2006年6月 8日 (木)

ブログを書かないということ with or without you

けじめをつけなければいけないとい思いながら、日々がただすぎていく。

あれだけブログの記事を書くことが楽しかったのに、自然だったのに、書くネタも無くなり、書くという行為自体が自分の生活習慣から遠いものになる日がくるとは思っていもいなかった。

ブログを書かなくなると、日々の事件やら社会の変動に対して関心が薄くなっていくのを確かに感じる。不思議なものだ。やはり、世の情報や人の思考というものには、通貨的な性質があるというか、出しただけ自分に入って来るものなのかも知れない。

また、何年も本も新聞も読まない年月が再び始まったのかもしれない。そう、ブログの日々の前には、長いこと虫のように目の前の生活だけの行き方が続いていた。めくるめくブログ界隈の展開にこころときめいた日々も終わってしまった。

なんというかブログの日々を想うとき、自分の求める答えは外にあるのではなく、自分の日々の生活、日々の仕事の中にあるのだと気づかざるを得ない。自分が答えを外に求める限りどこまで行っても、答えは外へ外へ遠のいてしまうだけなのだ。幸せの蒼い鳥はやはりあなたの家にこそいる。

There is no place like home....

しかし、それは私の一方的な想い込みかもしれないが、ブログを書くことによって生じた絆は、消滅しないだろうと信じている。いや、消滅させはしない、反転させもしないと誓う。

正直に言えば、ブログを書くことは、いやブログを書くことによって生じた友愛と連体は、この半年あまりの予測もしなかった動乱の中で、私を救ったともいえる。深く深く、感謝したい。

みなさん、本当にありがとうございました。

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2006年4月13日 (木)

テレビってなに? politocal correctness vs. politeness

うーむ、ページランクがぐんぐんさがっている。「HPO」で検索しても、英語版のHPOよりランクが下で、結果の2ページ目だというのはやばい。たまにはわかりやすいことを書かないといけないようだ。

今年は交通媒体にテレビ番組の広告がやたら多いような気がするのは、私だけだろうか?番組の改編時期とはいえ、某JRのホームの広告はすべてテレビ番組であった。これはテレビが広報機能を放棄しているとはいえないだろうか?言うまでもなくCMのクライアントは、広報、広告の一環としてテレビであれば十分に視聴され、認識されると信じてお金を払っているわけだ。そのお金が番宣のために交通広告に使われているのだとしたらいささか不本意なのではないだろうか?

もう少し深読みしてしまえば、新聞雑誌広告も反応が悪くなってきていることをテレビ局はよくわかっているのだと思う。「R25」や無料アルバイト情報誌が、新聞に織り込まれているのではなく、駅におかれているというのも理由があるわけであろう。もっといってしまえば、末端の新聞店が本当に折り込み広告を入れているか最近は疑問であると複数のメディア関連の方から聞いた。ネットの時代であるのに折り込み広告も、宅配の新聞代も値段が下げられないジレンマを感じているのではないだろうか?

しかし、某局のディレクターが私に「真実や事件の背後にある原因を報道することが大事なのではなく、視聴者がみたいと思う映像が撮れればいいんです」と断言したが、実際駅の広告を見ていてテレビとは結局報道ではなく娯楽なのだなと感じた。ま、某ディレクターさんは「politicaly correct」でもなく、「politely correct」でもなかったということで終わりにしてしまおう。

■追記 翌日

こんな記事を見つけた。

最も視聴する広告はテレビ CM 、新聞・PC 上のバナーが続く  @ japan.internet.com

やはり、テレビ優勢は続くのか?それとも、バナー広告の健闘をたたえるべきなのか?

PC 上のバナー広告(9.7%)は3位にとどまっているものの、雑誌(2.7%)やラジオ(1.9%)、駅の広告(4.6%)、DM やチラシ広告(3.7%)などを上回った。

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2006年4月 5日 (水)

人類の競争力または「人間=最悪の環境汚染源」 Humanity

そろそろ本当にネタ切れだ。クルーグマン先生の本の書評をしようかと思っていたが、読了しなかった。

こういう時は、過去に書いた文章の転載をしてしまうにかぎる。

やはり、「環境問題」を真剣に考えるのなら人間の数を減らすことを考えるべきだと思う。

現在地球の資源の枯渇と自然環境の悪化が叫ばれている原因は、増えすぎた人類だと断定そて間違いない。もし、現在の60億の人類が野放図にその種を増やして30年しか居住可能な環境を維持できないのなら、これ以上数を人口を増やすのをやめて60年、1/6の10億に減らして180年とかの方が人類全体のためではないだろうか?

この問題を考えると、人類の種としての目的は一体何なのかということに帰着する。種としての目的をどう設定するかで、結論は全く変わってくる。「最大多数の最大幸福」を追求するなら、また「最大多数」が現存する人類一人一人のことを指すなら先のことは置いといて、このまま突っ走るべきであろうし、人類すべてが幸福な「涅槃」の境地に達することが目的であるなら直ちにすべての生産活動と生殖活動をやめて仏教の修業を始めるべきであろう。結論は目的により変わってくる。

私は決してクリスチャンではない。しかし、人類の目的を聖書に求めることができるかもしれないと思う。聖書の創世記で二つの命題が人類に与えられている。第一命題は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」でこれはとうの昔に達成してしまったといえる。第二命題とは、「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべてのすべての生き物を支配せよ」という言葉だ。「支配する」と言うことは、「管理する」すると言うことではないだろうか?創世記の昔から人類には環境問題を解決すべき責務があるということにはならないだろうか?であるならな、責任をもって人類の数をコントロールすべきであると考える。

すでに人類の人口は60億を超え、カロリーベースで消費食料が生産を追い越すのはもうまもなくであろう。西洋人が肉を食うのをやめてももう食料が足りなくなる時代はもうすぐだ。そこで改めて問われるのは、資源と経済力の分配の問題である。それでもやはり共産主義的な分配方法がいいのか、自由主義経済がいいのか、血と血をかけて争われる時代がまたくるのではないか? 

うーん、我ながら混乱した文章だ。かなり、一部の思想の影響を受けていたのだと、いまさらながらだが感じる。ただ、人類の行く末を考える時日本の少子高齢化とは、嘆くべきこことではなく、人類全体のゆくべき未来を先取りしているのだと言えはしまいか?

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2006年4月 4日 (火)

Unspotted "Made In Japan" Products

ほったらかしにしていた英語の練習ブログが、"Featured Subscriber"というので一瞬取り上げられたのに気をよくして、昨日の記事英訳してみた。ま、我ながらしょーもない翻訳だが、新しい記事を書く元気もないので、転載してしまう。

I enjoyed reading 5th, April Issue of Newsweek Japan. The featured article titled "NIPPON DAISUKI! ---We Love Japan!---" focused the new meaning of "Made In Japan." As subtitled "Anime and Manga are Old! Neo Japanese Culture Fascinates the World," the article intorduces various "Made In Japan" products that got popular outside the Japan with new usages. SUDOKU got popular in England for training brainpower, a famous actress loves disposable pocket warmers for her painful period, a high-grade KARAOKE compartment in London is the newest and most cool entertainment. Some American girls regard YAOI MANGA, the Japanese homosexual boys story, as "liberation from bondage of gender for women." It seems those "Made In Japan" products set the new way of lives.

Thinking of Japanese style of life, I found I am surrounded by quite unique not-high-tech "Made In Japan" products that I can not think of any counterparts in other world. However, the Japanese companies are enthusiastic in exporting high-tech products and are not interested in the value of Japanese traditional culture and modern life style of the Japanese. There are much business chances because any marketing textbooks tell us selling our uniqueness is the key for success in any business. The standardizations of shipbuilding, iron manufacturing, and semiconductor foundries are quite completed now in the 21st century. Among those once productivity-oriented industries, Japanese companies can not be the unique. Any companies in the world can get the knowledge of production operation and set up factories.

On the other hand, for example, you might start to sell 100% pure KONYAKU as an ultimate diet food. The Japanese people should look back their culture and traditional product in the light of worldwide marketing. They must look aound themselves as if they were foreigners.

During Edo period, the Japanese reached cultural height under long-lasting economic stagnation. As we, the Japanese, must face the aging society with few children, they might find many cultural values and wisdoms in the Japanese history and low-tech products.

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2006年4月 3日 (月)

「日本製」というブランド Variety for Enjoying Life

旧聞になってしまうが、4月5日号のニューズウィークの特集、「ニッポン大好き」を読んだ。サブタイトルの「アニメやマンガはもう古い、ネオ日本文化に世界が夢中」という言葉通り、脳を鍛えるトレーニングとしてのSUDOKUから、生理痛対策用具としての使い捨てカイロ、クールな娯楽としてのロンドンの高級個室カラオケまで、日本ブランドがいかに世界で競争力を持ち得るのかを知った。やおいマンガですら、「女性にとってジェンダーの束縛のない世界」として評価されているというのだ。

考えてみれば、日本の製品というのは日本以外の世界と比べて特殊なものが多い。にもかかわらず、世界水準に会わせて製品供給しているケースが多すぎるのではないだろうか?マーケティングの鉄則は、自社でしかできない商品、流通体制、独自のサービスなど、独自性をいかに発揮することだ。これまで日本が輸出してきた、造船、半導体、自動車など、工業製品はあまりに標準化がすすみすぎていて、日本独自という商品にはなりえない。案外、これから純度100%の寒天を「日本製のダイエット食品」として売り出せば、日本独自の製品として受けるのではないだろうか?

逆を言ってしまえば、日本人は、日本独自の商品についての意味を見直すべきなのかもしれない。寒天やかんぴょうなどいままでの価値基準を離れて、例えば外国人がはじめてその商品を見るような気持ちで見直すとブランド商品化になりうるものは多いのではないだろうか?

日本は元々成熟社会を江戸時代に経験し、技術革新ではない、文化による多様性の豊かさを享受してきた国なのだ。そもそも、日本語を使っていると言う独自性自体かなり今後価値をもってくるように私には思われる。少子高齢化していく中で、「日本製」の意味を素直に見直したい。

■参照リンク

【Cover Story】ニッポン大好き @ zassi.net

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2006年3月31日 (金)

見ること

絵を描く。

下手だけど、下手なりに描く。

描いてみると、自分がいかにものを見てなかったよく分かる。

木の枝の曲がり方、動物の身体の曲げ方、人の表情。

描いてみると、自分がこうだろうと思っている思い込みがいかに間違っているかわかる。

もう一度、見ることを学びたい。

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2006年3月24日 (金)

女性原理の復権 The Age of Aquarius

長らくカソリックは、私にとって不思議なものだった。ユングの「ヨブへの答え」を読んでから特にわからなくなった。

ヨブへのこたえ by C.G.ユング

聖母マリア被昇天 @ カトリック松原教会のホームページ

フランスを訪れた時に、ヨハネ・パウロ二世が亡くなった。

プロヴァンスの旅 (HPO)

日本に帰国する日曜日の朝になりひびいた鐘の音が忘れられない。

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? (HPO) 

フランス旅行から戻って来てこんなことを考えていた。

私にはどうも、カソリックは単に組織がしっかりしているから力を持っているという以上に人々をひきつける力があるように感じられてならない。
ああ、ただイスラエルをキリストの足跡を追って訪れた時に感じたものと、カソリックの寺院やカソリックの象徴に触れたときに感じるものは、大きく違う。死海のほとりで感じたものは、もっと別なものだったとはいえる。

ああ、あと決定的だったのは、「ハイペリオンの世界」とそのシリーズだね。

この辺の違和感がこの本を読みながら、解けていっている。

4042955037ダ・ヴィンチ・コード(上)
ダン・ブラウン 越前 敏弥
角川書店 2006-03-10

by G-Tools

小説は小説なので、どこまで信じるべきかは私にとって問題なのだが、非常に示唆されるものを感じる。ましてフィボナッチ数まで出てくるとあらば、これはもうたまらない。

まだ、読了してないから、読み終わったら感想書きます。あ、ブログ書いている間に、子どもに上巻を渡したら読み終わりそうな勢い。追い付かれないうちに、早く読んじゃおうっと。

■参照リンク
ダ・ヴィンチ・コード、ヴァリス、ヨブへの答え

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2006年3月22日 (水)

自殺のティッピングポイント My Lost Marbles

4870313944ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか
マルコム グラッドウェル Malcolm Gladwell 高橋 啓
飛鳥新社 2000-02

by G-Tools

いやぁ、なんかこうやってこの本の表紙をみるだけでなつかしいな。ちょっと前にこの本の想い出について書いた。あ、最初に書いたときから多少変えているよ。

私に「ティッピングポイント」をくれた方のことを思い出した。「この本は、きっとひできさんの将来を変えると思う」といってプレゼントしてくれた。もう会うこともなくなってしまったが、いま思うと確かに(べき分布的な現象やらネットワークの力の一端について書かれた)この本から出発した考え方が私の人生を変えつつあるのかもしれない。「SYNC」のラストで「ティッピングポイント」が模索した回答の一端が示されたときには戦慄した。

この本の中で、ミクロネシアの少年たちに起こった自殺の流行の話が議論されていた。今の私の疑問というのは、第3次自殺ブームといわれる昨今、話題になっているネットからみの自殺事件が果てしてこのティッピングポイント現象なのかということだ。あ、ちなみにティッピングポイントというのは、ある一定の数を超えて伝染病やら、ファッションやら、うわさ話などが伝わるとき、どこかで爆発的に全体に広がるポイントがあるという考え方だ。いわゆるパーコレーションの問題だね。パーコレーションについて詳しくは、↓を見てね。

ミュージカルバトン (HPO)

時間がないので、手短に言うとごく限られた部分では自殺のティッピングポイント、パーコレーションが発生している可能性がある。でも、それ以外では想定の範囲内らしい。

日本における自殺の精密分析 by 池田一夫さん、伊藤弘一さん @ 東京都立衛生研究所年報,50巻,337-344 (1999)

自殺の多くが中高年以上の男性だということを知ってた?

そもそも日本の男性は、女性の倍くらい自殺しちゃうんだよね。んで、昨今の自殺の多くは団塊の世代の方々が50代から60代という魔の世代に到達したために起こっている可能性が高いらしいんだな。あと、1930年代前半、いわゆる昭和一桁世代に第1次、第2次、第3次の自殺ブームを通じて、自殺の率が高いという現象もあるらしい。この年代の人達ってロマン主義者というか、とっても「熱い」人達が多いからね。なんとなく有名人の名前も浮かぶが書かないでおく。

そこんとこをわかってもらって上で、↑の論文の都内と全国平均を比べた図5と図6を見て欲しい。分かりにくいかもしれないが、色分けされたセルの縦の列が暦年を示している。一番右側の列が1995~98年だね。そして、縦に15歳から90歳まで15歳きざみで示したセルが並んでいるというわけだ。紫や赤が平均より高いといことなのだが、どうも有意に高そうなのが、90年代に入ってからの15歳を超えた青年期の女性たちだ。この論文にも書いてある。

女子の死亡率比の世代マップを図6に示す.女子で特徴的なのが,60歳以上の高齢域で顕著に死亡率比が低いのに対し,青年期から中年前期にかけて,死亡率比の高い区域が終始存在することである.特に,1980年代以降,死亡率比1.1を越えるセルが青年期で増加し,1995-97年では20-50歳代のすべてのセルが1.1を越える状況になっている.青年期で死亡率比が高く,高齢域で死亡率比が低いという現象は,東京以外にも,大都市を抱える大阪府と福岡県,さらに沖縄県でも観測される.この点から,都市部における青年期女子の高い死亡率比については,社会心理学的な考察の対象とすべき現象と考えられる

これだけでパーコレーションが起こっているとは結論づけられないけど、逆を言えばここの部分以外は現代に特有の現象ではなくて、いままでの第1次、第2次のブームの延長線上らしい。ネットが自殺増加の原因だとニュースなどでよく書かれているけど、「都市部における青年期女子」以外の部分について本当にそうなのかこのデータを見る限り疑問だな。

あ、ちなみに軽く書いてしまっているけど、現代に至っても自殺の原因の多くは精神的な悩みなどよりも病気を苦にした自殺なのだそうだ。米国や英国とかと比べて自殺の数が少ないのは、もしかすると尊厳死とか、クオリティー・オブ・ライフを医療でどう考えるのか、痛み止めをどのタイミングで投与するのかとかいう違いなのかもしれない。

ちなみに、自殺についてのもうすこし文化的な考察としては、この方のブログ記事が興味深かった。

自殺は感染する by 雨崎良未さん

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2006年3月10日 (金)

試練としての痛み Dear Prof. Eliade

以前、こんな話を書いた。it1127さんが、「痛みの文化人類学」というサイトを教えてくださってふと思い出した。恥さらしの上塗りで、ブログで公開したい。私にとって、試練としての痛みというとこんな感じになる。

小さな小石の童話

 むかしむかし、といってもそれほど大昔でないくらいの昔に、インディアンの少年がいました。名前は「小さな石」といいました。大きな草原にお父さんの「大いなる鷲」と二人で暮らしていました。少年が13歳になったとき、少年は酋長の娘の「野原のタンポポ」が好きになりました。「小さな石」はお父さんに「『野原のタンポポ』と結婚したい。どうしたらよいか。」と話しました。お父さんは「まだ早い。自分で家を作り、狩ができるまで待て。少なくともあと2回は冬を越さなければならない。」

 2年があっというまにたち、少年はたくましい青年になりました。「大いなる鷲よ。ぼくはもう自分で家をつくれる。狩の腕前は村で一番だ。今こそ『野原のタンポポ』を娶りたい。」と、またお父さんに訴えました。「それでは、お前は大人になり、戦士であり、狩人であることの証に足につるの縄をつけて『死の谷』へ飛び降りて見せなければならない。そして、ナイフひとつで底から上がってくるのだ。」とお父さんは応えました。「死の谷」の底では、夜魔物が出てくるという噂でした。何人もが自分の勇気を示すために飛び降りていきましたが、戻ってきた男は指で数えられるほどでした。

 いよいよ、『死の谷』へ飛び降りる前の晩に「小さな石」は「野原のタンポポ」に会っていいました。「恋人よ、ぼくは勇気を示すために谷へ飛び降りる。そして君を必ずぼくのものにしてみせる。」タンポポは応えました。「あなたの勇気を見せてちょうだい。きっと父の酋長もあなたの勇気を認めてくれるはずだわ。」

 『死の谷』への跳躍の日が来ました。村人達はドラムをたたき、「小さな石」をはげましてくれました。「小さな石」は体中に先祖から伝わる魔よけの模様を赤い土で描きました。夜が来て、金星がまたたき、流星が落ちてくるのがいくつも数えられました。「小さな石」は谷の上に立ちました。谷底は暗く何も見えません。ただ、頭の上の星だけが輝いていました。

 「小さな石」は大きな声で一声叫ぶと、頭から谷へ飛び込んでいきました。

■追記 平成18年3月11日

以下の小文を書いていたつもりだったのに、追加されてなかった。一応、ココログのメンテナンス不良のせいだと書いておこう。

私の中で、痛みと愛は結びついているように感じる。愛ゆえの痛み、痛みゆえの愛。愛も痛みもどちらも身体感覚だ。相手が私に与えるぬくもりとにおいという感覚と、相手が私に与える苦痛と苦しみという感覚は、実は近しいものだ。そして、痛みも愛も、時間とともに風化し、神話と化していく。



Mircea Eliade (1907-1986)
マイトレイ by Mircea Eliade

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2006年3月 8日 (水)

「博士の愛した数式」から耐震偽装に至る6次のつながり My Broken Love to Mathematics and Physics

ま、変にここのところ毎日書いてしまっていてネタにつまったので、苦し紛れのタイトルと理解していただいてかまわない。

一応、リンクから先に書く


「博士の愛した数式」
  ↓
Danさんのブログの記事、「数式が愛した文学」
  ↓
第三回東京ブロガーカンファレンス
  ↓
HPOブログ = ひでき、こと私
  ↓
「時間の矢」
  ↓
「応答性能に基く耐震設計入門」
  ↓
e^iθ = cosθ + i sin θ : 局座標系の表現としての複素数*1
  ↓
「博士の愛した数式」
...

あ、耐震偽装そのものが入ってないじゃないか!という指摘があるかもしれませんが、分かる人だけ笑ってください。

前半のリンクは簡単だ。私はまだ「博士の愛した数式」は読んでいないが、Danさんは美しい記事でこの小説を取り上げられた。Danさんと私は、東京ブロガーカンフェランスでお会いしている。リンクまでいただけた。これだけだ。

後半はちとややこしい。私は、熱力学の不可逆性を、開放系・非線形科学の立場から分子レベルの力学的分析までさかのぼって説明した「時間の矢」という本を、知恵熱まで出しながら読んだ。この中で繰り返し出てくるラグランジュアン、ハミルトニアンという力学系の基本事項にすら理解に時間を要した。どれくらい苦労したか、そして、いまだに私がどれくらい理解できてないかは、以下のwikiを参照してほしい。

http://wiki.fdiary.net/100books/?Time+Flies+Like+An+Arrow

そして、今日たまたま本屋で専門書をあさっていて手にした本が「応答性能に基く耐震設計入門」だった。これは多分建築の構造を扱った本としては奇書の類ではないだろうか?建築の構造を説明するのにラグランジェ、ハミルトンからはじめている。数式だけを眺めていると、かなり「時間の矢」に似ている。それでも、結論として出てくるのが最近ハウスメーカーさんが実用化した耐震ダンパーだというのがすごい。

この本の中で極座標系を説明するのに現れたのが、「e^iθ = cosθ + i sin θ」という式だ。この本の著者によると、自然対数、eの微分しても値の変わらないという定義から、運動している系の変移、r=a+ibと置けば、r=e^iθ、rの時間微分=速度=ie^it、rの二次の時間微分=加速度=-e^itの円軌道になるのだという(あー、全然なっちゃないっすね、私の理解...石丸辰治先生、ごめんなさい)。

Danさんがおっしゃっているように、この式から「博士の愛した数式」に出てくる「e^iπ + 1 = 0 」まではほんの半歩にすぎない。

と、いうことで、タイトルにつながる円環状のエッジができあがるということになる。つまらないネタでもうしわけないが、今日はこれまで!


4101215235博士の愛した数式
小川 洋子
新潮社 2005-11-26

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4627153015時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?
ウィリアム・グラハム フーバー William Graham Hoover 志田 晃一郎
森北出版 2002-04

by G-Tools


4395006450応答性能に基づく「対震設計」入門
石丸 辰治
彰国社 2004-03

by G-Tools

■注

*1 こう書くときっとDanさんからお叱りが飛んでくるんだろうな...

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2006年3月 4日 (土)

「情報」と書いて「情けの報せ」と読む too much information on hand

先日、it1127さんから私が「パソコン画面世代だ」とご指摘いただいてから、画面の大きさと情報の読み方に興味をもって見ている。

この記事は試みに3メーター落下試験に耐えたW-zero3で書いているのだが、うまくいえないもののパソコンで書くのと、W-zero3で書いた文章とはなにかが違う気がする。ま、もともと周囲から「お前が書いていることはわからん」と言われていて、手の施しようもないことは自覚しているのだが、画面が小さいせいか、両親指入力に慣れないせいか、回りくどくなってしまうような気がする。目に飛び込んでくる情報の量が問題な気もする。

そんな中で画面サイズと内容が実にフィットすると気に入っているのが、はてなブックマークの定期送信を携帯で読むことだ。ご存じない方のために書くと、これははてなブックマークでお気に入りに登録させていただいた方がその日にブックマークした内容が、メール配信されてくるサービスだ。当然コメント付で送られてくる。パソコンの画面で見ると、いっぺんに入ってくる情報が多すぎて逆に詳細が目に入ってこないため、平坦な印象になってしまう。

これが携帯の小さな画面で見るとブックマークしてくださっている方々の息づかいまで感じられるようで、実にいい。一条あやのさんがどこかで飲んでいらしたことも、palさんがまた危険なネタを公開したことも、循環型エレベーターが開発されたことも、都市開発機構が紛失した構造計算書が莫大な数であることも、「情けの報せ」として読める。ある方があるタイミングで特定の情報をブックマークされているという事実自体が「情けの報せ」であるとも言える。誰が書いているかわからない新聞よりも、「視聴者が見たいものをとれればいいんだ」と断言するようなディレクターが作っているテレビ番組よりもよっぽど信頼できる。ご縁をいただいて何らかの形でネットワークさせていただいている、おひとりおひとりに深く感謝申し上げたい。

と、ここまで書いてW-zero3のワードも、ウェブブラウザーも、画面表示サイズがかなり自由に変えられることに気づいた。パソコン風に字数を多く表示させることも、携帯風にタテ長表示の1行9文字にすることもできる。うーむ、段々愛着がわいてきたな。

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2006年3月 2日 (木)

力と力の作る構造 balance is all

昨日、「ちなみに世代の交代とは、新しい世代が古い世代を駆逐するか、同化させてしまうことを意味する。」と書いたが、ちょっと筆が走った表現だったかもしれない。

力はつりあいなのだ。新しい世代も、旧い世代も、それぞれが力なのだ。物理的な力だけが力ではない。暴力だけが力ではない。社会は力のつりあいでできている。

比喩として、鉄筋コンクリート建物の柱と梁の接点を考えてみよう。通常見ている限り柱も梁もぴくりとも動かないが、建物全体の何千トンもの重量によって建物全体をが複雑にながれる。一箇所の柱と梁だけをぬきとって考えても、何十トンもの力が上下左右から働いている。目には見えないが、押す力、押し返す力、ねじれる力、ねじれに反発する力、---専門的に言えばモーメントとかせん断力などと言われる力---は、複雑に対抗しあって建物を支えている。

社会構造というのも力と力のつりあいなのだと最近つくづく感じる。柱や梁の代わりにさまざまな組織体、個人、政治的な団体などが存在し、お互いに力を掛け合っているわけだ。ちなみに、鉄筋コンクリートの場合は、柱や梁自体は、鉄筋という引っ張りの力に対抗する材料と、コンクリートという押される力に対抗する部材が見事に協力しあうことにより、一体として構造強度を持つ。社会的な組織の中でも、人と人が引っ張り合い、押し合いへし合いしながら一つの組織としての均衡が取れ、一体として実存する。そして、それぞれが内部の構造をもった組織と組織、集団と集団の間で競争的に、あるいは強調的に働く力がダイナミックに社会的な均衡を達成している。端から見れば、全く一体と見える社会構造も現実は力と力のぶつかりあいの一時的な均衡に過ぎないのだ。

冒頭に戻って、旧い世代と新しい世代がお互いに駆逐しあってしまってはいけない。力と力のぶつかり合いが必要なのだ。どちらかがどちらかを消滅させてしまえば、それまで働いていた莫大な力が開放されることを意味する。これは、社会で言えば革命のように、敗戦のように、一気に旧いつりあいに基く均衡がやぶれ、どこかの階層の層崩壊を経て、新たにダイナミックな均衡を持つ社会構造に落ち着くまで、不安定で流動的な状態が続く。

消滅させるといっても、幸いなことに現代の日本においては「暴力」という明示的な力を行使する機会はあまりない。ほとんどが政治的な力と政治的な力のぶつかりあいに終始している。政治的な活動には関係も関心もないとあなたはいうかもしれない。しかし、ニュースは例えば見るだろう。ある企業の広報に関わった方から「ほとんどすべての報道でどのタイミングで、どのような内容のニュースが流されるかということの裏には、政治的な意図がある」と聞かされた。また、個人的にニュースの裏にある政治的な意図ということを感じる機会に最近恵まれている。

ま、だからどうだといわれても困るのだが、やはり社会は非線形、開放系な思考でみるべきだという結論で、今日は閉じておきたい。

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2006年3月 1日 (水)

紙メディアの限界

耐震偽装も、メールの真偽も、電子データでの取り扱いに移行できていればよかったね、ということなのかもしれない。認証の問題も含めて、私たちはいまとんでもないメディアの移行期にたたされている。

まず、メールが誰から、いつ届いたのかという基本的な認証の方法すら一般化されていない状態に、我々はまだいることを自覚すべきなのだろう。国をあげて真偽が問題になっているメールも、サーバーに残っている状態、あるいはヘッダーまでふくめて電子データとして国会に提出されていたれば、真偽の判断ははるかに容易出会ったに違いない。いや、こうしたごく基本的事実すら誰も助言しなかったという事態に悪寒が走る。

また、ほとんどの文章はPCベースで電子的に作成されているにもかかわらず、それらを一旦紙で出力しなければさまざまな承認を得ることができない社会的インフラの時代にあるということもより自覚的にされるべきであろう。承認、認可、決裁、稟議、認証、なんという名前であれ、人を特定し、情報を配布し、認証を得て、記録に残すという一連の過程は、すべて電子化されていれば、年間に相当の化石燃料や樹木を守ることができると確信する。現代において、年老いた上司の判断をあおぐのにかかるコストは莫大であると、若い社員であれば誰でも感じているだろう。

やまぐちさんが以前書いておられたようにおばあちゃんでも、代議士でもごく当たり目に電子データの認証、承認をとることができるようになって初めてネット界隈のリアル化が果たされた時代なのだといえるのかもしれない。

ネットはいつ「リアル」の仲間入りするのだろうか by やまぐちひろしさん

ネット界隈をやまぐちさん的な意味でリアルに変えるのは、世代交代しかないと私は信じている。

古い世代は新しい技術を自分の親しんだ事物の比喩でしか理解できない。メールは手紙の代用物ではない。ブログはジャーナリズムの代替品ではない。若い世代の一部は、メールをメール、ブログをブログとして使用している。構造計算も紙メディアの制約から解き放たれれば、「お約束事」の世界から、よりリアルの事態に近いシミュレーションとして新たな次元に到達しうるのだろう。

こうした事実が自覚的、明示的になるまでにはまだ時間を要するのだろう。それまでは、最近頻発しているこの大規模なパワーシフトに伴う混乱は続く。

ちなみに世代の交代とは、新しい世代が古い世代を駆逐するか、同化させてしまうことを意味する。

■ちなみに

本記事は基本的に携帯電話と携帯端末で書き上げることができた。個人的快挙だ。

いや、結局PCで添削を加えた。画面の大きさというのは大きい。小さい画面では気付かなかった粗が良く見える。

■参照リンク
泡沫ブロガーが何か言ってます。 by R30さん 私も(?)泡沫ブロガーなんだなぁ、と。

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2006年2月23日 (木)

ひさびさのメール投稿

これから少しココログの使い方を変えようと想う

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少々、方々に書き散らしすぎたし、ブログ関連に使える時間が減ってきている。もうすこしカジュアルにココログをとらえなおす。

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2006年1月14日 (土)

「第三回東京ブロガーカンファレンス」にこれから行きます。 The Blogoshere Never Sleeps

無事、帰ってこれたら以下にそのレポートをします。

しかし、一波乱も二波乱もありそうな面子なんすけど、ホント、大丈夫っすかね?

ちなみに、シャンパンなぞお持ちします。


翌朝6:33~

さて、行ってまいりました。すばらしかったです。えっ、なにがって?集まった面子もさることながらDANさんのお部屋ですよ!

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高層マンションの最上階の見晴らしばつぐん!のお部屋でした。ま、昨日は霧がふかかったんで富士山は見えませんでしたが。

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いえ、冗談はともかくご自宅を開放してくださり、ご準備等にお骨おりいただいたDanさん、そして奥様、本当にありがとうございました。

以下、記憶に残る限り御礼を!

あしたさん、え、あれ、たしかともさかりえ似と申し上げましたよね?あれ、もしかしてのっけからつまづいております。ありがとうございましたぁ!
他人さん、確か遠く、遠くからこられたということでしたよね?わざわざ、大変でした。ありがとうございましたぁ!
一条あや乃さん、もう妖艶なお美しさを遺憾なく発揮されてらっしゃいました。palさんとの対決を期待していたのですが、ごくまったりとされてしまっていてそれだけが心残りです。ありがとうございましたぁ!
catfrogさん、毎回の幹事役、深く感謝しております。私の「ネタ」についてお話できてうれしかったです。ありがとうございましたぁ!
crowdeerさん、ご謙遜されているエントリーをあげていらっしゃいましたが、とても場になじんでいらっしゃったように感じました。ありがとうございましたぁ!
dankogaiさん、本当に感動しました。あの書籍の数!そのラインアップ!多分、許されれば1週間でもあの本棚の前で本を読んでいると思います。新ファウンデーションシリーズのペーパーバックも垂涎ものでした。ありがとうございましたぁ!
大熊さん、例の件の顛末をお聞きしようと想っていて、聞き忘れてしまいました。しまった!ぜひ次回よろしくお願いいたします。いいネタです。ありがとうございました>ぁ!  
藤代裕之さん、耐震偽造の話や、ブログの一次情報があるかとか、お話させていただきました。もっとつっこんだお話をしたかったのですが、すでに私の頭はアルコール漬けでした。お友達の方にもよろしくお伝えください。ありがとうございましたぁ!
makiさん、確か自己紹介のときにちゃちゃをいれてしまったように記憶しております。失礼いたしました。なにか、勘違いしてましたよね、私。二重三重に失礼いたしました。ムーンライダースでマニラマニエラとかお話したんですよね。ムーンライダース大好きです。ありがとうございました!
○大仁田さん、妻がよろしく言っておりました。「ぜひ次はお会いしましょう」とのことです。ありがとうございましたぁ!
new、「ブログシューター翔」本当に買いです。すばらしいです。ありがとうございましたぁ!
palさん、あやのさんとのまるでご夫婦のような貫禄と余裕のある会話をはたから楽しませていただいておりました。ぜひ次は激突を期待しております。ありがとうございましたぁ!
加野瀬さん、確か私がいる間には、お見えになりませんでしたよね。いつかお会いしたいです。ありがとうございましたぁ!
○gawaさん、あ、あれ、お会いしましたよね。いっしょにお酒をいただいたと想うのですが...ありがとうございましたぁ!
ミズタマのチチさん、おもちゃの刀とは言え、居合いの型を見せていただきました。「入館証」のネタもいただきました。ありがとうございましたぁ!
ユキジさん、「時間の矢」のお話ができてうれしかったです。またいろいろ教えてやってください。ありがとうございましたぁ!
○爪先ピピッとコンロさん、あまりお話できなかったですが、たしかストッキングについて意味深長なお話をうかがわせていただきました。ありがとうございました!
Otsuneさん、ほんと、お話したかったです。ご夫婦でお見えになってらしたんですよね。あー、噂の件の真相をお聞きしたかったです。ありがとうございました!
Parsleyさん、前回まったりさせていただいたのに、今回は玄関先でごあいさつだけでした。残念です。ぜひまた業界の話とか教えて下さい。ありがとうございましたぁ!
徳力基彦さん、アルファーブロガー本のお話などいただき、驚天動地でした。そーだったんだぁ!やはり、ぜひ一度finalventさんをお呼びしたいですよね。ありがとうございましたぁ!
いしたにまさきさん、あのぉ、動作中のnoteをいじってしまい失礼いたしました。あらためてお詫び申し上げます。ココログでのブログ2周年同士ということでお許しください。ポッドキャスティング(?)する方法を今度教えてくださいまし。ありがとうございましたぁ!
shu*さん、遠めからですが鑑賞させていただきました。あ、今度お会いしたときはしっかりお話したいです。ありがとうございましたぁ!
乙木一史さん、すごい方なのですね。すみません、予習がたりませんでした。ぜひぜひ「次の企画」をおしえてください。ありがとうございましたぁ!
中島ひなさん、すばらしいピアノ演奏でしたね。感動しました。ブログは以前読ませていただいておりましたが、ご本人にお会いできてうれしかったです。ありがとうございましたぁ!
モーリさん、はてなネタをお聞きしようと想っていて、聞き損ねてしまいました。ぜひ次回よろしくおねがいいたします。ありがとうございましたぁ!
tomozo3さん、あまりお話できなくて残念です。グーグルPCの話とか興味があったんですけどね。またよろしくおねがいいたします。ありがとうございましたぁ!
泉あいさん、お会いできず残念です。泉さんにピッタリと想われるネタを持っていったのですが、本当に残念です。ご活躍をお祈りしております。ありがとうございましたぁ!
いちるさん、ダンス、ダンス、ダンスという感じで体技の披露すばらしかったです。今度ぜひ通して拝見したいです。ありがとうございました。
Dr.SKさん、W-ZERO3の無線LANの設定ができてほんとうにうれしかったです。もうLANがつながっただけで満足してしましました。ありがとうございましたぁ!

あれ、他にも確かSWさんとかお会いしたような?もう酔っ払っていたので、勘違いでしょうか?他にもまだお会いしたような、しなかったような。以上のコメントでもし万々一私の記憶違いとかあったとしたら、アルコール漬けのおっさんの妄想と笑ってやってください。

実は、いいかげんかなり酔ってしまいました。家が遠いという個人的諸事情もあり、ごあいさつもせずにこそこそと失礼してしまいました。しかし、というか、やはりというか、ばちがあたりまくりまして、電車で寝過ごす、寝過ごす!自宅到着まで3時間30分という都内からの帰宅最長記録を更新してしまいました。

ええと、レポートの一番のりを目指して書いてきましたが、この辺でトラバします!

■参照リンク
第三回東京ブロガーカンファレンス開催のお知らせ  by catfrogさん
第三回東京ブロガーカンファレンス準備Entry by Dan the Party Animalさん


翌日 20:50~

いま、見たら翌朝までみなさんいらしたんですね。

第三回東京ブロガーカンファレンス レポート by catfrogさん

なんとちゃんと富士山見れたんですね。残念!

ふと気付くと、多分この記事を書きはじめた時間とcatfrogさんが富士山を撮影した時間がほぼいっしょです。私が二度寝を決め込んでいた時間にcatfrogさんは、移動。そして、私がPCから離れている時間にcatfrogさんは、レポートを書いていらしたわけで。いやぁ、ブログだからこそできる24時間終わらない世界の醍醐味ですね。


翌々日 急募!

私とムーンライダーズの話しをした方はどなたでしたっけ?すんごい気になってるんですけど。酔っ払いすぎてて覚えていないらしいです。

makiさんだと発覚!makiさんは細身の好青年であられたと記憶しております。いやぁ、失礼いたしました。


3日後

kermitを早く助け出してあげないと!

ボリスにゃんこ対蛙のカーミット

しかし、かあいすぎる!


6日後

newさんの熱い思いを感じます。

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2006年1月13日 (金)

ブログ開設2周年 The Second Anniversary

どう書いていいのかよくわからないのだが、もともとこのブログは深い絶望の中からあまり大きな目的も期待もなしに始めた。一番最初のブログの記事のタイトルからして、「書評の楽しみ」だし、1周年の記事も夏目漱石の書評であった。

書評の楽しみ (HPO)
[書評]三四郎 (HPO)

ブログをはじめる動機というのは、自分の書いたアマゾンでの書評がそのまま散逸してしまうのも悔しいなと思い、一箇所にまとめておこうという程度のものだったと記憶している。こんなに長く続くとも、こんなに多くの方とお知り合いになれるとも、こんなに自分の考え方が変わるものだとも思っていなかった。ブログを書くことは、そのままブログという体験であった。

これまでリアルで経験したことのない広くて深いリンクの発見、ブログやSNSを介した人と人とのつながり、あるいはリンクを通じて知る教養とよべるものの深さ、ブログ界隈においてこの2年間、私は無条件に楽しませていただいた来た。深い失望のふちからはいあがり、いまここでリアルでの役割を果たしていていられることも、このブログという体験があったからだと感謝している。

ここでお世話になったすべての方、ありがとうございます!

しかし、今日、あるきっかけで深い失望の淵に立つ人がいることを知る。その方の声は疲れていた。その方の失望の一端にはあまりに早く流れる情報の渦があった。リアルとブログ界隈の情報の流れが加速していて、流れの中に螺旋が生まれるように、あっというまに密度の高いハブが生じ、大きな、とても大きな力を発揮する。リンクが広がり、ハブが生まれ、力が生じるという過程は、人を幸福にもし、不幸にもしていく。まあ、もともと現象自体には価値は含まれていないのかもしれないが、この2年間ブログを書いている中で味わった私の幸福感は二度と戻らないのだと想う。

そして、今私はひとつの決意に達する。いつかその決意を形にできる日が来るのだと信じているとだけ今は書いてこの記事を閉じる。

■参照リンク
・ブログスタート2周年記念:もっとうっかりする。 by いしたにまさきさん

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2006年1月10日 (火)

職業としてのメイド A maid? No, HOUSEKEEPER!

なんとはなしに某所で始めてしまった主張がある。それは、「メイドという職業は、現代の日本で必要とされているし、そもそもきちんとしたメイドというのは高い技能が必要だ。」という主張だ。

最近、自分自身が長い記事を読むだけの集中力を保てないので、さくっと短めに行きたい。

先日、テレビでたまたま整理整頓を普通の主婦に教えるというコンテストをやっているのを見た。いまの日本の専業もしくは兼業主婦/主夫で、部屋が片付かないことに非常な罪悪感をもって毎日を過ごしている人は多いのではないだろうか?たまたまかもしれないが、仕事がばりばりできる、あるいは外に出てボランティアをしたいという熱望をもった方は、得てして家事が苦手だという事例が私のまわりでは多い。

そこで、メイドの登場となる。しっかりとした整理整頓の技術をもったメイドがいれば、女性の二度目の社会進出はますます進むであろうし、罪悪感をもった専業、兼業主婦/主夫も減って家庭もしごく円満なものとなり、はては出生率ですらあがるのかもしれない。

またまたたまたまかもしれないが、フィクションの世界ではプロフェッショナルなメイドの話しがいくつかある。

4835441648ハリスおばさんパリへ行く
ポール ギャリコ Paul Gallico 亀山 龍樹
ブッキング 2005-04

by G-Tools

ロンドンの下町っ子のハリスおばさんが、一念発起してオートクチュールでイブニングドレスを作りにパリにいくという話なのだが、実にプロフェッショナルにメイドをしてらっしゃる姿といくつかのカップルを結びつけ、うれない女優のたまごに手を貸すという、おばさんの情の深さにほろりとされる話だ。

4091910513私を月まで連れてって! (1)
竹宮 惠子
小学館 1995-06

by G-Tools

ハリスおばさんも大好きだが、「私を月に連れてって!」のおヤエさんのメイド、いや失礼ハウスキーパー哲学は本当に最高である。今更職業としてのメイド、いや失礼ハウスキーパーなんていっているのは、時代錯誤もはなはだしいという方にはぜひ一読してほしい。おヤエさんにかかるとこうなる。

「・・・ま、ひとことで言えば、 主婦っていう仕事が総合学を必要とするプロフェッショナルなものだからです。 すべての情報と知識をもって判断し、裁き、かつ、まとめていく最も高度な学問、 細分化された専門分野をバランスよく調合する学問ですね。 育児学にしても、栄養学にしても、一つじゃダメ、それをまとめる主婦のポリシーがなけりゃ。 現在の時点では、ただの一人も完全といえる主婦はいませんね。」

まだ、未読なのだがイシグロの「日の名残り」もこの種の話しとしては秀作だと聞く。「麗しのサブリナ」のリメイク版でもすばらしメイドと執事の話が出てくる。

4151200037日の名残り
カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 土屋 政雄
早川書房 2001-05

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B0007N348Aサブリナ
ハリソン・フォード シドニー・ポラック ジュリア・オーモンド
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-03-25

by G-Tools

なんか、こうならべるとますます非難をあびてしまいそうな気がしてきたが、社会生活が変化していくに従って職業の選択というものも次第に変わらざるを得ないのだと信じる。逆に、職業選択のリスクが少なく、全国民が目指すべき職業、めざすべき姿がほぼいっしょだったという戦後の一時期がこれからは異常であったということにすらなるのかもしれない。21世紀を生き抜いていくためには、20世紀の常識はいったん括弧にいれて考え直す必要がある。

■参照リンク
メイドを救え by ウニさん
少々、自分の文章が不謹慎であったと反省しました。

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2006年1月 9日 (月)

アフォーダンスとデザイン the maniac designers

何をめざしているのか、いつのまにかわからなくなりながら、アフォーダンスとデザインについて考え続けている。アフォーダンスとデザインというのは、ある種の生態系にもたとえられるかもしれないヒトとモノとで構成される二部グラフにおける相対としての安定性の問題ではないかと思うのだが、それをうまく立証するようなシミュレーションを組むとか、論理構成をするとかいうところまでできていないでいる。だから、以下に書くことは、書いているわたくし自身が未消化なまま書いているということをことわっておきたい。

それでも、ヒントとなるべき言葉は、天から降って来るように全く畑違いの分野からもたらされた。

4831600350建築馬鹿 第1集 (1)
矢田 洋
鳳山社 1969-11

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この本は、昔々私がまだ多分幼稚園に通っているころ、「建築知識」という雑誌に掲載された記事をまとめたものだと聞いている。アフォーダンスとも、意識ともあまり関係のない、建築にかなり深く関係した人でないと理解が難しい本だ。いつかは、この建築という問題意識から本書を読み解いてみたいと想っている。いまは、いまの私にとって意味深い言葉のつらなりにを、いまの私にとって意味のある視点から読んで行きたい。

たとえば、「うそをつく技術」という章から、すこし引用してみよう。

犬の目玉の底にある網膜は外界の全てを移すが、焦点がない。だから犬の意識には外界の映像が映写幕のようにうつる。犬はすべてをみているのだ。人の目は、非常に狭い焦点と広い視野から成り立っている。ここから人生を語ることができると、私は予測している。
ものを見るという動作のなかに、すでに理解しようという「創造的」な志向が含まれている。予定と期待がある。そして、その予定と期待との確認のためにひらかれた目は、予定され期待されているショックを受け止める構えができている。「創造的」な志向、といったのは、この心の構えである。
絵画、彫刻は芸術的虚構性の上にたって、現実を人間の視覚のために抽出しなおす。現実をバラバラにし、ぬきとり、切捨て、組みたて直すことによって真実を追求する建築も、家具も、茶碗も「もの存在」として、私たちの手が、形を与え、姿をとらせるとき、そこには広義の芸術的虚構性がおのずから含まれる。芸術も、一夫一婦制も、建築も、そこにとっている姿は、虚構性と言う点において共通している。見る目にしかみえない「見え方」をとって、どうにでも見える姿をもって、私たちの見る目に任せる情報(しらせ)が、私たちの世界を作っているのである。ショックを受けるのも、虚脱感を受けるのも認めるのも見過ごすのも私のうちに用意された志向による。

これは、一見素朴な視覚論であるように想えるが、アフォーダンスの方向に一歩踏み出した議論である。「心の構え」と「予定と期待」、そして良い意味でのモノ側での裏切りといった要素を、ヒト側に求めるのか、モノ側の属性と見るのか、その関係性において見るのか、の違いであるように私には思える。重要なのは、「組みたて直す」ことによって、人の視覚に情報をなげつける真実の姿がありえるし、作りうるのだ、というの主張だ。ここにおいて、上野千鶴子の記号論的分析の意味と意義が私には初めて了解可能になったように想う。そして、著者は、「装飾の意味と巾」という章でデザインとはなにかについて著者は語る。

私達は装飾に自信がない。この時代はすでにながい。この時代とは、近代以後である。それ以前、縄文、弥生、奈良、平安、鎌倉、室町、桃山、江戸、日本の文化史のどの時点をとらえても私達のまぶたに浮かぶのは美しく、豊かで、稚なくとも冗舌であり楽しい装飾の姿だ。原始未開民族は顔や体に装飾を彫り、盾どころか槍の先までたんねんに彫刻をしていた。人類の歴史のあらゆる場面をふりかえってみるにつけ、近代と現代だけが装飾への自信を喪失した奇妙な時代に映る。
茶道というのがある。茶道とは、質素な茶器に盛りこまれた「もの」存在の迫真力を感じとる力を試す人と人との感性の闘いだったのである。知識や金銭的な価値ではなく、直接自然界と人工の「もの」とに対する人間の対し方が問われる、そこには人間的な対話の感性にみちた高度な形式が求められたのだ。茶をのむということは生活のひとこまにすぎない。すぎないがゆえに生活に還元されて、生活の中での人のあり方を問い得た。茶を飲む所作、とう芸術は機能をも合理をも踏み込んだ真、人間の実存に直接的に肉薄してゆくためにしつらえた、「もの」を介した人間同士の対話であった。

例えば「茶道」というのは、十分に「真実」なデザインなのだ。生活環境において、真実のデザインというものが存在し得、そのデザインを持った「もの自体」が語り出すというモノ(人工物)をいかにつくるかを、求めてデザイナーは日々奮闘努力するのだ、どっこいしょという論を形成していく。

アフォーダンスという言葉の射程距離を延長しすぎているのかもしれないが、上野千鶴子が普遍的な記号としてさまざまなセクシュアリティーが現代のコマーシャル映像に存在することをその分析を通じて示したように、建築あるいは商業デザインにおいても、普遍的な記号を内包し、ヒトにアフォードしつづけるデザインは存在しうるのだと私も信じている。逆に言えば、この真実のデザインにおいてこそ「もの自体」が語り出すというべき、アフォーダンスを主張できるのだと想う。どのようなものでも、あなたに「真実」を伝えるとは限らない。むしろ、茶碗なら茶碗という真実をもったデザインこそが豊饒にして正確な存在そのものをあなたに伝えることができるのだといえよう。その限界性のはるか手前、あるいはその先には、茶碗は茶碗たりえない間違ったデザインが多数存在するわけだ。

ということは、デザインというのは、モノとあなた自身が向き合い、からみあい、刺激しあう、生態系とでもいうべきネットワークの中にこそ存在するのだ。そう考えれば、デザインとは、そのモノ(人工物)とヒト(あなた)を含む安定的な、あるいはダイナミックな非線型さを内包した新しい生態系を作ることだと考えられないだろうか。ひとつの真実のデザインとは、それを中心とした新しい「麗しい澤」が形成されることだといってもいいのかも知れない。真実のデザインとは、人工物と人という生態系=ネットワークが、適応度地形のようなゆるやかな勾配を成すということなのだ。

このデザインをアフォーダンスからとらえるという視点において問題になるのは、コマーシャルの問題にせよ、建築デザインの問題にせよ、では、そもそも普遍的に存在する記号=真実のデザイン側にデザイナーは全面的にすりよってしまうのが、正解なのかということだ。これはひとつ間違うとデザインそのものの崩壊につながりかねないと想う。「正解」がひとつしか存在しえないという状態では、多様性が失われてしまう。ヒトとモノのつながりを、原始時代からつづくセクシュアリティーレベルのものに固定してしまう。「消費者」と言われるヒトのムレの持つもしかすると乏しい記号に、デザインの本来持つべき豊かな記号の可能性が限定されてしまう。

ここから先に、ヒトとモノとの二部グラフ的ネットワークにおける非線型性と多様性をいかに生み出すのかという問題につながっていくように想う。そして、記号の群れが多様性を生み出して行くさまは「共進化」と言われる過程で記述できるように予感している。が、まだそれは先の話しとしたい。

■参照リンク
[随筆]建築デザインにおける生態心理学的な考察 by 蒼龍さん

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2005年11月21日 (月)

東京ブロガーカンファレンス 雑感 tokio blogger conference

catfrogさん主催の集まりに参加させていただいた。

第一回東京ブロガーカンファレンスのレポ 【全体的に人物説明追加】 by catfrogさん

楽しかった。あれだけブログ界隈で飛ばしまくっているcatfrogさん主催の飲み会であるにもかかわらず、ノン・ブロガーの妻(自称「成田のキョンキョン」)を軽く受け止めてくださるほど実に和やかな飲み会であった。ま、妻が切込隊長さんに枝豆を投げつけるという失礼があったことはこの場を借りてお詫びしておく。

しかぁーし!ディスカッション好きな私としては、ただただディスカッションあるのみであった。

まず、ガ島さんに「貨幣は生成することもあれば、消滅することがあるのではないか?ただただ積み上げた貨幣の山の方が、リアルの価値をうわまわっちゃうんじゃないの?日本の国債はデフォルトするのではないか?」としつこく絡んだ。絡みまくった。ガ島さんは「円なんてデフォルトしようと個人は関係ない。デフォルトするならしてしまえばいい。」と言い捨てて別件に逝かれてしまった。残念!

失意のうちにpalさんと仲良く、「やっぱり、日本の円って円を使っている人がちゃんと生産活動をして、価値を生み出しているから円の価値があるんだよね。これから少子高齢化とかで活力なくなったら、真剣やばいよね。お互いがんばろうね。」と語り合って、しばらくなごんだ。

と、そのとき切込隊長さんがひまそげにしているのを発見!強襲!

「やはりですね、『”俺様国家”中国の大経済』じゃないですけど、今って(市場が発達しているから)世界中からお金が簡単にあっというまに集まっちゃうじゃないですか。中国も投資のお金でGDPががんがん膨らんでいる感じがするし、一方で中国の奥地では物々交換されているとかうわさあるし。んで、日本円がいっぱいたまってもそれで何を買えるかが問題なんじゃないすか?いっぱいたまっちまったお金が一気に価値を失うことってありなんじゃないすか?やっぱり円の総体の価値って円を使っている人が円の価値を決めるんじゃないんすか?」

横から、danさんが「そうそう、『』くらいの単位の円があってもおかしくない。」【あれ、ちょっと趣旨が違うような...酔っ払っていて覚えていない...orz】と合いの手を入れてくれたにもかかわらず、切込隊長さんに「君は全然経済がわかってないよ。市場っつうのは期待でできているんだ。」といわれて撃沈!

そっか、そうだよね。お金って紙切れでかまわないわけだ。安冨先生のおっしゃるとおり「他人がほしがるもの、人が価値を認めるもの」でありさえすれば、貝殻でも、石でも、単なるシリアルナンバーでも、数ビットの情報でも、何でも貨幣の代わりになるわけだ。要は、市場という人々の期待の塊りの中で取引される価値がすべてなのだね。うーん。

例えば、今の中国とか、想いっきり人からの期待値が大きいから、GDPが投資の額でがんがん増えているわけなんだね。投資がストップした時には、ま、どうなるんだろうという疑問はさておき、商品や貨幣の流通が非常にスムーズな世界においては、実態ではなく、イメージ、イメェージ、イメェージが大切さ♪ということになるわけなんだね。そうですか、そうなんですか。

会が流れた後、タクシーにのったはずなのだが酔っ払いすぎて前後の記憶がかなりあいまい。いやぁ、でも切込隊長さんからすんごく勉強させていただいた気分。これってこういう書き方したくないけど、商売だって全く同じことなんだなって気づいてしまった。実態でなにをやっているか、会社の内部がどうなっているかということよりも、外側から期待されるイメージが大事ということになる。ま、そのイメージ、人から期待される価値を永いこと守るにはどうしたらいいかってのが、個人的な課題ではあるのだが。

嗚呼。

をっと、なによりも今回のカンフェランスの企画をやってくださったcatfrogさんに深く、深く感謝申し上げたい。酔っ払った私と妻がたぶん多大なご迷惑をおかけしたに違いないみなさんにもお詫びとお礼を申し上げたい。

ありがとうございました。またぜひ次回誘ってくださいまし。

■参照リンク
グーグル最後の日 by palさん

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2005年6月28日 (火)

ミュージカルバトン

いや、本当に私には無縁だろうなぁ、と思っていたミュージカルバトンが回ってきた。最近は、すっかりネット世捨人化していてさびしいなぁと思っていたので、とてもうれしかった。Hiroetteさん、多謝!

ちなみに、「ミュージカルバトン」はかなり典型的なパーコレーションの問題だと想う。パーコレーションとは、例えば伝染病やうわさばなしのように、正規格子のようなネットワーク上で、どういう経路をたどって、どういう伝え方をすれば、広がっていくかという問題のことだ。

パーコレーションブックマーク (HPO)

パーコレーションでの問題は、例のロジスティック式ともかかわるような気もするのだが、ひとつのノードが他のいくつのノードに伝えるかについてネットワークの形態に応じて一定の閾値があって、それ以下では伝播が起こらず消えてしまうが、この閾値を越えたとたんに大きな伝染、伝播が起こっていくということだ。

↑↑でブックマークさせていただいた「ざつがく・どっと・こむ」の小橋昭彦さんによると、「ぼくたちはひとりあたり4.5人を知っていれば、地球上の誰とでも、知人をたどれば必ずつながることになる。」そうなので、このミュージカルバトンも、5人に手渡すというところがとても重要なのかもしれない。

以前お話を伺った「複雑ネットワークの科学」の著者でいらっしゃる増田直紀さんのお話によると、パーコレーションのモデルは、伝染病のひろがりについての式にまでさかのぼるのだそうだ。確か、ヨーロッパのコレラの伝播に関する研究が19世紀にあったとか?

書評 'Snow on cholera' - 疫学の原点 by 大垣俊一さん

いや、17世紀か。そいて、SIRモデルが今世紀にはいってから確立された、と。ふむふむ。

いや、本題に戻ってミュージカルバトンのお題について語ろう。

●コンピュータ に入ってる 音楽 ファイル の容量

21Mb。もういまどきの人とは思えないくらい少ないね。あはは。

●今聞いている曲

妻が買ってきた桑田佳祐のベストアルバム、「TOP OF THE POPS」。これまた最新のテクノロジーについていけない私は、フツー(?)のオーディオテープにとって車で聞いている。

RAVEMETALというテープ型のMP3も良かったのだが、最近はこれすらほこりまみれだ。

●最後に買った CD

ムーンライダーズの「ANIMAL INDEX」かな?私の記事のいくつかのサブタイトルに使わせていただいた。もう、めろめろに好きなアルバムだ。何度も書いているが、大学3年の1年間はムーンライダーズしか聞かなかった。

●よく聞く、または特別な思い入れのある5曲

1.PinkFloydの「The Wall」に入っている「Another Brcik in the Wall Part II」。チューボーの頃の愛唱歌だった。この辺から、脱線癖がはじまったのかもしれない。
2.Rafael KubelikのMozart、「交響曲第40番&第41番」。クラシックはあまりわからないし、まして指揮者がどうのなんて私の知識の外なのだが、これだけはずっと聞いている。すばらしいと想う。
3.ジャニス・ジョップリンの「パール」に入っている「ジャニスの祈り」かな。なんかとても好きだな。悲しくなるくらい好きだな。
4.前出の「「Animal Index」の、...うーん、どれも影響を受けているのだが、あえていば「さなぎ」かな。「震える唇/ルビーのしずく...」いやぁ、turn me on !って感じですね。
5.The Blue Heartsの「LIVE ALL SOLD OUT」に入っている、「ブルーハーツのテーマ」。とにかくザ・ブルーハーツ大好き。あきらめるなんて死ぬまでないから...

●バトン を渡す5人

さて、これがなかなか難しい。実は、「自分がいなくなっても自分のまわりがつながっている」ことを示すクラスター係数がやたら自分のまわりのブロッガーさんたちが高いので、もう誰に渡していいかわからない。

まず、音楽の趣味が少しは一致してくれるであろうJackさんに。それから、Pythonを私に教えてくれたniryuuさんに(って、どこにトラックバックしたらいいんだっ!)。とうとう私のは逝ってしまったけど、リブリーを教えていただいたゆのさんに。いつもいつも知的な刺激をくださっているkinjoさんがどんな音楽聴いていらっしゃるのか、知りたいので、kinjoさんに。そして、恐れ多くも先日名刺交換をさせていただいた鈴木健さんに。

あ、いきなりトラックバックとどかねぇ!やばっ!

ああ、私からのバトンは閾値を越えられそうにないな...

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2005年6月 2日 (木)

誰のためにブログを書くのか For Whom the Blog Tolls

考えてみれば、文章を書き始めるときにほんとうに大事なのは、誰を相手に書くのかということだ。誰を想いながら書くのかが、その人のスタイルになるのではないか?私はいつのまにか、誰を相手に書いているかを見失っていたような気がする。つまりは、自分のスタイルが自分でわからなくなっていた。

誰を相手に書くかは大きな問題だ。ムーミンパパは、ずいぶん永い間、自分の「思い出の記」を書き始めようとして書き始められなかった。そして、ムーミンママにその書き出しのヒントをもらってからようやく書き始め、ついに「思い出の記」を完成させることができた。

ムーミンパパの思い出
ムーミンパパの思い出

作者: トーベ・ヤンソン, 小野寺百合子
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 2000/00



ああ、でもその最初のひとことがなぜいま浮かばないのだろうか、あんなに好きだったのに。あんなに何度も「楽しいムーミン一家」を読んだのに。

たのしいムーミン一家
たのしいムーミン一家

作者: トーベ・ヤンソン, 山室 静
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 1978/04




実は、白状してしまうとこのブログを始めたときは書評ブログをやろうと思っていた。論より証拠、このブログの第1号の記事は、書評についてだった。

書評の楽しみ (HPO)

ああ、恥ずかしい...全然進歩してない!

私にとってブログの前身になるのがアマゾンの書評だった。共通一次世代の私はアマゾンの「参考になった」ポイントほしさに、書評を書いていた。まったく誰を相手にするかなど考えずに書いていたからいい加減なものだ。実際、全然ポイントは集まらないし、書いた書評も自分で納得がいかなかった。不特定多数にむけて、いかにポイントをもらえる書評を書くか、という課題は私には高度すぎたといえる。顔の見えない相手に対して書くた結果はあまりにも無残だった。

アマゾン書評 (HPO)

ブログを書き始めてから、しばらくしてブログの記事を将来の自分の子どもに向けて書こうか、と思った。自分でいうのもなんだが、昔はかなり本を読んだほうだったが、一昨年まではほとんど本という本を読むことがなかった。そもそも、読んでる時間がなかったし、本屋に行っても面白そうな本もないし、大好きなSF小説もジャンル毎ほとんど絶滅状態だった。ここ10年くらいはマンガ本以外には年に数冊読めばいいほうだったのではないだろうか?アマゾンの書評もはるか昔に読んだ本を思い出しながら書いたものが多かった。

私の子どもだからきっと子どもが私の年になるころにはきっと同じような状態に陥っているであろう。そういう状態になったとき、最低限お前の父親はこれくらいは読んでいたのだから、お前もがんばれよ、という気持ちでいくつかの記事を書いた。実は、私のブログの記事のいくつかが歴史にこだわっているのもその性だ。自分はわりとノンポリで、現代の歴史にはあまり興味を持たずに大人になってしまった。しかし、ふと気づくと現代があるのは、やはり近代があるからで、歴史があってはじめて国のかたちや、世界の形がきまっている。マンガでも、小説でも、ネットの上の文章でもなんでもいい、きちんとした歴史の認識をもつに足る資料はないか、というのが私のブログのひとつの流れになった。

私のブログのもうひとつの底流となったべき乗則関連の話題は、ブログを書いているうちになんとなく信頼性とか、ネットワークの形とかに興味を持ち出したことがきっかけだった。特に「べき乗則」(ママ)という言葉をakillerさんに教えていただいてから、一気にはまった。いわば後から形成された流れであったように思う。しかし、この流れは、子どもが大人になるまでにはきっと一定の決着がついているであろう。この問題はきっとこれからの21世紀の流れを形成する上でとても大事なことにつながるだろうという予測が私にはある。そして、このべき乗うんぬんの流れ、この思考、このひとつの状態、は私の中では遠い遠い過去にもつながっている。これはまたいつか書きたい。

いや、少々話題がずれたが、ここのところ自分でブログを書く頻度が落ちているのは、誰を対象に書いているかを自分で見失ってしまったということなのかもしれない。いつのまにか、子どもを念頭において記事を書くことは少なくなった。ブログ界隈のお仲間に向けて書いている気もするし、ごくごく私の身近にいる人に対して書いている気もする。どうもここのところを見極めないと、先へ進めない気がする。いや、こんなことを書くと「では、ブログを休止します」みたいな論につながりそうだが、いいかげんでゆるゆるな私はいまのところブログを停止する勇気すらないようだ。

それでも、いつのまにか、表現すること自体がとても大事になってきているのを感じる。ブログに限らず文章を書くことがとても自然になっている。そう、ムーミンパパが「思い出の記」を書き始めたのは、風邪を引いて自分の命の危機を感じたときに、自分の生を語りたかったからだ。やっと、思い出した。

■追記 平成17年6月3日朝

記事を書き終わってから、似たような記事はないかなと思って探したら、ガ島さんの記事が見つかり、そしてそして、やまぐちひろしさんのすばらしい記事が見つかった。この記事を見落としていたとはなんたる不覚!

情報財の計画経済と市場経済 from H-Yamaguchi.net

もしかするとここのところの記事を書く間隔がひろがってしまっていたのは、せっかくブログを書きながら、外の情報を取り入れる姿勢を放棄してしまっていたからかもしれない。やまぐちさんご指摘のとおり、情報を発信するのも、受け取るのも、そして、ブログ界隈という非常にすぐれた情報フィルターにより情報を選別するのも、コストが大幅にさがっているのだから、活用しない手はない。

どうも、私はたこつぼにこもりがちな性向があると、告白しているだけの記事だな、こりゃ。

あ、ちなみに情報を財としてとらえるという見方は、先日馬車馬さんからコメントをいただいていらい頭から離れない問題だ。しかし、これはまた別な話。

■余談 同日

はてなでいいことをおしえていただいた。アマゾンのアフィリエイトの作り方のツールだそうだ。

http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html

4061381032ムーミンパパの思い出
トーベ・ヤンソン 小野寺 百合子
講談社 2000

by G-Tools

うーん、すばらしい。

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2005年4月27日 (水)

ブログをリアルで語る talking about blogs in the real

最近、リアルの場面で、ブログで知ったこと、ブログで理解できたことを話す、いや話さざるを得ないことがある。実は具体的な問題やら、日常の生活でのことで、ブログで知り得たことが案外役に立っているというのが私の実感だ。

私は無知なので、ブログ界隈をうろつきはじめるまでメディアがこれだけ偏っていることを具体的な問題としてとらえられていなかったし、日本の社会が今後変容せざるを得ないということも具体的に理解できていなかった。にもかかわらずごく日常で手に入るメディアの報道やこれまでの常識に基づいて仕事し、生活してきた。結構危うい状況だったのかもしれない。

このブログではリアルの仕事について一切書かないことをポリシーにしてきたが、正直に告白してしまえば、リアルの仕事でブログ界隈で得た知見や考え方を応用して臨まざるを得ない状況がすでに現出している。ポリシーに従い具体的には書けないが、ブログ界隈で予測されていた事態が私の周辺でリアルに現出しつつあると書いておく。恐ろしいくらいだ。

ブログ界隈での話しをリアルですることは、これまでブログを読んだことのない方々に、実はこんな考え方や見方があるんですよ、今の社会はこんなに偏っているんですよ、もしかすると社会はこうなっていくかもしれないんですよ、どう思いますか?と疑問をつきつけるよい機会でもあると感じている。そして、うまくブログ界隈の知見をリアルに応用でき、そしてそのことで私自身がなんらかの利益を得ているということが、周囲に理解されれば、また、それはきっとブログ界隈に参加する人を増やすことにもなるのではないだろうか?いや、人の知識や考えを身勝手に使っている私も、手前勝手な理屈かもしれないが。

まあ、ブログでリアルの問題が完全に解決されたわけでもないし、ブログ界隈のノイズを増やすことくらいしか私にはできないのだが。

なんというかべき乗則や、ロングテール論を持ち出すまでもなく、すそのが広くなければ山は高くならない。ブログ界隈をひとつの経済圏に例えれば、人口(参加者)が増え、消費(参加、PageView)も上がり、右肩上がりに成長するのでなければGDP(ハブ?)も成長しない。

そうそう、それと自分の仕事の上でうまく人の視線や気配を計画することがとても大事なのだが、ブログ界隈でもPageViewだけではない気配というものがとても大事だと感じる。ああ、でもこれって「空気」なんだろうか?

■参照リンク
Blog論2005年バージョン(2) by 梅田さん 
ブログブームの終わり by R30さん あ、ちなみにPageViewの極端なあがりさがりが方々でいわれているが、これは真剣に極低温などでの相転移現象っぽく私には感じられる。つまり、ブログやネットのつながりが密になればなるほど、アクセスは一箇所に超集中していくということだ。しかも、ちょっとしたcharmの差が極端に出るようになる。
・ブログタイプに見る日本のブログブームと言うもの by 徳力さん
知的生産性のツールとしてのブログ by Takaさん

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2005年4月10日 (日)

カソリックはなぜいまも人をひきつけるのか? 

別にキリスト教に興味があってプロヴァンスへ行ったわけではなく、当地の人々の暮らしぶりに触れたいというのが、今回の私の旅の焦点だった。失業率も高い、経済的にも最先端の位置にいるわけでもない、物価だって決して安いわけでもない、所得もそれほど高いとは思えない。そんな、南フランスで、どう人々が心豊かにくらしているかをぜひこの目で見たかった。

実際に訪れてみて、現地の方がの暮らし方に大変驚いた。プロヴァンスの人々は、午後にはカフェで仲間たちと冗談をいいながら交流しあう。夜はカフェやレストランで、夜中まで語り合う。まあ、実にのんびりと人生を楽しんでいるように私には見えた。

Chambre d'hoteのマダムや、タクシーの運転手の方などはいわずもがなだが、良い出会いもたくさんあった。とてもいい思い出がたくさんできた。突然雨が降って困り果てて入ったカフェで、見ず知らずの方が宿まで送ってくれたりした。まあ、ピーター・メイルのいうように観光で見るのと、実際に住むのとでは大違いなのだろうが。

滞在するうちにどうも根底からなにか違うのかもしれないと思った。どうも最近日本では、地方のコミュニティーが崩壊の危機に瀕していると思わざるを得ない事態が頻発しているのだが、田舎町でも、歴史的な街並みでも、なんというかコミュニティーがまだ生きている。レストランでは、昔なじみのお客とマダムが話している。スーパーマーケットも、なんとなくのんびりしている。新製品のラッシュという感じはない。お店も昼前から閉まって夕方まであかなかったりする。観光地で、観光シーズンの始まりの時期だというのにだ。建設工事の看板をみると、たった1軒の家の工事に2年もかかっている。そういうことがごく当たり前に受け入れられているようだ。

思わず子どもに「どうしてこんなにみんなのんびりしていられるのだろうね?」と聞いてみたら、「やっぱり、日本はみんなひたらすら働いているから、自分だけ働かないわけにはいかないでしょ。」と返されてしまった。日本では、子どもからして一生懸命働かなければならない、生産性を高めなければならないと信じている。この辺からしてどうも違う。

どうもわからない。

わからないままなのだが、マティスのロザリオ礼拝堂を見たとき、この違いの根底にあるのは生き方に対する態度のようなものなのかもしれないと感じた。シンプルで力強い絵で「野獣派」といわれ、既存の絵画の枠をある意味で破壊した現代絵画の巨匠が亡くなる直前に完成させた作品は、穏やかな光に満ちた明るい空間だった。礼拝堂には、白いタイル地の壁一面に聖母子像とキリストの最期の物語が黒いくっきりとしたシンプルな線で描かれていた。

このチャペルに行く前日に立ち寄ったAix-En-Provenceの聖堂でもキリストの最期を描いた絵を見た。聖書の記されたとおりに、「INRI」と掲げられた十字架に、手足に釘を打ち込まれた、胸の下に傷があるキリストの十字架像があった。Venceの美術館では、たまたま木の像で、ピラトの裁判の様子、ゴルゴダの丘を十字架を背負わされたキリスト、2人の罪人と一緒に十字架にかけられたキリスト、などが再現されていた中世の作品を展示していた。そうそう、海綿を差し出したさおもあった。どうしても、南フランスを旅することは、繰り返し、繰り返し語られるキリストの物語を避けることはできない。

使徒信条 @ カソリック中央協議会

帰国する前の晩、子どもとキリスト教について話した。「キリスト教の信仰は、イエスの姿に結実している。だから、絵画でも、像でも、聖書でも、キリストの物語を繰り返し、繰り返し語るんだろうね。キリストの姿、十字架そのものが信仰の対象なのだろう。仏教では、いかに悟りに近づくか、達するかがその信仰のきわみであると想う。いいかわるいかじゃなくて、キリスト教と仏教はやっぱり違うんだね。」

前回書いたように、日曜日のヨハネ・パウロII世の追悼ミサをプロヴァンス滞在中に見た。テレビで見ていたサン・ピエトロ寺院に集まる人々もやらせなどではなく本当にその死を悲しんでいるように見えた。しかも、かなり若い方が多いように見えた。地図で見るとそれほど、近いわけでもない。それでも、妻ではないが同じ時間帯で、数百キロ離れたところで行われているという臨場感のようなものがあった。

しかし、あのコーラスはなんというのだろうか?ミサの間に、なんども司祭が歌を歌い始めてそれに聴衆が加わった。ソプラノの修道女の歌もこころに残った。日本でキリスト教の教会に通ったことがあるが、そこはプロテスタント系統だったせいか、耳慣れた賛美歌とはまったく違っていた。力強さと人々の共感にあふれていたように聞こえた。

ちょうどミサの終わりごろに周り中から鐘がなりひびいいた。テレビからでなくほんとうに近くの街のチャペルからだ。

どうも結論はでない。印象だけを書き連ねてしまった。

■参照リンク
「すべてのものは変わっていく」ということが、唯一、この世の中で変わらないこと by 上田嘉紀さん

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2005年4月 9日 (土)

ポープ?パーパ?パプ? les noms propres en europe

フランスを旅しているうちに、各国の言葉での名前の変化があまりに著しいことに気づいてしまった。

フランス旅行中にローマの法王が亡くなられたのだが、この時かなり混乱した状態に私はいた。なにせ、プロヴァンスに滞在しながら、英語のCNNの中継を見ていたのだが、時々チャンネルを回すと奥さんがドイツ人のChambre d'hoteなのでドイツ語の衛星テレビが出てくる!同じ内容を報道しているのに、なんとか聞き取ろうと耳を向けると固有名詞がわからない。どうも名前が違うぞ!全然違う!ここら辺ですっかり混乱してしまった。4月3日の旅日記にこんな風に書いた。

ヨハネ・パウロII世が亡くなれた追悼のミサだというだ。妻は、以前ローマに行ったときに「パーパにあったか?」とスペイン人から言われ、サンピエトロ寺院へかけていったということが大変思い出になっているといっていた。結局、日曜日の午前中は外出の予定をキャンセルしてまでテレビでローマのミサを見ていた。

たとえば、この文章をもし各国の言葉で訳されていたらどうなるだろうか?

まず名前だが、英語だと「ジョン・ポール・セカンド(John Paul the Second)」、フランス語だと「ジャン・ポル・ドゥージエム(Jean Paul Deuxieme)
*1、んでイタリア語だと日本でおなじみヨハネ...あれ、違うの?「ジョバンニ・パオロ・セコンドー(Giovanni Paolo secondo)???」。じゃあ、ヨハネ・パウロってラテン語かいな?

次に「教皇」という言葉だ。英語だとポープ(pope)、仏語だとパプ(pape)、伊語=パーパ(papa)となる、らしい。ミサの行われたのはサン・ピエトロ寺院。これが、英語だとセント・ピーターズ(St. Peters)、仏語ではサン・ピエール(Saint-Pierre)、伊語だと日本語で言われるサン・ピエトロ(San Pietro)、といった感じになる。

外国にいくとこういうことによく気がつく。他にも機内の映画を見ていて、英語のアーサーがフランス語だとアルチュールとなるのだと知った。って、ランボーって英語だと「アーサー」って呼ばれているのかな?

さっき、ネットを探していてびっくりしたのが「サンチャゴ」って「サン・ジャック」のスペイン語読みなんだそうだ。「St.Jack」つまりは、ヤコブですな。ちなみに、これがフランス旅行の最後の晩餐で食べた「サン・ジャック風スカロップ(ほたて)」だ!

余談だが、教本に出ていた「Moi, je prendrai une escalope milanaise.」という台詞をぜひいいたいがために注文してしまった。あはは。ちなみにこれまた教本で覚えた「Et, ma femme un pineau.」というセンテンスで、「femme」を「cherie」といったら、garconに笑われてしまった。こいつこんなへたくそなフランス語で「Cherie」(恋しい人)はないだろう、って感じだったのだろうか?

余談の余談だが、たとえばフランスでいかにも不動産屋って感じの店舗に「immobilier」(イモビリエ)とか書いてあった。考えて見れば日本の民法ってフランス語から訳したんだっけとか思う。だって、「im-mobile」、つまり「動かないもの」=不動産、ということだ。やっぱり、明治の人は偉かった!自分には英語の「real estate」が「不動産」ということがどうしても納得いっていなかったのが、みごとに落ちた。

改めて、極東にある島国には多層的に言葉が入ってきて、それらが残存しているんだなと想った。

■参照
使徒・聖人名対照表 by Stellaさん
(役に立たない)英語のページ  by Masaki Oshikawa さん 
[訃報]ローマ法王がお亡くなりになられました。 by antiECOさん あんなところまでお越しいただき、ありがとうございました。
夏のひこうき雲 by summercontrailさん 本当にありがとうございました。
ローマ法王がなくなった by Hiroetteさん

■注

*1

Hiroetteさんから、「ジャン=ポール・ドゥ」と呼ばれているというコメントをいただきました。

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2005年4月 7日 (木)

サバイバル・フレンチ 実用編 Francais pour survivre

とにかくフランスへ家族といっしょにいって無事帰ってくるという目標のために勉強した。結果的には、なんとか1週間のガイドなし個人旅行で欠員を出すことなく生還できた。

以下、かなりまちがい、いいかげん、強引な内容を含んでいるかもしれないが、自分が体験したフランス語について語りたい。

そもそも、私のフランス語との出会いは悲惨なものだった。大学の第二外国語で及第点ぎりぎりの散々な点だった。しかも致命的だったのは、LLの授業で先生から「きみのR(エール)の発音は、フランス語というよりアラビア語だね。」といわれたことだ。いまも心の傷になっている。

...まあ、いい。過去は捨てよう。

CDエクスプレス フランス語 by 筑紫 文耀さん

今の私の語学学習というのは、ひたすら耳で覚えて、話して暗記するというスタイルだ。大学の時は、よくこのことがわかっていなかったのが敗因だったともいえる。今回↑この本に付属するCDをテープに落として車で移動中に聞きまくった。シャドーウィングというのだろうか、聞きながらそれを口で追うことを繰り返した。家でもラジカセでひたすら繰り返した。iPodも、MP3レコーダーもつかわない「原始的」な方法だ。多分、これらの機器を使えばもっともっと簡単にシャドーウィングできるのだろう。

そして、耳で覚えたスキットを場面に応じて使う、使う、使う!もう、フランス行きの機内からできる限りフランス語を使った。

-Eau, s'il vous plait. (水をください) *1

-Il fait froid. (寒いんですが) [って、機内で天気のはなしじゃねぇだろう!って感じだったかな?]

でも、返ってくるのは英語だったり、「どうぞ!」という日本語だったりする...orz

マルセイユ空港に到着したのはもう夜だった。とにかく宿に着かなければならない。空港を出て薄暗闇の中タクシーの運転手さんに声をかけた。

-Bonjour! (こんにちわ!) [あ、考えてみればあの時間なら「Bon soir」だよね。]

-Bien sur! Tres bien. ぺらぺらぺら

思わずたじろいでしまったが、宿の名前と住所を見せたら納得してくれた。実は親切な運転手さんだった。運転手さんは、車中でフランス語の1月から12月までの月の名前を教えてくれたり、シラク大統領が親日だとかおしゃべりしたりした。8割方英語で...私はできるかぎりフランス語をしゃべろうとしているのに!

翌日から、とにかくトライ、トライ、トライ!とにかく朝でも、昼でも、お店でも、道ばたでも、マダムにも、ムッシューにもとにかく「Bonjour!」を連発した。目があっただけで、「Bonjour!」と声をかけた方でもにっこりわらって「Bonjour!」と返してくれたりした。「ああ、フランスに来てよかった!」と感じる瞬間だった。

Chambre d'hotのマダムともスムーズにあいさつできるようになった。

-Ca va? (お元気ですか?)
-Ca va bien? Et vous? (ええ、あなたは?)

そして、とてもとても素敵な笑顔!やっぱり、笑顔は一番の万国共通語だと深く感動した。

いくつかの出会いがあったが、それでもできる限りフランス語で話かけた。やはり、英語でいきなり話しはじめるようりも一言でもフランス語ではじめると、とても喜んでくれるのを感じた。はじめて会った人には<< je suis enchante de faire votre connaissance.>>というのが礼儀ただしい言い方だそうだ。でも、ひとこと!

-Enchante! (アンシャンテ!)

といいながら、握手をしてしまう。そして、sourire(スマイル)!いろいろお話して、お別れのときには、

-Bonne journee! Au revoir!

なぜだか知らないが、この「良い日を!」という表現がとても好きだ。

そうそう、若いgarconとかの間とかでは、確かにSalut!というのが「Hi!」くらいの感じで使われているようだった。

そうそう、妻が言った「フランス人って最初とっつきにくい感じがするけど、ちゃんとフランス語であいさつして話はじめるとすんごくシャイな笑顔をうかべて、親切に対応してくれたりするよね。」ということを私も実感した。

...

でも、

思わず、

-Vous parle anglaise? (英語しゃべりますか?)

と聞いてしまう場面もかなりあった。

かたことのフランス語では、センテンスが続くとそれだけで理解できないし、複雑なことはましてわからない、表現できない。特に食事の注文がかなり大変だった。フランス語はとにかく料理に関する語彙が豊富なように感じる。メニューを見ても全然わからない。ワインリストはもっとわからない。内容や種類を説明してくれていても、フランス語じゃさっぱり。なにはなくとも料理に関する単語は暗記していったほうがよいかもしれない。

困りにに困りきったときにはついつい「Vous parle anglaise? 」と聞いてしまった。

-Yes! English OK!

といわれると安心してしまう自分がいたもの事実だった。

ここまで書いてふと、この程度のフランスなら全然勉強しなくとも話せたし、往還できたかなという気になってしまった。やっぱり、トラベラーズカフェさんの段取りがよかったということなのかもしれない。ちとさびしい。

言葉に関する想いはまだまだつきない。多分、次回はもうちょっと語彙に関して感じたことを書く。

■参照

シャドウィング by noriさん 深く同感です!
語学 フランス語 by 美@nca 私のいいかげんなフランス語でなく、本当に役に立つ表現がいっぱいです。
pidooのちょっとフランス語講座 by pidooさん とぉっても参考になりました。ありがとうございました。
天国と地獄  by ふらんすさん 笑いました!
サバイバルフレンチ あはは、既に本家があったんですね。失礼いたしました。
■柱

*1

フランス語に詳しい友達から、「よくこれで通じたねぇ」というコメントがありました。トホホ。「eaa」だけでは普通通じないそうです。

これまた別なタクシーの運転手さんから指摘されたことだが(英語で...)「やっぱり、フランス語はグラメール(文法?)が大事だからねぇ。」ということだそうだ。やっぱり、基礎が大事なんでしょうね。

でも、こんなにわけのわからんフランス語をしゃべっている私を受け入れてくれたプロヴァンスの方々のやさしさに改めて感銘を受けてしまいました。

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2005年4月 6日 (水)

プロヴァンスの旅 On va en provence!

トラベラーズカフェさんのご手配で家族で南フランス、プロヴァンス地方へ旅してきた。なんというか家族での個人旅行といった感じで、ガイドがいるわけでなし、分単位のバスのスケジュールがあるでなし、家族のペースでのんびりとまわってこれた。一切仕事のことを考えない1週間というのは10年ぶりくらだろう。実に貴重な充実した時間だった。ネットワーク触らずの1週間+魔の帰国2日目の時差ぼけで、あまりまとまらないのだが、簡単な感想だけでもあげておきたい。

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この写真は、Aix-En-Provinceという街の丘からの風景で、セザンヌが絵を描いたというところだそうだ。正面にみえているのが、サン・ヴィクトワール山だ。背中にはセザンヌの描いたサン・ヴィクトワール山の絵が何枚か掲示されていた。ここで、子ども達とパステルと色鉛筆でスケッチブックに絵を描いた。絵を描いていると他をわすれて夢中になれた。近くの街から来たというジャンという女の子とそのお父さんとも仲良くなっていっしょに絵を描いた。まだ4歳だという彼女の絵はセザンヌの描いたサン・ヴィクトワール山そっくりだった。さすがアートの国フランス!


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お世話になったChambre d'Hote(シャンブル・ドット)のマダム。本当にお部屋も、ベッドも、美術もセンスがよくて、子ども達もすっかりお姫さまになっていた。ちなみに、Chambre d'Hoteとはフランスのベッド・アンド・ブレックファーストなのだが、直訳してしまえば「おもてなしのあるお客様の部屋」ということになる。hoteの女性形のhotesseは、女性のフライトアテンダントさんのこと、ホテリアーなどと同じ語源の言葉だ。ほんとうに友達をもてなすような感じで接してくださった。Nous vous remercions beaucoup!


f:id:hihi01:20050402172454:image

いわゆる鷹の巣村のSt.Paulという街。なんかアニメのラピュタでないが、いまにも飛び上がりそうな感じがした。街の中は、アート・ギャラリーがひしめいている。ヨーロッパでは、こういう古い街にギャラリーがあるのはあたりまえなのだろうか?


Venceという街も訪れた。ここでの、思い出はおいおい語るとしてちょっと楽しかったのが、ここのギャラリーで会ったBrettさんとの会話。なんと犬の彫像に日本のアニメのキャラを描いた作品を展示してらした。パトレイバーの泉野明は私にもわかった。子どもの解説によるとナディアとかいうキャラもあったらしい。とにかくアニメキャラてんこもりだった。

アンディー・ウォーホルが生きていたら、絶対に日本のアニメをフィーチャーした作品を作っていただろう。アニメの一枚一枚が構図も構成も完璧だ。だから、ぼくはこの犬を作ったんだ。」

調子にのって「あなたの作品ってニューロマンサーとかと雰囲気似てない?」と聞いたら、「wackyなところがね。」といって笑ってくれた。


この他にもいろいろな出会いがあった。食事にも舌鼓をうつことが多かった。それらはおいおい語りたい。

なによりも1週間の旅行をすることで仕事の関係など、かなり同僚や知人ご負担をかけた。この方々のおかげですばらしい旅をすることができたといっていい。この場にて、こころから御礼を申し上げたい。

■追記

ちなみに、先日からさわいでいたvacanceとはこの旅のことだった。確かにフランス滞在中は、花粉症はまったくとまった。やる気もかなり復活した。し、か、し...帰国したとたん再発。まあ、確かに少しは楽な感じもするが言ったほどではない。トホホな結末だった。

しかし、日本のこの花粉症の惨状はなんなのだろうか?これだけ広範囲で深刻な被害が出ているのに、それこそ撲滅するためのプロジェクトがあるとか、施策があるとか聞いたことがないがいったいどうなっているのだろうか?小泉首相あたりが対策を打ち出せばきっと内閣支持率が一気にあがると思うのだが、どうだろうか?

今期における花粉症に関する政府の取組み @ 環境省 

あ、原因すらわかってないんですか?そーなんですか?ふーん。

やはり、ここは横田社長にがんばっていただきたいところですな。

http://www.otenki.co.jp/

追記 平成17年4月10日

昨晩、TV東京でヴァンスで見たマティスの「ロザリオ礼拝堂」の特集をやっていた。つい先日現地で見てきたままがテレビで写しだされていて、感動をあらたにした。

美の巨人たち

中は撮影禁止だったので、入り口の一枚しか取れなかった。確かにこのステンドグラスとタイルに書かれたシンプルな絵は、あたたかさと感動に満ち溢れていた。子どもが、帽子を落としてしまって立ち入り禁止だった中庭側からひろってもらったのも、もういい思い出だ。


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2005年1月24日 (月)

「週刊!木村剛」にエールを贈る! Let's make a toast to Mr. Kimura!

やはり、それでもこれは既存勢力との戦いなのだと思う。

ネット上で、あるいはマスコミで、おもしろおかしくプライベートなことまで含めた木村剛さんについての一連の記事を読んだ。正直私も好奇心から、「ああ、やっぱりな」などとしたり顔を決め込んでいた方だった。

実は、私自身もリアルで既存勢力との戦いを始めた。始めた途端に、規模は全く違うとはいえ木村剛さんに起こったことが自分にも起こりかねないのだなと感じた。

なんというか、ここのところ悲観的なことばかり書いてきた。どうも個々人の家計も先行きやばそうだし、社会的な体制自体からして次の世代を生み育てる環境ではぜんぜんないとみんな感じているらしいし(参照)、ローマ帝国と比べるのが適切かわからないが、ほぼ確実に日本は負けパターンにはまっていて政治的、行政的にもどうも回復する見込みが薄げだ(参照)。でも、日本はGDP世界第二位の国だから安心だ!とか思っていたら、なんのことはないGDPなんてほとんど毎年消えてなくなってしまうものの統計じゃないか!国の資産は毎年ものすごい勢いで失われていっているみたい(参照)。それなら、ネット電脳界があるじゃないかと期待をかけてみても、ルールがさだまらず、ネットワークの自己組織化の力もも思ったほどでなく、まだ混乱を極めているように感じる(参照)。あるのは、文化的な楽しみと、男女間の恋愛の喜びくらいなのかもしれない(参照)。どうも、この世は住みにくい。

をを、夏目漱石してるじゃん!

もしかすると本当に100年近くかけて夏目漱石の時代から発展しきたこの国とこの国の人々は、100年近くかけて元の水準に戻っていくのかもしれない。今度は、大きな期待でなく坂を下っていく失望感を持ちながらだが。

でも、夏目漱石の境地と状態に至る前にできることはしておかなければならない。まずは、自分で十分にリスクを負えると信じて始めたこの小さな戦いを最後まで戦い続けることだ。木村剛さんが戦い続けている姿に大きく力づけられるように感じる。

ちょうど一年前大きな戦いに敗れ失意に沈んでいたとき、いっしょに戦ってくれた友が私に贈ってくれた言葉をささやかながら木村剛さんにエールとして差し上げたい。

「孟子に言う、天が人に、大いなる任を降そうとする時、必ずまず、その心志を苦しめ、その筋骨を疲れさせ、その体を飢えさせ、その身を窮乏させ、行う事為す事に幾多の障害を与える。」

■参照リンク
「週刊!木村剛」にエールを贈る by quimotoさん
すみません、同じタイトルにしてしまいました。絶対この記事拝見していたと思います。どうかご容赦ください。

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2005年1月18日 (火)

身体八腑、これ父母に受く

今朝、鏡を見ていて額の傷をしみじみ見た。

なんでも2~3才のころ、家の中で三輪車に乗っていて、昔風の高い框から落ちてついた傷だと聞いている。よく見ると、縫った痕がわかる。これまで気にしたこともなかったが、もし自分の子どもが額に縫うような傷をつけてしまったら、どんなにか自分が痛みを感じるかと思った。4才のころ左大腿骨を骨折して手術するとか、成人してからの大きな車の事故とか、考えてみればもし自分の子どもがそんな目にあったらぞっとするような怪我を経験してきている。

正直、私はあまり母に感情的な想いを持ったことがなかったが、自分が自分の身体に傷をつけてしまったときに母がどんな痛みを感じたかを初めて理解した。初めて親に感謝しなければならないなと身体で感じた。

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2004年11月13日 (土)

本当の自分とむなしい希望 Pandora's box

山口浩さんの記事が非常にこころにつきささっている。

・「生命の重さと自分探し」 by 山口浩さん

要約するよりもぜひ読んでいただきたい。こころに痛みを感じるは私だけではないだろう。

山口さんとのコメントのやり取りも含めて自分に浮かんだことは3つあった。

  • 探しているのは、「本当に自分」か、「自分で満足のいく自分」か?

  • どちらにせよ「自分探し」をしなくなったことは安定なのか?

  • 「自分探し」は死をかけてまで行われるべきではないのか?
  • あまりに漠然としていたので、ひさしぶりにiEditを使って自分のあまたを整理しようとした。


    (クリックするとSVG viewer用のデータが開ける。ALT+マウスで移動、ctrl+左クリックでズームイン、ctrl+shift+左クリックでズームアウトする。)

    iEditで漠然と疑問を書いていて、自分なりの結論には達した。

    「本当の自分の基準は結局のところ、自分が満足できる自分が達成できているかどうかにすぎない。また、その基準は人とのかかわりの中でしか確認できない。そして、人もみんな苦しみながら生きているのだから、あなたもいまここで満足する以外に法はないことを悟りなさい。」

    私の思考習慣からいって、ここで自分のうちのなにかが立ち上がるのが普通のようには感じる。きっとこういう感じだろう。

    「いや、違う。ここで立ち止まってはいけない。自分が死のうと、かたわになろうと達成すべき課題はあるはずだ。たとえ自分を犠牲にしてでも、人類のため、国のため、愛するわが家族のため、行動すべきだ。」

    ・「[書評] ファウスト、最期の科白」 (HPO)

    しかし、どうも今日の自分は、すこし状態が違うようだ。どうもエネルギーの無駄使いをしすぎていてちょっとした脱力状態なのかもしれない。いつもと違う感想しか出てこない。出てくるのは、「希望を捨てよ。自分が簡単に現状を変えられるなどとは思うな。空しい希望こそが、自分を破滅に招くのだ。」という感想だ。

    実は、「ぼくんち」の感想文を書いてからずっとあたまにあるのは、人は絶望よりも希望によって破滅するのではないか、という疑問だ。人は得てして今の生き死によりも、明日の生死の問題でじたばたする、不安をもつ。

    いまここでなすべきことは、考えなくともわかっているはずだ。日常行動していることは、頭でなくて身体が覚えている。いま、ここ、この時点の行動に不安はなにもない。会社へ通勤するのに車をどう運転するか、右にまがるか、左にまがるか悩んだりするだろうか?朝、歯を磨くのに下の歯から磨くか、上の歯から磨くか悩んだりするだろうか?こうやってキーボードを打っているときに、アルファべットの配列で悩むだろうか?いずれも結構複雑なプロセスを含むのに、ごくスムーズに身体が動く。記憶に残っていないが、習得するときには多大なエネルギーを使ったに違いない。

    いまここで満足してしまうことは、巨視的にいえば間違っていることもあるだろう。いますぐに、国全体を変えるために行動し始めるべきなのかもしれない、本当の自分と本当の自分の使命を探しにでかけるべきなのかもしれない。それでも、行動できるのはいまここからだけだ。いまここしか自分には与えられていない。いまここにしか自分はいない。どうしても脳みそよりも身体の方が賢いように感じられてならない。

    本題に戻って「本当の自分探し」の問題に対する別の視点は「みにくいアヒルの子定理」からの発想なのだが、これはまた別の機会におく。この定理を説明するほどのエネルギーすらもいまは残っていないようだ。

    ◆「醜い家鴨の子の定理」について by Averageさん

    ■参照リンク
    それでも夢を語り続けることができるのか by Pinaさん 深く深く同意させていただきます。

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    2004年9月13日 (月)

    街頭ジャズ

    040913_1738001.jpg
    たまたまの通りがかり。かっこよかった。スウィングしてた。かなり若いトリオのように見えたが、誰だったのだろうか?

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    2004年9月 9日 (木)

    石井美鈴さんとお会いした Be At NCA

    ある異業種交流会でNCAコンサルティング社の代表であられる石井美鈴さんとお会いした。「お会いした」、といっても石井さんの3分ほどの短いスピーチを拝聴させていただいたのと、名刺交換させていただいたときに一言、二言言葉を交わさせていただいただけなのだが、すっかりファンになってしまった。

    石井さんは、全国の2500名以上の主婦の方とネットワークを組んで、企業からのアウトソーシングや、マーケティングなどのさまざまな仕事を受注し、主婦の方の在宅勤務などにつなげることを仕事としておられるのだそうだ。すばらしいのは、人と人を「つなげること」自体が十分にビジネスになるということを身を持って立証されているところだと感じた。

    (私)「NPO法人が内閣府の認可ってすごいですね。」
    (石井さん)「こういう手続きもすっかり主婦の方がやってくれたんですよ。」
    (となりにいらした方)「NPO法人の美@NCA(ビアンカ)という名前がいいですよね。」

    と、言われて気がついたのだが石井さんのNPO法人の名前は「美@nca」=「Be At NCA」つまり石井さんの会社であるNCAやってこう、いっしょにやってこう、美しくいこうよ、という意味を多重に込めた名前なのだ(と、思う)。

    (石井さん)「これ(美@NCA(ビアンカ)という名前)も主婦の方が考えてくださったんですよ。」
    (私)「それだけの数の主婦の方とはどうやって交流、連絡していらっしゃるのですか?」
    (石井さん)「ええ、いつもはネットワークでやってますけど、年に1度は県別に集まっていただいて直接お会いするんですよ。」

    と、おっしゃてにっこりと笑われた。たやすくおっしゃっているが、都道府県は47もある。1年は12ヶ月しかないから、単純にいっても月に4つくらいのOFF会されていることになる。いただいた資料を見るとそのほかに月にかなりの数の講演活動もこなしていらっしゃる。しかも、お言葉どうり全国でだ。

    ちょうど会場をでられるところだったので、これ以上お話はできなかったが、いつぞや書いた「麗しい澤」を刻む力強く、そしてたおやかな川の流れを目の当たりにしたように感じた。

    ほんとうは、いつもの飲み仲間のように携帯で写真を取ってそのまま投稿したかったのだが、さすがに石井さんのように美しい女性に私のような中年が「写真とってもいいですか」とはいえなかった。ちょっと残念。

    ■追記 平成16年9月16日

    いつのまにか石井さんがブログを始められていた。なんかものすごい量のコメント、まだ立ち上がって数日のはずなのにからんからんまわっているカウンター...す、すごい、すごすぎる!

    ・「仕事も家庭も自分の人生もすべて手に入るんです

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    2004年8月17日 (火)

    Kさん

    040817_2256001.jpg
    もりあがってます。カラオケっす。

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    2004年8月16日 (月)

    curated consumptionから連想するもの

    この前から、山口さんの"Curated ConsumptionまたはParotting"という記事を読ませていただいてコメントさせていただいた。(自分のコメントを引用するのもまぬけだが、これがないと始まらないので書く。

    あとでゆぅっくりコメントさせていただきたいのですが、私は連歌師の復活かなとか思っています。案外これから元禄時代ではないですが、賢い消費者(smart consumer)というかセンスのよい消費みたいなものがもてはやされるのではないか、と。

    ところが、なかなか続きをかけずに時間だけがたってしまった。一応、ここのところ自分の仕事がかなりいそがしく、ネットでやりとりする時間がとれなかったというのは大きい。また、相手が山口さんのような知性だと身構えてしまうからかもしれない?と、いうことでいいたいことへの思いばかりがつのってしまたので、記事にしてトラックバックさせていただくことにした。

    Curated consumptionという言葉を山口さんからいただいた。この言葉を聞いて、コメントにもあるように私の妄想はかぎりなく江戸時代へ飛んでいった。「明るい!?国家公務員のページ」で展開されている経済史からわかるように非常に微妙な線で江戸期の経済は成立していた。初期から貿易の途を閉じてしまう政策をとり、虎の子の銀山は江戸中期までには枯渇してしまうはで、通常なら政府と市場経済を維持するだけの付加価値の生まれる源泉がない。こんな政府が250年余りも存続できたのは、私はひとつは人民からの信頼であったと思う。これには、諸々の反論もあろうが、政治経済的な分析はまたあらためる。(私の中でもまだ固まっていません、ハイ。)

    経済からみた江戸時代 @ 明るい!?国家公務員のページ

    私がいま焦点としたいのは、経済的にみて外形的というか、相対としての経済の流通量、いわばGDPが決まっている中での、爛熟した消費生活の形はどのようなものであったかである。右肩上がりにおける、消費というのは「消費は美徳」などの言葉であらわされるように、質としては画一的で、価値は量や大きさではかられるような類型的な消費が行われると思われる。

    他方、たとえばイギリスがそうであったように右肩下がりにおける消費というものは、かなり保守的でつつましいものになる。しかし、一端頂点を極めた人々がおいそれと生活の楽しみを捨てる事は出来ない。私は、「生活の楽しみ」という場にひとつの文化のあり方の可能性が有ると思う。

    江戸時代でいえば、連歌という非常に高度な遊びがあったことを松岡正剛さんが紹介している。連歌師といわれるコーディネーターまで存在したという。連歌というのは非常に高度な約束ごとがあって、その約束事の世界の中で何巻もの歌を読んでいくお遊びだ。でも、それが「かっこいい」と思えるのがひとつの文化的な背景なのだと思う。

    ・『連歌の世界』 @ 千夜千冊

    物質的な消費が経済的な限界により限られているとすれば、別の次元での生活の楽しみ、人生の深みというものを人は求めるのではないだろうか?米国でも、80年代後半から90年代前半にかけて盛んにsmart consumerということがいわれていた。以前から存在していた雑誌だが"Comsumer Reports”などに代表されるような徹底的な比較を米国人は好んでいた。Lexusが売れたのもこの背景からだと理解している。つまりは、「ベンツに準ずる性能とサービスを、日本車の価格で」ということが経済の第一線で活躍するビジネスパーソンたちには、"smart"な消費であると映った。そして、それはそのビジネスパーソンの人となりを非常に鮮烈に表現する消費でもあった。

    Consumer Reports Online

    お金はかければいい、という高度成長時代的な消費から、その人の能力やセンスを表現する消費への転換であった。もはや、消費はひとつの自己表現なのだ。

    しかるに日本においては、不況の時代が10年以上もつづいているのに、こうした文化の到来の影すらみえない。しかし、これから一種の諦念が日本人の間で定着し、あらたな形の生活の楽しみが再発見されるに違いない、いや、それしか楽しみがなくなると私は感じている。これから多分経済的には日本は決して成長しなくなるだろう。世界的なGDPのランキングでも坂をころげおちるようにさがっていくのだろう。政治的な状況も非常に迷走を重ねざるを得ないのだろう。高度成長時代的、量的、大きさ的、物質的、娑婆世界的な生活の楽しみはもはやのぞむらくもないのだ。

    そして、そうした非物質的な生活の楽しみが高度化すると新たな文化を生むのだと思う。ブログや2chを含むネット上のさまざまな言説もひとつの文化となりうる種があると感じる。Japanimationに代表されるオタク文化も、世界的に広がる文化となりつつあるようだ。

    そんな中で、いま、私がなんとかその足跡をたどりたいと思っているのが、茶の湯も、俳句も、当時なりに非常にオタッキーな人物がそのスタートにいたのだという仮説だ。この仮説を、松岡正剛氏のNHK講座を軸に分析していきたいと感じている。と、思いながらはてなグループまで作って、何人か参加してくださる方までつのってはや数ヶ月、まだ私個人としてキーワードを抽出したくらいでほとんどすすんでいない。反省!

    ・はてなグループ おもかげの国 うつろいの国

    と、いうことで"curated consumer"というのは、もしかすると新たな文化の仕掛け人、あらたな文化の発起人が生じつつあると言うひとつの査証かもしれないという気がする。

    また、ちょっと波を起こしたら、津波が襲ってきたとか、山口さんに言われてしまうかもしれないが、仮説だらけで勉強中の話題であるが、とにもかくにも現在私が一番関心を寄せている将来像に近い話を山口さんがしていらしたので、つい勢いにのって失礼かもしれない記事を書いてしまった。

    と、ここまで書いて、渡辺聡さんの元記事を読んだら、ちゃんと「千夜千冊」に触れている!しかも、どうも松岡正剛さんと親しくて記念パーティーにまで参加されていたという。なぁんか、今度のtalking nightが楽しみになってきた♪

    平成16年8月18日 「Curated Consumptionまたは、べき乗則」へのトラックバックにあたって...

    いつのまにか気がつくと渡辺聡さんに私の昔の記事をとりあげていただいていた。こんな風になるのは、まだ当分先かなとか思っていたので、いやどっちにしろ名誉なことでうれしい。

    段々、問題がしぼられてきているようにも思う。渡辺聡さんが記事の中で以下のように書いていらっしゃった。

     ・平準化はまず進行する
     ・が、適度なところで一旦止まる

    この辺が、本記事のコメントで同じくC-NETの書き手でいらっしゃるyujimさんと意見交換をさせていただいている部分が関連してくるような予感がある。

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    2004年8月 6日 (金)

    「ふじすえさんを飲む!」オフ会 リローデッド

    平成16年8月23日 → 平成16年8月24日

    りょうさんが、さっそく会の様子をレポートしてくださっています。「語録」力強いですね。

    ふじすえさんを飲む リローデッド  by りょうさん

    続いてPinaさんからもトラックバックをいただく。あー、書いちゃってますね。うふふ。

    ネットふるちん主義 @ 笑門来福

    本当にありがとうございました。

    ふじすえさんも写真などをあげてくださっていますね。紹介するのを忘れていました。うう、私の写真まで...

    オフ会、継続すべし by ふじすえさん

    をっと、高橋 修さんからもトラックバックをいただきました。ありがとうございます。

    ふじすえさんと飲む

    記憶違いをして、間違えたことを書いていました。お詫びいたします。 > キルゴアさん


    平成16年8月22日

    お陰様で昨晩は無事開催にこぎつけ、合計16名もの方々がご出席してくださいました。本当にありがとうございました。おいおい写真等も出てくると思いますが、まずは御礼をもうしあげます。

    <hr>

    平成16年8月12日 → 平成16年8月18日 修正

    ふじすえさんからのトラックバックもいただきましたし、早急に詳細をつめてここで発表します。とにかく確定していることは以下の通りです。

    → 遅くなりましたが、ようやく場所等確定できました。議員会館のふじすえさんのオフィス見学に伴い、時間を変更しております。誠にもうしわけございません。

    日時 : 8月21日(土) 19:00~21:00 → 18:00~20:00頃
    場所:
      お店の名前:四川料理 重慶府
      住所 : 港区赤坂4-2-5
      電話 : 03-5563-9243
      アクセス : 営団赤坂見附駅徒歩5分・一ツ木通り沿い。薮田ビル2F。
              Yahoo!地図
    会費 : コース料理+飲み放題=5,000円

    *参議院議員会館見学については、参加予定者の方には要領をメールでご通知いたしました。今後参加される方にも順じお送りします。

    参加予定の方 : ふじすえさん、miyakodaさん、くりおねさん、nimさん、キルゴア中佐Pinaさん、りょうさん、maida01さん、しょうがいげんきさん、ミヤタヘゲさん、もうお二方、ひでき

    例によって、御申し込みはコメントメールトラックバック等でお願いいたします。



    平成16年8月6日

    ふじすえさん、こんにちわ、

    ごぶさたしております。暑い日がつづいておりますが、国会ですでにご活躍のことと思います。

    さて、延期になっておりました「ふじすえさんを飲む!」OFF会ですが、そろそろ日付を決めたいと思っております。いかがでしょうか?もれ聞くところによりますと8月21日土曜日は、殺人的スケジュールの中でなんとか時間がとっていただけそうだとも伺っております。ブログつながりで気楽なOFF会としたいと考えております。興がのれば政治とネットとのかかわりや、今後ふじすえさんが目指される政策などのお話しなども伺えればと感じております。

    まだ、あの暑い選挙活動の藤末さんの最終演説の熱さが耳に残っております。

    ほんとうに暑い日々が続く中、お身体ご自愛くださいませ。

    ひでき

    追記 誠に勝手ですが、議員会館を見学するコースも企画中です。

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    2004年8月 5日 (木)

    この歌をあなたに聴かせたい

    040805_2201001.jpg
    マスターのブルース最高っす!すごい!
    パフォーマンスの愉楽。



    ちなみに、ここは某私鉄駅下車1分の「六調子」という焼酎のお店。このマスターのブルースがいい。カウンターひとつのお店で、PAもほんとに最小限のものしかないお店。でも、確実にそこにいた人たちは感動を共有して帰っていく。パフォーマンスの持つ不思議さ、柔軟さ。よいものを聞かせてもらった。

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    040805_1157001.jpg
    この写真だけで車種ってわかるものかは?


    いんやあ、びっくりしました。今日行ったところでこの写真をとったんですが、夜に自慢半分で仲間に見せたら見事あてられちゃいました。この曲線でわかるといっていたけど、そういうのってわかるもの???

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    2004年7月30日 (金)

    PDAとしての携帯電話

    この前記事で書いたようにPDAから携帯電話へ乗り換えた。その後、実務で使ってみた顛末を書きたい。少々、メーカー名等でてくるが、私はこれらのメーカーの回し者でもないし、広告費をもらっているわけでもないことを書いておく。まあ、もし万々一そういう申し出があればありがたく受け取る(笑)。

    日常の業務で議事録をつくったり、記事をアップしたりすることに先日の携帯電話用キーボードを使い始めた。携帯で入力できる文字とキーボード側の設定の問題がときどきおこる。また、文字切り替えで入力していない文字が出力されることもある。それでも、概ね具合はいい。携帯電話の候補の先読み機能と、漢字変換の進歩に目を見張った。

    Rboard for Keitai紹介記事一覧 こんなリンクはると、ほんとにメーカーの回し者と勘違いされそう...
    W21H @ AU by KDDI

    あれから、NTTコミュニケーションのinternetFAXサービスのメールアドレスを変更し、携帯電話から直接ファックスが送れるようにした。以前から使っていたが結構便利なサービスだ。出先で作った書類を出力するのに、喫茶室のファックスを借りて出力したなんて記憶もある。お取引さんのところへうかがったときに、出力して確認を求めるなんてこともしょっちゅうだった。iFAXでは、ワードやエクセルのファイルも本来出力可能なのだが、残念ながら私の携帯電話ではまだこれらのファイルを編集することはできない。一部で、閲覧はできるタイプがあるとは聞いている。どうしてもやりたければテキストファイルを一旦Yahoo!等のウェブでみれるメールかなにかに送って、そこでワードファイルに落としまた携帯に添付でおくりiFaxに送るという手は考えられるが、ネットカフェやKinko'sなどでの出力サービスを使ったほうがこれは早いだろう。

    internetFAX by NTTコミュニケーションズ

    そして、いまこの原稿を書くのと同時に処理がすすんでいるのが、予告したOutlookと携帯電話との連動だ。これはなかなかスムーズのようだ。ただ、なぜか誕生日が100年くらい先に化けてしまう現象があるように感じる。なぜだろうか?会社名や付加的な情報もまだ連動が上手くいっていない。もう少し調整の必要がある。それでも、PDAと同じかそれより楽にかつすばやく携帯電話にOutlookのアドレスデータ、スケジュールデータ、そして必要ならタスクまでシンクロ(共有化)できるのがうれしい。携帯電話側の入力も、PC側の入力もきちんとシンクロさせられていく。すばらしい。

    マイシンク・ビズ by CASIO

    写真もすこし使ってみている。ココログのモブログのメールアドレスも変更した「諸岡さん」の写真も携帯電話でとったものだ。まだ、つかいなれていなくてフラッシュなしで撮ってしまったので、かなりくらくなってしまった。しかし、解像度はかなりのものだ。あえてここに掲載しないが、携帯電話だけで画像の編集までできてしまう。果ては、携帯のサイトに掲示板風に自分のとった写真を掲載し、果てはその写真の現像まで依頼できるらしい。残念ながら、携帯からだけ共有して見れるようでPCからはアルバム自体にはアクセスできない。Yahoo Photoのがよいのかもしれない。

    EZメモリーポケットサービス

    そして、これらの機能が電話で話している最中でも使えるのがよい。イヤホンマイクでしゃべりながら携帯電話でスケジュールを入力するのが普通になりそうだ。道路交通法の改正にともない携帯電話をイヤホンマイクで使用するようになったし、ちょうどよいかもしれない。

    しかし、PHSから携帯電話に乗り換えて一番違和感があるのが、音声通話の明瞭さだ。PHSを使っていたときは、固定電話とほとんど変らない音質だった。しかし、いまは明確に携帯電話の音だとわかる。携帯電話でみれるウェブのサービスもADSLなみの数メガbpsのスピードが出ているにもかかわらず、音声側の帯域を増やし音質をあげるなどの努力が行われないのが最大の疑問となった。

    ■余談

    携帯電話のサブディスプレイに大きく「WIN」という文字がでている。これを手前に折りたたむ瞬間文字が逆になり、「NIM」と読めてしまう。この文字を見るたびに、あるかたの顔写真が....

    ■参照リンク

    携帯電話の進化 (HPO)

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    2004年7月28日 (水)

    諸岡さん

    040728_1947001.jpg

    またしても、飲んでます。諸岡さんと諸岡さんの奥さんと大竹さんとごいっしょしてます。


    フォロー 平成16年7月29日

    新たなる我が愛機、w21hをまだつかいこなせずくらい写真になってしまたので、修正版をつくった。諸岡さんいい男を台無しにしていてごめんなさい。

    しかし、メガピクセルを誇るだけでなく、編集機能からGPS付与まで機能があると下手なデジタルカメラは売れなくなるのではないかという気がしてくる。

    040728_1947001.jpg

    ■参照リンク
    携帯電話の進化 (HPO)

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    2004年7月24日 (土)

    携帯電話の進化

    シグマリオンがこわれてしまってから結構難儀していた。スケジュールがなんどか破綻しかけ、みるにみかねた同僚から、「俺がお前だったら、すぐにシグマリオン買いに行くぜ。」とまで言われてしまった。スケジュール管理の悪さでこれ以上迷惑をかけるわけにもいかず、さすがに真剣になった。

    ブログの上でも、D-mateさんやmaida01さんにご心配いただいた。(ありがとうございました。)ほかの要因もあるのだが、ブログの更新も極端に少なくなってしまった。

    いや、先日の記事を書いてからなにもしなかったわけではない。一応、NTT-DOCOMOの販売店へいってみてシグマリオンIIIの価格を聞いてみたりもした。なんと5万7千円もするのだという。だいぶ前に、生産中止が決まっていたらしく、以前は電気屋で4万円台で売っていたのが値上がりしてしまったらしい。ほかの家電店もいってみたのだが、シグマリオンの価格はかわらないし、さりとてほかに気にいったPDAもない。いっそラップトップにしようかとも思ったのだが、シグマリオンに馴れた私にはどうも重量と落として壊すリスクが気になって買う気になれなかった。なにより、今のラップトップで魅力的な機種がない。企業の商品開発力はいまはみな携帯電話にいってしまっているらしい。

    そう、気になるのは携帯電話なのだ。家電店を回っているうちに携帯電話がかなりすぐれたPDAにすでになっていることを発見した。携帯できる端末でアドレスとスケジュール管理ができればほとんど私の用は足りる。

    ただ、問題は、キーボードなのだ。実は文字ヲタクの私は、ある程度のスピードで入力することができないと、気持ちが悪くて仕方がない。「草とり」という記事は、実はPHSだけで書いたものだ。しかし、あれぐらいの長さがせいいっぱいだった。

    そこで、下の写真の状態になる。REUDOというメーカーから携帯向けの折り畳み式キーボードがでているのを、有楽町のビッグカメラで昨晩発見した。もうすぐその場で携帯とキーボードを買った(担当いただいた方、親切な対応ありがとうございました。)。かくして、いまこの記事は、携帯用キーボードで書いている。なかなか快適だ。心持ちシグマリオンのキーピッチより広い。ストロークの深さも悪くない。画面の編集もかなりやりやすい。気に入った。

    この記事続く。ただいま新幹線内。

    jul24_1039.jpg

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    2004年7月22日 (木)

    草とり

    子どものころ草とりを手伝わされるのがいやだった。鎌を使いながら、なんと非合理的な仕事かと思った。

    高校の現代国語で草とりと間引きを関連づけて論じた文章をならった。伸び過ぎた草や稲が引き抜かれるというような内容だった。日本のいやな部分と草とりが私のなかで結び付いた。

    妻と暮らすようになってから芝生の手入れは私の仕事になった。炎天下に頭をやかれながら草刈り機を使った。草とりは、家庭をたもつためのほんのすこしの労働であった。

    今、毎朝職場まわりのごみひろいと草とりをしている。道具はつかわない。ごみぶくろがあれば十分だ。草も茎の根元からつまむと根から小気味良いほどきれいにとれる。

    草とりは、ここで言葉にするのもはばかれるほどの毎日のちいさな習慣になった。それだけだ。

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    2004年7月14日 (水)

    ブログの森で語りあう

    偶然のようにさりげない、
    人とのやりとりがすきだ。
    偶然のなかの必然としか思えない、
    人とのつながりを確認する行動だけが、
    私を前にすすめてくれる。


    ■意味と価値の廃墟にたって..

    この暑さにやられてしまったのか、参議院選挙の結果が腑に落ちないからか、どうにもやる気がでてこない。本来目の前にある仕事に自分をイコール記号がつくくらいくっつけて、自分は仕事だ、仕事は自分だと、他のことはふりむきもしないで目いっぱい取り組むべきなのだ。が、どうも力がでない。

    エンデを20年ぶりくらいに読み直したのがいけなかったのだろうか?気持ちはすっかり学生にもどってしまったのだろうか?あの、恥じと無気力の中に立ち尽くすような学生時代に?

    先日、「オリーブの森で語り合う」という対談集を読んだ。この本は、「モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語」や「はてしない物語」で有名なエンデと、ドイツのエプラーという政治家、テヒルという女性の演劇芸術家の3人がイタリアにある当時のエンデの家で1982年に語り合った記録だ。学生のころに耽読したといえるくらいくりかえし、くりかえし読んだ本だった。

    ・「哲学者としてのミヒャエル・エンデ 彼の哲学 オリーブの森で語り合う」 by Miguelさん

    エンデは、1980年代の当時の政治経済の状況をメリーゴーランドにたとえていた。「メリーゴーランドは、どんどん加速していく。ちぎれとぶまで加速していく。誰もおりられない。」経済という市場の中でまわっていくためには、お金という数量ですべての価値がはかられる。実は、GDPの成長率というのも、この経済という市場においてまわっていくお金の速度がどれくらい加速したかということの指標なのだ。数量ではかれる価値観の中にいるかぎり、加速するメリーゴーランドからおりられないというのは、実はかなり透徹したアナーキズムだと感じる。エンデは、資本主義経済が根本的にまちがっていることを、マルクス主義に陥らずに直感的につかんでいた人なのだと感じた。

    実際、この加速するメリーゴーランドによって伝統的な価値を残していた社会はみるみる壊されていっている。べき乗則を持ち出すまでもなく、参加している組織の事情も含めて経済的な事情により、人が一生のうちで引越しをする回数はどんどん増えている。人は、引越しを繰り返すうちに自分の生まれ故郷に愛着をもなくなり、愛着のなくなった故郷の田舎はシャッター通りといわれるように商店街が崩壊していく。故郷への愛着を失った人々は、自分がほんとうによって立つべき根っこも失いがちだ。

    冷笑的なメディアと、仲間の批判的な言説と、誰にとっての価値なのかが失われてしまったすべてを量に変換する学校で教えられた思考で、人間が寄って立つべき存在の根拠は、その立場をうしなってしまった。そう、ちょうど「はてしない物語」でファンタージェンが「無」におかされて消えていくように。

    縮み時代の始まり--歴史の変曲点にきた日本を考える @ miyakodaさん 

    [書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ

    ああ、私はどうしてこんなに青臭いことを書いているのだろうか?こんな思考は学生のころに、思い出とともにとうに捨ててしまったはずなのに。

    それでも、社会が成り立っていくためにはよって立つべき意味をもった規範が必要だ。ファッションという流行でもいい。人に後ろ指さされなければいい。目の前で「ああ、そんなことしちゃあんた損しちゃうよ。」、「いまこちらがお得になっております」という、耳障りがよかったり、わるかったりする忠告にながされるのでもいい。「あんたはお人よしだといわれるのだけは、ごめんだ。うまくたちまわらなきゃ。」とつぶやきながら、生きていく。大体生きていくだけで信じられないくらいお金はかかる。誰にも否定されない価値を誰も見出せないのなら、成り行きにまかせて生きればいいと、誰もが感じてしまう。

    それでも、損得勘定というくらいお金ではかられる価値だけは、普遍的で絶対的だとみんあ感じている。ああ、私もそう感じている。なぜなら、お金だけは政府まで保証をしてくれる、だれもがその価値をみとめる、唯一の基準だからだ。誰もがお金をほしがっている。そして、そういう風に行動することをいまの文化と呼んでもいい、行動規範と呼んでもいい。

    生きていくためにお金が必要だったのに、お金のために生きていく人生になってしまう。苦痛がいやで常に得すること選んできたのに、苦痛をさけるための苦痛がたえられない苦痛になってしまった。

    ■意味ってなに?価値ってなに?文化ってなに?

    エンデは語りつづける。モモに出てくる時間の花がひとつ咲いては散り、ひとつ咲いては散るのは、「宇宙全体の働きかけでぼくらは一時間一時間をあたえられている」からなのだ、と。

    この前finalventさんに「ベルの不等式」という言葉を教えていただいた。この言葉をネットで調べているうちに、量子力学の解釈においてひとつの粒子の状態というのは「全時空で状態が与えられている」という解釈が可能だという記述に行き当たった。

    EPR相関は相対論に矛盾するか?  @ 科学の回廊

    アインシュタインの相対性理論も、量子力学も私には十分に理解できていない。それにしても、この「科学の回廊」のEPR相関の解釈は魅惑的だ。物理学の前提からはじめて、「世界がつながっている」、「時間の花」のような詩的な解釈に帰結する可能性があるなんて、すばらしいことだ。ブログをはじめてから、いやその少し前から、ほんとうに日常生活において起る出来事が、この記事にあるようなひとつの「状態」からとびだしたAとBという「粒子」のペアなのではないかと感じることが多くあった。不思議なくらいに人とシンクロをはじめている。ほんとうに不思議だ。偶然がこれだけ続くと考えるより、これはひとつの必然を示しているのだと考える方が私にとって自然だ。

    いま、明るく失望しつつある私にとって、必然としか感じられないような偶然がそこにあることだけが、意味を与えてくれるように感じる。神秘性を指向するわけではないが、自分が人とつながっていると感じる方が、自分がまったくの孤独であると感じる時よりも自分に意味を感じる。自分をかたちづくる物質もすべてとつながっていると感じる方が、自分が客観的ないしころからできていると信じるよりも、ずっと居心地よく生きていける。

    ■言葉と意味

    言葉は、いつも身体に追いつかない。言葉は、世界においつけない。

    いつぞやどこかでヘーゲルの「ミネルヴァのふくろうは夕暮れをまって飛び立つ」という言葉を引用したが、言葉が言葉を定義するのなら、人間の肉体はどこへいってしまうのだろうか?

    はなはだナイーブで無知な議論なのだが、身体をともなわない言葉に意味はないと考えている。なぜなら、言葉をぐつぐつにつめていくと、すべての言葉を数式にすることができるだろう。薔薇のエッセンスのように純粋に数式にまで煮詰められ、表現された言葉は命題と呼ばれる。命題には、意味はないと私は感じる。つまり、定理が決まれば、全ての可能な命題はおのずと決定される。すべての言葉は固定されているといってもいい。同時に、全ての命題の真偽は確定されている。そこには、公理系という境界が必ず存在する。前提となる公理が決まった瞬間、すべての展開がすでに決定されてしまう。

    だから、全てが決定され、固定されている世界には、人間は住めないのだと私は考える。なぜなら、人間は生まれた瞬間から死に向かって絶えず変化してく存在だからだ。硬く、固定した数式の世界には、あるいは数式を適当なあいまいさのオブラートでくるんだ言葉の世界には、変化はない。数式や言葉に、意味がある、変化が内包されている、そこ変化があると読み取るのは、変化する人間だけだ。数式も言葉も、いまあなたが読んでいるこの言葉にも、あなたが読む前にも読んだあとにも変化は生じない。言葉は、ほんとうに生きているのか?

    命題はいったいどこになるのだろうか?ミネルヴァのふくろうはどこにむかってとびたっていったのだろうか?

    それでも、不思議なことに、言葉によって人間は自分の生きる意味を確認するものだ。人は人の価値を言葉でつむぐものだ。たとえば、サイコロの目でなにがでるかは博打の問題で、これ自体に意味はない。しかし、私たちはえてしてサイコロの目の丁半に、自分の人生の方向を賭けたりする。意味のないサイコロの目に、意味を付与するのは人間の言葉だと思う。

    このことを逆に言えば、サイコロをふること、バランスをくずすこと、自分を前のめりにかたむけることによって、私たちは次の一歩を踏み出せる。一瞬たりとも隙をみせない、バランスを崩さないという人は、あるくことも走ることもできない。私たちはサイコロの目に自分の人生をかけている、常に。そう、いまこの記事を書いているこの瞬間も、私は自分のバランスを崩しながら自分を傾けている。

    それが、たとえ占いであれ、サイコロの目であれ、人間は人間をその身体のままで受け入れられない、残念なことに...。いつも言葉をお札のようにべたべたと身体にはりつけてしまう。生きているという現実だけを、生きているという身体だけを、みつけつづけられればいいのに、と感じる。生きているいまだけを感じ、生きている人間の身体だけを見つめられれば、そこにはじめて実感としての意味が生じるのだろう。

    ■文化、文化、文化

    エンデの言葉は続く。

    「政治家、労働組合、経営者の課題は、自由な空間をつくりだすことだ。一方、文学者や芸術家の課題はといえば、わかりきった話だが、その自由空間を満たすもののために、いろんなイメージをつくりあげることだ。」

    そして、私の疑問はここに帰着する。これだけ価値が破壊尽くされた後に、人は生きるための価値を自覚的に再度作り出すことが出来るのだろうか、ということだ。

    実は社会というのは、人々の集積体なのだし、もっといえばそこに集まる人たちがなにをよしとし、なにをわるいとするか、どう行動したら人から非難されないか、なにをその人が信じているか、というミクロな行動がマクロな社会の形をきめていく。人々がどのような文化的価値を基盤に行動しているかが、国をつくるのだと感じている。もっと目につくのは、自分がなにに価値を見出しているかがどんどん見えなくなってきていることだ。

    脳内現象 by 橋本大也さん

    ほんのちょっと前まで、人はごく普通に身体を使って生きていたのだと思う。そのころは、言葉がきちんと身体と結びついていて意味を持ちえたのかもしれない。言葉による意味は、私たちが身体の感覚を失ってしまえば、めっきがはがれるように失われてしまった。私たちは、貧困、空腹、鉄拳制裁が日常で、身体という感覚を失うことのなかった世代では問題にならなかったことを問題にしなければならない。

    佐世保の事件、あるいはネットで飛びかう言葉、現代人の身体感覚、「いま」と「からだ」を感じる場をうしなったがために形がゆがんでしまったように感じられてならない。

    「はてしない物語」のバスチアンは、全てをわすれなければ現実にもどってこれなかった。身体を感じるためには、言葉をすべて失わなければならないのか?

    価値だの、意味だのを問うことは実は、昼の日中にちょうちんをもって神をさがすようなものだ。ちょうちんをけせば、実はそこにあるものなのかもしれない。ほんとうは、探すこと自体が意味ないくらいに自分にくっついているものなのだ。自分と切り離すことのできない血肉が自分の意味だ。

    そう、きっといまそこにあるのは、ただ人間の身体だけ。

    こうして、世界はうまれかわっていく。そんな気がしてならない。

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    2004年7月 8日 (木)

    愛機の死

    名称:シグマリオンII
    認証番号:A01-0464JP
    製造者:日本電気

    jul08_1212.jpg

    シグマリオンが死んだ。悲しい。

    これまで幾多の戦闘(仕事)をかいくぐってきた忠実な戦友であり、昼も夜も仕事のときは常に私とともにあった。車の中、電車の中、事務所でも、出張でも、海外へでも、どこへでも私とともにあった。

    私の秘書であり、私の知人の多くを知り、私のプライベートもパブリックもスケジュールの全てを把握し、互いに励ましあってきた愛機。プロジェクト収支予想をし、書類を作成し、メールを送り、ファックスを送り、情報を蓄えわすれない。アポイントに遅れそうなときはやさしく報せてくれた。

    私のいくたの虐待にもめげず、階段から落とされても、つくえにたたきつけられても、雨にぬれても、いくたの修理に耐えてきたシグマリオン。

    本ブログの記事のかなりもこのシグマリオンで書いてきた。

    君のことはわすれない。ありがとう。

    ...

    さぁって、じゃあ次はどのPDAにしよっかな!

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    2004年6月26日 (土)

    「Blogを書くということ」

    山口浩さんから、私の記事にトラックバックをいただいた。これは、「例のネタ、カミングアウトしちゃえ!」という示唆だと受け取られせていただいた。以下、多少脚色をしてあるが、実際に起こった事件である。ちなみに、会社とは私が常勤の取締役を務めている会社を指す。

    続きを読む "「Blogを書くということ」"

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    2004年6月25日 (金)

    国生み ~がらんどうがあった~

    ぶんぶんさんのところへお邪魔して、ミーヤさんとコメントを交わして、ひさびさに昔のラボの活動について思い出した。

    いま、「国生み」のビデオをみながら、この記事を書いている。私が真剣に演じていた頃をビデオの中の彼らは思い出させてくれる。このビデオは、ラボの黒姫で演じられたと書いてあった。私が「国生み」に会ったのも黒姫だった。

    ううん、いま見るとちょっとひけちゃうかな?

    「国生み」は、C.W.ニコルさんやらくだこぶにさんが、古事記を現代の日本と英語におこしなおしたいくつかの物語のうちのひとつだ。イザナキとイザナミの美しい物語だ。これを「素語り」といって、ごく子供のころに一人で暗唱した。まだ英語をよく理解していない時期だったので、英語をそのまま音で覚えた。ずいぶんたってから暗唱しなおしてみて、初めて自分が英語の意味をとれることを発見してびっくりした。言葉はやはり音だ。

    ラボをご存知でない方が多いと思う。これは、ごく幼児から高校生くらいまでを対象にした語学教育プログラムだ。いまではCDになってしまったようだが、以前は特殊な8トラックのような英語や日本語などの科白がはいっているテープを使っていた。このテープを繰り返し繰り返し聞いて、繰り返し繰り返し自分で話して、集団で芝居のような形で表現する。英語やフランス語などを語学としてでなく、マザータングというのだろうか、ネイティブの子供が習い覚えるようにまねることで習う。

    私は、このプログラムで、英国のナーサリーライムや、米国のフォークソング、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」、マーク・トウェインの「トム・ソーヤー」などを覚えた。ああ、なによりも芝居する、パフォーマンスする喜びを初めて感じた。これが、後に高校で芝居にはまるきっかけとなった。

    演じる喜びというのがある。その瞬間にしか存在しないパフォーマンス。決まった形をまねをしながら、かぎりなく自分を表現する。おさえた動作で、深い怒りをあらわす。熱狂しながら冷静に計算する。観客と一体となりながら、かぎりなく孤独に演じる。異なる要素をそのままかけねなしで、一切ディスカウントしないで、一体とする。それが、芝居のすばらしさだと感じる。

    もとに戻るが、なにも切り捨てることなく、言葉を伝えようとするラボの努力がいまも好きだ。

    ■参照リンク
    ・ラボ公式サイト
    ぶんぶんの落とし穴 by ぶんぶんさん

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    2004年6月19日 (土)

    篠塚さん

    jun19_21450.jpg
    本人の希望により目線をいれました。

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    2004年5月21日 (金)

    miyakodaさん

    のんでます。
    最近、のみ多いです。でも、なにかがすすんでいます。小石はなげなきゃいけません。
    may21_2053.jpg


    翌日0:40

    うーん、「小石もなげなきゃあたりません」かな?

    今日は、楽しかった。ちょっとわるだくみの打ち合わせだったのだが(近日公開予定)、いつのまにか、当初の目的そっちのけで、話してしまった。miyakodaさんとは、ほんとうに初対面とは思えない盛り上がりだった。nimさんとのジョハリの窓の話しで帰り道盛り上がった(その先まで含めてぜひ書いてください!)。やっぱり、ブログは人と人とつなぐ道具として、すばらしい。今日はとてつもなく衝撃の発見もあったし、気持ちよく眠れそう。記事を校正するのは明日まわし。「今日のことは今日にてたれり」うーん、いい言葉だ。あ、日がいつのまにか変ってるって?

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    2004年5月19日 (水)

    大竹さん

    may19_2045.jpg
    一緒に飲んでます。
    昼間は今日はゴルフでした。
    たまにはの、ひさびさの、お気楽極楽な一日。


    今日は、年に何回もないおつきあいゴルフだった。ゴルフもまじめにやると面白いね。ブービーメーカーだったけど...

    なんというか、打って距離がわかる、とか、勝ちをねらいにいくから崩れるのでなく、勝ちをねらうと、自分の気持ちが乱れるから、崩れるんだ、とか、ゴルフを行動して、はじめていろいろなことに気付く。

    自分としては、下手は下手なりに、ただただ息を吐いて、吐いて、吐ききったときに、息をとめて、スィングするということだけに集中した。不思議と、今日は気持ちが乱れなかった。もしかすると、メンバーに恵まれたかもしれない。

    あ、でも、あとで、これをブログにかかなきゃ、とか考えた瞬間にスィングは乱れた。そんなもんだね、きっと。

    ■参照リンク
    [書評]ゴルフと人生 「バガーヴァンスの伝説」 (HPO)

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    2004年5月17日 (月)

    今日聞いたおとぎ話(習作)

    私の事務所に遊びにきたお姉さんから、こんな話を聞いた。


    昔々あるまきばに600匹の羊がいた。羊たちは、白い絵の具をぬって白い羊毛をはやすことになっていた。羊たちは実は3つのグループに分かれていた。飼い主に素直な羊たちと、飼い主のいうことをきかない羊たちと、飼い主の手先の羊たちだった。

    最初のグループの羊たちは、「白くぬれ」というおふだがでると、それだけで自分たちをお互いに白くぬりあい、97.5%までの羊は白くなった。そして、温かそうな羊毛を生やした。「冬が来ても、羊毛をうればいいよね」といいあって、ちくちくする白い絵の具を我慢していた。

    2番目のグループの羊たちは、自由が好きで自由な羊になったので、飼い主のいうことをきかなかった。だから、白くぬった羊は、ほんのすこしだった。でも、自由があったので、ちょっと変わった色の絵の具をぬって、ちょっと変わった色の羊毛をいっぱい生やした。でも、変わった色の羊毛は、飼い主が喜ばなかったので、みな冬が来るまえに刈られて捨てられてしまった。

    手先になった羊たちは、飼い主がなにをいいたいのか、ほかの羊たちにどう白くぬったらいいのか決める事が出来たので、おなじ白でも、飼い主にばれないように、灰色だの、クリーム色だの、自分たちの勝手な白っぽい色をぬり、自分たちでほめあった。でも、勝手な色だったので、羊毛はなかなか生えてこなかった。

    春の内は、3種類の羊がみんななかよく草をはむことができた。でも、秋が来て、冬が来て、だんだん草が食べられなくなってきた。飼い主は、羊毛を刈り取って、羊毛を売って草を買おうとした。しかし、本当に必要な羊毛のいつのまにか3分の1しか刈り取ることができなかった。3分の1の羊毛では、みんなが食べる事はできなかったので、羊たちはみな飢えて死んでしまった。飼い主に忠実だった羊たちも、飼い主から自由だった羊たちも、飼い主の手先になった羊たちも、冬をこすことはできなかった。飼い主もどこかへいってしまった。

    そして、誰もいなくなったまきばに黒い羊たちがやってきた。


    不思議な話だった。

    彼女は続けた。

    「まだ、ちょっと聞いてほしいんだけどね。こんな算数は解けるかな?全体の40%の羊は色を白くぬっていません。そのうち3分の2の羊は、ほぼみんな色を白くぬっていません。では、残りの3分の1の羊の内で、白く塗っているのは、なん%になるでしょうか?」

    私は、考え込んでしまった。


    ■追記 (平成16年5月23日

    本「おとぎ話」は、いかようにも解釈いただければ幸いですが、私としてどのような意思でこの記事を書いたかは、コメントをごらんください。その上で、ハーデスさんが、「人もすなる年金」という記事に、コメントをくださいました。この「寓話」のモチーフが正確でない部分があるようです。必ず、ご一読ください。

    ■追記の追記 (平成16年6月3日

    この記事を読んで下さった方、もうしわけございません。勘違いしておりました。以下にリンクしてある毎日新聞の記事にあるように国民年金の1号被保険者の加入率が52.7%だということです。全体の7,000万人の加入率ではなかったので、さすがに厚生年金、共済以外の加入者がほとんど0ということではない、そうです。小泉首相ではありませんが、自分の不明を恥じます。

    <国民年金>免除者加えた未納率47% 02年度 [ 05月27日 20時39分 ]

    とんでもないことを書いてしまったと思いますが、自分の「臥薪嘗胆」とするため、あえてこのままとさせてください。

    ■参照リンク
    国の年金制度の基礎知識 by 石津 史子さん (非常にわかりやすいです。はじめてちょっと納得できました。)

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    2004年5月13日 (木)

    あなたは誰?

    ■天使のたまご

    ネットの上の匿名性という問題がどうも理解できない。理解できなくて、いろいろ考えているうちに、とめどなく連想が膨れていっている。連想しているうちに、押井守監督の「天使のたまご」というアニメーション映画がうかんで、あたまから離れない。

    たまごをだきながら、孤独に生きている少女がいる。ある日、戦車にのって来た少年と少女は出会った。少女は少年に何度も問いかける、「あなたはだぁれ?」。少年は決して答えない。答えないままに、しばらく時をともにすごす。しかし、少年は少女のたまごを割って、立ち去っていく。この少女がだれだったのか、この少年がの名前がなんだったのか、いまだに私にはわからない。押井守さんのことだから、深い隠喩と理由があって、少年はこういう行動をしたのだろう。それとも、もっと深読みしてしまえば、少年があらわれたことも、たまごを割ってしまったこともなんの意味もない、と押井さんはいいたかったのだろうか?(*1)

    意味があろうが、なかろうが、私にはこの少女の「あなたはだぁれ?」というセリフが耳に残って離れない。

    匿名であるということはなんなのか?

    とく‐めい【匿名】: @ 大辞泉
    自分の名前を隠して知らせないこと。また、本名を隠してペンネームなどの別名をつかうこと。「―で投書する」「―批評」

    私の感覚では、匿名ということは、「あなたはだれ?」という問いを無視することだ。しかし、「あなたはだれ?」という問いに答えられて初めて、価値、情報の交換がはじまると私はこれまで信じてきた。

    いや、ちがう、きっとちがう。こう書いてから、ネットの上の匿名性があったとしても、「あなたはだれ?」という問いに答えられないということはない、と気づいた。逮捕されたWinnyの開発者の方も「47氏」というコードネームは少なくとも持っていたと聞く。コードネームが認められていたということは、ネットにつながる周囲の人格が「Winnyを作成し、改訂し、いくつかの機会に自己主張をしている47氏」という人格を認めれていたということだ。認めればこそ、Winnyを使用した。また、少なくとも一部のユーザーは、47氏の主張を理解した上で、Winnyを使ったのであろう。あるいは、WinnyとWinnyを使う人を含めて、ミームといってもいい47氏の人格の一部がネットで増殖したのだ、と記述してもいい。

    つまりは、47氏が自己主張をして読まれる、あるいは、Winnyが使用されている、そういう現象が、存在するなら、「あなたはだれ?」という問いに匿名でも答えられているといことだ。

    ネット上であれ、リアルであれ、存在するものには、すべて他者との関係がある。そして、その関係には、信頼あるいは非信頼という属性がその付与されている。最低限の信頼、たとえば、「特定のサイトにリンクされているWinnyのファイルには、「なりすまし」や「ウィルス」などでなく47氏というネット上の人格が作った、ファイル共有の機能を果すプログラムをインストールできる。」という期待を満たすであろう信頼は、すくなくとも「47氏」というネット上のコードネームとWinnyの使用者との関係に付与されていたと類推する。

    そっか、匿名性の問題と信頼性の問題は、別の問題なんだな。ちょっと自己納得。

    ここまできて、47氏という名前をネットでみたとき、ほんとうにいつもの47氏であったのか、という連続性、同一性が問題になる。ネットの上で、アナーキーな状況がどこまですすんでいるのか、私にはわからないが、匿名性を確保していたとしても、ひとつの人格の同一性の問題は確保していたのだと、推測する。匿名性と同一性の問題も別の問題ということだ。「47氏」は「47氏」だし、私は私、あなたはあなた、そして、Winnyの使用者はWinnyの使用者。やっぱり、「あなたはだぁれ?」に程度の差はあれ、答えられる。

    同一性の問題は、もっと立ち入るべき問題であるが、なりすましの問題をふくめ、ちょっと脇においておく。ただ、「47氏」が「47氏」であることのごく実用的な証明というのは、ネット上では大きな問題になるのだろう。そして、それは著作権やクリエイティブ・コモンズなどの問題へとつながっていくのだろう。

    ■ネットの上での信頼性

    「地の塩の塩辛くなければ」 @ 新約聖書 マルコ第9章50節

    ネットの上で、あるいはネットの外で、匿名性はあって同一性も確保されているのだということを前提にすれば、次の問題は、信頼性の程度、レベルの問題だ。「あなたはだぁれ?」の次の質問は、「地の塩はどれだけ塩辛いか?(塩辛いと期待できるか?)」になる。

    塩辛さを体感するためには、逆の状態から考えたほうがわかりやすい。では、信頼が全く失われている状態では、人はどう行動するか?

    ・ネット上の情報を信用できない。ネットで匿名で書いてあることはすべて信じられない。使えない。
    ・Yahooなどのアクセスの大きなサイトでも、なりすましなどがあるかもしれない。
    ・ファイルをダウンロードして使うなんてもってのほか。ネット上で配布されているファイルなど、使えないか、使えてもウィルスが入っている。
    ・ネットは悪意に満ちているから、常時接続なんてもってのほか。PCに進入されてめちゃくちゃにされてしまう。
    ・メールが来ても信じられない。なりすましかもしれない。"Undeliverd Mail"まで偽造される昨今だからメールはみんなウィルスに感染している。

    つまりには、ネットに接続できなくなっていまう。

    逆にいえば、いまあなたがこの記事を読んでくださっているという時点で、最低限の信頼をネットにおいているし、ココログにおいているし、HPOというサイトにおいているし、ひできという人格においている、ということになる(ありがとうございます!)。

    この信頼をというものが、つまりは相手が自分の期待にこの程度まで答えてくれるだろうという想い、深まれば、交換する価値や情報が量的にもふえ、質的にも深まっていく、ネットワークが生まれていく。

    匿名な場においても、うまれてくる信頼とは、当初は機能性の期待だ。たとえば、この記事は、この程度の満足を自分にあたえてくれる、このプログラムはこういう機能を果たしてくれる。記事、プログラムなどの単体への信頼性がプライマリー。これがすすむと、機能性の次への期待になる。これからかかれる記事もきっとおもしろいだろう、次の修正もきっと使用感がよくなるだろう、等、先へ期待できるというレベルに進む。これが満たされれば、その人格自体を信頼するといことへきっと進むのだと感じる。

    ■2つの出会い、1つの小さな与信

    電車の中でこの記事を書いてたのだが、電車にのるまえ、ホームのベンチでとなりに座ったご婦人から声をかけられた。「(私の親族)にお世話になっています。」自分の住む街の方だった。前にも書いたが、電車で移動するとき、よくこういう偶然のような出会いをする。なんだかんだいっても、自分が地域の社会の一員だったのだな、と自分を認識する瞬間だ。

    この前、深夜に、ネットの上での偶然の出会いがあった。約束があるので、詳しく書けないが、もうネットを切って帰ろうとしたときに、ほんのちょっとしたいたずらごころで検索したら、自分の「鏡」があらわれた。「攻殻機動隊2」での鏡の罠のような、自分の分身とであったような、不思議な出会いだった。ネットはせまい。

    ネットで出会った方と最近リアルでよく会う。いくつかリアルな出会いに発展してくご連絡をいただいたりしている。ああ、nimさんとの出会いはいわずもがなだ。また、昔の友人との交流がこのブログを初めてから活性化してきた。とてもうれしい。

    私は、こういう自分と人とのつながり確認する、あるいは、自分が人から信頼されるということが好きだ。ネットの上の匿名性の世界でも、つながる、信頼が生まれる、ということは常に起こっている、そう確信する。

    ああ、もっともこのスパムメールやウィルスの話を聞くとこの確信もゆらいでしまいそうだ。

    ■追記(当日 22:55)
    「週間!木村剛」の「モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために」を読んだ。書くことの責任について、強調されていた。自分もすこしまえにディスクレイマーをこのサイトにつけた。ただ、ディスクレイマーといっても自分が語ったことを、自分以外の会社、団体、個人のと妙に関連付けて欲しくないからつけた。そもそもこのサイトのタイトルは「個人的な意見」である。自分を自分の所属する組織から切り離して、言動してみたいというのがそもそもの開設の動機である。それを自分に戒めるために、ディスクレイマーをつけた。1999年にサイトを開いたときにこう書いた。

    「文章を書くというのは悦楽だ。うまい下手ではない。(中略)ましてや、会社やしがらみから解放されて何をかを主張するということはついぞないことだった。純粋に楽しい。」

    ■追記 (平成16年5月15日午前1:48)

    「餅Trap~ねばねば~」さんからトラックバックをいただいていた。記事を読ませていただいて、P.K.ディックの小説を思い出した。タイトルを失念してしまったのだが、そこには、常に違う人の容貌が浮かんでくる隠れ蓑(熱光学迷彩?)をかぶった刑事というのがでてきた。常に変わっていくので、決して同一人物であると特定することができない人格に、人には認識される、と。そういう、認識をもたれたいと感じる人格もあるのかもしれない。


    ■注
    *1
    アマゾンの「天使のたまご」の今日現在のコメントはなかなか秀逸だ。それにもまして、このほんとに一歩間違うと寝てしまうような作品がアマゾンで、売上ランキング2,534位ってどういうこと!?

    ■参照リンク
    Freenet バージョン0.5がリリース〜“第二のインターネット”を試みる by 青木 大我さん
    ・「47氏逮捕」 @ Wikiroom 
    ・「クリエイティブコモンズ紹介フラッシュ」 by Creative Commons
    「見えない自由がほしくて、見えない銃をうちまくる -ネット上の貨幣としての認知にインフレーションは来るのか?- 」 (HPO)
    ウェブログと密告社会の蜜月 by 引佐龍成さん
    実名/顕名/匿名の得失 by Shinさん (ギモンに思ってきたことが、大分解決しました。ありがとうございます。
    [書評]An Analysis of Virtual Currencies in Online Games  (HPO)
    匿名報道論争のまとめ @ FIFTH EDITION

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    2004年5月 4日 (火)

    フクヤマ=ヘーゲル的水泳教授法

    5/4 PM モブログ
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    我が息子に水泳を教える。フクヤマ=ヘーゲル的に気概と認知を満足させる教授方法をとったところ写真のように補助付きとはいえ、25mプール泳破!3往復達成!ちなみに彼はまだ4才。



    フォロー
    ちょっと、おふざけに聞えるかもしれないが、4歳であっても人間である以上、人の関心、認知をひきたいという願望はすでにあるだろう。ちょうど、近くに少し上の男の子が泳いでいるのをまず見せ(対等願望)、「浮き」をつければ身体が十分に水に浮く事を実感させ(生存欲の安定)、少しずつ距離を伸ばしながら目的をあたえ25mを泳ぎ終わった時に、少し上の男の子も泳ぎきらなかったその距離を実感させた(優越願望)。あとは、もう私がなにをしなくとも、自分で125mあまりを泳いだ。私が手を出そうとすると、「手を出さないで!」と言われてしまったほどだ。
    それはマズローだろうとか、コーチング理論だとか、フクヤマ=ヘーゲルは国家、社会を対象にしているとか、異論が飛んできそうだが、個人の中に内在するものが社会、国家に影響を与えている相互作用の関係にあると私は信じているので、これはこれでよいとしたい(してください!)。

    ■参照リンク
    3才児、唄う by 本多ラダさん
    どうやって子どもに死を教えるか? by Dainさん
    ああ、大きくなったあと感じる時 by 管理人のおねーさん
    おみやげ by marukenさん
    米兵は「最後の人間」か? (HPO)
    始まりの戦いと歴史の終り (HPO)

    いやあ、しかし、もう三歳、四歳になれば何でも出来るんですね。あはは、自分がいかに親バカなだけかよぉくわかりました。

    ■「じゃんばらや:09いまどきの子どもたち」へのトラックバックにあたって 平成16年8月21日

    くりおねさん達があたらしい試みをされるという。さすがタイムリー!と感じる。なぜなら、これから子どもたちをどう育てていくかが間違いなく、未来を作ることだからだ。またあらためて試算を示したいと感じているが、子どもたちをどう育てるかの「投資」が世界で一番自分にとっての「利回り」が高いと感じている。いや仮に「利」が自分に返ってこなくとも、きっと世の中にいささかでも役に立つようにそだってくれるのであれば、自分がめいっぱい子ども達にこれからの生きる道、生きるすべを示すことに意義があると感じる。

    ■「努力は人を裏切らない」(riroさん)へのトラックバックにあたって 平成16年8月26日

    非常に共鳴させていただいた。子供というのは、実はちょっとしたきっかけで自分に自身をもって先へ進んでいくものだ。先日、こう書いた。

    シンデレラ城のミステリーツアーで子どもがヒーローメダルをいただいた。かなり彼は緊張していたが、かなりうれしかったようだ。人はたとえシュミレーションであっても、何事かを達成する度に成長していく。不思議なものだ。

    riroさん、今後ともよろしくお願いいたします!

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    2004年4月25日 (日)

    魔女たちとの日曜

    ピッチからの投稿
    apr25_1212.jpg
    今日は御縁のあるかたの手芸のサークルの展示会におじゃましました。トールペインティング、パッチワーク、陶芸、園芸など実に多彩で、できばえもよくプロはだしの作品がめじろおしでした。私のように手先の不器用なものにとってはまさに魔女がまほうを使ったとしか思えないほどです。



    当日 18:50 フォロー

    今日は、ひさしぶりに文化的な午後だった。昼まえに展示会、午後は市民コンサート。展示会は、前述の通り。午後のコンサートは全然期待していなかったにもかかわらず、よかった。今回の指揮者はオーケストラのパートの最高のパフォーマンスを引き出していたように感じる。

    いずれのイベントも経済的な欲求、人間の生存欲求というだけでは、決して説明できない行為だ。どちらも手間ばかりかかって現代の日本では決して採算はとれない。それでも、展示会を実行した手芸サークルの女性達にしろ、市民オーケストラに参加している方々にしろ、本当に真剣にイベントに臨んでいた。これもフランシス・フクヤマの言う気概の一端なのだろうか。どちらも、私には認知を求める欲求の手ごたえがあるように感じらる。

    人間の活動の経済的でないすべてのことは、単に再生産のために必要なのではない。我々は疲れをいやして、再度クリエイティブになって、労働にのぞむためだけに文化的な活動をするのでは決してない。認知を求めるために、差異をつくること。自分のベストを尽くし、命をかけて闘い勝ち取る認知の価値というのは、どれほどのものなのだろうか?

    気概、そして、個別化、個性化、これらの経済的・生存欲求的なものだけでは説明できないのものが、文化であろう。リクリエーション、レジャーというのは、再生産のためだけにある、なんていったやつは豆腐にあたまぶつけちまえ。

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    2004年4月23日 (金)

    nimさん

    apr23_2349.jpg
    nimさんと飲みました。たのしかったです。


    翌日9:26

    いやあ、いろいろなお話ができました。深いですよね、広いですよね、微妙ですよね。リアルでお会いするのが初めてだとは思えないくらいでした。

    次は、ふじすえさんを誘おう!と怪気炎をあげておりました。

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    2004年4月21日 (水)

    男と女

    電車の乗り換えの時に(幸い下りの階段だった)、前を姿のよい女性があるいていた。そして、叫びそうになった。

    おれは女がすきだぁ!女がすきでなにが悪い!

    決して某ミラーマンさんを擁護しようという意図で書くのでない。自分を卑下して表現するために書くのでない。女が好きだと認めることと、社会的にゆるされないことをすることは別なことだ。ただ、男は女を見ていたいし、近づきたいし、できれば触れたいと感じていることが自然だといいたい。はなはだナイーブな話だが、女の側でも、同様に男の声を聞きたいし、近づきたいし、いっしょにいたいと思っているということを発見した時は、私の世界がひっくり返った。ついこの間まで女性にはそうした欲望がないか、あってもかかすかだと信じていた。まあ、若いころの私は本当にナイーブだったのだ。

    もう20年近く前、田舎の学校を出て東京へ出てきて自分で稼ぎだしたばかりのころに、廻りの女性に聞いた。「セクシーだと言われるのってほめことばだと思う?」私が聞いた限りの女性全員がノーと答えた。多くの女性は、服装などでセクシーだと言われるのは侮辱だと答えた。あ、海外は違うんだなとおもったのは、10年前に、ある台湾系アメリカ人(いやアメリカ系台湾人かな)の女性に"Do I look sexy?"と聞かれた時だ。米国の価値観では、セクシーというのは美しいに次ぐくらいほめことばらしい。彼女に言わせると、「見られる喜び」というのがあるのだそうだ。

    学校で、ある教授が、30年前からある女子大で教えていて、田中ビネーだかの性格検査を毎年クラスで実施してきたと言っていた。その教授の継続的な性格類型診断結果によると、30年前にはひとクラスには必ず超内向性という女性が数パーセントいて、7割くらいまでが内向性の性格を示していたという。それが、近年では7割が外向性で超内向性の女性は完全にいなくなったと言っていた。この話すらももう20年前の話なので、女性の性格類型のトレンドはもっと先をいっているに違いない。

    最近、私の廻りにいる日本の女性は、若い男性の裸をみて平気で、「おいしい」とかいう。彼女たちによると、「観賞用の男」というのが存在するそうだ。女性雑誌の表紙を若い男の半裸のグラビアが飾ることも少なくないようだ。何でも仮面ライダーの人気の一端は、非常に見た目のよい若い男性をキャラクターにそろえたからだと言う。セクシーと見られることは...どうだろう、さすがにもう年なので若い女性に前と同じ質問をすることははばかられている。

    いや、いささか(いっぱい?)女性について少々不公平な話になってしまった。もっと男の側の暴露話をした方がまだましだったかもしれない。言いたかったのは、ことほどさように男と女の間に惹きあう力があり、そして、それはごく自然なものであるということだ。男は女に惹かれる、女は男に惹かれる、それは、アニムスでもなんでもいい、なにかしら男性的なものが一方にあり、他方にアニマ、女性的なものがあるからだと感じる。それを隠すから、ゆがめようとするから、人類はエデンを追放されてしまった。

    いや、そんな小難しい話は脇において、あなたもさけんでみませんか?

    私は、女が(男が)好きだ!女に(男に)ここにいてほしい!

    Love is touch! Touch is love!

    ああ、またまたジョン・レノンになってしまった。やれやれ。

    ■参照リンク
    Rick's Bar: 『男と女の<愛>言葉』
    灰色書庫: 男の市場価値とは?
    男と女の戦略と戦術 by yuuさん
    女の言う「生理的に受け付けない男」の正体 by Dainさん
    Love Mystery
    フト オモフ by すみれさん 
    そこ、そこをクリックしてくれ! (HPO)
    [書評] ファウスト、最期の科白 (HPO) 特にit1127さんとのコメントのやりとりをご覧ください。
    [恋愛試論] かわいそうだったぁ、ほれたってことよ。 (HPO)

    ハルコさんの「男女間の友情」からトラックバックをいただく
    平成16年9月5日
    実は、この話題は私にとってとても懐かしい話題です。思い返せば、いまから20年ほど前大学に入ったばかりの頃これについては激論を交わしました。割といろいろな地域から来ている学生が多かったせいか、それぞれ地元に彼氏彼女を残してきていたりして、それでも大学生にもなればクラスの友達やら部活の友達やらと交流しなければならず、近くにいれば仲良くもなるわけであり、その辺で異性間交流の距離をみんなとりかねていたのだと思います。

    正直にいって、結構規律の厳しい高校から一気に自由な世界に解放され少々調子を崩していた当時の私には男女間の友情は考えられませんでした。もう、なんというか「さかり」がついていたんですね、きっと。詳細はあまりに恥ずかしいので書きません。

    でも、いまならお互いに(いや、一方的かな?)に魅力を感じている間柄でも友情を保つことは十分に可能だと感じております。好意を感じる度合いがお互いにアンバランスになったりすることがあっても、いろいろなことを経験させていただき人と人との間で適度な距離を保つことを覚えたのかもしれません。少々ずるくなったのかもしれません。いずれにせよ、いい加減に分別盛の年にもなれば十分に恋愛でない友情チックな、でもちょっとだけ惹かれあうところがあるようなそんな関係を相手によっては構築できるような気がします。

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    2004年4月20日 (火)

    「帰ってきたアクセス向上委員会」 に参加しています!

    2apr20_1935.jpg
    19:42
    あいかわらず、ミーハーな私は、「帰ってきたアクセス向上委員会」に参加中です。 なかなか満席です。すごいですね。 いま「ぐりー」の田中さんがお話しされています。 詳しくは家に帰ってから書きます。

    (ここまでPHSSigmarionIIで書いてSigmarionIIPHSで送った記事です。)


    0:30過ぎ

    事務所までもどってきました。遠い...やっぱり田舎にいると東京に出て行くのがつらいっす。

    しかし、若い人ばかりで圧倒されてしまいました。ネットでがんばっていらっしゃる姿勢が痛いほど伝わってきて、一応自分も商売をするものとして通じるものがありましたね。在庫や人員を抱えざるを得ない展開をされていて「重い商売だ」とおっしゃっていた方がいらっしゃいました。

    後半のパネルディスカッションのメンバーさんは以下の通りです。自分のメモがわりにここにリンクをはれるだけはります。

    ・Niftyのココログ担当:伊藤さん(私もココログユーザですのでよろしくお願いいたします!)
    オールアバウトジャパン 他: 相原りささん(あ、リクルートなんだ!納得!)
    @cosme: 吉松さん(ちゃっかり隣に座らせていただきました。)
    たのみこむ: 内田さん(世界最速のサイコロ素敵です)
    カフェグローブ: 村田さん(ちゃんと妻には紹介します。)

    あ、つうかリストありましたね。Wiki版(?)リスト発見!

    しかし、私は商売モードだとほぼ一日しゃべりまくっていることも珍しくないのに、ブログ関連だとどうしてこう無口になってしまうのでしょう...自分で不思議です。


    21日 10:58

    アクセス向上のため(笑)、自分がブログについて書いた記事へのリンクをはります。なんでも、おそわったことは実行、実行、すぐ実行!

    草薙素子か、エージェントスミスか?
    ブログとマインドマップとiEdit
    世の中狭い
    ブログとネットワークの知
    情報装置としてのブログ
    KJ法とブログ
    リアルタイム
    大脳とココログ


    21日 17:00

    現在、都内某所で仕事をしています。さっき、昨晩の「会議」の話題でもりあがっていたのですが、ここは昨晩お会いした方の知り合いのオフィスで、お見えになったこともあるようです。いやあ、世の中狭いですね。オフィス内で一気に「会議」の話になり盛り上がった。百式の田口さんがもう好青年を絵に書いたようなルックスで...とか語ったら、みんなその事実を知っていたのには驚きました。相原さんの話をもちだせば、すぐに「リクルートのグルメガイドでしょ」とか返ってくる。これは、ほんとうに自分の年代から下でネットがあたりまえになった、生活の一部になった常識というのが形成されているらしいですね。


    21日 21:20

    ここで、ちょっと口調を変える。しかし、いつもサイトを愛読させていただいている橋本大也さんなどの若いのにも驚いたが、ウケる技研の水野さんのように8万部のベストセラーを書いていたり、なにかやることをやっているなという感じがした。生意気になことかもしれないが、多くのアクセスを集めている個人サイトやヴェンチャーのサイトが商売の基本に忠実にやっていらっしゃるということがよく感じられた。「今日まで続いてきたことが一番うれしいことだ」とは、なかなかいえない。涙が出そうだった。

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    まねぶ

    たぶん、私の人生はこれまでひとまねの人生だった。こう書いている、このブログ自体がそうだ。失礼になるかもしれないので、あえて名前をあげないが、ほんとうにブログ上の何人かの方々のサイトから文体から、書き方から、スタイルまで、きっとまねをしている。あまりに下手なまねなので、たぶん、その方たちは、「へっ」とか思いながら、笑っていらっしゃるのだろう(ことを希望してます!よろしくお願いします!)。

    こんなひとまねもある。最近、ある人の字をまねて書こうとした。漢字とひらがな大きさ、あるいはタテとヨコの線の傾き、文字の太さなど、懸命にまねしようとした。しかし、結果はほんとうにひどいまねになってしまった。一つ一つの線をまねようとすれば、全体のバランスがとれない。全体のながれ見れば、一つ一つの文字は全然似ていない。線をトレースすることで、なんとかその方の行動をトレースしたかったのだが、ものまねなんてそんな結果に終わることばかりだ。

    今日、たまたま接することのあった文章で、人への気持ちというのがあった。自分が誰かに会えば、自分のこころに必ずその人が及ぼす感情の影がゆれる。肯定的な気持ちもあるだろう、こんちくしょうという気持ちになることもある、ああそう、その人に近づきたいと感じることもある。それらの感情を素直に認めようというのが、その文章の主題だった。この文章を読んで思い出したのは、エンカウンターグループでよく使われる技法だった。前段にいろいろなエクソサイズがあるのだが、エクソサイズで一定の信頼しあえる関係になって、二人一組になる。そして、一方がいすにすわる。立っている方の一人が、いすにすわっているパートナーを、自分に関係の深い特定のだれかだと思い、こころにあることを吐き出す。次に、逆に、いすに座っている人に自分自身の役になってもらい、自分は今度は自分の思いがある特定の誰かになり、自分に対してその人になったつもりで語りかける。これは、実は誘導の仕方で肯定的なことを引き出すことも、否定的なことを引き出すことも可能なのだが、時におどろくほどの量の感情が湧出される。そんあエクソサイズを思い出して、涙が出そうになった。

    まねをするということは、このエンカウンターグループの技法のように、自分と縁のある、ある特定の人を表現することではないだろうか?その人自身になりきって、言葉をはく、こころをはく、行動する。ストレートにその人を、あるいは自分自身を、まねして表現しえたとき、自分はその人になれる、あるいは、自分自身になれる、そんな風に感じた。でも、どこまでいってもまねはまねなんだよね。

    今日は、誰のまねをしようか?そう、今日は自分自身のまねをしたい。

    ■参照リンク
    「自分とつながる」 by きいのさん
    マネをすること by ゴロぉさん

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    2004年4月 1日 (木)

    さくらが...

    あんまりきれいなのでうれしくなってしまいました。

    apr01_1343.jpg


    別に、桜を見たからというわけではないでしょうが、この後、お手洗いにいって鏡を見て、ふっとザ・ブルーハーツの"Train-Train"の歌詞を思いましました。

    「あなたがいきてる今日は、どんなにすばらしいんだろ。」

    そっか、生きていることの報酬は生きていること自体なんだな、生きることの目的は生きること自体なんだな、そんなふうに感じました。

    追記 この感覚を、「生きることは、そのままで自由なことで、空だ。空であることは、そのまま生きることだ、生き抜くことだ。」といい変えてしまうといいすぎだろうか。空を生きる、空を生きる、空に生きる。そんな心持を持っていたい。

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    2004年3月31日 (水)

    生木村剛さん!

    mar31_2055.jpg

    ミーハーなわたしはやっぱりきてしまいました。ぼけた写真ですが、入場のときの写真です。



    ええと、いま木村剛さんが来られたイベントの帰りです。ちょっと、全然ソーシャライズできなかった自分が恥ずかしかったです。いやあ、ほんとになにを話していいのかわからなかった。たぶん、みなさんブログをやられる方たちですが、すんごくまともな、普通な方たちでした。美しい女性が多かったのも感動ものです。

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    2004年3月21日 (日)

    聞くこと、話すこと

    「現成公案」をようやくほぼ暗記した。流れは間違わずに暗誦できるようになった。まだ、接続詞を間違う。それでも、うれしい。このきっかけを与えてくださった極東ブログfinalventさんに深く感謝したい。

    「現成公案」は、実はもう3年以上も暗記しようとして果たせなかった。しかし、今回はネット上でも宣言してしまったので、後がない。自分でテープに自分の声で録音して、車で聞いた覚えた。車の中で、最初からなんども暗誦した。無理やり詰め込もうとしたせいか知らないが、車を運転しながら暗記しようとするとやたらと眠くなるのが困った副作用だったが、やっているうちにテープなしで、言葉が口からついてでるようになってきた。

    暗誦するというのは、結構不思議な感覚で、自分はどちらかというと考えながらしゃべることのほうが多いのだが、暗誦というのはほんとうに口が勝手に動いているように感じる。身体が覚えるというのか、「あれつぎなんだっけ」と一瞬意識がぶれることがあっても、身体はきちんとその先を暗誦しつづけていたりする。自分の中に、暗誦できたという実感がないのに、暗誦できるにびっくりした。それに、暗誦すると少しだけれども理解に近づいた感じがある。まだ完全ではない接続詞のひとつひとつまでに、道元はいきとどかせていたのだと改めて感じた。暗記するようになって、ひとつひとつのつながりがはじめて感じられた。不思議だ。聞くことって大事なんだなと発見した。

    語学でもいっしょだ。ラテン語にはまっていたとき、ラテン語の学習テープを聞いて、ラテン語への理解が深まったのを思い出す。といっても、いまだにほんとに初心者レベルなのだが...あ、これはちょっと恥ずかしい。

    逆の話もある。日によっては、一日中、仕事で色々な人と会うことで終わることもある。しゃべり続けている自分の中で気付いたのは、仕事で自分がしゃべっている「こと」のほとんどは、人から聞いたり、本で読んだりした、他人の「こと」にすぎないということだ。自分の言葉はほとんどない。しかし、月に一度自分の言葉だけでしゃべろうと努力してる場があるのだが、ここでは全然話せない。いつもしゃべりまくっている同じ自分なのかと自分で思うくらい、まとまりのない話しかできない。

    以前、芝居をやっていた。芝居でしゃべる言葉は、完全に他人に与えられたものだ。舞台の上で役を演じている時に、100%役になりきっている自分と、それを冷静に判断している自分と、両方同時に存在しているのを感じた体験がある。舞台の上で、娘を失った親になりきり、その悲しみを身体でめいっぱいに感じながら、暗転後の照明がはやくつきすぎるというハプニングに冷静に対応する、そんなことがあった。芝居というのは、そんなもんだと思う。存外、自分の言葉でしゃべるということもそのようなものなのかもしれない。まだ、わからない。

    聞くこと、自分の言葉で話すことは、両極端のようにも思えるが、暗誦することとにおいて、案外近いものなのかもしれないと、感じる今日この頃である。

    <参照>
    ・極東ブログさんの「仏教入門その4」

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    2004年2月23日 (月)

    リーダーシップ

    これでも、多少は部下がいる身だったりする。このサイトとか、部下に見つかったら、なんていおうかなとか、多少は自分でも思う。ああ、ましてときどき会社で夜中に書いていることがばれたら、社員に顔向けできないかな。

    リーダーシップということについて、いつかはかかなければならないという脅迫概念がある。まだ、書く準備が自分の中で出来ていない気がするのだが、この脅迫概念をすこしでも緩和するために、たたきだいとして多少書き始めてみたい。

    自分の中でリーダーシップを定義するなら、「自分で自分に与えたか、人から与えられたかした成果を、人といっしょに達成する。」ということだ。方法は問わない。その主体となる人がリーダーであり、その人の取る方法がリーダーシップなのだ。なんでもいい。

    ああ、月並みなことしかかけない自分が悲しいが、標語的にこの「方法」を表示すれば、以下のようになる。「leader」を頭文字に使ったこれが自分に一番しっくりくる。

    LISTEN:良く聴く
    EXPLAIN:納得するまで説明
    ASSIST:適切な援助
    DISCUSS:意志疎通の討論
    EVALUATION:公平な評価
    RESPONSIBILITY:結果に責任をとる

    ということで、よくイメージされるような、コトの最前線に立って、部下をどなりながら、しかりとばしながら、前線をまわっていく将校のような、さっそうとしたものではない。私の中でのリーダーシップは、部下といっしょに話し、部下といっしょに行動し、部下と問題を共有する、そんなイメージだ。これでハードな現在の経済戦争下を生き残っていけるのかと、指摘を受けそうだが、いまのところ生き残っている。

    どうも、ココログをはじめてこのかた、とにかく「頭をつかわない、考えない」ということが、ありとあらゆるところから出てくる。リーダーシップも(ほんとはコーチングだけど)見つけてしまいました。

    「コーチングの本質・あなたは考えてはいけません!」

    ■追記 

    もっと全然余談なのですが、アマゾンで書評を書いている方をたどっていくとブログにたどりつくし、ブログからたどっていくとアマゾンのバナーにたどりつくし...という気がしています。まあ、私自身もかなり書評書きにはまっているくちなのですが...

    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/cm/member-glance/-/A100EYXEGDBH3M/249-9879745-8351522

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    2004年2月19日 (木)

    現成公案

    以下、ただたんに現成公案を自分で打っただけです。
    誤字脱字等ありましたら、ぜひ教えてください。
    いま、これを暗記しようとしています。

    2004.02.19


    区切り方、改行位置を変えました。「たきぎ(は)」と修正しました。

    2004.05.04


    finalventさんからいただいたコメントを参考に、修正しました。

    2005.02.14


    誤字脱字を修正。

    2008.8.3



    正法眼蔵 現成公案 第一

    諸方の仏法なる時節 
    すなわち迷悟あり 修行あり 
    生あり 死あり 諸仏あり 衆生あり

    万法ともに われにあらざる時節 
    まどいなくさとりなく 
    諸仏なく 衆生なく 生なく 滅なし

    仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに 
    正滅あり 迷悟あり 生仏あり

    しかもかくのごとくなりといえども 
    華は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり

    自己をはこびて 万法を修証するを 迷とす
    万法すすみて 自己を修証するは さとりなり
    迷を大悟するは諸仏なり
    悟に大迷なるは衆生なり

    さらに
    悟上に得悟する漢あり
    迷中又迷の漢あり

    諸仏のまさしく 諸仏なるときは
    自己は諸仏なりと 覚知することをもちゐず
    しかあれども証仏なり
    仏を証しもてゆく

    身心を挙して色を見取し
    身心を挙して声を聴取するに
    したしく会取すれども
    かがみにかげをやどすがごとくにあらず
    水と月とのごとくにあらず
    一方を証するときは 一方はくらし

    仏道をならふというふは
    自己をならふなり
    自己をならふといふは
    自己をわするるなり
    自己をわするるといふは
    万法に証せらるるなり
    万法に証せらるるといふは
    自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
    悟迹の休歇なるあり
    休歇なる悟跡を長長出ならしむ

    人はじめて法をもとむるとき
    はるかに法の辺際を離却せり
    法 すでにおのれに正伝するとき
    すみやかに本分人なり

    人 舟にのりてゆくに
    目をめぐらして きしをみれば
    きしのうつるとあやまる
    めをしたしくふねにつくれば
    ふねのすすむをしるがごとく
    身心を乱想して 万法を弁肯するには
    自心自性は常住なるかとあやまる
    もし行李をしたしくして 箇裏に帰すれば
    万法のわれにあらぬ道理あきらけし

    たきぎ はひとなる
    さらにかへりて たきぎとなるべきにあらず
    しかあるを
    灰はのち たきぎはさきと 見取すべからず
    しるべし 薪は薪の法位に住して
    さきあり のちあり
    前後ありといへども 前後際断せり
    灰は灰の法位にありて
    後あり 先あり
    かの薪 はひとなりぬるのち
    さらに薪とならざるがごとく
    人のしぬるのち さらに生とならず
    しかあるを
    生の死になるといはざるは
    仏法のさだまれるならひなり
    このゆゑに不生といふ
    死の生にならざる
    法輪のさだまれる仏転なり
    このゆゑに不滅といふ
    生も一時のくらいなり
    死も一時のくらいなり
    たとへば
    冬と春とのごとし
    冬の春になるとおもはず
    春の夏になるといはぬなり

    人の悟をうる 水に月のやどるがごとし
    月ぬれず 水やぶれず
    ひろくおほきなる光にてあれど
    尺寸の水にやどり
    全月も弥天も
    くさの露にもやどり 一滴の水にもやどる
    悟の人をやぶらざること
    月の水をうがたざるがごとし
    人の悟を罣礙(けいげ)せざること
    滴露の天月を罣礙(けいげ)せざるがごとし
    ふかきことは たかき分量なるべし
    時節の長短は 大水小水を検点し
    天月の広狭を弁取すべし

    身心に法いまだ参飽せざるには
    法すでにたれりとおぼゆ
    法もし身心に充足すれば
    ひとかたは たらずとおぼゆるなり
    たとへば 船にのりて
    山なき海中にいでて 四方をみるに
    ただまろにのみみゆ
    さらにことなる相 みゆることなし
    しかあれども この大海
    まろなるにあらず 方なるにあらず
    のこれる海徳 つくすべからざるなり
    宮殿のごとし 瓔珞のごとし
    ただ わがまなこのおよぶところ
    しばらく まろにみゆるのみなり
    かれがごとく 万法もまたしかあり
    塵中格外
    おほく様子を帯せりといへども
    参学眼力のおよぶばかりを
    見取会取するなり

    万法の家風をきかんには
    方円とみゆるよりほかに
    のこりの海徳山徳 おほく きはまりなく
    よもの世界あることをしるべし
    かたはらのみ かくのごとくあるにあらず
    直下も一滴も しかあるとしるべし

    魚水を行くに
    ゆけども水のきはなく
    鳥そらをとぶに
    とぶといえども そらのきはなし
    しかあれども
    魚鳥いまだむかしより
    みづそらをはなれず
    ただ用大のときは使大なり
    要小のときは 使小なり

    かくのごとくして
    頭頭に 辺際をつくさずといふことなく
    処処に 踏翻せずといふことなし
    といへども
    鳥もしそらをいづれば たちまちに死す
    魚もし水をいづれば たちまちに死す
    以水為命しりぬべし
    以空為命しりぬべし
    以鳥為命あり
    以魚為命あり
    以命為鳥なるべし
    以命為魚なるべし
    このほかさらに進歩あるべし 修証あり
    その 寿者命者あること かくのごとし

    しかあるを
    水をきはめ そらをきはめてのち
    水そらをいゆかんと擬する鳥魚あらんは
    水にも そらにも
    みちをうべからず
    ところをうべからず
    このところをうれば
    この行李したがひて現成公案す
    このみちをうれば
    この行李したがひて現成公案なり
    このみち このところ
    大にあらず 小にあらず
    自にあらず 他にあらず
    さきよりあるにあらず
    いま現ずるにあらざるがゆゑに
    かくのごとくあるなり

    しかあるがごとく
    人もし仏道を修証するに
    得一法 通一法なり
    遇一行 修一行なり

    これにところあり
    みち通達せるによりて
    しらるるきはの しるからざるは
    このしることの
    仏法の究尽と同生し同参するゆゑに しかあるなり
    得処 かならず自己の知見となりて
    慮知にしられんずると ならふことなかれ
    証究 すみやかに現成すといえども
    密有 かならずしも現成にあらず
    見成 これ何必なり

    麻谷山宝徹禅師 おふぎをつかふ
    ちなみに 僧きたりてとふ
    風性常住 無処不周なり
    なにをもてか さらに和尚 おふぎをつかふ
    師いはく
    なんぢただ風性常住をしれりとも
    いまだところとして いたらず といふことなき
    道理をしらずと
    僧いはく
    いかならんか これ無処不周底の道理
    ときに師おふぎをつかふのみなり
    僧礼拝す
    仏法の証験 正伝の活路 それかくのごとし
    常住なれば おふぎをつかふべからず
    つかはぬおりも 風を聞くべきといふは
    常住をもしらず 風性をもしらぬなり
    風性は常住なるがゆゑに 仏家の風は
    大地の黄金なるを 現成せしめ
    長河の酥酪を参熟せり

      これは天福元年中秋のころ 
      かきて鎮西の俗弟子楊光秀にあたふ 建長壬子拾勒

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    2004年1月25日 (日)

    行動と言葉

    最近、いろいろなことがこころの状態できまると感じている。精神論をふりかざすつもりはもうとうない。抽象論にもおちいりたくない。ただ、こころの問題は、こころの持ち方の問題は、いま自分がどう行動するかということに直結しているということを言いたい。今目の前にあることに集中してとりくむことがどれだけ大事かを、日々実感している。以前は、お客様とお話していてもどこか上の空で、「次の予定にまにあわない」とか「営業の成績をどうやってあげようか」などと、こころは全然別なことを考えていた。これでは、成績があがるわけがない。今しかできないこと、いま目の前にあること、これを大事にする。ひとつのことを一生懸命やっているときは、他のことはすべて忘れてしまう。いまこの時に自分の全力をかたむける。こだけのことで、どれだけ多くのことが達成できるかわからない。

    こころがひとつのことに集中するということは、ことばの意味もクリアになるといことだ。たとえば、以前は、「モットー」を唱和していても、ほんとうにおざなりで、口先で話していてこころの底におちることがなかった。いまは、唱和していると、このことばが、5S運動や、PDCAサイクル、5W2H、あるいはもっと目前で解決しなければならない問題の解決策につながっていくのを感じる。ホテルの運営をしていても、「もうひとつの我が家へようこそ」というキャッチフレーズや、「来る人には楽しみを 帰る人にはよろこびを」という額の言葉が、自分の行動に直結している気がしてならない。

    よいことば、人から繰り返し唱えられていることばには、行動が内在している。ひとつの言葉を発することは、そのままひとつの行動を自分に誓うこと、ひとつのことばに集中することは、ひとつの行動を実践することなのだと、感じている。言葉は行動でなくてはならない。もっと具体的、科学的にこの真実を話すべきなのだが、いまこのことばが私に発することのできることばだ。まだ私には言葉と行動が足りないようだ。

    ひとつの行動に集中するということの連続は、「今日の日は、今日にて足れり」という心境につながる。いまできることをすべてやりきるという行動の連続で、一日を作ることができれば、自分にとってそれ以上の一日はない。なぜなら、(逆説めくが)いまを精一杯いききるという生き方以上の生き方はありえないからだ。過去はすでにすぎさってしまい、今はない。未来は、まだいま来ていないので、あまりにも不確かだ。いまひとつのことに集中して、いま自分にできるすべてを、自分の能力の限りをつくしているなら、それ以上の今はない。一日とはじつはこうした今の連続でできているのだ。

    ある格言に「今日という日をつかみ取れ」とある。まさにこのことばこそが行動である。つかみ取った今日という果実をむさぼりくらうつもりで、今を生きたい。

    <参考>

    5S 

    整理: あるべきところにあるべきものがある
    整頓: どこになにがあるか一目でわかる
    清掃: 掃除をする習慣ができている
    清潔: 整理、整頓、清掃がつねに保たれている状態、保つための工夫
    しつけ(習慣化): 以上の4つが身体にしみこんでいる

    5W2H 

    WHAT:(なにを) 対象は?相手の名前は?提出宛は?
    WHEN:(いつ) 期限、納期は?どのタイミングで?工程を立てているか?
    WHERE:(どこで) 対象場所は?受け渡し、納品場所は?待ち合わせの場所は?特定されているか?
    WHO/WHOM:(だれ、だれに) 誰がやるか?誰に提出するか?担当者は?責任者は?
    WHY:(なぜ) 目的は?なんのためにやるのか?達成すべき成果は?
    HOW:(どのように) 方法は?おさえるべき工程のポイントは?
    HOW MUCH:(いくらで) 予算は?支出、収入のタイミングは?

    PDCAサイクル

    Plan: 計画する
    Do: 実行する
    Check: 計画の成果、結果をチェックする
    Action:必要な改善を行う
    サイクル: 以上の4つが常にサイクルとして回っている状態

    15/12/31

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    2004年1月23日 (金)

    PDAから

    今度は、PDAから記事を描けるかテスト。まあ、書けて、投稿できてあたりまえなん だけど。

    しかし、(あえて名前はかかないけど)数年前からこのblogサービス とほぼ等価のサービスを私の知り合いが展開していた。しかし、もったいなくも昨年その事業からかなりの苦痛を伴って撤退した。ほん とにタッチの差だったね、いま考えてみると。ほんとうに商売ってちょっ としたタイミングとか、ネーミングとかで結果が変ってくる。あるいは、セールスプロモーションの仕方だけでなく広い意味でのマーケティングによって全然結果が変わってく る。マーケティングは、商売の梃子だといってもいいのかもしれない。片 一方の端に市場があり、反対側に資金だの、人材だのの会社のさまざまな 投入されたリソースが乗ってくる。梃子のあて方を間違うと力が入らない し、いれなくてもいい力をいれてしまうことにもなる。

    この辺を現実の商売の中で実感し、実現していきたい。

    ■参照リンク 
    PDAとしての携帯電話 (HPO)

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    2004年1月22日 (木)

    樋口さん

    今日は樋口さんとのんでます。和食がおいしいです。jan22_1859.jpg

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    2004年1月14日 (水)

    終電

    あーあ、またのんじまいました。本日の終電まぎわの東京駅の風景っす。jan14_2330.jpg

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