言葉通り、脳を鍛えるトレーニングとしてのSUDOKUから、生理痛対策用具としての使い捨てカイロ、クールな娯楽としてのロンドンの高級個室カラオケまで、日本ブランドがいかに世界で競争力を持ち得るのかを知った。やおいマンガですら、「女性にとってジェンダーの束縛のない世界」として評価されているというのだ。

考えてみれば、日本の製品というのは日本以外の世界と比べて特殊なものが多い。にもかかわらず、世界水準に会わせて製品供給しているケースが多すぎるのではないだろうか?マーケティングの鉄則は、自社でしかできない商品、流通体制、独自のサービスなど、独自性をいかに発揮することだ。これまで日本が輸出してきた、造船、半導体、自動車など、工業製品はあまりに標準化がすすみすぎていて、日本独自という商品にはなりえない。案外、これから純度100%の寒天を「日本製のダイエット食品」として売り出せば、日本独自の製品として受けるのではないだろうか?

逆を言ってしまえば、日本人は、日本独自の商品についての意味を見直すべきなのかもしれない。寒天やかんぴょうなどいままでの価値基準を離れて、例えば外国人がはじめてその商品を見るような気持ちで見直すとブランド商品化になりうるものは多いのではないだろうか?

日本は元々成熟社会を江戸時代に経験し、技術革新ではない、文化による多様性の豊かさを享受してきた国なのだ。そもそも、日本語を使っていると言う独自性自体かなり今後価値をもってくるように私には思われる。少子高齢化していく中で、「日本製」の意味を素直に見直したい。

■参照リンク

【Cover Story】ニッポン大好き @ zassi.net

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2006年3月31日 (金)

見ること

絵を描く。

下手だけど、下手なりに描く。

描いてみると、自分がいかにものを見てなかったよく分かる。

木の枝の曲がり方、動物の身体の曲げ方、人の表情。

描いてみると、自分がこうだろうと思っている思い込みがいかに間違っているかわかる。

もう一度、見ることを学びたい。

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2006年3月24日 (金)

女性原理の復権 The Age of Aquarius

長らくカソリックは、私にとって不思議なものだった。ユングの「ヨブへの答え」を読んでから特にわからなくなった。

ヨブへのこたえ by C.G.ユング

聖母マリア被昇天 @ カトリック松原教会のホームページ

フランスを訪れた時に、ヨハネ・パウロ二世が亡くなった。

プロヴァンスの旅 (HPO)

日本に帰国する日曜日の朝になりひびいた鐘の音が忘れられない。

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? (HPO) 

フランス旅行から戻って来てこんなことを考えていた。

私にはどうも、カソリックは単に組織がしっかりしているから力を持っているという以上に人々をひきつける力があるように感じられてならない。
ああ、ただイスラエルをキリストの足跡を追って訪れた時に感じたものと、カソリックの寺院やカソリックの象徴に触れたときに感じるものは、大きく違う。死海のほとりで感じたものは、もっと別なものだったとはいえる。

ああ、あと決定的だったのは、「ハイペリオンの世界」とそのシリーズだね。

この辺の違和感がこの本を読みながら、解けていっている。

4042955037ダ・ヴィンチ・コード(上)
ダン・ブラウン 越前 敏弥
角川書店 2006-03-10

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小説は小説なので、どこまで信じるべきかは私にとって問題なのだが、非常に示唆されるものを感じる。ましてフィボナッチ数まで出てくるとあらば、これはもうたまらない。

まだ、読了してないから、読み終わったら感想書きます。あ、ブログ書いている間に、子どもに上巻を渡したら読み終わりそうな勢い。追い付かれないうちに、早く読んじゃおうっと。

■参照リンク
ダ・ヴィンチ・コード、ヴァリス、ヨブへの答え

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2006年3月22日 (水)

自殺のティッピングポイント My Lost Marbles

4870313944ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか
マルコム グラッドウェル Malcolm Gladwell 高橋 啓
飛鳥新社 2000-02

by G-Tools

いやぁ、なんかこうやってこの本の表紙をみるだけでなつかしいな。ちょっと前にこの本の想い出について書いた。あ、最初に書いたときから多少変えているよ。

私に「ティッピングポイント」をくれた方のことを思い出した。「この本は、きっとひできさんの将来を変えると思う」といってプレゼントしてくれた。もう会うこともなくなってしまったが、いま思うと確かに(べき分布的な現象やらネットワークの力の一端について書かれた)この本から出発した考え方が私の人生を変えつつあるのかもしれない。「SYNC」のラストで「ティッピングポイント」が模索した回答の一端が示されたときには戦慄した。

この本の中で、ミクロネシアの少年たちに起こった自殺の流行の話が議論されていた。今の私の疑問というのは、第3次自殺ブームといわれる昨今、話題になっているネットからみの自殺事件が果てしてこのティッピングポイント現象なのかということだ。あ、ちなみにティッピングポイントというのは、ある一定の数を超えて伝染病やら、ファッションやら、うわさ話などが伝わるとき、どこかで爆発的に全体に広がるポイントがあるという考え方だ。いわゆるパーコレーションの問題だね。パーコレーションについて詳しくは、↓を見てね。

ミュージカルバトン (HPO)

時間がないので、手短に言うとごく限られた部分では自殺のティッピングポイント、パーコレーションが発生している可能性がある。でも、それ以外では想定の範囲内らしい。

日本における自殺の精密分析 by 池田一夫さん、伊藤弘一さん @ 東京都立衛生研究所年報,50巻,337-344 (1999)

自殺の多くが中高年以上の男性だということを知ってた?

そもそも日本の男性は、女性の倍くらい自殺しちゃうんだよね。んで、昨今の自殺の多くは団塊の世代の方々が50代から60代という魔の世代に到達したために起こっている可能性が高いらしいんだな。あと、1930年代前半、いわゆる昭和一桁世代に第1次、第2次、第3次の自殺ブームを通じて、自殺の率が高いという現象もあるらしい。この年代の人達ってロマン主義者というか、とっても「熱い」人達が多いからね。なんとなく有名人の名前も浮かぶが書かないでおく。

そこんとこをわかってもらって上で、↑の論文の都内と全国平均を比べた図5と図6を見て欲しい。分かりにくいかもしれないが、色分けされたセルの縦の列が暦年を示している。一番右側の列が1995~98年だね。そして、縦に15歳から90歳まで15歳きざみで示したセルが並んでいるというわけだ。紫や赤が平均より高いといことなのだが、どうも有意に高そうなのが、90年代に入ってからの15歳を超えた青年期の女性たちだ。この論文にも書いてある。

女子の死亡率比の世代マップを図6に示す.女子で特徴的なのが,60歳以上の高齢域で顕著に死亡率比が低いのに対し,青年期から中年前期にかけて,死亡率比の高い区域が終始存在することである.特に,1980年代以降,死亡率比1.1を越えるセルが青年期で増加し,1995-97年では20-50歳代のすべてのセルが1.1を越える状況になっている.青年期で死亡率比が高く,高齢域で死亡率比が低いという現象は,東京以外にも,大都市を抱える大阪府と福岡県,さらに沖縄県でも観測される.この点から,都市部における青年期女子の高い死亡率比については,社会心理学的な考察の対象とすべき現象と考えられる

これだけでパーコレーションが起こっているとは結論づけられないけど、逆を言えばここの部分以外は現代に特有の現象ではなくて、いままでの第1次、第2次のブームの延長線上らしい。ネットが自殺増加の原因だとニュースなどでよく書かれているけど、「都市部における青年期女子」以外の部分について本当にそうなのかこのデータを見る限り疑問だな。

あ、ちなみに軽く書いてしまっているけど、現代に至っても自殺の原因の多くは精神的な悩みなどよりも病気を苦にした自殺なのだそうだ。米国や英国とかと比べて自殺の数が少ないのは、もしかすると尊厳死とか、クオリティー・オブ・ライフを医療でどう考えるのか、痛み止めをどのタイミングで投与するのかとかいう違いなのかもしれない。

ちなみに、自殺についてのもうすこし文化的な考察としては、この方のブログ記事が興味深かった。

自殺は感染する by 雨崎良未さん

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2006年3月10日 (金)

試練としての痛み Dear Prof. Eliade

以前、こんな話を書いた。it1127さんが、「痛みの文化人類学」というサイトを教えてくださってふと思い出した。恥さらしの上塗りで、ブログで公開したい。私にとって、試練としての痛みというとこんな感じになる。

小さな小石の童話

 むかしむかし、といってもそれほど大昔でないくらいの昔に、インディアンの少年がいました。名前は「小さな石」といいました。大きな草原にお父さんの「大いなる鷲」と二人で暮らしていました。少年が13歳になったとき、少年は酋長の娘の「野原のタンポポ」が好きになりました。「小さな石」はお父さんに「『野原のタンポポ』と結婚したい。どうしたらよいか。」と話しました。お父さんは「まだ早い。自分で家を作り、狩ができるまで待て。少なくともあと2回は冬を越さなければならない。」

 2年があっというまにたち、少年はたくましい青年になりました。「大いなる鷲よ。ぼくはもう自分で家をつくれる。狩の腕前は村で一番だ。今こそ『野原のタンポポ』を娶りたい。」と、またお父さんに訴えました。「それでは、お前は大人になり、戦士であり、狩人であることの証に足につるの縄をつけて『死の谷』へ飛び降りて見せなければならない。そして、ナイフひとつで底から上がってくるのだ。」とお父さんは応えました。「死の谷」の底では、夜魔物が出てくるという噂でした。何人もが自分の勇気を示すために飛び降りていきましたが、戻ってきた男は指で数えられるほどでした。

 いよいよ、『死の谷』へ飛び降りる前の晩に「小さな石」は「野原のタンポポ」に会っていいました。「恋人よ、ぼくは勇気を示すために谷へ飛び降りる。そして君を必ずぼくのものにしてみせる。」タンポポは応えました。「あなたの勇気を見せてちょうだい。きっと父の酋長もあなたの勇気を認めてくれるはずだわ。」

 『死の谷』への跳躍の日が来ました。村人達はドラムをたたき、「小さな石」をはげましてくれました。「小さな石」は体中に先祖から伝わる魔よけの模様を赤い土で描きました。夜が来て、金星がまたたき、流星が落ちてくるのがいくつも数えられました。「小さな石」は谷の上に立ちました。谷底は暗く何も見えません。ただ、頭の上の星だけが輝いていました。

 「小さな石」は大きな声で一声叫ぶと、頭から谷へ飛び込んでいきました。

■追記 平成18年3月11日

以下の小文を書いていたつもりだったのに、追加されてなかった。一応、ココログのメンテナンス不良のせいだと書いておこう。

私の中で、痛みと愛は結びついているように感じる。愛ゆえの痛み、痛みゆえの愛。愛も痛みもどちらも身体感覚だ。相手が私に与えるぬくもりとにおいという感覚と、相手が私に与える苦痛と苦しみという感覚は、実は近しいものだ。そして、痛みも愛も、時間とともに風化し、神話と化していく。



Mircea Eliade (1907-1986)
マイトレイ by Mircea Eliade

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2006年3月 8日 (水)

「博士の愛した数式」から耐震偽装に至る6次のつながり My Broken Love to Mathematics and Physics

ま、変にここのところ毎日書いてしまっていてネタにつまったので、苦し紛れのタイトルと理解していただいてかまわない。

一応、リンクから先に書く


「博士の愛した数式」
  ↓
Danさんのブログの記事、「数式が愛した文学」
  ↓
第三回東京ブロガーカンファレンス
  ↓
HPOブログ = ひでき、こと私
  ↓
「時間の矢」
  ↓
「応答性能に基く耐震設計入門」
  ↓
e^iθ = cosθ + i sin θ : 局座標系の表現としての複素数*1
  ↓
「博士の愛した数式」
...

あ、耐震偽装そのものが入ってないじゃないか!という指摘があるかもしれませんが、分かる人だけ笑ってください。

前半のリンクは簡単だ。私はまだ「博士の愛した数式」は読んでいないが、Danさんは美しい記事でこの小説を取り上げられた。Danさんと私は、東京ブロガーカンフェランスでお会いしている。リンクまでいただけた。これだけだ。

後半はちとややこしい。私は、熱力学の不可逆性を、開放系・非線形科学の立場から分子レベルの力学的分析までさかのぼって説明した「時間の矢」という本を、知恵熱まで出しながら読んだ。この中で繰り返し出てくるラグランジュアン、ハミルトニアンという力学系の基本事項にすら理解に時間を要した。どれくらい苦労したか、そして、いまだに私がどれくらい理解できてないかは、以下のwikiを参照してほしい。

http://wiki.fdiary.net/100books/?Time+Flies+Like+An+Arrow

そして、今日たまたま本屋で専門書をあさっていて手にした本が「応答性能に基く耐震設計入門」だった。これは多分建築の構造を扱った本としては奇書の類ではないだろうか?建築の構造を説明するのにラグランジェ、ハミルトンからはじめている。数式だけを眺めていると、かなり「時間の矢」に似ている。それでも、結論として出てくるのが最近ハウスメーカーさんが実用化した耐震ダンパーだというのがすごい。

この本の中で極座標系を説明するのに現れたのが、「e^iθ = cosθ + i sin θ」という式だ。この本の著者によると、自然対数、eの微分しても値の変わらないという定義から、運動している系の変移、r=a+ibと置けば、r=e^iθ、rの時間微分=速度=ie^it、rの二次の時間微分=加速度=-e^itの円軌道になるのだという(あー、全然なっちゃないっすね、私の理解...石丸辰治先生、ごめんなさい)。

Danさんがおっしゃっているように、この式から「博士の愛した数式」に出てくる「e^iπ + 1 = 0 」まではほんの半歩にすぎない。

と、いうことで、タイトルにつながる円環状のエッジができあがるということになる。つまらないネタでもうしわけないが、今日はこれまで!


4101215235博士の愛した数式
小川 洋子
新潮社 2005-11-26

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4627153015時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?
ウィリアム・グラハム フーバー William Graham Hoover 志田 晃一郎
森北出版 2002-04

by G-Tools


4395006450応答性能に基づく「対震設計」入門
石丸 辰治
彰国社 2004-03

by G-Tools

■注

*1 こう書くときっとDanさんからお叱りが飛んでくるんだろうな...

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2006年3月 4日 (土)

「情報」と書いて「情けの報せ」と読む too much information on hand

先日、it1127さんから私が「パソコン画面世代だ」とご指摘いただいてから、画面の大きさと情報の読み方に興味をもって見ている。

この記事は試みに3メーター落下試験に耐えたW-zero3で書いているのだが、うまくいえないもののパソコンで書くのと、W-zero3で書いた文章とはなにかが違う気がする。ま、もともと周囲から「お前が書いていることはわからん」と言われていて、手の施しようもないことは自覚しているのだが、画面が小さいせいか、両親指入力に慣れないせいか、回りくどくなってしまうような気がする。目に飛び込んでくる情報の量が問題な気もする。

そんな中で画面サイズと内容が実にフィットすると気に入っているのが、はてなブックマークの定期送信を携帯で読むことだ。ご存じない方のために書くと、これははてなブックマークでお気に入りに登録させていただいた方がその日にブックマークした内容が、メール配信されてくるサービスだ。当然コメント付で送られてくる。パソコンの画面で見ると、いっぺんに入ってくる情報が多すぎて逆に詳細が目に入ってこないため、平坦な印象になってしまう。

これが携帯の小さな画面で見るとブックマークしてくださっている方々の息づかいまで感じられるようで、実にいい。一条あやのさんがどこかで飲んでいらしたことも、palさんがまた危険なネタを公開したことも、循環型エレベーターが開発されたことも、都市開発機構が紛失した構造計算書が莫大な数であることも、「情けの報せ」として読める。ある方があるタイミングで特定の情報をブックマークされているという事実自体が「情けの報せ」であるとも言える。誰が書いているかわからない新聞よりも、「視聴者が見たいものをとれればいいんだ」と断言するようなディレクターが作っているテレビ番組よりもよっぽど信頼できる。ご縁をいただいて何らかの形でネットワークさせていただいている、おひとりおひとりに深く感謝申し上げたい。

と、ここまで書いてW-zero3のワードも、ウェブブラウザーも、画面表示サイズがかなり自由に変えられることに気づいた。パソコン風に字数を多く表示させることも、携帯風にタテ長表示の1行9文字にすることもできる。うーむ、段々愛着がわいてきたな。

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2006年3月 2日 (木)

力と力の作る構造 balance is all

昨日、「ちなみに世代の交代とは、新しい世代が古い世代を駆逐するか、同化させてしまうことを意味する。」と書いたが、ちょっと筆が走った表現だったかもしれない。

力はつりあいなのだ。新しい世代も、旧い世代も、それぞれが力なのだ。物理的な力だけが力ではない。暴力だけが力ではない。社会は力のつりあいでできている。

比喩として、鉄筋コンクリート建物の柱と梁の接点を考えてみよう。通常見ている限り柱も梁もぴくりとも動かないが、建物全体の何千トンもの重量によって建物全体をが複雑にながれる。一箇所の柱と梁だけをぬきとって考えても、何十トンもの力が上下左右から働いている。目には見えないが、押す力、押し返す力、ねじれる力、ねじれに反発する力、---専門的に言えばモーメントとかせん断力などと言われる力---は、複雑に対抗しあって建物を支えている。

社会構造というのも力と力のつりあいなのだと最近つくづく感じる。柱や梁の代わりにさまざまな組織体、個人、政治的な団体などが存在し、お互いに力を掛け合っているわけだ。ちなみに、鉄筋コンクリートの場合は、柱や梁自体は、鉄筋という引っ張りの力に対抗する材料と、コンクリートという押される力に対抗する部材が見事に協力しあうことにより、一体として構造強度を持つ。社会的な組織の中でも、人と人が引っ張り合い、押し合いへし合いしながら一つの組織としての均衡が取れ、一体として実存する。そして、それぞれが内部の構造をもった組織と組織、集団と集団の間で競争的に、あるいは強調的に働く力がダイナミックに社会的な均衡を達成している。端から見れば、全く一体と見える社会構造も現実は力と力のぶつかりあいの一時的な均衡に過ぎないのだ。

冒頭に戻って、旧い世代と新しい世代がお互いに駆逐しあってしまってはいけない。力と力のぶつかり合いが必要なのだ。どちらかがどちらかを消滅させてしまえば、それまで働いていた莫大な力が開放されることを意味する。これは、社会で言えば革命のように、敗戦のように、一気に旧いつりあいに基く均衡がやぶれ、どこかの階層の層崩壊を経て、新たにダイナミックな均衡を持つ社会構造に落ち着くまで、不安定で流動的な状態が続く。

消滅させるといっても、幸いなことに現代の日本においては「暴力」という明示的な力を行使する機会はあまりない。ほとんどが政治的な力と政治的な力のぶつかりあいに終始している。政治的な活動には関係も関心もないとあなたはいうかもしれない。しかし、ニュースは例えば見るだろう。ある企業の広報に関わった方から「ほとんどすべての報道でどのタイミングで、どのような内容のニュースが流されるかということの裏には、政治的な意図がある」と聞かされた。また、個人的にニュースの裏にある政治的な意図ということを感じる機会に最近恵まれている。

ま、だからどうだといわれても困るのだが、やはり社会は非線形、開放系な思考でみるべきだという結論で、今日は閉じておきたい。

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2006年3月 1日 (水)

紙メディアの限界

耐震偽装も、メールの真偽も、電子データでの取り扱いに移行できていればよかったね、ということなのかもしれない。認証の問題も含めて、私たちはいまとんでもないメディアの移行期にたたされている。

まず、メールが誰から、いつ届いたのかという基本的な認証の方法すら一般化されていない状態に、我々はまだいることを自覚すべきなのだろう。国をあげて真偽が問題になっているメールも、サーバーに残っている状態、あるいはヘッダーまでふくめて電子データとして国会に提出されていたれば、真偽の判断ははるかに容易出会ったに違いない。いや、こうしたごく基本的事実すら誰も助言しなかったという事態に悪寒が走る。

また、ほとんどの文章はPCベースで電子的に作成されているにもかかわらず、それらを一旦紙で出力しなければさまざまな承認を得ることができない社会的インフラの時代にあるということもより自覚的にされるべきであろう。承認、認可、決裁、稟議、認証、なんという名前であれ、人を特定し、情報を配布し、認証を得て、記録に残すという一連の過程は、すべて電子化されていれば、年間に相当の化石燃料や樹木を守ることができると確信する。現代において、年老いた上司の判断をあおぐのにかかるコストは莫大であると、若い社員であれば誰でも感じているだろう。

やまぐちさんが以前書いておられたようにおばあちゃんでも、代議士でもごく当たり目に電子データの認証、承認をとることができるようになって初めてネット界隈のリアル化が果たされた時代なのだといえるのかもしれない。

ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか by やまぐちひろしさん

ネット界隈をやまぐちさん的な意味でリアルに変えるのは、世代交代しかないと私は信じている。

古い世代は新しい技術を自分の親しんだ事物の比喩でしか理解できない。メールは手紙の代用物ではない。ブログはジャーナリズムの代替品ではない。若い世代の一部は、メールをメール、ブログをブログとして使用している。構造計算も紙メディアの制約から解き放たれれば、「お約束事」の世界から、よりリアルの事態に近いシミュレーションとして新たな次元に到達しうるのだろう。

こうした事実が自覚的、明示的になるまでにはまだ時間を要するのだろう。それまでは、最近頻発しているこの大規模なパワーシフトに伴う混乱は続く。

ちなみに世代の交代とは、新しい世代が古い世代を駆逐するか、同化させてしまうことを意味する。

■ちなみに

本記事は基本的に携帯電話と携帯端末で書き上げることができた。個人的快挙だ。

いや、結局PCで添削を加えた。画面の大きさというのは大きい。小さい画面では気付かなかった粗が良く見える。

■参照リンク
泡沫ブロガーが何か言ってます。 by R30さん 私も(?)泡沫ブロガーなんだなぁ、と。

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2006年2月23日 (木)

ひさびさのメール投稿

これから少しココログの使い方を変えようと想う

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少々、方々に書き散らしすぎたし、ブログ関連に使える時間が減ってきている。もうすこしカジュアルにココログをとらえなおす。

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2006年1月14日 (土)

「第三回東京ブロガーカンファレンス」にこれから行きます。 The Blogoshere Never Sleeps

無事、帰ってこれたら以下にそのレポートをします。

しかし、一波乱も二波乱もありそうな面子なんすけど、ホント、大丈夫っすかね?

ちなみに、シャンパンなぞお持ちします。


翌朝6:33~

さて、行ってまいりました。すばらしかったです。えっ、なにがって?集まった面子もさることながらDANさんのお部屋ですよ!

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高層マンションの最上階の見晴らしばつぐん!のお部屋でした。ま、昨日は霧がふかかったんで富士山は見えませんでしたが。

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いえ、冗談はともかくご自宅を開放してくださり、ご準備等にお骨おりいただいたDanさん、そして奥様、本当にありがとうございました。

以下、記憶に残る限り御礼を!

あしたさん、え、あれ、たしかともさかりえ似と申し上げましたよね?あれ、もしかしてのっけからつまづいております。ありがとうございましたぁ!
他人さん、確か遠く、遠くからこられたということでしたよね?わざわざ、大変でした。ありがとうございましたぁ!
一条あや乃さん、もう妖艶なお美しさを遺憾なく発揮されてらっしゃいました。palさんとの対決を期待していたのですが、ごくまったりとされてしまっていてそれだけが心残りです。ありがとうございましたぁ!
catfrogさん、毎回の幹事役、深く感謝しております。私の「ネタ」についてお話できてうれしかったです。ありがとうございましたぁ!
crowdeerさん、ご謙遜されているエントリーをあげていらっしゃいましたが、とても場になじんでいらっしゃったように感じました。ありがとうございましたぁ!
dankogaiさん、本当に感動しました。あの書籍の数!そのラインアップ!多分、許されれば1週間でもあの本棚の前で本を読んでいると思います。新ファウンデーションシリーズのペーパーバックも垂涎ものでした。ありがとうございましたぁ!
大熊さん、例の件の顛末をお聞きしようと想っていて、聞き忘れてしまいました。しまった!ぜひ次回よろしくお願いいたします。いいネタです。ありがとうございました>ぁ!  
藤代裕之さん、耐震偽造の話や、ブログの一次情報があるかとか、お話させていただきました。もっとつっこんだお話をしたかったのですが、すでに私の頭はアルコール漬けでした。お友達の方にもよろしくお伝えください。ありがとうございましたぁ!
makiさん、確か自己紹介のときにちゃちゃをいれてしまったように記憶しております。失礼いたしました。なにか、勘違いしてましたよね、私。二重三重に失礼いたしました。ムーンライダースでマニラマニエラとかお話したんですよね。ムーンライダース大好きです。ありがとうございました!
○大仁田さん、妻がよろしく言っておりました。「ぜひ次はお会いしましょう」とのことです。ありがとうございましたぁ!
new、「ブログシューター翔」本当に買いです。すばらしいです。ありがとうございましたぁ!
palさん、あやのさんとのまるでご夫婦のような貫禄と余裕のある会話をはたから楽しませていただいておりました。ぜひ次は激突を期待しております。ありがとうございましたぁ!
加野瀬さん、確か私がいる間には、お見えになりませんでしたよね。いつかお会いしたいです。ありがとうございましたぁ!
○gawaさん、あ、あれ、お会いしましたよね。いっしょにお酒をいただいたと想うのですが...ありがとうございましたぁ!
ミズタマのチチさん、おもちゃの刀とは言え、居合いの型を見せていただきました。「入館証」のネタもいただきました。ありがとうございましたぁ!
ユキジさん、「時間の矢」のお話ができてうれしかったです。またいろいろ教えてやってください。ありがとうございましたぁ!
○爪先ピピッとコンロさん、あまりお話できなかったですが、たしかストッキングについて意味深長なお話をうかがわせていただきました。ありがとうございました!
Otsuneさん、ほんと、お話したかったです。ご夫婦でお見えになってらしたんですよね。あー、噂の件の真相をお聞きしたかったです。ありがとうございました!
Parsleyさん、前回まったりさせていただいたのに、今回は玄関先でごあいさつだけでした。残念です。ぜひまた業界の話とか教えて下さい。ありがとうございましたぁ!
徳力基彦さん、アルファーブロガー本のお話などいただき、驚天動地でした。そーだったんだぁ!やはり、ぜひ一度finalventさんをお呼びしたいですよね。ありがとうございましたぁ!
いしたにまさきさん、あのぉ、動作中のnoteをいじってしまい失礼いたしました。あらためてお詫び申し上げます。ココログでのブログ2周年同士ということでお許しください。ポッドキャスティング(?)する方法を今度教えてくださいまし。ありがとうございましたぁ!
shu*さん、遠めからですが鑑賞させていただきました。あ、今度お会いしたときはしっかりお話したいです。ありがとうございましたぁ!
乙木一史さん、すごい方なのですね。すみません、予習がたりませんでした。ぜひぜひ「次の企画」をおしえてください。ありがとうございましたぁ!
中島ひなさん、すばらしいピアノ演奏でしたね。感動しました。ブログは以前読ませていただいておりましたが、ご本人にお会いできてうれしかったです。ありがとうございましたぁ!
モーリさん、はてなネタをお聞きしようと想っていて、聞き損ねてしまいました。ぜひ次回よろしくおねがいいたします。ありがとうございましたぁ!
tomozo3さん、あまりお話できなくて残念です。グーグルPCの話とか興味があったんですけどね。またよろしくおねがいいたします。ありがとうございましたぁ!
泉あいさん、お会いできず残念です。泉さんにピッタリと想われるネタを持っていったのですが、本当に残念です。ご活躍をお祈りしております。ありがとうございましたぁ!
いちるさん、ダンス、ダンス、ダンスという感じで体技の披露すばらしかったです。今度ぜひ通して拝見したいです。ありがとうございました。
Dr.SKさん、W-ZERO3の無線LANの設定ができてほんとうにうれしかったです。もうLANがつながっただけで満足してしましました。ありがとうございましたぁ!

あれ、他にも確かSWさんとかお会いしたような?もう酔っ払っていたので、勘違いでしょうか?他にもまだお会いしたような、しなかったような。以上のコメントでもし万々一私の記憶違いとかあったとしたら、アルコール漬けのおっさんの妄想と笑ってやってください。

実は、いいかげんかなり酔ってしまいました。家が遠いという個人的諸事情もあり、ごあいさつもせずにこそこそと失礼してしまいました。しかし、というか、やはりというか、ばちがあたりまくりまして、電車で寝過ごす、寝過ごす!自宅到着まで3時間30分という都内からの帰宅最長記録を更新してしまいました。

ええと、レポートの一番のりを目指して書いてきましたが、この辺でトラバします!

■参照リンク
第三回東京ブロガーカンファレンス開催のお知らせ  by catfrogさん
第三回東京ブロガーカンファレンス準備Entry by Dan the Party Animalさん


翌日 20:50~

いま、見たら翌朝までみなさんいらしたんですね。

第三回東京ブロガーカンファレンス レポート by catfrogさん

なんとちゃんと富士山見れたんですね。残念!

ふと気付くと、多分この記事を書きはじめた時間とcatfrogさんが富士山を撮影した時間がほぼいっしょです。私が二度寝を決め込んでいた時間にcatfrogさんは、移動。そして、私がPCから離れている時間にcatfrogさんは、レポートを書いていらしたわけで。いやぁ、ブログだからこそできる24時間終わらない世界の醍醐味ですね。


翌々日 急募!

私とムーンライダーズの話しをした方はどなたでしたっけ?すんごい気になってるんですけど。酔っ払いすぎてて覚えていないらしいです。

makiさんだと発覚!makiさんは細身の好青年であられたと記憶しております。いやぁ、失礼いたしました。


3日後

kermitを早く助け出してあげないと!

ボリスにゃんこ対蛙のカーミット

しかし、かあいすぎる!


6日後

newさんの熱い思いを感じます。

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2006年1月13日 (金)

ブログ開設2周年 The Second Anniversary

どう書いていいのかよくわからないのだが、もともとこのブログは深い絶望の中からあまり大きな目的も期待もなしに始めた。一番最初のブログの記事のタイトルからして、「書評の楽しみ」だし、1周年の記事も夏目漱石の書評であった。

書評の楽しみ (HPO)
[書評]三四郎 (HPO)

ブログをはじめる動機というのは、自分の書いたアマゾンでの書評がそのまま散逸してしまうのも悔しいなと思い、一箇所にまとめておこうという程度のものだったと記憶している。こんなに長く続くとも、こんなに多くの方とお知り合いになれるとも、こんなに自分の考え方が変わるものだとも思っていなかった。ブログを書くことは、そのままブログという体験であった。

これまでリアルで経験したことのない広くて深いリンクの発見、ブログやSNSを介した人と人とのつながり、あるいはリンクを通じて知る教養とよべるものの深さ、ブログ界隈においてこの2年間、私は無条件に楽しませていただいた来た。深い失望のふちからはいあがり、いまここでリアルでの役割を果たしていていられることも、このブログという体験があったからだと感謝している。

ここでお世話になったすべての方、ありがとうございます!

しかし、今日、あるきっかけで深い失望の淵に立つ人がいることを知る。その方の声は疲れていた。その方の失望の一端にはあまりに早く流れる情報の渦があった。リアルとブログ界隈の情報の流れが加速していて、流れの中に螺旋が生まれるように、あっというまに密度の高いハブが生じ、大きな、とても大きな力を発揮する。リンクが広がり、ハブが生まれ、力が生じるという過程は、人を幸福にもし、不幸にもしていく。まあ、もともと現象自体には価値は含まれていないのかもしれないが、この2年間ブログを書いている中で味わった私の幸福感は二度と戻らないのだと想う。

そして、今私はひとつの決意に達する。いつかその決意を形にできる日が来るのだと信じているとだけ今は書いてこの記事を閉じる。

■参照リンク
・ブログスタート2周年記念:もっとうっかりする。 by いしたにまさきさん

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2006年1月10日 (火)

職業としてのメイド A maid? No, HOUSEKEEPER!

なんとはなしに某所で始めてしまった主張がある。それは、「メイドという職業は、現代の日本で必要とされているし、そもそもきちんとしたメイドというのは高い技能が必要だ。」という主張だ。

最近、自分自身が長い記事を読むだけの集中力を保てないので、さくっと短めに行きたい。

先日、テレビでたまたま整理整頓を普通の主婦に教えるというコンテストをやっているのを見た。いまの日本の専業もしくは兼業主婦/主夫で、部屋が片付かないことに非常な罪悪感をもって毎日を過ごしている人は多いのではないだろうか?たまたまかもしれないが、仕事がばりばりできる、あるいは外に出てボランティアをしたいという熱望をもった方は、得てして家事が苦手だという事例が私のまわりでは多い。

そこで、メイドの登場となる。しっかりとした整理整頓の技術をもったメイドがいれば、女性の二度目の社会進出はますます進むであろうし、罪悪感をもった専業、兼業主婦/主夫も減って家庭もしごく円満なものとなり、はては出生率ですらあがるのかもしれない。

またまたたまたまかもしれないが、フィクションの世界ではプロフェッショナルなメイドの話しがいくつかある。

4835441648ハリスおばさんパリへ行く
ポール ギャリコ Paul Gallico 亀山 龍樹
ブッキング 2005-04

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ロンドンの下町っ子のハリスおばさんが、一念発起してオートクチュールでイブニングドレスを作りにパリにいくという話なのだが、実にプロフェッショナルにメイドをしてらっしゃる姿といくつかのカップルを結びつけ、うれない女優のたまごに手を貸すという、おばさんの情の深さにほろりとされる話だ。

4091910513私を月まで連れてって! (1)
竹宮 惠子
小学館 1995-06

by G-Tools

ハリスおばさんも大好きだが、「私を月に連れてって!」のおヤエさんのメイド、いや失礼ハウスキーパー哲学は本当に最高である。今更職業としてのメイド、いや失礼ハウスキーパーなんていっているのは、時代錯誤もはなはだしいという方にはぜひ一読してほしい。おヤエさんにかかるとこうなる。

「・・・ま、ひとことで言えば、 主婦っていう仕事が総合学を必要とするプロフェッショナルなものだからです。 すべての情報と知識をもって判断し、裁き、かつ、まとめていく最も高度な学問、 細分化された専門分野をバランスよく調合する学問ですね。 育児学にしても、栄養学にしても、一つじゃダメ、それをまとめる主婦のポリシーがなけりゃ。 現在の時点では、ただの一人も完全といえる主婦はいませんね。」

まだ、未読なのだがイシグロの「日の名残り」もこの種の話しとしては秀作だと聞く。「麗しのサブリナ」のリメイク版でもすばらしメイドと執事の話が出てくる。

4151200037日の名残り
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 土屋 政雄
早川書房 2001-05

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B0007N348Aサブリナ
ハリソン・フォード シドニー・ポラック ジュリア・オーモンド
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-03-25

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なんか、こうならべるとますます非難をあびてしまいそうな気がしてきたが、社会生活が変化していくに従って職業の選択というものも次第に変わらざるを得ないのだと信じる。逆に、職業選択のリスクが少なく、全国民が目指すべき職業、めざすべき姿がほぼいっしょだったという戦後の一時期がこれからは異常であったということにすらなるのかもしれない。21世紀を生き抜いていくためには、20世紀の常識はいったん括弧にいれて考え直す必要がある。

■参照リンク
メイドを救え by ウニさん
少々、自分の文章が不謹慎であったと反省しました。

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2006年1月 9日 (月)

アフォーダンスとデザイン the maniac designers

何をめざしているのか、いつのまにかわからなくなりながら、アフォーダンスとデザインについて考え続けている。アフォーダンスとデザインというのは、ある種の生態系にもたとえられるかもしれないヒトとモノとで構成される二部グラフにおける相対としての安定性の問題ではないかと思うのだが、それをうまく立証するようなシミュレーションを組むとか、論理構成をするとかいうところまでできていないでいる。だから、以下に書くことは、書いているわたくし自身が未消化なまま書いているということをことわっておきたい。

それでも、ヒントとなるべき言葉は、天から降って来るように全く畑違いの分野からもたらされた。

4831600350建築馬鹿 第1集 (1)
矢田 洋
鳳山社 1969-11

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この本は、昔々私がまだ多分幼稚園に通っているころ、「建築知識」という雑誌に掲載された記事をまとめたものだと聞いている。アフォーダンスとも、意識ともあまり関係のない、建築にかなり深く関係した人でないと理解が難しい本だ。いつかは、この建築という問題意識から本書を読み解いてみたいと想っている。いまは、いまの私にとって意味深い言葉のつらなりにを、いまの私にとって意味のある視点から読んで行きたい。

たとえば、「うそをつく技術」という章から、すこし引用してみよう。

犬の目玉の底にある網膜は外界の全てを移すが、焦点がない。だから犬の意識には外界の映像が映写幕のようにうつる。犬はすべてをみているのだ。人の目は、非常に狭い焦点と広い視野から成り立っている。ここから人生を語ることができると、私は予測している。
ものを見るという動作のなかに、すでに理解しようという「創造的」な志向が含まれている。予定と期待がある。そして、その予定と期待との確認のためにひらかれた目は、予定され期待されているショックを受け止める構えができている。「創造的」な志向、といったのは、この心の構えである。
絵画、彫刻は芸術的虚構性の上にたって、現実を人間の視覚のために抽出しなおす。現実をバラバラにし、ぬきとり、切捨て、組みたて直すことによって真実を追求する建築も、家具も、茶碗も「もの存在」として、私たちの手が、形を与え、姿をとらせるとき、そこには広義の芸術的虚構性がおのずから含まれる。芸術も、一夫一婦制も、建築も、そこにとっている姿は、虚構性と言う点において共通している。見る目にしかみえない「見え方」をとって、どうにでも見える姿をもって、私たちの見る目に任せる情報(しらせ)が、私たちの世界を作っているのである。ショックを受けるのも、虚脱感を受けるのも認めるのも見過ごすのも私のうちに用意された志向による。

これは、一見素朴な視覚論であるように想えるが、アフォーダンスの方向に一歩踏み出した議論である。「心の構え」と「予定と期待」、そして良い意味でのモノ側での裏切りといった要素を、ヒト側に求めるのか、モノ側の属性と見るのか、その関係性において見るのか、の違いであるように私には思える。重要なのは、「組みたて直す」ことによって、人の視覚に情報をなげつける真実の姿がありえるし、作りうるのだ、というの主張だ。ここにおいて、上野千鶴子の記号論的分析の意味と意義が私には初めて了解可能になったように想う。そして、著者は、「装飾の意味と巾」という章でデザインとはなにかについて著者は語る。

私達は装飾に自信がない。この時代はすでにながい。この時代とは、近代以後である。それ以前、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、室町、桃山、江戸、日本の文化史のどの時点をとらえても私達のまぶたに浮かぶのは美しく、豊かで、稚なくとも冗舌であり楽しい装飾の姿だ。原始未開民族は顔や体に装飾を彫り、盾どころか槍の先までたんねんに彫刻をしていた。人類の歴史のあらゆる場面をふりかえってみるにつけ、近代と現代だけが装飾への自信を喪失した奇妙な時代に映る。
茶道というのがある。茶道とは、質素な茶器に盛りこまれた「もの」存在の迫真力を感じとる力を試す人と人との感性の闘いだったのである。知識や金銭的な価値ではなく、直接自然界と人工の「もの」とに対する人間の対し方が問われる、そこには人間的な対話の感性にみちた高度な形式が求められたのだ。茶をのむということは生活のひとこまにすぎない。すぎないがゆえに生活に還元されて、生活の中での人のあり方を問い得た。茶を飲む所作、とう芸術は機能をも合理をも踏み込んだ真、人間の実存に直接的に肉薄してゆくためにしつらえた、「もの」を介した人間同士の対話であった。

例えば「茶道」というのは、十分に「真実」なデザインなのだ。生活環境において、真実のデザインというものが存在し得、そのデザインを持った「もの自体」が語り出すというモノ(人工物)をいかにつくるかを、求めてデザイナーは日々奮闘努力するのだ、どっこいしょという論を形成していく。

アフォーダンスという言葉の射程距離を延長しすぎているのかもしれないが、上野千鶴子が普遍的な記号としてさまざまなセクシュアリティーが現代のコマーシャル映像に存在することをその分析を通じて示したように、建築あるいは商業デザインにおいても、普遍的な記号を内包し、ヒトにアフォードしつづけるデザインは存在しうるのだと私も信じている。逆に言えば、この真実のデザインにおいてこそ「もの自体」が語り出すというべき、アフォーダンスを主張できるのだと想う。どのようなものでも、あなたに「真実」を伝えるとは限らない。むしろ、茶碗なら茶碗という真実をもったデザインこそが豊饒にして正確な存在そのものをあなたに伝えることができるのだといえよう。その限界性のはるか手前、あるいはその先には、茶碗は茶碗たりえない間違ったデザインが多数存在するわけだ。

ということは、デザインというのは、モノとあなた自身が向き合い、からみあい、刺激しあう、生態系とでもいうべきネットワークの中にこそ存在するのだ。そう考えれば、デザインとは、そのモノ(人工物)とヒト(あなた)を含む安定的な、あるいはダイナミックな非線型さを内包した新しい生態系を作ることだと考えられないだろうか。ひとつの真実のデザインとは、それを中心とした新しい「麗しい澤」が形成されることだといってもいいのかも知れない。真実のデザインとは、人工物と人という生態系=ネットワークが、適応度地形のようなゆるやかな勾配を成すということなのだ。

このデザインをアフォーダンスからとらえるという視点において問題になるのは、コマーシャルの問題にせよ、建築デザインの問題にせよ、では、そもそも普遍的に存在する記号=真実のデザイン側にデザイナーは全面的にすりよってしまうのが、正解なのかということだ。これはひとつ間違うとデザインそのものの崩壊につながりかねないと想う。「正解」がひとつしか存在しえないという状態では、多様性が失われてしまう。ヒトとモノのつながりを、原始時代からつづくセクシュアリティーレベルのものに固定してしまう。「消費者」と言われるヒトのムレの持つもしかすると乏しい記号に、デザインの本来持つべき豊かな記号の可能性が限定されてしまう。

ここから先に、ヒトとモノとの二部グラフ的ネットワークにおける非線型性と多様性をいかに生み出すのかという問題につながっていくように想う。そして、記号の群れが多様性を生み出して行くさまは「共進化」と言われる過程で記述できるように予感している。が、まだそれは先の話しとしたい。

■参照リンク
[随筆]建築デザインにおける生態心理学的な考察 by 蒼龍さん

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2005年11月21日 (月)

東京ブロガーカンファレンス 雑感 tokio blogger conference

catfrogさん主催の集まりに参加させていただいた。

第一回東京ブロガーカンファレンスのレポ 【全体的に人物説明追加】 by catfrogさん

楽しかった。あれだけブログ界隈で飛ばしまくっているcatfrogさん主催の飲み会であるにもかかわらず、ノン・ブロガーの妻(自称「成田のキョンキョン」)を軽く受け止めてくださるほど実に和やかな飲み会であった。ま、妻が切込隊長さんに枝豆を投げつけるという失礼があったことはこの場を借りてお詫びしておく。

しかぁーし!ディスカッション好きな私としては、ただただディスカッションあるのみであった。

まず、ガ島さんに「貨幣は生成することもあれば、消滅することがあるのではないか?ただただ積み上げた貨幣の山の方が、リアルの価値をうわまわっちゃうんじゃないの?日本の国債はデフォルトするのではないか?」としつこく絡んだ。絡みまくった。ガ島さんは「円なんてデフォルトしようと個人は関係ない。デフォルトするならしてしまえばいい。」と言い捨てて別件に逝かれてしまった。残念!

失意のうちにpalさんと仲良く、「やっぱり、日本の円って円を使っている人がちゃんと生産活動をして、価値を生み出しているから円の価値があるんだよね。これから少子高齢化とかで活力なくなったら、真剣やばいよね。お互いがんばろうね。」と語り合って、しばらくなごんだ。

と、そのとき切込隊長さんがひまそげにしているのを発見!強襲!

「やはりですね、『”俺様国家”中国の大経済』じゃないですけど、今って(市場が発達しているから)世界中からお金が簡単にあっというまに集まっちゃうじゃないですか。中国も投資のお金でGDPががんがん膨らんでいる感じがするし、一方で中国の奥地では物々交換されているとかうわさあるし。んで、日本円がいっぱいたまってもそれで何を買えるかが問題なんじゃないすか?いっぱいたまっちまったお金が一気に価値を失うことってありなんじゃないすか?やっぱり円の総体の価値って円を使っている人が円の価値を決めるんじゃないんすか?」

横から、danさんが「そうそう、『』くらいの単位の円があってもおかしくない。」【あれ、ちょっと趣旨が違うような...酔っ払っていて覚えていない...orz】と合いの手を入れてくれたにもかかわらず、切込隊長さんに「君は全然経済がわかってないよ。市場っつうのは期待でできているんだ。」といわれて撃沈!

そっか、そうだよね。お金って紙切れでかまわないわけだ。安冨先生のおっしゃるとおり「他人がほしがるもの、人が価値を認めるもの」でありさえすれば、貝殻でも、石でも、単なるシリアルナンバーでも、数ビットの情報でも、何でも貨幣の代わりになるわけだ。要は、市場という人々の期待の塊りの中で取引される価値がすべてなのだね。うーん。

例えば、今の中国とか、想いっきり人からの期待値が大きいから、GDPが投資の額でがんがん増えているわけなんだね。投資がストップした時には、ま、どうなるんだろうという疑問はさておき、商品や貨幣の流通が非常にスムーズな世界においては、実態ではなく、イメージ、イメェージ、イメェージが大切さ♪ということになるわけなんだね。そうですか、そうなんですか。

会が流れた後、タクシーにのったはずなのだが酔っ払いすぎて前後の記憶がかなりあいまい。いやぁ、でも切込隊長さんからすんごく勉強させていただいた気分。これってこういう書き方したくないけど、商売だって全く同じことなんだなって気づいてしまった。実態でなにをやっているか、会社の内部がどうなっているかということよりも、外側から期待されるイメージが大事ということになる。ま、そのイメージ、人から期待される価値を永いこと守るにはどうしたらいいかってのが、個人的な課題ではあるのだが。

嗚呼。

をっと、なによりも今回のカンフェランスの企画をやってくださったcatfrogさんに深く、深く感謝申し上げたい。酔っ払った私と妻がたぶん多大なご迷惑をおかけしたに違いないみなさんにもお詫びとお礼を申し上げたい。

ありがとうございました。またぜひ次回誘ってくださいまし。

■参照リンク
グーグル最後の日 by palさん

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2005年6月28日 (火)

ミュージカルバトン

いや、本当に私には無縁だろうなぁ、と思っていたミュージカルバトンが回ってきた。最近は、すっかりネット世捨人化していてさびしいなぁと思っていたので、とてもうれしかった。Hiroetteさん、多謝!

ちなみに、「ミュージカルバトン」はかなり典型的なパーコレーションの問題だと想う。パーコレーションとは、例えば伝染病やうわさばなしのように、正規格子のようなネットワーク上で、どういう経路をたどって、どういう伝え方をすれば、広がっていくかという問題のことだ。

パーコレーションブックマーク (HPO)

パーコレーションでの問題は、例のロジスティック式ともかかわるような気もするのだが、ひとつのノードが他のいくつのノードに伝えるかについてネットワークの形態に応じて一定の閾値があって、それ以下では伝播が起こらず消えてしまうが、この閾値を越えたとたんに大きな伝染、伝播が起こっていくということだ。

↑↑でブックマークさせていただいた「ざつがく・どっと・こむ」の小橋昭彦さん