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[書評]"絶滅貴種"日本建設産業

先日の「建築基準法の再改正を考える集い」で、お会いした草柳俊二先生から「読みにくいだろうけど読んでごらん」と言わて本書を読みました。正直、私の仕事である「地域の建設会社」の仕事の仕方とはかなりかけ離れた国際プロジェクトの世界の話なので、読むのに時間がかかりました。

本書で書かれている対象の規模とは、単なる建設業の守備範囲を超え、PFIとか、EPC(Engineering, Procurement and Construction)と呼ばれるような大型プラントの受注、デザイン、調達、設置などのターンキープロジェクトクラスのようです。どれくらい大きいかといえば....、たとえば、「EPC」という単語でグーグルで検索するとまっさきに東芝さんの巨大プロジェクトのケースが出てきました。

本書の著者であるクリス・R・ニールセンさんは、国際プロジェクトのプロジェクトマネジメントや評価をかなり経験してきた方です。

考えてみれば、すごい肩書きですよね。Ph.Dは博士号、J.D.は法学博士、P.M.P.は本書に出てきましたが「プロジェクト・マネジメント・プロフェッショナル」、MRICSは初めて見ましたがぐぐってみると"Member of the Royal Institution of Chartered Surveyors"のことだとわかります、MJSCEはぐぐってすらわかりませんがたぶん土木工学の修士号だと思います(Master of J*?* in Socia Civil Engineering)。

本書の主要なメッセージを、箇条書きにすれば以下のような内容だと私は理解しました。

  • 日本の建設業界は96年の政府のWTOの世界標準に調達や入札制度を合致させるという合意にもかかわらず、国内の建築法規体系や契約慣習が改善されていない。
  • しかるに高い技術をもつ日本の建設会社は、本来世界標準の契約制度に習熟すれば、没落していく日本の市場と比較してアジアを中心として今後成長を遂げていく世界の建設市場の大きなプレーヤーとなれる可能性を秘めている。
  • 日本国内の建設プロジェクト推進体制をWTOやFIDICに合わせたものにすることと、日本のゼネラルコントラクターが世界に進出するのは表裏一体である。

ちなみに、本書であげられている世界の建設市場の予測です。実に魅力的な数字が挙げられています。表の数字の単位である「10億米ドル」とは約一千億円ですから、東アジアの市場だけで5年で1000兆円、年間200兆円という額になります。国内市場の衰退に慣れ親しんだ我々からいえば垂涎ものです。

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ちなみにちなみに、WTOとFIDICについて調べてみました。

  • FIDICとは @ 日本コンサルティング・エンジニヤ協会

基本的にはWTOの協定などの国際条約は国と国との約束なので、国内法に優先するとインターナショナル・ビジネス(IB)の授業で教わりました。本書の指摘するとおり、これらの国際標準にかなわない国内の法律や慣習は改変する必要があるのではないでしょうか?この観点に立てば、建設業法と、建築基準法の一部は特にWTOあるいは国際基準と適合しないように本書を読んで思いました。

そもそも日本の市場の特殊性は「相互信頼」を原則としているところから始まると著者は言います。度重なる施主要求事項の変更や、カントリーリスク、さまざまな要因によりおこる下請け企業(subcontractor)の遅延など、世界市場では「相互不信頼」の要素に満ちています。ただし、相互不信頼の原則に基づくWTOやFIDICのプロジェクトマネジメントの体系に基づいても、信頼関係を築くことができるのだと著者はいいます。いや、英米の感覚で言えば相互不信頼の契約に基づくからこそ、依頼者とコントラクターは相互の平等な関係でいられるのでしょう。信頼関係という名の下で、一方の裁量によりすべてが決められるという不平等、矛盾は、世界標準との接続の中で解決されなければならない課題なのでしょう。

また、著者は日本の中央政府はまだAGPなどの国際調達慣行に熟達し、建築技術に対しても理解があるとしていますが、これから国内の建設市場への発注の主役となる地方自治体は、大規模な公共工事を監督するに必要な契約管理術を有していないと指摘しています。

日本が再生するには不可欠だと私も思っているのですが、今後どうしても地方分権をすすめていかなければなりません。しかし、残念ながら横浜市や東京都などのごく少数の例外を除いて、契約技術やプロジェクト管理経験だけでなく、建設工事の管理監督が十分にできる地方政府は少ないのではないでしょうか?こうした背景を元に、世界標準としてはコンサルティング・エンジニア(The Engineerと本書では書かれています)の活用が当たり前なのだと指摘します。いまでも地方で技術コンサルはいるじゃないかとおっしゃる方も多いと思いますが、依頼主とコントラクターでの紛争の仲裁における絶対者として世界標準としてはエンジニアがおかれているのだといいます。

本書にあげられている国際弁護士協会の仲裁人の独立性の疑義の定義が相互不信頼の原則というのはいかなるものかを表しています。

  1. 仲裁の一方の当事者と仲裁者が同一人物(両者の間のidentityがある)であるか、仲裁の一方の当事者である組織(entity)の法的代理人である場合。
  2. 仲裁者が調停の一方の当事者の管理職または役員であるか、それと同等の影響力を行使しうる立場にある場合
  3. 仲裁者が一方の当事者と経済的に相当の関係がある。

あまりにあたりまえのことを言っているようですが、日本のコンサルでこの「疑義」をクリアする方はその仕組みと地位上からいらっしゃらないはずです。立場の上で、独立性を保ったエンジニアという地位自体が日本の建設業の中ではありえません。しかし、「相互不信頼」の基盤にたつとどうしてもお互いに「疑義を持たない」存在が絶対不可欠になるというのは理解できます。

そうそう、本書の後半でえんえんと書かれているプロジェクトマネジメントについての規定があまりに当たり前のものことをしつこく書いているだけだと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、その当たり前さこそが大事なのだと私は思います。こうした諸条件はあまりに当たり前のことで、日本はその「当たり前」を超えた先の話をしているから、契約書も簡にして要を得ていれさえすればいいのだと受け止めうのは、国際プロジェクト・マネジメント的には間違いなのだと本書を読んで思います。中国人ですらWTOを受け入れるために相当の血と汗を流していると聞きます。その血と汗をながしたからこそ、中国には海外からの投資が集中したのではないでしょうか?

当たり前のことであるなら、当たり前のことを世界中の誰にでも分かる形で明示し、文書であらわし、その解釈に宗教や文化的な差異がはいらないところまでつめることが大事なのではないでしょうか?日本の以心伝心はすでに国内の世代間でも敗れています。もしかすると、若者を仮想的な「外国人」として国内のプロジェクトも進めると意外とスムーズにいくのかもしれません。

国際プロジェクト・マネジメントの観点からいえば、あまりにあいまいさと裁量を残している日本の建築関連法規と慣習は多くの矛盾をはらんでいます。これは広く認められたことです。本書の後半部分の主張で大きなポイントは、日本の建設市場、建築法規体系を世界の中で孤立したものにしてしまっているのはその矛盾を「現場」でケース・バイ・ケースに応じて解決してきてしまったという悲しい事実の指摘です。著者はこういいます。

日本では、一般大衆は政府が何を考えているのかを知る機会と政策決定に参加する機会を奪われている。

このように”行政指導”は日本人の経済生活を政府がコントロールする主要な手段であり、日本の建設業場合は特にその色彩が強い。政府は、今後、公共工事での自らの役割を限定しようおと計画しているので、行政指導をする意味はなくなっていくことになると考える。

これは自分の首をしめることにもなるのですが、日本国内で行われている建築現場の検査は中間と最終の二回だけで、支払も着手金と最終金の2回だという法規制と慣行も世界標準ではありえないのだそうです。大規模の民間の工事ではすでに行われていますが、毎月に出来高を査定し、検査を行い、その出来高に応じた支払をするのが世界標準なのだそうです。

計画変更も頻繁に行われるのが「相互不信頼」の世界では当たり前のようです。このグラフにはひっくり返りました。

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一般の方にはわかりずらいのですが、あるプロジェクトで詳細設計の93パーセントが終わった時点で政府から70項目以上の変更の要求が行われ、いかに期日とすりあわせるかに苦労したかがわかるグラフです。

実は本書にはこれ以外にも施主側の理由でプロジェクトが遅れた場合の数十億に上る遅延損害の計算の例がでてきます。確信はないのですが、本書のテーマが日本の建設業にあるということは、これらの例は日本のゼネコンさんたちの「兵どもの夢の跡」なのでしょうか?

本書にはこう書いてありました。

日本の大手コントラクターは”バブル経済”の崩壊後、国際市場に参入するという重大な試みを行ったが、悲惨な結果に終わった。施工の損害は天文学的な数字となり各社はその処理に何年も苦労しなければならなかった。

草柳先生も「大手コントラクター」勤務時代は、「問題処理係(Problem Shooter)として世界の国々を飛び回っていた」と書いておられます。

国際基準の導入により国内市場も外国企業との協力により活性化し、逆に国内の建設業者が国際市場に参加できるような時代が来ることを夢見てなりません。

■追記

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建築基準法の変遷ってなに?

仕事で資料を探していて、たまたま「建築基準法の変遷」について読みました。建築基準法が本来めざしたものの姿がここに書かれているように感じたのでぬきがきさせていただきます。

4786901172 建築設計基準 改訂版
新建築社  1996-01


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建築基準法は、「市街地建築物法」という昔の法律ととってかわるために作られました。この本では旧法との比較を行っています。こういう対比を恥ずかしながら初めて読みました。

この法律(建築基準法)と従前の「市街地建築物法」との主要な相違箇所を列記して、建築基準法の立法精神を明らかにしておきたい。

と、書いていらっしゃいます。

①適用区域・・・・・・従来は主務大臣が「市街地建築物法」適用区域として指定した区域に限って適用されていたが、この基準法においては建築物の安全性に関する単体規定(第二章)は全国どこにおいても適用され、都市計画的な集団規定(第3章から第7章まで)は都市計画区域内にだけ適用されることになった。建築する際全国どこにでも手続きのいるのは特殊な用途の建築物及び大規模な建築物等で、その他の小規模な一般建築物は、都市計画区域内と知事の指定した区域内のみ手続きがいある。(6条)

単体規定ではwikipediaの建築基準法の項目の言葉を借りれば、「個々の建築物及び建築物の定着している敷地が他の建築物や敷地に依存することなく単体で恒久的に安全・快適さを維持機能しつづけていくために必要な最低限度の構造が規定されて」います。

要は、単体規定とは、建築物として最低限守るべき性能の規定であるということです。

同じくwikipediaの建築基準法の「『最低の基準』の意味」の項目に書いてありますが、「建築基準法というものは自由に建築を行う私人の権利を公権力によって制限しまたは規制して社会の秩序を保とうとする性格を持つ法律であるから、その制限については憲法13条に基づき、必要最小限のものでなければならないという理念」であり、本来建築物をどう建てるかというのは、私権であるわけで、どのような建物を建てようと施主と請負者の契約次第であろうということになります。

ただし、誰でも勝手に建築をしたのでは建物が密集する市街地において、火災がおこって延焼するおそれや、地震で倒壊するときに隣の建物にも被害を及ぼす可能性もあるので、単体規定や集団規定が定められたというわけです。

次に「変遷」ではこう述べられています。

②権利義務に関する重要事項の法定・・・・・・従来の「市街地建築物法」では法運営上の権限が広範に大臣や知事に委任されていたが、本法は国民の権利義務に関する重要事項ができる限り具体的かつ詳細に規定してあり、これらの条項の実施上、または補足的に必要な技術的事項・手続き規定のみが政令と省令に委任されている。

ここの部分にびっくりしました。

前回建築基本法について調べたことを書きましたが、基準法が制定された当時は基準法こそが広く国民に同意されうる「基準」を謳うことを使命としていたわけですね。もし、基準法を読んでいただければお分かりいただけると思うのですが、すでに建築基準法施行令と渾然一体となっていて、NIKKEI BPの記事へのコメントでも書かれていましたが、非常に一般の方にはわかりずらい表現になっています。

つまりは、本来の基準法の使命に立ち返る抜本的な改正が行われれば「建築基本法」を改めて制定する必要はないということになります。

つぎの③の項目では、地方自治体への権限の移譲について書かれています。今回の私のエントリーの主旨と外れるので、飛ばします。

④建築主事の確認と建築手続きの迅速化・・・・・・建築手続きは従来の原則的な知事の許認可が本法では建築主事の確認を受けることに変わった。確認とは建築基準法および関係の法令の定める基準にその建築物が適合しているかどうかを確かめることで、従来の許認可制に比して自由裁量の余地も狭く、ために法運用の明確化が図られた。また確認事務の処理期間は他庁への同意期間もふくめて、特殊な建築物では21日以内、一般小規模建築物では7日以内以内となっているので建築手続きも迅速化された。(6条)

本来、旧法では市街地内での建築物は「許可制」であったとは知りませんでした。

建築基準法において「許可」から「確認」に変わった時点で、行政はまったく建築物に責任を負わなくてよいということになったと理解するのは間違いでしょうか?

建築屋の社長風情が言うことではありませんが、それでも「許可」制だった当時の行政側の「責任」感が残っていて、微に入り、細に入り、窓口における法的な根拠が必ずしも明確でない「裁量」行政、指導が行われているのがこれまでの法運用であったのだと感じました。

建築基準法の誕生までさかのぼるとなぜいまの建築関連の法体系が作られたのか理解できました。まだ「変遷」は続きます。実体規定など、ここまで戻ると本来法律がなにを規定したかったのかを理解できます。

まとまりませんが、一旦このまま公開させていただきます。またあとで加筆訂正するかもしれません。

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建築基本法ってなに?

昨日、希望社さんの「建築基準法再改正を考える集い」に参加させていただいてきました。

耐震偽装問題や改正建築基準法がもたらした未曾有の混乱は、建築基準法制定から60年間、根本的な改正を図らなかったことによるものです。呼びかけ人である草柳俊二氏(高知工科大学教授)、木下敏之氏(木下敏之行政経営研究所・前佐賀市長),弊社会長桑原耕司、参加者の間で自由に意見を交わし、法再改正の声を発信しましょう。

希望社さんのホームページ

いや、もうほんとうに我が意を得たりという気持ちでした。今回の建築基準法の改正施行により生み出された混乱にどう対処すべきなのか、系統だった提言がなされていないのが私には残念に思えてなりませんでした。何度かこのブログでも書いてきましたが、いわば後出しじゃんけん状態で、施行直前になっていきなり出された告示と、法施行後の変更、そして、主に自治体窓口などでの過剰な反応など、いろいろなことがあったのが思い出されました。しかし、なぜそのようなつけ刃的な対策しかとられなかったのかという根本的な原因についてはほとんど言及されてこなかったのではないでしょうか?

それは建築基準法の法体系に哲学がないからだというのが、昨日の会合に参加させていただいた私の結論です。建築基準法の法体系の中で、その目的と基準について書いてあるのは第一条だけです。

第一章 総則

(目的)
第一条  この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。

[e-government: 建築基準法]

「最低の基準」とはなんでしょうか?誰にとっての「最低の基準」でありましょうか?「国民の生命、健康及び財産」を保護するとは、どこまで保護されるべきなのでしょうか?基準を満たし、保護するコストは誰が負担すべきなのでしょうか?この崇高な目的を誰と誰と誰がどのように果たすべきなのでしょうか?この法律の責任を誰がとるべきなのでしょうか?

こうしたごく基本的な問いに建築準法は口をつぐみ、あとは諸規制と、行政機関と、技術的判断についてのみえんえんと描かれています。

今回のディスカッションでも、裁量行政の問題や、構造計算上の問題、そして住宅の瑕疵担保の問題などさまざまな個別の現場での問題が共有されました。いつか書こうと思っていますが、来年は確認渋滞ではなく現場検査渋滞が起こるだろうという話も出ました。こうした個別論によって法を変えることは非常に困難です。たとえば、先日あるトラブルを経験した法的には根拠をいまのところ持たない日本建築行政会議の見解と窓口での実際の指導との関係を基準法的に明確にすることすら何年もかかるでしょう。

会場に建築基本法制定準備会の方々もこられていてフリートークでお話をされていました。事前に、gskayさんの記事で予備知識はあったのですが、混乱するつぎはぎだらけの建築基準法を改正する背骨として位置づけると見かたが変わります。

準備会さんのホームページに「建築基本法の提案」というPDFファイルがありました。まだまだ議論したいところはいっぱいありますが、今後の建築法規体系の基準を定める基準について書かれています。今後を期待したいです。

もし最初に書いたように法体系によって施主と設計者と施工者と行政との役割と責任が明確になり、そもそも「建築確認」とはどのような行為なのか、そこで実現すべき「基準」はどの水準であるかが明確になれば、「基本法」に合わない建築基準法とのその関連法規は見直され、改正されるべきだという位置づけになるでしょう。そこには、日本の国民レベルで実現すべき水準が明確にされるべきです。

私の考えは建築屋の社長としては少々理想論すぎると思うのですが、施行後60年を経てぼろぼろの雑巾よりもつぎはぎだらけにされてしまった建築基準法関連法規を見直すには、その「憲法」ともいうべき理念が必要なのではないでしょうか?さもなくば建設関連業界は混乱の中で、必要な建築物の更新はなされず、長い目で見た時の住宅の水準は落ち込み、価格は高騰し続けることになり、最終的には老衰死に陥るでしょう。「新しい構造技術者が誇りを持ってこの仕事につくことができる環境がどうしても必要だ」と叫ばれていた参加者の方の声が忘れられません。

「集い」では、桑原会長をはじめとする希望社のみなさん、草柳俊二先生、元佐賀市長の木下敏之さんに大変お世話になりました。御礼もうしあげます。改めて、感想をまとめたいと思います。

■参照リンク

■余談

お役人の行動を変えていただくのは法律、法律を変えていただくのは政治家の方々、政治家の方々といえば選挙、選挙といえばマニフェスト。ということで、どこかの党で「まじめにやっている地域の建設会社と設計者にやさしい建築法体系を作ります」とかマニフェストにいれていただけるとぐっと選挙に熱がはいりますよねとつぶやかせてください。

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