2004年11月 3日 (水)

[恋愛論] 恋愛脳 love brain

先日、恋愛についての大昔の記事を怠慢にもそのまま再掲してから、A10神経のことをぼんやりと考えていた。なぜか「恋愛」のことが頭から離れなかった。そこで、この「ぼんやり」をまとめて以下のような図を書いた。

ご縁としか私には思えないのだが、この絵を書いた後に以前コンサルタントの太田啓之先生から「やる気を生む脳科学」という本をご紹介いただき、読んだ。著者の大木幸介さんは、日本におけるA10神経研究の大家なのだそうだ。

一応認知科学系の私としては、神経生理学についてはいっぱしのつもりだったのだがとんでもない思い上がりだったようで、本を読んでいるうちに目からうろこ状態になった。人間の脳がデジタル・コンピューター的な働きをする鞘につつまれた神経と、アナログ・コンピューター的な働きをする脳内物質と関係の深い鞘のない神経の2種類に分かれているということを知らなかった。そして、デジタルの方が言語も図形的な把握も含めて判断などを受け持ち、アナログの方がやる気などの情動や性愛に深く関係しているのだということもわかった。性愛と情動とやる気がたかだか3cmくらいしかない視床下部で隣り合わせになっていることも知らなかった。本文を少し引用させていただく。

 「性欲の脳と他の欲を出す脳が共存していることは、性欲の強い人間のほうがいろんな旺盛な欲を持っていることになる。『英雄色を好む』というが、色を好む人間は、他の欲も強いから英雄になるということだ。」 (p.57)

化学物質の影響をうけやすい鞘のないアナログ型の神経であり、やる気や性愛に特に関係の深いA10神経の一部は、前の記事にも書いたように、車のエンジンのリミッターあるいはブレーキともいえる自己受容体がないのだという。そして、大木幸介先生によればリミッターがないために過剰な神経活動が生じて人間の創造性が生まれたのだという。

創造性と性愛への欲望を考えれば、想像力のかけらもない大人がいま生きているのを見かけるように、生存ということにより根幹からかかわる性愛の方が先に発生したのは間違いないだろう。デズモンド・モリスではないが、「裸のサル」=「性愛にとちくるったサル」というのが人間の本質なのかもしれない。言葉を変えれば、とちくるってしまった性愛への限りないドライブの副作用でたまたま人間の創造性がうまれたのかもしれないということだ。

そして、我田引水のそしりを恐れずに言えば、性愛と想像性の先にあるのが恋愛ではないだろうか?もう私の書いた一度↑の図を見てほしい。この図を書いたときに、書いた解説を引用することを許してほしい。

なんというか、自分の脳内にある「相手」というイメージのまわりに神経ネットワークが一気に形成されてしまうのが恋愛ではないだろうか?そして、いわば超伝導の電流の代わりに相手への思いという情報が神経繊維に流れつづける。

あまりに強く、早く神経線維に「恋愛」という情報刺激が流れると、イメージをフェアライト・コアにして電磁石が出来て、相手への思いという強い磁場を発生させてしまう。そして、もし同じようなプロセスで相手にもその磁石が出来ていたりすると、発生した磁場で一気にお互いに引き合うか、一気に反発しあうか。

たまに、最初はN極とS極がつりあっていたのが、片方の電磁石の極がいれかわって猛反発したり...

イメージが膨らんでいく。

多分、相手への想いという想像力とA10神経による限りない快楽という閉じたフィードバック回路が思う存分活性化してしまったのが、恋愛という状態なのだろう。

もうあまり書くべききことがないのだが、いってしまえば「『恋愛』って一つの創発現象かもしれない。」と感じる。恋愛を例にとるまでもなく、脳の構造って単に神経がネットワークだからという意味を超えて、ネットワーク的な性質が組み込まれているのだと思う。脳がいかにネットワークなのかは、また稿をあらためたい。

ただただいまは脳と恋愛とイメージが私の脳をかけめぐっているのを感じるだけだ。

■参照リンク
恋の力学 三角関係編 by Jun Hirabayashiさん
恋愛とは覚醒剤をのむようなもの by 吉本隆明さん @ 文-体・読本
Love-able Computing: 愛するAI・愛されるAI by 河村竜幸さん、上岡隆宏さん via ありがとう by kinjoさん

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2004年10月25日 (月)

[恋愛試論] かわいそうだったぁ、ほれたってことよ。

この記事は、随分昔に書いた小論だ。すこし手をいれてからブログにアップしようと決心して、編集用の欄に置いたのが今日(10月25日)の午前中だった。いま、finalventさんの「[書評]超恋愛論(吉本隆明)」を読んだ。ネタがネタだし、ノリがのりだけに、単にコピペをするというのも野暮なのだが、finalventさんの記事へトラックバックしたさのあまりにこのまま載せてしまう。


夏目漱石先生が「三四郎」(だったかな)に、「Pity's akin to love.」 という英文を訳すシーンを書いていた。当時高校生だったぼくにはよくわからない感情だった。ずいぶん時間がたってから、ある女の子の背中を見ていてすごく頼りなげに見えて、「ああ、これが"Pity's akin to love."なんだ」、と実感することができた。というわけで、ひさびさに恋愛についていろいろ考えてみましょう。

やっぱり、恋愛ってどっかエッチと表裏一体なんだろうと思う。アメリカの学者だったかが、男女が出会って3ヶ月のあいだくらいは特殊な脳内物質が出ていてえらくエッチが気持ちいい状態になるんだそうな。これは、同じ異性だと3年間くらいで完全に消えてしまうので快感がなくなり「3年目の浮気」とかへつながっていくらしい。

一方で、A10神経の話というのもある。たいがいの神経には交感神経と副交感神経がペアになっててかならずブレーカーがついている状態だけど、快感をつかさどるA10神経だけはブレーカーがないって?だから、エッチの快感とかは脳みそがこわれるまで果てがないんだそうですだ。

これって恐ろしいことですよね。どこまでも快感にのめる込むことが出来る上に、それを止めることもできない。渡辺淳一の小説ではないけれど、最後の最後までいってしまう恋愛というのもこういうところから来るのかもしれない。

大体、男と女の関係で危険でない関係ってあるのかな、とも思います。よく「遊びだ」とか「結婚するんだ」とかいろいろ恋愛の深さを表す言葉ってあるけど、男女の関係ってのは、結構常に刃の上をわたりあるいているような、綱渡りの綱を右にゆれ、左にゆれしながらバランスをとるような、そんなあやういものが常にあるやに感じられます。それとも、何人かの人にとってはそれが一番スリリングな「遊び」なのかな?危険があるからこそ遊びだと思ってしまえるのだろうか。安定志向の私には深すぎてわからないことだけれど、そういうリスクがあるというのも「性=生」という生命にとってもっとも深い使命にかかわる部分にからんでいるから、恋愛というのは難しいんだろうね。

そうそう、この前突然発見したんですが、女性の唯一の弱点って安定を志向してしまうことでは?実はスタミナも気の強さも、下手をすると決断力も男性よりすぐれている女性がいっぱいいるのに、それでもみんな男がとなりで寝ていることに安心感と安定感を感じている。男がとなりで寝息をたてていることに慣れてしまう。

過去のことやら未来のことを心配して今の幸せを不安でぬりこめてしまうというのは、女性の悪いくせだと思う。これまた森瑶子を読んでそう思った。それも安定を志向しすぎるからだと思うんだけどな。安定は完璧でなければいけないと思うから、逆にバランスをくずしがちなのでは?

逆に、男ってあんがい安定を志向しないせいか、男女の仲であんまり心配しない。今満足しているのなら不安になったりしない(すくなくともぼくは)。女性からみると無神経だと思われがちなのも、この辺の差であるような気がする。

そんなこんな深い問題、浅い問題、下世話な問題、哲学的な問題を含みながら、それでも恋愛は人間の存在自体にかかわっているはずせないエレメントでしょう。そもそも、恋愛は男と女がいるから成立するわけだけど、これって基本的には「情報交換」が元だったと気付いた。人間からさかのぼること15億年以上前に、まだわれわれの先祖がアメーバみたいな単細胞生物だったころ、単体でもっている情報より他の仲間の持っている遺伝子情報を取り込んだほうが有利だと気付いた連中がいて、それで遺伝子情報を交換しあったのが、オスとメス、そしてセックスの最初だった訳ですよね。だから、男女の恋愛というのも互いに持っている情報の落差が大事。しかも、見た目だの財力だのおっぱいの大きさだの生き残るために魅力的な「情報」をもっている異性との「交換(交歓)」が一番快感をもたらし、ついには有利な子孫を残すのに役立つ。もう情報交換を十分にしてしまい、かつその結果(=子供)が出てしまうともう恋愛感情は必要でなくなってしまうんですね、残念なことに。さびしい限りです。

でもね、中国だと「魂と魄」、仏教とかヨーガとかの「歓喜仏」、ギリシア神話のアンドロギュヌスとか見ていると男女というのは存在のベクトルの差であるような感じもします。「魂」というのは、常に天上を目指す人間のエレメント、そして「魄」というのは地上につなぎとめておこうというエレメント。そして、男性にも女性にもこの「魂と魄」があるんだそうですが、男性の方が「魂」が強く、女性の方が「魄」が強く量が多い。そして、男女の交歓(=交換)を通じて男の魂と女の魂、女の魄と男の魄がそれぞれ呼び合い、互いに調和するときに初めてまつたき存在としての人間になれるんだそうです。歓喜仏というのは見たことがあるかな?象の形をした神様が騎乗位というのかな、座りながらのセックスの形をしているあれです。アンドロギュヌスは両性具有体で、あまりに完全な存在だったので嫉妬した神様に男と女に分離させられたという神話です。天上を目指すベクトルだけでも、地上にあろうとするベクトルだけでも人間はパワーを発揮できない。両方の調和が大事なんだと、しかもそれを本当の意味で調和させるのは歓喜仏が象徴するように男女のセックスしかない。

と、いう考えの延長線上で田口ランディを読んでちょっと(少なくとも頭の中では)男の女の関係からその先へ突き抜けられる方法を示されたような気がしています。ひるこのようになにか自分の中で形にならなかったものが、かたちを採り始めているような気がします。田口ランディのエッセイによると既刊の「コンセント」、「アンテナ」ときて次は「モザイク」というタイトルらしいです。「コンセント」は受容する性の象徴、「アンテナ」は虚無へ向かい突き出たファロスの象徴(ほんとかな?)、そして「モザイク」は二つの要素が混沌と交じり合おうとするさま。だから、次の本でとうとう「魂魄」合わさった境地が描かれると私は期待しているんですけど、どうかな?そして、それこそが僕が期待する恋愛論の結論になると思う。

やっぱり、もっと実際の現実の中で突き抜けたい。どろどろしたまとわりつくような、うんざりするような現実の中で自分をもっともっと解放していきたい。恋愛とかセックスとかも、もっともっと大きなプロセスとエネルギーの流れの一部なのだから。

作成 2001.2.18
改訂 15/12/31


誤解をさけるために書いておくと文中の「頼りなげな女の子の背中」は立派にたくましくなって、いまも私のそばにある。私の方が「支えてくれぇ!」といいたくなるくらいに...orz

もうひとつだけ。恋愛って結構やっぱり回路がショートカットするというか、神経ニューロンにおいて自己リンクが何重にもまきついてそこだけでうだうだ電流がながれつづけるみたいな状態なのだと感じる。ああ、だからどうだということではないのだけれどね...

ああ、そう、残念ならが数年前に予測した「恋愛の結論」は「モザイク」において得られなかった。田口ランディさんが「モザイク」で言いたかったことの片鱗は伝わってきたが、それは私が期待したものとは大きく異なるものだった。

■参照リンク
[書評]迷いと自己 「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」 (HPO)
男と女 (HPO)
日本政府は少子化対策のために早期の停電を実現するべきである by 切込隊長さん
熱く語る恋愛論 by ハルコさん
恋愛脳 (HPO)

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