偶然のようにさりげない、
人とのやりとりがすきだ。
偶然のなかの必然としか思えない、
人とのつながりを確認する行動だけが、
私を前にすすめてくれる。
■意味と価値の廃墟にたって..
この暑さにやられてしまったのか、参議院選挙の結果が腑に落ちないからか、どうにもやる気がでてこない。本来目の前にある仕事に自分をイコール記号がつくくらいくっつけて、自分は仕事だ、仕事は自分だと、他のことはふりむきもしないで目いっぱい取り組むべきなのだ。が、どうも力がでない。
エンデを20年ぶりくらいに読み直したのがいけなかったのだろうか?気持ちはすっかり学生にもどってしまったのだろうか?あの、恥じと無気力の中に立ち尽くすような学生時代に?
先日、「オリーブの森で語り合う」という対談集を読んだ。この本は、「モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語」や「はてしない物語」で有名なエンデと、ドイツのエプラーという政治家、テヒルという女性の演劇芸術家の3人がイタリアにある当時のエンデの家で1982年に語り合った記録だ。学生のころに耽読したといえるくらいくりかえし、くりかえし読んだ本だった。
・「哲学者としてのミヒャエル・エンデ 彼の哲学 オリーブの森で語り合う」 by Miguelさん
エンデは、1980年代の当時の政治経済の状況をメリーゴーランドにたとえていた。「メリーゴーランドは、どんどん加速していく。ちぎれとぶまで加速していく。誰もおりられない。」経済という市場の中でまわっていくためには、お金という数量ですべての価値がはかられる。実は、GDPの成長率というのも、この経済という市場においてまわっていくお金の速度がどれくらい加速したかということの指標なのだ。数量ではかれる価値観の中にいるかぎり、加速するメリーゴーランドからおりられないというのは、実はかなり透徹したアナーキズムだと感じる。エンデは、資本主義経済が根本的にまちがっていることを、マルクス主義に陥らずに直感的につかんでいた人なのだと感じた。
実際、この加速するメリーゴーランドによって伝統的な価値を残していた社会はみるみる壊されていっている。べき乗則を持ち出すまでもなく、参加している組織の事情も含めて経済的な事情により、人が一生のうちで引越しをする回数はどんどん増えている。人は、引越しを繰り返すうちに自分の生まれ故郷に愛着をもなくなり、愛着のなくなった故郷の田舎はシャッター通りといわれるように商店街が崩壊していく。故郷への愛着を失った人々は、自分がほんとうによって立つべき根っこも失いがちだ。
冷笑的なメディアと、仲間の批判的な言説と、誰にとっての価値なのかが失われてしまったすべてを量に変換する学校で教えられた思考で、人間が寄って立つべき存在の根拠は、その立場をうしなってしまった。そう、ちょうど「はてしない物語」でファンタージェンが「無」におかされて消えていくように。
・縮み時代の始まり--歴史の変曲点にきた日本を考える @ miyakodaさん
・[書評] べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ
ああ、私はどうしてこんなに青臭いことを書いているのだろうか?こんな思考は学生のころに、思い出とともにとうに捨ててしまったはずなのに。
それでも、社会が成り立っていくためにはよって立つべき意味をもった規範が必要だ。ファッションという流行でもいい。人に後ろ指さされなければいい。目の前で「ああ、そんなことしちゃあんた損しちゃうよ。」、「いまこちらがお得になっております」という、耳障りがよかったり、わるかったりする忠告にながされるのでもいい。「あんたはお人よしだといわれるのだけは、ごめんだ。うまくたちまわらなきゃ。」とつぶやきながら、生きていく。大体生きていくだけで信じられないくらいお金はかかる。誰にも否定されない価値を誰も見出せないのなら、成り行きにまかせて生きればいいと、誰もが感じてしまう。
それでも、損得勘定というくらいお金ではかられる価値だけは、普遍的で絶対的だとみんあ感じている。ああ、私もそう感じている。なぜなら、お金だけは政府まで保証をしてくれる、だれもがその価値をみとめる、唯一の基準だからだ。誰もがお金をほしがっている。そして、そういう風に行動することをいまの文化と呼んでもいい、行動規範と呼んでもいい。
生きていくためにお金が必要だったのに、お金のために生きていく人生になってしまう。苦痛がいやで常に得すること選んできたのに、苦痛をさけるための苦痛がたえられない苦痛になってしまった。
■意味ってなに?価値ってなに?文化ってなに?
エンデは語りつづける。モモに出てくる時間の花がひとつ咲いては散り、ひとつ咲いては散るのは、「宇宙全体の働きかけでぼくらは一時間一時間をあたえられている」からなのだ、と。
この前finalventさんに「ベルの不等式」という言葉を教えていただいた。この言葉をネットで調べているうちに、量子力学の解釈においてひとつの粒子の状態というのは「全時空で状態が与えられている」という解釈が可能だという記述に行き当たった。
・EPR相関は相対論に矛盾するか? @ 科学の回廊
アインシュタインの相対性理論も、量子力学も私には十分に理解できていない。それにしても、この「科学の回廊」のEPR相関の解釈は魅惑的だ。物理学の前提からはじめて、「世界がつながっている」、「時間の花」のような詩的な解釈に帰結する可能性があるなんて、すばらしいことだ。ブログをはじめてから、いやその少し前から、ほんとうに日常生活において起る出来事が、この記事にあるようなひとつの「状態」からとびだしたAとBという「粒子」のペアなのではないかと感じることが多くあった。不思議なくらいに人とシンクロをはじめている。ほんとうに不思議だ。偶然がこれだけ続くと考えるより、これはひとつの必然を示しているのだと考える方が私にとって自然だ。
いま、明るく失望しつつある私にとって、必然としか感じられないような偶然がそこにあることだけが、意味を与えてくれるように感じる。神秘性を指向するわけではないが、自分が人とつながっていると感じる方が、自分がまったくの孤独であると感じる時よりも自分に意味を感じる。自分をかたちづくる物質もすべてとつながっていると感じる方が、自分が客観的ないしころからできていると信じるよりも、ずっと居心地よく生きていける。
■言葉と意味
言葉は、いつも身体に追いつかない。言葉は、世界においつけない。
いつぞやどこかでヘーゲルの「ミネルヴァのふくろうは夕暮れをまって飛び立つ」という言葉を引用したが、言葉が言葉を定義するのなら、人間の肉体はどこへいってしまうのだろうか?
はなはだナイーブで無知な議論なのだが、身体をともなわない言葉に意味はないと考えている。なぜなら、言葉をぐつぐつにつめていくと、すべての言葉を数式にすることができるだろう。薔薇のエッセンスのように純粋に数式にまで煮詰められ、表現された言葉は命題と呼ばれる。命題には、意味はないと私は感じる。つまり、定理が決まれば、全ての可能な命題はおのずと決定される。すべての言葉は固定されているといってもいい。同時に、全ての命題の真偽は確定されている。そこには、公理系という境界が必ず存在する。前提となる公理が決まった瞬間、すべての展開がすでに決定されてしまう。
だから、全てが決定され、固定されている世界には、人間は住めないのだと私は考える。なぜなら、人間は生まれた瞬間から死に向かって絶えず変化してく存在だからだ。硬く、固定した数式の世界には、あるいは数式を適当なあいまいさのオブラートでくるんだ言葉の世界には、変化はない。数式や言葉に、意味がある、変化が内包されている、そこ変化があると読み取るのは、変化する人間だけだ。数式も言葉も、いまあなたが読んでいるこの言葉にも、あなたが読む前にも読んだあとにも変化は生じない。言葉は、ほんとうに生きているのか?
命題はいったいどこになるのだろうか?ミネルヴァのふくろうはどこにむかってとびたっていったのだろうか?
それでも、不思議なことに、言葉によって人間は自分の生きる意味を確認するものだ。人は人の価値を言葉でつむぐものだ。たとえば、サイコロの目でなにがでるかは博打の問題で、これ自体に意味はない。しかし、私たちはえてしてサイコロの目の丁半に、自分の人生の方向を賭けたりする。意味のないサイコロの目に、意味を付与するのは人間の言葉だと思う。
このことを逆に言えば、サイコロをふること、バランスをくずすこと、自分を前のめりにかたむけることによって、私たちは次の一歩を踏み出せる。一瞬たりとも隙をみせない、バランスを崩さないという人は、あるくことも走ることもできない。私たちはサイコロの目に自分の人生をかけている、常に。そう、いまこの記事を書いているこの瞬間も、私は自分のバランスを崩しながら自分を傾けている。
それが、たとえ占いであれ、サイコロの目であれ、人間は人間をその身体のままで受け入れられない、残念なことに...。いつも言葉をお札のようにべたべたと身体にはりつけてしまう。生きているという現実だけを、生きているという身体だけを、みつけつづけられればいいのに、と感じる。生きているいまだけを感じ、生きている人間の身体だけを見つめられれば、そこにはじめて実感としての意味が生じるのだろう。
■文化、文化、文化
エンデの言葉は続く。
「政治家、労働組合、経営者の課題は、自由な空間をつくりだすことだ。一方、文学者や芸術家の課題はといえば、わかりきった話だが、その自由空間を満たすもののために、いろんなイメージをつくりあげることだ。」
そして、私の疑問はここに帰着する。これだけ価値が破壊尽くされた後に、人は生きるための価値を自覚的に再度作り出すことが出来るのだろうか、ということだ。
実は社会というのは、人々の集積体なのだし、もっといえばそこに集まる人たちがなにをよしとし、なにをわるいとするか、どう行動したら人から非難されないか、なにをその人が信じているか、というミクロな行動がマクロな社会の形をきめていく。人々がどのような文化的価値を基盤に行動しているかが、国をつくるのだと感じている。もっと目につくのは、自分がなにに価値を見出しているかがどんどん見えなくなってきていることだ。
・脳内現象 by 橋本大也さん
ほんのちょっと前まで、人はごく普通に身体を使って生きていたのだと思う。そのころは、言葉がきちんと身体と結びついていて意味を持ちえたのかもしれない。言葉による意味は、私たちが身体の感覚を失ってしまえば、めっきがはがれるように失われてしまった。私たちは、貧困、空腹、鉄拳制裁が日常で、身体という感覚を失うことのなかった世代では問題にならなかったことを問題にしなければならない。
佐世保の事件、あるいはネットで飛びかう言葉、現代人の身体感覚、「いま」と「からだ」を感じる場をうしなったがために形がゆがんでしまったように感じられてならない。
「はてしない物語」のバスチアンは、全てをわすれなければ現実にもどってこれなかった。身体を感じるためには、言葉をすべて失わなければならないのか?
価値だの、意味だのを問うことは実は、昼の日中にちょうちんをもって神をさがすようなものだ。ちょうちんをけせば、実はそこにあるものなのかもしれない。ほんとうは、探すこと自体が意味ないくらいに自分にくっついているものなのだ。自分と切り離すことのできない血肉が自分の意味だ。
そう、きっといまそこにあるのは、ただ人間の身体だけ。
こうして、世界はうまれかわっていく。そんな気がしてならない。
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